Maybe Blue 第一部 海の鼓動
薄夏8
翌日も、球技大会は行われた。しかし、サッカー部はそれとは関係なく朝練もしっかりと行われた。
「ほんとにやるわけ？」
篤志は小声で、下駄箱の陰で様子を伺っている理香に聞く。
「当たり前でしょう。アッチだって、しっかり抜け出して来てるじゃない」
朝早い昇降口に、人はほとんどいなかった。静まりかえった中で、抑えた理香の高い声がよく通る。登校するには早い時間だった。朝練の最中、二人は体育委員の手伝いがあると言って抜け出してきた。もちろん、手伝いなどありはしない。こんなところを見つかれば、大目玉をくらう。
「俺はさっ、ただ−」
言いづらそうな篤志に代わって、理香がはっきり言う。
「ただ、許せないんでしょう？あたしも、そうよ。だから一言いってやりたいの、物申してやりたいのっ」
そのとき理香が寄りかかっている下駄箱に足音が響いた。慌てて口を押さえて、覗いた理香は、何だという表情にかわって、声を出した。
「あ、おはよ。百合ちゃん」
びっくりしたのは百合の方だったようだ。突然現れた理香に、持っていた靴を落としてしまい、その音が昇降口に響く。
「…おはよう。何、してるの？」
思わず理香は篤志と顔を合わせる。
「あ、うん。ちょっと、忘れ物しちゃってさ。百合ちゃん、早いんだね」
「ラッシュが苦手なの。それに、家だとうるさくて勉強できないけど、朝早い教室って静かで集中できるから」
「そうなんだ。偉いなぁ」
なんてことのない会話をして、百合は教室に上がっていく。
その後姿を目で追いながら、篤志が口を開く。
「今のって…」
「萌子の友達の、白井百合ちゃんって子。学校に早く来て、勉強なんて偉すぎる」
少し間があってから、篤志がそうだと手を叩く。
「あ、そっか。試合に来てたんだ」
ひとりだけでやってきて、サッカー部の試合を応援する百合の姿を見て、印象に残ってたのだ。
だけど、萌子に会う為に、試合に来てたのかな。
そんなことを篤志が思っていると、理香に背中をバシッと叩かれた。
「そんなどうでもいいこと思い出してないで、ほら。しっかりと見張ってっ」
試合開始を告げるホイッスルが鳴り響く。体育館中は、女子生徒の歓声に包まれる。今や二大スターとなってしまった、朔哉と右京の対決がこれから始まるのだ。
髪をかきあげた朔哉の前には、無表情の右京がいる。運命のめぐり合わせか、ジャンパーはこの二人であった。
審判が口に笛を加え、ボールを構える。
よしっ、と心の中で気合を入れ、朔哉は大きく手を伸ばした。
「萌子っ」
頑張れと声援を送っていると、ふいに篤志が声をかけてきた。
「すごいな、あの二人」
篤志が言っているのはもちろん朔哉と右京のことである。
スコアは二十四対二十二で、かろうじて右京と萌子のクラスが勝っていた。だが、朔哉はそのうちの十八点を、右京は十七点を決めていた。試合と同じく、二人も接戦していて、それぞれが得点を決めるたびに、女子生徒からは歓声が上がった。
「ねぇ、篤志。環さん、戻ってきた？」
「んにゃ。あのバカ姉貴、昨日無断外泊してさ。母ちゃんがカンカンになってた。美容院も休んでるみたいだし」
そう、と萌子が心配そうに答えると、篤志は明るい声で言う。
「萌子が心配することじゃないよ。どうせ、ラブラブの婚約者の家に泊まってるだけなんだからさ」
その答えが、いっそう萌子を不安にさせた。
相変わらず、だな。
朔哉はハーフタイムの時間にそう心で呟く。視線の先には右京がいる。
スコア上は三十三対三十七。右京がスリーポイントを立て続けに決めたために、差は広がっていた。
「作戦、変えるか」
朔哉がそう呟くと、周りのチームメイトが、え？と朔哉を一斉に見つめた。
「俺、後ろに下がって松田と一緒に藤原をマークするから、井上、センター頼むよ」
言われた井上は、驚いて朔哉に聞き返す。
「けど、それじゃ観客が納得しないし、第一お前の方が点取れるだろ？」
黄色い声援は、ハーフタイム中も止まることなく続いている。
「お前らステーキ食いたくないのか？」
どのクラスも優勝すれば、何かしらの賞品が担任教師によって用意されているようだ。
「それに、井上はバスケ部なんだからさ、周りに遠慮することないって」
「けど、俺は万年Ｂチームだから−」
言いかける井上に、朔哉は明るく諭す。
「んなこと関係ないだろ。お前ならできる。
俺たちは勝つために試合してるんだし。いつまでもこのままでいるわけにはいかないし、俺の得点も関係なし」
審判がコートに入った。もうすぐ試合は再開される。
「絶対、ステーキ食ってやるぞっ」
