Maybe Blue 第一部 海の鼓動
短夜1
海からの風は、相変わらず潮の香をたっぷりと含んで、しつこく体に纏わりつく。しかも、この暑さが、その重みをいっそう強く感じさせた。
長い梅雨は、つい一昨日明けたばかりでも、この潮風は変わらず萌子を憂鬱にさせていた。
堤防に立ったまま、萌子はすぐ足元に寄せる波を見つめていた。波は一定のリズムを刻んで、寄せてはテトラポットに当り、そして白波をあげている。
「もーえーこっ」
ふいに名前を呼ばれたが、声ですぐに理香だと気づき、萌子は顔を向ける気にはならなかった。
夏休みに入って二日が過ぎようとしているのに、萌子の気持ちは解放されないままだった。明後日には、インターハイに向けての合宿が始まり、十日もすれば、インターハイが始まると言うのに、気持ちはそこにない。
「練習始まっちゃうよっ、萌子」
だんだんと理香の声が近づいてくる。
「着替えよう？」
萌子はようやく振りかえる。理香が心配そうに萌子を見つめていた。
「うん」
「まだ、調子悪い？」
そう言って、理香の背中から美都が顔をのぞかせる。
ここ一週間ほど萌子は学校を休んだ。理由は夏風邪ということになっていたが、別に熱があったわけではない。ただ、食欲がわかずに、事実二キロほど体重も落ちていた。
「ううん、大丈夫」
笑顔をつくってはみたものの、栄養が足りなかったことから、乾燥した頬がつっぱるのを萌子は感じた。
あの時から。
柳田が合宿費を盗んだ犯人を、萌子の友人である百合だと決めつけ、そして違うと言い張った萌子が、真実を聞いてくると教室を出ていってから。
少しして、篤志が一枚の千円札を持って重苦しいミーティングルームに現れた。
篤志は、気まずそうにしながらも、その千円札を笠間に差し出した。
「もし、その子が違うって言ったとしても、これが証拠になると思います」
篤志がその理由を話し、そして笠間が一言ありがとうと答えた。
そして、犯人は見つかった。
けれど、萌子は変わってしまっていた。
二十分ほどして、朔哉が戻ってきて、練習は何事もなかったかのように始まる。
それから更に十五分ほどして、萌子はグランドに現れた。しかし、どこか上の空で、ひどく沈んだ表情をしていた。その態度に石橋が怒鳴りつけ、帰るようにと命令した。
それから一週間、萌子は夏風邪で、学校を休んだのだ。
「その白井百合ちゃんって、結局学校に？」
萌子と同じようにして、百合も学校を休む。
美都の質問に、理香は答える。
「来なかったみたい。一応、アッチは毎日萌子のクラスに顔出してたみたいだけど、ずっと休んでたって」
実際、理香も何度も教室をのぞいてみた。何か言わないと、気がすまないと思った。
けれど、ついに百合は学校に来ることなく、長い長い夏休みになってしまったのだ。
「でも、どうして彼女は、こんなことしたんだろ？」
「…それがわかればいいのにね」
萌子は何も言わない。
そして百合はいない。
ふいに美都が呟く。
「これで、良かったのかな。こんな誰も納得しないようなかたちで」
それは理香にもわからなかった。
でも、と理香は呟く。
でも、理由がわかったとしても、
それが理不尽な理由じゃなかったとしても。
「萌子が傷ついたことには、変わらないよ」
呼び出した担任教師は、萌子が部活動中であるからか、すぐに話を切り出した。
「唐突に聞くけど、白井さんってどうしたのかしら？」
担任の言っている意味がわからず、また答えようのない萌子は、無言で担任を見つめ返す。
「実はね、彼女終業式にも来なかったから、通知表渡せなくて、電話をかけてみたんだけどつながらないし、今日お家にも伺ったんだけど、何もなかったのよ」
何もなかった、と萌子が繰り返すと、溜息混じりに、そうと担任は答えて、腕組をした。
