Maybe Blue 第一部 海の鼓動
薄夏9
「さてと。試合も終わったし、まずは篤志だね」
結果は六十七対七十七。朔哉たちのクラスが、トーナメントの駒を進めた。
体育館を出たところで、ぶらぶら歩き始めた環に、萌子も篤志も着いていくしかなかった。環はその足を止めて、篤志と向かい合う。
「昨日は、友達の家に泊まってた。婚約者とは別れた。よって、結婚も、独立もしばらくしない。これでい？」
唐突にいろんなことを言われた篤志は、面食らって何も言えないままに環を見つめた。そんな篤志ににっこりと微笑むと、環は萌子に顔を向けた。
「で、萌子ちゃんとの話は、ちょっと長くなりそうだから、お昼でも食べながらにしよう。いい？」
有無を言わせない言い方に、萌子も頷く。
バスケも負けてしまい、萌子のクラスは全ての試合を終えていたのだ。
「近くて悪いけど、アルジャーノンにしよう。篤志は購買でパンでも買って、我慢しなさい」
「まったくお前は、流石としか言いようがないな」
体育館を出たところで、声をかけられて振りかえると横田がいた。朔哉を取り囲んでいた女の子たちは、ささっと身を引いていく。残ったのは珠里たちだけで、朔哉が悪いけどと言うと、少しばかり横田を睨みながら消えていった。
「藤原に、チームプレーにおける信用ってものを実感させた挙句、最後にはお互い自由にプレーして、でもって自分たちはきっちりと勝つ。俺にはできないことだ」
「ヨコさんは、後ろにいてくれるだけで、安心できる。攻める側としては、これほどの強みはないですよ」
ハハハと横田は笑った。優勝メンバーのレギュラー選手であり、海外遠征にも加わったのは、現役ではこの横田だけである。
「第一、これがサッカーに活きるかどうかは、あいつ次第ですから」
右京が理解しないかぎりは、何をしても意味がない。そして、右京が理解して、仲間を信用しないかぎり、凪浜の実力も一定のレベルを越えられない。朔哉にはそれが、すでにわかり始めていた。
「沢木の話、聞いたぞ」
話が本題になって、朔哉は周りを見まわす。誰もいないことを確認して、朔哉は横田に向き直る。
「俺には思い当たる節がない」
はっきりと言いきる横田に、朔哉は微笑み返す。
「だってそりゃ、ヨコさんにはきちんと彼女がいるから」
横田の彼女は他校生で、時折試合にも応援に来ている。
「ま、俺は幸か不幸か、沢木との絡みがあまりないからな。
それにしても、名簿の話といい、最近部内でよくないことが起きるな」
横田の言う名簿、というのは、サッカー部の名簿のことである。どうやら、それを入手した人間がいたらしく、サッカー部の寮にも、そして横田や、朔哉の実家にも、ファンだという女の子からの電話がかかり始めていた。寮の電話は、その結果電話番号を変えたほどである。
そうですね、と朔哉が答えると、ふいに横田が顔を引き締めて言った。
「一度名前と顔が売れてしまっている以上、今まで見過ごされて来たことでも、気をつけなきゃならん時がある。おまえは大丈夫だと思ってるけど、ま、一応な」
ありがとうございます、と朔哉は答えて、二人は別れた。
試合が終わって、百合は昇降口の前で待っていた。萌子は気がついたら隣にはいなかったし、成も体育館で見かけたものの、その後姿を見失っていた。
仕方なく百合は、誰かが通ることを期待して、ひとりで待っていた。
人の気配がして、顔を上げると、そこには歩いてくる右京がいた。試合は、残念ながら負けてしまったが、右京の活躍は言うまでもない。
おつかれさま、くらい言ってあげよう。
「藤原君」
すれ違う少し前、百合は声をかけた。右京が顔を上げて百合を見止めた。
「おつかれさ−」
しかしその途端に、右京はそっぽを向いて百合の前を素通りしていく。百合は笑顔をそのまま強張らせるしかなかった。
何よ、あれ。
少なくとも、萌子とは会話をしてるの見たことあるのに。
百合は、それでもって一部の右京ファンが萌子のことをよく思ってないことを知っていた。
どういうこと？
百合は、消えていく右京を睨み続けていた。
昼のアルジャーノンには、人があまりいなく、萌子は少し安心した。
「この前は、迷惑かけてごめんね」
「いえ」
「藤原にも迷惑かけたなぁ」
そう呟いて、サラダを食べる環に、萌子は小声で言う。
