Maybe Blue 第一部 海の鼓動
薄夏7
整列をしている成の隣で、篤志がわき腹をつついてきた。
「萌子、見に来てるよ」
「…そりゃ、相手のクラスなんだから、応援にだって来るよ」
目の前には萌子のクラスメートでもある右京もいる。成はちらりと観客の方を見る。萌子は百合と一緒に立っていた。複雑な心境になったところで、篤志が言った。
「パス、回すから。決めろよ、成」
成と目が合ったところで、思わず萌子は俯いてしまった。何かを訴える視線が痛かった。ふいに隣で百合が言う。
「ねぇ、萌子はどっち応援する？」
「もちろん、うちのクラスでしょ」
「ふーん」
百合はそう答えて笑っている。
「何？」
「あたしは、あっちのクラス応援するから」
百合は茶目っ気たっぷりに言う。
「だって好きな人のチームだもん。当然でしょ？」
そういう百合の視線は、ボールを持って味方にパスを送ろうとしている成にあった。百合に視線を止めてしまう萌子だったが、心の中で一息つくと、明るい声を出して言った。
「だったら、うちのクラスが優勝しても、先生の奢りのラーメンは百合の分、なしよ」
１年７組の担任は、どの競技でも優勝することができたら、クラス全員にラーメンをおごると約束していたのだ。すると百合が、ひどいという顔をして、萌子の耳に囁いた。
「だから、皆にはナイショ。ね」
そしてまっすぐに成を見つめる。萌子はそんな百合の横顔を見て、羨ましく思った。そして、そう思ったことに疑問を感じた。だが、その答えを見つける前に、萌子の耳には理香の大きな声が聞こえてきたのだ。
「アッチッ、頑張れっ」
「理香」
声をかけると、理香も萌子に気づいて側に駆け寄ってきた。
「あ、萌子。…百合ちゃんだったよね、こんにちは」
理香は百合にも挨拶をする。そうこうしているうちに、７組のシュートが決まった。百合と抱き合って喜ぶ萌子を見て、理香が言う。
「よかった。萌子が元気になって。心配したんだよ」
萌子は恥ずかしそうに微笑んだ。
「何だか、ふっきれたんだ。笠間さんの言う通り、もう気にしないことにする」
宮尾の言葉が心に残っていた。
自分に負けることは、悔しいこと。
「そうそう、それが１番っ」
理香は笑顔でそう答えると、もう１度大きな声援を篤志に送った。
「アッチッ、いけいけっ」
「理香ってば、声が大きいよ」
萌子の周りだけでなく、コートの中の篤志までもが恥ずかしそうに理香を見た。理香はそんな篤志に手を振っている。
「だって、うるさいんだもん。それに大声で応援するのって気持ちいいよ。萌子もやってみれば？頑張れっってさ」
いつのまにか集まっていた右京のファンの声援が、二人の会話をかき消すほど、体育館中に響き渡っていたのだ。
「７組頑張れっ」
清清しそうな萌子を見て、理香はおまけのようにさりげなく言う。
「ついでに成くんも応援してあげなよ」
「どうして？敵チームよ」
「部員のよしみでさ」
もちろん、それだけじゃない。理香はこのところ、よそよそしくなった二人の仲をどうにかしたいと思っていたのだ。しかし、萌子は一瞬百合の顔を見ると、大きく首を振った。
「駄目よ。ラーメンがなくなっちゃうもの」
「あっ」
どうしようかと思って、慌てて篤志にパスした成のボールは、あっけなく右京に取られる。そしてそのまま右京はシュートを決めた。
２０対８。成たち１年２組は８得点の負けているチームである。萌子達のクラスは、右京の活躍でリードしていた。
「気にするなよ、成。これから、これから」
ぼうっとしている成に、そう篤志が声をかける。しかし、右京がここまでやると成は思っていなかった。サッカーの時もそうなのだが、右京にはいつもやる気というものをあまり感じない。だが、実際にプレーするとあまりに巧いので、何も言えなくなってしまう。
「藤原って、サッカーだけじゃないんだ」
篤志がそう呟いていた。
「アッチッ、いけいけっ」
体育館に響き渡る大きな理香の声がした。篤志は顔を赤くして、理香の馬鹿…と呟いている。成が理香の方を見ると、篤志に向って大きく手を振っていた。
篤志は愛されてるなぁ。
成は呑気にそんなことを考えていた。
なのに、自分ときたら。
「おいっ、成っ」
溜息をついた時、成にパスが回ってきた。慌ててボールを取ると、とりあえず行けるところまでドリブルをする。ところが、ゴール目の前で、スッと敵が現れ た。右京だ。すでに１８０はありそうな右京と、１７０になったばかりの成の身長差は、ことバスケには大きかった。しかし、成はなんとかフェイントでもっ て、右京を振り払い、シュート体勢をつくった時、萌子の大きな声援が聞こえてきた。
「７組ガンバレッ」
その一瞬で、成のシュートするタイミングが少し遅れた。ボールは、ディフェンスになった右京の手にかすかに触れ、ボールはリングに弾かれた。
ああっ、畜生っ。
そのボールは７組の選手に渡り、パスを受けた右京がシュートを決める。湧きあがる歓声。萌子も飛び跳ねて喜んでいるのが見えた。
はぁと溜息をついて、成は自分自身に呆れた。