「荷物が何もなくて、引っ越されたんみたいなんだけど。何か聞いてるかしら？」
答えが意外だったために、萌子は一瞬答えることすら忘れてしまい、担任がそんな萌子の顔を心配そうにのぞきこむ。それに気づいて、慌てて萌子は答えた。
「いいえ。私は何も…」
「そう。あなたたち、仲良かったから何か聞いてるかと思ったけど、そうなの」
引越し？
「どうしたのかしらね、白井さん」
萌子の耳には、担任の声がやけに遠くに聞こえていた。
「あー、なんかやる気出ねぇ」
軽い休憩時間になって、水飲み場にやってきて知朗がそう吐いた。
「インター近いからな。先輩たちもピリピリし始めてるし」
隣で水を飲みながら湊が答えた。
「明日からは、地獄の合宿だしな。この学校でっ」
ケンが忌々しそうにタオルを投げながら答えた。しかし、知朗はいつもとは違い、静かに言う。
「…ちげーよ」
「なんだ？知朗」
水を流し続けていた蛇口を締めると、知朗は呟いた。
「萌子が変だから、やる気出ねぇんだよ」
「そりゃお前はそうかもしれないけどさ」
暑さでバテ気味のケンがそう言ったが、知朗はケンの言葉も聞かずにグランドに戻って行ってしまった。
いつものことながら、ふうと溜息をついて、ふと気づいたようにケンが隣で水を飲んでいる成に言う。
「成もさ、もっと萌子のこと気にかけて優しくしてやりゃいいのに。
あいつ、よくわかんねぇけど、友達とケンカしたんだろ？だから今こそお前がさ」
成は水を飲むのを止めた。
「いや」
「いやって何だよ」
「…俺には、できないよ」
「何だよ、やる前から諦めてるってのかよ。
まったく成って、ほんっと消極…、おい？」
成は話続けるケンを無視して、一人グランドへと向った。
無視すんなよ、とケンが叫んだのも聞こえたが、それでも成は振りかえらなかった。
今回のことを、知っている人間はごく僅かだ。
笠間・柳田・小山に、朔哉、理香と美都、篤志。そして、成。
成は、萌子が召集のかかった日に、石橋に怒鳴られるほど上の空であったことから、真犯人が気になって笠間に尋ねたのだ。もちろん、右京が犯人でないとわかったときに、百合の顔は思い浮かんではいたが。
実際、萌子の夏風邪は、あくまでも体調不良だし、萌子が立て替えていた合宿費も、盗まれたという騒ぎがあったことすら忘れられている状態だ。
笠間も、百合の動機がわからないと言っていた。
だが、成にはわかっている。
だから、俺にはできない。
萌子を傷つけた原因は、俺なんだから。
「篤志君、どうかしたの？」
ふらふらとグランドを歩く篤志を見つけ、美都が声をかけた。篤志は美都に気づくと、椎名か、と呟いてから尋ねた。
「理香は？」
「石灰を準備してるの。呼んで来ようか？」
いいやと篤志は首を振ると、あのさ、と話し出した。
「今、聞いたんだけど、白井の家。夜逃げしたらしい」
「夜…逃げ？」
「ああ。萌子のクラスメートとさっき偶然あってさ。
終業式にも来なかったからって担任が家に行ったら、もぬけの殻だったって」
そいつ、白井の近所だから聞かれたみたいなんだけどさ、と篤志は続けた。
「あいつの父親、中小企業の社長だったらしいんだけど、その会社が倒産して、かなりの借金してたらしいんだ」
美都は驚いて、篤志の顔を見つめ直した。
「萌子には、言わない方がいいよな」
ぽつりとそう言って、篤志はグランドに戻っていく。美都は、気づいたように篤志を呼んだ。
「もしかして、もしかして、白井さんは。
すごくお金に困っていて、それで偶然、合宿費を見つけて、思わず盗んでしまったんじゃない？だけど、やっぱり萌子が困っていて、後悔して、素直に返そうと思ったんだけど、できなくて、つい貸してあげるって答えてしまって…」
だから、萌子は悪くないし、もちろん百合もそんなには悪くない。
