Maybe Blue 第一部 海の鼓動
夏暁1
「あれ？萌子は？」
翌朝、部室前に荷物を持って、全員集合の時間になって、理香は気づく。すると、美都が気まずそうに答える。
「何だか、やっぱり具合が悪いから、今日は休みたいって」
美都の声は、周りを気遣ってか小さい。でも、本当に萌子が合宿に参加しないことなんて、誰も気づかないはずないのだ。
「休むって、今日は合宿の初日だよっ」
理香は怒鳴るようにそう言うと、部員たちの間をすり抜けていった。
「どうした？理香」
隣にいた篤志に聞かれたが、怒鳴られてしまった美都にも、その理由はわからなかった。
「一馬くんっ、ちょっとっ」
遅刻ぎりぎりにやってきた一馬は、突然理香に怒鳴るように言われてびっくりした。
「何だ？」
「いいからっ」
そして、ずるずると一馬の腕をひっぱり、理香は一馬を今通ったばかりの校門まで連れていった。
「今日、バイクで来たんでしょ？」
「…なんでそのこと知ってんだよ。篤志か？」
バイク通学は、一応校則で禁止されていたが、一馬は時々バイクでやってきて、校門の近くに止めてあると話してくれたのは、確かに篤志だった。
「そんなのいいからっ、どこにあるの？バイク」
「萌子、連絡しておいたわよ」
母親がそう言って、ドアから姿を消す。
「ありがとう」
萌子はそう答えながら、つけていた時計を外した。制服もきちんと着ていた。ベッドサイドの鞄には、確かに四泊五日用の合宿準備もしていた。
だが、それでも靴を履くことができなかった。
昨日の出来事が、その足を重くさせていた。
百合も、同じだった。
萌子がいつもしている時計は、中学三年の誕生日に父親から仲直りの意味も含めてプレゼントされたものだった。ふいに中学時代のことが頭を過る。
彩。
忘れたことはなかった。
昔の友人。そう、萌子は思っていた。
忘れたくても、思い出さないようにしていた思い出が、そうして萌子の中に次々と溢れ出していく。
結局、変われなかった。
萌子がそう思った時、玄関のチャイムが鳴ると、勢いよくドアの開く音と、ドタドタと階段を登る足音がして、そして一気に部屋のドアが開いた。
「いい加減にしてよっ」
理香だった。
理香が、真っ赤な顔をして、息を切らせて、萌子を睨みつけるように見つめていた。理香は一息つくと、ずかずかと萌子の前にやってきた。
「あたしだって、萌子の友達なんだからねっ。
あたしだって、美都だって、友達なんだからっ。
萌子の元気がなかったら、心配だってするんだからねっ」
言ってからも、理香は肩で息をしていた、ふいにドア越しに現れた一馬が、中の二人に声をかけた。
「さっさと行かねぇと、ヤナギさんに怒られるぜ」
思いを口にしようとした萌子は、だがうまく言えずに、一息ついて大きな声で言った。
「ありがと」
「それから、部屋の割り振りだが―」
ドタドタと足音がして、思わず柳田が顔を上げると、肩で息をしている理香たちがいた。
「すっ、すみませんっ、遅れましたっ」
頭を下げる一馬の後ろには、萌子もいる。柳田は、ちらりと萌子を見止めると、何もなかったかのように淡々と話す。
「五分遅刻だ。グランド五周」
「はいっ」
三人が元気よく答え、走り始めたのを視界の端で確認しながら、柳田は説明を続けた。
「部屋の割り振りは、こっちが決めた。基本的にひとつの教室に１５名だ。
後で紙を配るから、昼休みに荷物を置いてこい。それから―」
成は、叱られたのに笑顔の萌子をずっと目で追いかけていた。集合時間になっても学校に現れず、心配していたのだ。どうやら休むと言う話らしい、と篤志から聞いたときなどは、思わず成も合宿を抜け出して、萌子のところへ行こうと思ってすらいたのだ。
ふいに隣にいた篤志が、成の耳に囁いた。
「よかったな、萌子。出てきて」
「ああ」
「なんか、元気そうだし」
ああ。よかった。
僅かながらも笑顔で走っている萌子を見つめ、成も自然と顔がほころんだ。
ほんと、よかった。
「超ラッキー。サッカー部と合宿が一緒に日程なんて」
「福山さんとか、横田さんとか、話せるチャンスあるかもしれないね」
「あたし、頑張っちゃおうかな」
体育館での練習中に、騒いでいる女子を横目で睨みながら、西村は呟いた。