「…右京、心配してました」
すると口まで運んでいたフォークを環が止めた。
「どうしたの？萌子ちゃん」
「え？」
「嘘でしょう、それ。あいつは、人の心配なんかするタイプじゃないよ。あ、誤解させたかな、この前酔っ払ってデートとか言ってたから」
環は困ったなぁと呟く。その表情に照れはない。
「ごめん、ごめん。ほんと、何でもないのよ」
竹を割ったような性格だと環のことを思っていただけに、萌子は驚きを隠せなかった。
「…あの、でも」
「うん？」
「七夕も一緒にいたって、篤志から聞いたんですけど」
「あれか。まいったな…。
ごめん、はじめに言うと、あたしは萌子ちゃんが思うほど純粋じゃないよ。汚いよ」
言葉の強さに萌子は戸惑う。環は水をひとくち飲んで言った。
「…あの時は、ほんと偶然に藤原がいて、ただ誰かに側にいてほしかったから、連れ出したんだ。
飲んでた時は、あいつにいろんな世界を見せてやろうなんて思ってたんだよね。いっちょまえに」
ほんと、バカだよねぇと環は呟く。突然の言葉で、萌子がそんなことないと言えずにいるとと、環はこう続けた。
「あいつって、自分の世界の中にしかいなくて、他を拒絶してるでしょ？何かの小説で読んだんだ。そうやって、他とのつながりを全部立ち切って、ただ自分を守ることだけやってると、大本が、つまりその人間が駄目になっちゃうって話。今はいいかもしれないけど、将来はわからないでしょう。だから、他人の世界ってのを見せてやろうと思ったんだよね。
なんて、それもいい訳かな」
そこまでは外の景色を見ていた環は、急に萌子に向き直った。
「ごめんね」
「どうして謝るんですか？」
「萌子ちゃんを傷つけたかなと思ったから。見苦しいっていうか、きたない気持ちを見せたから」
「そんな…」
首をふる萌子に、でもね、と環は付け加えた。
「思ってた以上に、あいつは純粋で、それで頑なだった。利用して悪かったなと思う。大人は、子供を利用しちゃいけないのに。大人はあくまでも子供を助けなきゃいけないのに。
だからね、話があったのよ。萌子ちゃんに」
そこまで言うと、環は大きな紙封筒をテーブルに置いた。そして、萌子に差し出す。
「何ですか？これ」
「逃げていった男が送り返してきたもの」
さらりとそう言うと、環は微笑んだ。
「ごめんって書いた手紙と一緒に送ってきた」
そっと萌子が中を開けて見ると、中には一万円札が束になって入っていた。はっとして顔を上げると、まだ環は微笑んでいた。
「調子悪そうだね、萌子ちゃん。顔色も悪いし、前よりもちょっと痩せたよ。成長期だってのに。篤志も、このところ萌子ちゃんの元気がないって言ってた」
何のお金で、どうして萌子に差し出しているのか、萌子は聞けなかった。
「バイト、もう辞めなさい。お金はあたしが立て替えてあげるから」
「けど」
「あげるとは言ってないよ。立て替えてあげるだけ。そのうちに返してくれればいいから。利子もとらない」
「あの」
「言ったでしょう？しばらく独立も結婚も延期。
萌子ちゃんが元気ないと、サッカー部も元気ないのよ。これからインターだってのに。これでも凪浜のＯＧだし、ファンなんだからね。選手に心配されるマネージャーでどうするのよ」
萌子は黙り込み、俯いた。確かに体は疲れていた。それに加えて、手紙のことも、部費の犯人も解決しないままで、心も疲れきっていた。
「それに、あたしは萌子ちゃんのファンでもあるの。萌子ちゃんみたいな、若くてかわいい子が、元気にニコニコしてくれてないと、こっちも心配しちゃうわけよ」
萌子は泣きそうになった。でも、堪えた。不安で、たまらなかった気持ちが、溢れそうになった。
「…環さん、わたし」
「なに？どした？」
「間違って、るんでしょうか？」
右京の言葉が、萌子の心に刺さっていた。
裏切られるだけ。
たしかに、部員の誰もが、合宿費のことなど忘れてしまっている。
萌子だけが、ひとり苦しんでいた。
環は大きく息を吸うと、はっきりと言った。
「あのさ、萌子ちゃん。信じるって難しくて、大変だけどさ、大事なことだってのは忘れちゃいけないよ」
そういって、環は微笑んでいた。
その目に涙は見えず、でもたしかに輝いていた。
「あ」