コートに選手が集まってきたとき、ふいに篤志があれ？と呟いた。
「ねぇちゃん？」
その視線の先を萌子が追うと、確かに環がいた。慌てて走り出した萌子を見て、篤志もその後を追いかける。
走り出した萌子と篤志を、ゴール近くで立ってる朔哉が横目で確認したとき、後半開始のホイッスルが鳴った。
センターサークルでは、右京が早速ボールを手にしている。
いつまでも、このままでいるわけにはいかない。
そうなのだ、右京をあのままにしておくべきではない。
朔哉自身、昨日の試合と今日の前半の右京のプレーを見ていたが、それはサッカーの時と同じだった。
味方を信用しきれてない。
ひとりボールを手にして囲まれても、パスをしようとしない。
それが通用するのは、一定のレベルまでだ。
ドリブルしてきた右京の前に、松田が立ちはだかり、右京は足を止める。しかし、次の瞬間フェイクして松田をかわすと、高く飛びあがり、シュート体勢に入る。
そのままじゃ、お前の実力も、チームの力も、上がっていかない。
シュートする直前に、ふいに現れた朔哉に、右京の顔は多少強張る。そして、ボールは朔哉の手によって弾かれる。何でここにいる、という顔をしている右京 を無視し、朔哉はボールを取ると、前線にいる井上にパスをする。大きく歓声があがって、井上が毎日の練習の通り、シュートをする。得点は二点差となる。
ワンゴール決めれば同点。あるいはスリーポイントで、逆転。
朔哉は右京に向って、微笑んだ。
「環さんっ」
萌子の声に、環は明るく答えた。
「よっ、萌子ちゃん」
「よっ、じゃねぇよ。ねぇちゃん、母ちゃん怒ってたぞ」
萌子の後ろから現れた篤志を見つけて、環は萌子と同じく、よっと声をかける。
「いくら婚約者の家だからって、泊まる時くらいは連絡−」
「篤志っ」
萌子が篤志の言葉を遮る。
「萌子、これは家族の問題なんだよ。不良な姉を持つと、優秀な弟が迷惑被るんだ」
「別に環さんは不良なんかじゃなくて−」
「あんたたち、うるさい」
環に一喝されて、二人は黙り込む。
「せっかく試合が面白くなって来てるんだから、しずかに見てられないの？」
歓声があがって、萌子はスコアボードを見る。井上が今度はスリーポイント決めて、逆転をしていた。
「せっかく、朔哉がいい活躍し始めたってのに」
「いい活躍って、朔哉さん、ガードになって得点してないぜ」
ふうと溜息をついて環は言った。
「このバカ弟。得点決めるだけが、いい選手じゃないんだよ」
思わず篤志は環をにらみ返す。
「まぁ、見てなさいって。これからが藤原と朔哉の戦いなんだから。あんたたちのお小言は、それから聞くよ」
スコアはいつのまにか開いていた。五十一対四十二。後半になって井上が決めたシュートは五本。うち一本がスリーポイント。右京は朔哉と松田のディフェンスにあって、シュートがなかなかうてない。ひとりの選手のスタミナが切れて、交替のタイミングでまた朔哉は言った。
「よし、また作戦変更だ」
「またぁ？」
冗談だろうと声を上げた金田に、朔哉は笑いかけながら言い放つ。
「お前も藤原のマークを頼む。松田も引き続き藤原マーク。もちろん、俺も。で、太田は前な」
交替になった、身長百六十あまりの太田が驚いて声を上げる。
「俺が？」
「けど、それじゃ他の奴がフリーだぜ」
「だな」
ちょっと待てよ朔哉、と井上が止めにはいる。
「他の奴らがどんだけ点を入れても、それ以上の点を俺が取るからさ、許せよ」
そう笑顔でコートに戻る朔哉に、井上が走り寄って、そして言った。
「お前、いい先輩だな」
朔哉は素知らぬ顔で、井上の顔を見つめる。
「あんだけ囲まれて、あんだけ周りにフリーな奴がたくさんいたら、パス出すしかねぇだろ？」
「…そうなってくれると、いいんだけどな」
「やってくれるよな、朔哉の奴」
試合が再開されて、またもフォーメーションが変わったのを見て、環は豪快に笑い出した。
「これで藤原も年貢の納め時になるかな」
「どういうこと？ねぇちゃん」
「あんたって、ほんとバカね」
さっきから、バカバカ言われ続けていた篤志は、少しむっとしてみせた。
「だって、藤原だって、まったくパスしてないわけじゃないぜ」
「いったいあんたは、何を見てたわけ？」
呆れかえる環だが、萌子にも環が何を言いたいのかわからなかった。
確かに右京はまったくパスをしてないわけではない。回数は少ないかもしれないが、決して少なすぎることもないだろう。
「藤原が、ここぞって時、どうしてる？シュートできるポジションにある時、あいつはそれでも2人のディフェンスを何とか振りきろうとして、シュートしかしてないだろう？周りにフリーの奴がいてもさ」