「くっだらねぇ」
手にしたボールを握り締める。ふいに足で蹴り上げたくなるが、その行為事態が自分を傷つけることを知り、西村はとりあえず壁に投げつける。
隣にいた同じハンドボール部員の小松が西村の呟きを聞きつけて、笑顔を浮かべながら答える。
「そう？俺もわくわくするけど。沢木がいるんだろ。風呂とかさ、見れないかなぁ」
ニヤニヤしている小松に、不審そうな顔で同じくハンドボール部員の入江が言う。
「覗きなんかすんなよ、小松。今サッカー部と揉めるのはまずいぜ」
三年は早々とインターハイの予選に負けて引退をし、今回の合宿は一・ニ年生が参加することになっていたが、その二年生たちも、夏季講習や諸事情があるとかで、九人が九人とも不参加。結局一年生十人だけが参加となった。
ハンドボールは一チーム七人での競技である。つまり、練習試合すらできない。
それが、凪浜高校ハンドボール部の実情だった。
不機嫌そうな西村に、入江が声をかける。
「西村、気にすんなよ」
「何がだ？」
「高岡とのことは、もう終わったんだからさ。あれはもう一年前のことなんだぜ」
「一年と二ヶ月、だ」
そう呟いた西村に、入江は強く言った。
「…西村。わかってるよな」
忘れろと、そう言っているのが西村にもわかる。西村は、自分の投げたボールが、ふいに足元に戻ってきているのに気づき、思わず蹴り上げて答える。
「…ああ」
午前中の練習は少し早めに終わり、昼食を挟んで午後の練習までに、部員は各自合宿の準備をすることになった。
萌子たちマネージャーは、保健室を割り当てられた。荷物を運び終えた途端に、まず理香がベッドにダイヴした。
「よかったー、ベッドで寝れるー」
「こういうときは、女の子でよかったって思うよね」
美都も萌子がやってきたことで、笑顔で答える。
「でも、ハンドの女子は道場らしいから、あたしたちってばほんとラッキー」
同じ日程で、学校にはハンドボール部も合宿することになっていた。
「おい」
ふいに低い声が響き、理香が体を起こす。
入り口には柳田がぶっきらぼうに立っていた。
「あ、ヤギさん。女の子の部屋入るときはちゃんとノックしてくださいよ」
「ヤナギダだ、俺の名前は。変に省略するな」
「はいはい、すみません」
理香は流すように答える。
「…ケンカ売ってんのか、小池」
「で、何用です？女の園に」
柳田はそうだったと気づいたように、顔をいつもの睨み顔に戻すと、萌子に視線を移した。
「午後だが、沢木は途中から食事の支度に回ってくれ」
「え？」
戸惑う萌子に、柳田の後ろから顔を出した小山が答える。
「かなり陽射しが辛いから、体に堪えるって柳田の配慮」
「余計なこと言うな、小山っ」
少し顔を赤らめて小声で怒鳴る柳田に、さらに現れた笠間が言った。
「ほんとのことだからいいじゃないか」
「…喬」
笠間はにこっと柳田に笑いかけると、同じ笑顔を萌子にも向けた。
「まだ顔色も悪いみたいだし、本当に調子悪くなったら、言うんだぞ、沢木」
「はい」
「無茶して倒れたら、こっちに迷惑がかかるからな」
「柳田、またそんな言い方して」
呆れる小山たちに、萌子は改めて深深と頭を下げた。
「…ご迷惑を、おかけしました」
張り詰めた空気が一瞬漂ったが、笠間がまた微笑んで答える。
「たっぷり働いてもらうから、そのぶん覚悟してろよ」
「はい」
笑顔の萌子につられるようにして、理香も美都も、お互いの顔を見合わせて笑い始める。自然と、笠間も、小山も微笑んでいた。ただ一人、柳田だけは仏頂面のままでいようとしていたが、どうしても口もとの綻びは隠せなかった。
割り当てられた部屋で、昼食を食べていた成の肩をケンは叩くと、椅子から立ちあがった。
「ほら成。行くぞ」
「え？どこに？」
成はおにぎりをほお張りながら聞き返す。
成の割り当てられた部屋は、ほぼ寮のメンバーがいて、プラスするように篤志や、由太やいつものメンバーがいた。
「保健室に決まってるだろ？」
その答えに、成はケンの様子をじろじろとうかがった。
どこも悪そうにない。ってことは…。
「…午後の練習、サボりたいわけ？」
ケンの拳が成の頭に飛んでくる。思わず避けたものの、ケンの顔は真剣だった。