環と別れ、学校に戻ってきた萌子は、偶然渡り廊下で右京とすれ違った。右京はまだジャージ姿で、肩にタオルをかけていた。顔を洗っていたのか、かきあげた髪が少し濡れている。萌子に気付きながらも、そのまますたすたと歩いていく。慌てて萌子は追いかけた。
「待って、右京。待って」
萌子が差し出した封筒を、右京は受け取ることはなかったが、足を止めた。
「…環さんが、恋人でもない年下の男に、食事代もたせたままじゃ気が引けるって」
それでも、右京は受け取ろうとはしなかった。そして萌子も封筒も無視して歩き出す。思わず萌子は右京の腕を掴んだ。はっとして振りかえった右京の視線が、萌子の視線とぶつかった。避けたのは、萌子だった。赤い目は潤んでいて、いかにも泣いていたのが右京にもわかった。
恥ずかしさで、涙腺が緩みそうになって、唇をかみ締めている萌子は、ふと自分の持つ封筒を右京が引き取ったことに気づいて、顔を上げた。そこには、自分に背を向ける右京の横顔しかなかった。
「…信じてるからっ。わたし、信じるから」
右京はそれには答えずに、歩いていく。潮の匂い強い風が吹いて、右京の肩のタオルを吹き飛ばした。一瞬だけ、右京は足を止めたが、そのタオルを拾うこともなく、校舎に消えていった。萌子はそのタオルを拾い上げると、顔をうずめた。
その風は、成の髪も吹き上げていた。だが、成は、萌子に近づくこともできなかった。泣いているようなのはわかる。何かしてあげたい、けれど何をすればいいのか、わからずに校舎の陰で立ち尽くしていた。
「萌子、藤原君のこと好きなのよ」
ふいに女の声がして、振り返ると百合がいた。
「知らなかった？」
驚かなかったわけではなかった。
確かに今、萌子は何か手紙のようなものを右京に渡した。
受け取ったが、右京は萌子をなかば無視するように去っていった。
そして、右京が落としたタオルを手にして、泣いている萌子。
でも、本当に？
どこかで、成は疑っていた。その気持ちが百合に伝わったのか、意地になった百合は更に言う。
「だってほら、藤原君のタオル、にぎりしめてるじゃない」
だが、成は答えなかった。泣いているのを隠してるようにしか見えなかったから。
無言の否定が、百合の心を傷つけていた。
「だって…。だって、この前だって藤原君のために、あたしからお金借りたんだもの。あたしも、そういうことなら、協力してあげたくなっちゃって」
「お金？」
思わず成が顔を上げる。真っ向から見つめられた百合は、戸惑いながらたたみかけるように話すしかなかった。
「合宿費がなくなったって、言ってたでしょう？それよ。でも、本当は見つからなかったんだもの」
ちょっと、待ってくれ。
成は大きく目を見開いた。
「萌子、こう言ったわ。盗んだのは藤原君だけど、彼を庇いたいんだって。彼のためなら何でもしてあげたいんだって。だから、お金貸し−」
「本当に？本当に藤原が？」
肩を掴まれそうな勢いでいわれて、百合も止められなかった。
「萌子は、そう思ってるみたいよ」
あの、合宿費がまだ見つかってない。
しかも、藤原が犯人？
成は慌てて自分の記憶を探る。
あの日、あの朝。
藤原はどこにいた？グランド？…いや、いなかったかもしれない…。
「早坂君が、いくら萌子のこと思っても、駄目よ。萌子は藤原君に夢中なんだから」
黙り込んだ成に、百合は苛立った。
萌子とは、あんなに楽しそうに話をするのに。
どうして？
どうして、わたしとは？
どうして、わたしの言ってることを信じようともしてくれないの？
「…どこがいいの？あんな子の、どこがいいの？ただの八方美人じゃないの。
早坂君にも、友近君にも、藤原君にもいい顔しちゃって」
はっと気づいたように成は顔を上げる。
一瞬にして、無くなった合宿費のことよりも、右京が犯人かもしれないことよりも、萌子と右京のことよりも、今の百合の言い方が引っかかった。
「萌子の友達だろ？白井さん」
成の口調は静かだった。
「だったら、もっと萌子のことわかってくれないかな」
その言い方が、尚更に百合を傷つけた。
「あたしは、あたしはただっ、早坂君のためにっ−」
成は萌子がいつか言っていたことを思い出す。
かわいいし、優しい、友達。
あの時の萌子の笑顔が、さっきの泣き顔に変わっていく。
成は、静かに、けれどきっぱりと言った。
「…ごめん。俺、悪いけど、白井さんとは付き合えない」