美都がそう言いたいのは、篤志にもわかった。
だけど、誰が悪いとか、そんなことじゃないんだ。
篤志が百合に会うために、毎日教室をのぞいたのは、理香の言うように物申したいわけではない。
合宿費の騒ぎで、理香は萌子宛の嫌がらせの手紙のことをすっかり忘れていたが、篤志はきちんと覚えていた。そもそも手紙が下駄箱に入れられなくなったことも関係しているが、日付が同じなのだ。
萌子と白井さん、学校を休んでから、手紙は入ってない。
偶然、かもしれない。
お金のことはともかく、二人は友達だったんだから。
けれど、理香と下駄箱を見張っていた時、現れたのは百合だったし、思い起こせば百合が初めに手を伸ばしていたのは、萌子の下駄箱だったのだ。
でも、そんなこと。
「俺にはわかんないけど、でも萌子がそう思ってくれれば、いいよな」
百合の萌子に対する気持ちが、篤志にはわからなかった。
それを篤志は聞いてみたかったのだ。
「おっもーいっ」
理香が想像していた以上に、石灰の袋は重く、理香はどすんと音をたてて、袋を地面に落とした。校舎から、サッカー部の使っているグランドまでは、あと二百メートルはある。
誰かに付いてきてもらうんだった。
ふうと溜息をつき、袋を持って、理香は再び歩き出す。
グランドまでのこの坂道を登れば、あとは誰かを呼んで、一緒に運んでもらえばいい。
その坂道へと続く角をまがったところで、理香の目には見知らぬ男の姿が映る。制服でなく、単純にポロシャツとチノパン姿。年はちょっと上くらいか。
うちの生徒？でも知らないなぁ。
雰囲気からすると、先輩って感じだけど。
ふちなし眼鏡が、頭よさそうで、結構かっこよくない？
その顔をそっと眺めながら、理香は脇を通りぬけようとする。その瞬間、男が声をかけてきた。
「あの、すみません」
「何ですか？」
もしやナンパ？
理香はそっと石灰を下ろして、笑顔で聞き返す。
改めて見つめたが、全く知らない顔だった。
「あの…。ここに、沢木って女の子がいるって聞いたんですけど」
「沢木、萌子？」
萌子のファン？
理香は不思議そうに男を見つめる。理香の答えから、萌子のことを知っていると判断したのか、男はぱっと顔を明るくさせた。
「そうです、沢木萌子。いるんですか？」
その異常なまでの反応に、理香はちょっと考え込む。
もしかしたら、ストーカーかもしれない。
この前だって、萌子は変な手紙をもらったりしてたし。
かっこいいのに、残念。
理香は顔をしかめて聞き返す。
「失礼ですが、どなたです？」
途端に、男は慌て出した。
「いえっ。あの、僕は、いるかいないかを聞きたかっただけで」
むむ。怪しい。
しかも、逃げ出そうとしてる。
理香がそう思ってるそばから、男はそれじゃと逃げ出した。
「ちょっと、ちょっと待ってよっ」
もしやあの手紙の犯人っ？
「待ちなさいってばっ」
伸ばした理香の手は、男のポロシャツをつかみ、それでも逃げ出そうとした男のチノパンからは、見知らぬ学校の生徒証が落ちた。二人して、あっと思ったが、理香の方が手が伸びるのが早かった。
そして理香はそこに書いてある名前を読み上げた。
「枡田…圭介…って、枡田圭介っ？」
「おつかれさまでした」
練習が終わって、グランドを出ていこうとする萌子を、知朗がひき止める。
「萌子、なんか食って帰ろうぜっ」
「ごめん。ちょっと具合よくなくて…」
青白い顔で言われると、知朗もそれ以上は言えなかった。
「そ。わかった、またな」
その光景を見て、グランド整備当番の園部がトンボを片手に言う。
「知朗ですら、手を出せなくなってんな」
「萌子、何があったわけ？」
厳己が心配そうに篤志に聞く。
「…体調が悪いんだろ？夏バテして」
萌子と百合の問題は、そのまま一部員だけの秘密となっていた。