気づいた萌子は、あっと声を上げる。
「運がいいのか、悪いのか。あいつは時々振りきれてしまうから、ぱっと見そのシュートは間違ってないように見えるけど、本当なら違うんじゃないの？篤志」
団体競技をしてきた篤志には、その意味がわかる。
「大人になったなぁ、朔哉も」
環がそう呟いた。
「パスパスパスッ。藤原ぁっ」
クラスメートであり、今はチームメイとの声は、右京にも届いている。けれど、パスをしようとは思わない。別にそのチームメイトが嫌いなわけではない。勿論、好きなわけでもない。つまりは右京にとっては、どうでもいいのだ。
三人に囲まれて、右京は苦し紛れに、無理やりシュートをするが、当然のように相手のディフェンスに弾かれる。
サッカーであれば、このようなことにはならない。誰も右京のテクニックにはついてこれないからだ。だが、いくら運動神経がよくとも、バスケで勝つための方法なんて、右京は知らなかった。
あっという間に、相手チームにボールが渡り、また点差が開いた。
「藤原、パスくれよ。お前のマークきついんだからさ」
話かけてきたチームメイとの名前を、右京は思い出せない。体操服に『木下』とあって、それが名前だと記号のように右京は頭にインプットする。
試合が再開され、すぐに右京にボールが集まる。だが、同時に右京の前には二人のディフェンスが立ちはだかっている。
チッ。
右京は小さく舌打すると、ドリブルのまま、フェイントをかけてひとりを抜く。歓声が上がる。
二人目を抜く。さらに歓声が上がる。
ゴールがすぐそこだと思った瞬間に、目の前に朔哉が現れた。右京の足はそこで止まる。その隙に、抜いたはずの二人も、右京を取り囲んだ。
顔を上げると、正面で朔哉が微笑んで言った。
「パス、出したほうがいいんじゃないか？ほら」
朔哉が顎で示した方には、声を上げ、両手を振って、ボールを求める木下がいる。
それを無視して、無理やりシュートしようとしたが、やはり邪魔をされる。ボールは朔哉に渡り、そこからパスされて、また点が入った。
先ほどから、その繰り返しだった。
苛立つ萌子の隣で、ふいに環が言った。
「今までの県予選じゃ、ワンマンでもよかったのかもしれないけど、全国となると、一気にレベルが上がるからね。今までのようにはいかない。
朔哉はそれを教えようとしてるんだよ」
萌子はチームメイトと手を合わせる、笑顔の朔哉を見つめた。篤志が訴えた。
「けど、別に藤原は周りが見えてないわけじゃなくて−」
「でも、周りをうまく使おうとしてない、じゃないの？バカ弟」
言い返せない悔しさで、バカバカ言うなよと篤志は小さく呟いた。
「本番の試合でやるわけにゃいかないし、サッカーだと藤原のレベルが高くて、向かない。球技大会は、いい時にあったもんだねぇ」
腕組をして頷く環の前で、またもや右京にボールが集まっていた。
「パスパスパースッ」
うるさいくらいに、木下の声は右京に届く。朔哉がまた右京に言った。
「パスしてやればいいだろ」
「…」
「そんなに信用してないのか？」
「…」
「やってみればいいだろ。そもそも、藤原は、信用ができないほど奴のこと、知ってるわけじゃないんだろ？」
厭味を言われた右京は、朔哉を無視してシュートを打とうとする。だが、すぐに朔哉がそれをガードしようと手を伸ばす。
右京は手を引っ込めるしかない。木下が、ひとり大きく手を振っているのが見えた。
畜生。
流れるようにはなった右京のパスは、フリーの木下に届く。木下は、そのままシュートを打つ。ボールはゴールネットに吸込まれ、一年生側の歓声が久々に上がった。
「意外にやるじゃん、キノシタ君」
朔哉はにやっと笑ってそう呟いた。右京が朔哉の顔を見つめていると、当の木下が走り寄ってきた。
「やったぜっ、藤原っ」
興奮している木下を無視して、右京は朔哉の背中を見ていた。
「作戦変更っ」
タイムを取ったかと思うと、またもそう言った朔哉に、チームメイトたちはげげっと声を上げた。
「まじかよ、朔哉」
「もういいだろう」
「あと五分しかないんだし」
「だからだよ」
へ？と顔をしかめる四人に朔哉は言った。
「俺、そろそろシュート打ちたくなったし」
「じゃ、俺とポジション交替？」
井上が朔哉に聞く。だが、朔哉は首を振った。
「球技大会なんだから、皆楽しまないとさ。全員攻撃全員守備にしようぜ」
「けどそれじゃ、あいつがフリーになっちまうぜ」
ずっとマークしてきた松田が、右京を指して言う。
「いくら点差が開いてるからってさ−」
「大丈夫。あいつがいれたら、その分俺もいれるからさ」
任しておけとばかりに、笑顔になる朔哉には、誰も逆らえなかった。