「ちっげーよ。合宿中はマネージャーの部屋になってるだろ？陣中見舞い」
「あ」
その意味は成にもわかる。
昼休みは、あと一時間ほどあった。練習が始まれば、萌子と話をすることもできないだろう。成はその前に、萌子に聞きたいことがあった。
『大丈夫？』
体のことも、気になっていたし、もちろんそれ以外のことも気になっていた。
『大丈夫？』
そして萌子が笑顔で頷いてくれれば、成は今まで通りやっていける気がしていた。そう、百合のことがある前のように。
黙りこんでいる成に、ケンが苛立ちながら聞き返す。
「ここしばらく、萌子と話してねぇだろ？行かねぇの？それとも？」
「あ…。えっと、行く行く」
成は無理やりおにぎりを押しこめると、席を立った。
ぐるりと保健室を見まわして、司は呟く。
「ふーん、ここがマネージャーの部屋になるんだ」
「そうですよ、何か用ですか？大槻先輩」
理香が明らかに警戒して聞き返した。笠間たちが帰った後で、次にやってきたのが、朔哉と司、俊平だった。一応の理由は、俊平がドアに手を挟んだということで、治療は美都がやっていた。
「もし、病気や怪我で保健室で寝てなきゃいけなくなったら？」
「…そうしたら、保健室で寝ることになるんじゃないですか？」
理香が面倒くさそうに答える。
途端に、司はお腹を抑えてしゃがみこむ。
「あたたたた…」
その司の頭を治療の終わったのとは反対の手でぽかっと殴って、俊平が言った。
「わざとらしいっつーの、司」
「いいじゃんかよ。だって、俺。椎名の隣で寝たいんだもん」
思わず美都が顔を赤らめる。理香が呆れて言った。
「和美君に殺されますよ」
だが司は、完全に理香を無視して美都に尋ねる。
「なぁ椎名、鍵どこにある？」
「…司」
あきれ果てた朔哉がそう言うと、司は口を尖らせて言った。
「だって俺、いやだぜ。ゴキブリ走る教室に、野郎十五人が雑魚寝してるようなもんだろ？去年なんか田島の歯軋りがうるせーし」
「お前よく聞いてたな。俺なんか疲れてそんなの気にする暇なく眠ってたぜ」
俊平がそう答えて、朔哉も強く言った。
「我慢しろ、司」
「ああっ、そういうこと言って。お前らだけ、トイレの目の前の教室じゃねぇから、そんなことが言えるんだぞっ。くせーんだぞっ、あの教室！おまけにまた田島が一緒だし」
割り当てを考えたのは柳田だ。今回の合宿では、マネージャーたちが一階の保健室に、そしてハンド部の女子は道場で休むことになっていて、そこから一番遠い教室に司は割り当てられたのだった。朔哉は理由も知っていたが、あえて知らないふりをした。
「日頃の行いだろ？」
「確かに確かに」
「冗談じゃねぇよ。あ、小池。交換しよう、交換。そこらじゅうに男がわんさかいるぞ」
「やーですよーだ」
顔をしかめた理香を見て、くすくすと萌子が笑う。それを見て、朔哉も同じように笑った。
久しぶりに近くで見た、萌子の笑顔だった。
今までの笑い方には、まだ戻れないかもしれないけれど、それでもいい。
小さな一歩、でも。 嘘でも笑顔を見せてくれるんであれば。
朔哉はそう思い、さらに声を上げて笑った。
保健室にやってきた篤志は、中を見てまず言った。
「あれ？萌子は？」
「飲物買ってくるって。どうしたの？三人して。怪我した？」
理香にそう言われて、篤志は思わず成とケンの顔を見つめた。
「いや。ちょっと様子見に来たんだけど」
肩透かしをくらった気持ちになった三人に、理香が元気に答える。
「大丈夫だよ、萌子は。元気になってるから」
「うん、なら…。いいんだけど」
それでも残念そうな篤志たちに、理香は溜息混じりに答える。
「さっきから、大変。
ヤナギさんとか、つかっちゃんとか、たくさん来るんだもん。
萌子だって、疲れちゃうよ」
そうだなと、篤志が呟いて、ケンと顔を見合わせる。仕方ねぇと、ケンは踵を返した。
「ま。また後で来ようぜ、成」
「うん、え？」
後で？と成が戸惑っていると、ケンが理香に命令するように言った。
「ノックが三・ニ・三でされたら、俺たちだから。ドア開けろよ。理香」
波音は、今日も萌子に優しく響く。
夏を迎えて、陽はなかなか落ちずに、今も膝を抱えている萌子を照り付けていた。