ふいに山田が、同じようにトンボを引いていた右京に声をかける。
「お前がふったんじゃねぇの？藤原」
突然話をふられ、右京は顔を上げて山田を見つめた。山田はその視線を受けて、急におどおどしながらも話す。
「沢木が休む前、お前と話してて、泣いてたとこ、俺見たんだ」
その光景を見て、萌子が右京を好きなのだと山田は思ったのだ。
右京は山田の見た場面を思い出した。
「関係ない」
「それは？二人の問題に、俺は関係ないってこと？
それとも、沢木の涙は藤原に関係ないってこと？」
面倒、という表情をして、右京は低く呟く。
「あいつのこと」
そして、一人トンボを引いて、右京はグランド整備を始める。
その後ろ姿を見て、山田の顔は明るくなる。
「なぁ、ってことは、沢木は別に藤原のこと好きじゃないってこと？」
「なんじゃねぇの？だいたい言い出したのお前じゃん、山田」
園部が呆れて言った。それでも、その声は山田に届かなかったらしく、山田は大きく伸びをして叫んだ。
「俺、俄然ファイト出てきたっ。がんばろっ」
目の前の男を見ても、朔哉は何を話したらいいのかわからなかった。
帰ろうとしていたのを、急に理香が引き止めて、無理やりアルジャーノンまで連れてこられたのだ。
理香曰く、
「知らない男の人と二人きりで話たくない」
ということらしい。
「篤志に内緒でデート？」
とからかったところ、萌子のことだと怒鳴りつけられ、朔哉も断ることができなかった。
萌子宛に枡田圭介という人から手紙が送られてきていて、そのあたりから萌子に元気がなくなったということ。
それから、今回のことに何か関係してるかもしれないと、理香は必死で朔哉に訴えた。
つまり、理香にとって、朔哉はボディガードなのである。
サッカー部の先輩だと紹介され、朔哉も枡田圭介という人物をじっと見つめた。
犯人はもうわかっているけど、モエチャンとはどんな関係なんだろう。
爽やかそうな風貌の枡田は、朔哉の視線もきちんと受け止めていた。
枡田の紹介も終わって、さっそくと言うように話し始めたのは、枡田の方だった。
「彼女は？」
「用事があって帰りました」
「そう、ですか」
少し残念そうな表情を浮かべる枡田を見て、朔哉も思わず睨んでしまう。だが、枡田は理香に質問を続けた。
「それで彼女は、手紙を読んだんですね」
理香は小さく首を振る。
「いえ。…あの、封は開いてなかったんで、読んだかどうかは、ちょっと」
「いいんです。当たり前だ」
そう頷いた枡田に、落胆した雰囲気は見られなかった。理香は、ずっと聞きたかったことをようやく口にした。
「あの、枡田さんって、萌子の何なんですか？知り合い？それとも単純な片思い？」
不躾な理香の質問に、朔哉は止めておけと視線を送るが、理香はそれを無視した。
理香が気にかけているのは、あの嫌がらせの手紙のことだというのは朔哉もわかっていた。だが、朔哉は、萌子以外で唯一その真犯人をもう知っていたのだ。
枡田は、理香の質問に怒ることなく、また動揺することもなく、堂々と答える。
「知り合いではあります。片思い…も、してました。
でも正しいことは、彼女に答えてもらった方がいい」
曖昧でありながらも、きっぱりとそう言った枡田に、朔哉は好感を持ってしまった。片方から二人の関係を一方的に聞くのと、二人から話を聞くのとでは、全く違っていることもあるのだ。
つまりそれだけ、関係が深かったってこと。
理香は、身を乗り出して、枡田に聞く。
「萌子と、何があったんですか？」
枡田の落とした学生証は、長野の高校名が書いてあり、萌子が長野の中学出身だということは、理香もわかっていた。
枡田は一息ついて、コーヒーを飲むと、徐にこう言った。
「長くなりますけど、いいですか？」