萌子にはきちんと届いていた。
理香や、美都や、柳田たちの気遣い。嬉しいと正直に思う。だが、その気遣いを感じれば感じるほど、萌子は百合のことを思い出さずにはいられなかった。
笑えば笑うほど、その後苦しくなった。
練習再開まで、時間がまだあったので、そうして萌子は一人で海にやってくることにしたのだ。
ふいにその陽射しが和らいで、聞き覚えのある声が響く。
「今度は、本当に気分が悪いのかな」
「三上、さん」
顔を上げると、三上が太陽を背に笑顔を向けていた。
「天気いいから、帽子も被らずにこんなところに長くいると、日射病になるよ」
隣に座り、三上は思い出したように聞いた。
「風邪は大丈夫？柳田が心配してた」
「ヤナギさんが？」
聞き返す萌子に、ああと答えて、三上は続ける。
「笠間も、小山も。ということは、おそらく部員全員だろうね」
わかっていた。萌子には、十分にわかっていた。
百合とのことを知っている部員も、知らない部員ですら、心配してくれていることは。
「これで仮病だったりしたら、私、殺されるかな」
「少なくとも、柳田はそうするだろうね」
二人は顔を合わせて声を出し、思いきり笑った。萌子は、ふとそんな自分に驚いた。そして、その答えを、三上が部員じゃないからだと思った。
それに何でも丁寧に答えてくれる。
だから、自然と萌子は話していた。
「熱も、出たんです。少し。
頭も痛かった。でも、それよりも学校に来たくなかった」
「どうして？」
三上の声は、驚くでもなく、叱るでもなく、淡々としているのだが、温かみがあった。
「…友達が、いたんです」
「うん」
「いつも一緒で」
「うん」
「すごく優しい子で、かわいくて」
「うん」
そこまで言って、萌子は一息ついた。
「でも、彼女の好きな人のことで誤解されたみたいで、絶交されちゃったんです」
「だったら、その誤解を解かないとね」
あまりにするすると答えが導き出されて、萌子は驚いた。
「そういうことじゃないの？」
返事をしない萌子に、三上は首を傾げる。
「…でも、彼女。引っ越しちゃったんです。連絡先も、わからなくて…」
だが三上は平然と答えた。
「そうか。まあ、でも。いつか会えるときが来るよ」
「向こうは、私に会いたくないと思っていても？」
「どちらかがずっとまた会えることを願ってたらね、いつかまた会えるから」
萌子は、枡田のことを思い浮かべた。
二度と会うことも無いと思っていた。
実際は会えなかったけれど、でも萌子を探し出して、やってきた。
「人ってそういうものだからさ」
「そういうもの？」
「どうしても、思いが叶えられないときもある。そう言うときは、そういう時。いつか叶う日がくるから。そのときまで、ひたすら待つのみ」
「でも、その時がわからなかったら？それに、また叶えられない状況だったら？」
「それはそういう時なんだよ。人は、一人で生きてないからね。環境がある。相手の人にもよるし、状況でも変わる。天気だって違うかもしれない。それぞれがどう作用するかはわからない。全ては、天のみぞ知る」
そう答え、三上は空を見上げた。萌子もつられて見上げる。陽射しが目に染みた。
「三上さんて、運命論者ですね」
「かもしれないね。
それでさ、さっきの続き。
その友達は、すごく優しくて、かわいくて、それから？」
「それから？」
急に百合に話が戻されて、萌子は聞き返すことしか出来なかった。
「他にいい所は？悪いところは？」
「えと…」
「いつも一緒にいたんだろう？」
言われて萌子は思い浮かばないことに気付く。
どうしてなんだろう。
「君は多分、サッカー部のことで精一杯なんだろうね。だって、笠間や柳田のいいところと悪いところはいくらでも言えるだろう？」
笠間のいいところは、気配り上手なところ。悪いところは、自分の意志が時々かけること。
柳田のいいところは、正直なところ。悪いところは、好き嫌いが激しいところ。
いわれてみれば、そうだった。
「長く一緒にいることが、大切じゃない。その子のことも、一生懸命見ていれば、いいところも悪いところも、見えてくるよ」
三上は立ちあがった。
「合宿中なんだって？午後も頑張って」
萌子は、しばらく三上の背中を見送っていた。