俺は、何やってんだよ。まったく。
笛が鳴った瞬間、歓声は一段と大きくなった。成はガクッと肩を落として、萌子を見つめる。当然のように、萌子は飛び跳ねて喜んでいた。五十四対三十八。一年七組の勝利だった。
礼をして試合が終わった途端に、理香が二人のところへ駆け寄ってきた。
「残念だったね、二人とも」
「あれ？萌子は？」
さっきまですぐそこにいた萌子を探して、あちこち首を動かす成をみかねて、篤志が言った。
「何だか右京君に話があるとかいって、追いかけて行ったよ」
成は自分の心がちくりと痛んだことに気づいた。
体育館中を見回していた首を、ぎこちなく止めた成を無視して、理香は言う。
「しっかし、右京君も、あれだけ人気があるのに、全然興味ないって顔して素っ気無いなんて、珍しいね」
人気だけなら、朔哉にも劣らないんじゃないかと、理香は思った。
まるで正反対の二人だけど。
「クールだよなぁ、ほんと」
篤志がそう呟いた。
「あーあ。勝てるかと思ってたのに。成君のせいだよ」
理香はそう言って、いつまでも落ちこんでいる成を軽く睨む。
「え？」
慌てて顔を上げた成に、理香は含み笑いを浮かべた。
「試合中、よそ見ばかりしてるし、溜息ついてるし」
そんなことはないとそっぽと向いた成の背中を、バシッと叩くと理香は仁王立ちになって言った。
「もっと頑張ってよねっ」
いったいどれだけ走ったのだろうか。
萌子はようやく下駄箱にいる右京に追いついた。
「待って、右京」
靴を履きかえる右京は、ちらりと萌子を見ると、すぐに下を向く。萌子は息を切らせながら話す。
「昨日、あの後環さん、送って帰ったの」
泥酔していた環を、なんとかタクシーに乗せると、萌子は日比野家へ向った。そのうちに環の意識もはっきり戻っていった。そして、途中で言ったのだ。
酔いを完全に冷ましたいから、近くの公園で下りる、と。
心配した萌子だったが、大丈夫だからと無理やり環は降りてしまった。
「篤志にも、おばさんにも話してないんだって。婚約者の人とのこと」
だから、酔ったままで帰りたくないんだと、環はぽつりと言ったのだ。そして最後に、何故か元気付けるように微笑んだ環の顔を、萌子は思い出していた。
「きっと、ひとりで悩んでるのよ」
右京はすでに靴を履き終えていたが、黙って萌子の話を聞いていた。
「だったら、何なんだ」
バスケでかいた汗が、右京の髪を湿らせていた。日の光を浴びて、その髪は艶やかに輝いて見える。
萌子は、初めて自分を真正面から見据えた右京の視線を受け止めて言う。
「今の環さんには、きっと右京が必要なんだと思うの」
転びそうになった環を支えた、右京のことを思い出す。
お互いに、環のことを支えていた。
しかし、右京は顔を逸らした。
「俺には関係ない」
「そんなことない。関係なかったら、右京のこと呼び出したりしない。
お願い、力になってあげて」
「断る」
右京はそう言い残して、萌子を置いて外へ歩き出す。慌てて萌子は上履きのままで追いかけた。
「どうして？」
「あいつが勝手に他人を信用して、裏切られただけで、俺には関係ない」
無表情で答える右京を、萌子は必死で追いかけた。
「でも、環さんのこと、知ってるでしょう？それにお世話になってる。
その人が、右京のことを必要としてるのよ。右京に−」
「あいつは俺を必要ともしてない」
倒れそうになった環の腕を支えた右京。
あの時、環は同じように支えた萌子の腕にしがみついていた。そして、萌子はあの時の環の体がかすかに震えていたことに気づいていた。
「そんなことない、環さんは−」
次の言葉は続かなかった。
右京は昇降口を出ていった。萌子はやりきれぬ思いを抱えていた。
百合は、体育館から校舎への入り口のところに立っていた。そろそろ成が出てきてもいい頃だと思って、そして手に持っているタオルを握り締める。
萌子が右京を追いかけて行ったのは、百合にとってはラッキーある意味チャンスだった。萌子がいれば、成の視線は自然と萌子にしか向かなくなるのだから、わかっていても、それを目の当たりにするのは辛かった。
ふと顔を上げると、篤志がやってくるのが見えた。成もやってくるかと心臓が高鳴った百合は、篤志がひとりでやってくることに気づいて、どうしたのだろうと思わず篤志を凝視していた。
「百合」
後ろから突然声をかけられて、百合は飛びあがった。そんな百合に、声をかけた萌子も驚いている。
「ああ、ごめん。萌子。びっくりした」
百合が胸を抑えていると、篤志が通りかかって、萌子に声をかけた。
「７組、いいとこまで行けるんじゃないか？」
「おつかれさま。行けるといいけどね。
篤志も頑張ってたね」
「成ほどじゃないよ」
そこで初めて萌子は気付く。
「あれ？成は？」
「そこまで一緒だったんだけど、忘れ物したとかで、体育館に逆戻りしてった」
篤志は、ちらりと百合を見て、気を使うように小声で言った。
「そういえばさ。藤原に話って何だったの？」
萌子は下唇を噛むと、にこっと篤志に微笑みかける。
「あ…うん。ちょっとね。
ねぇ、篤志。環さん、元気？」
「ねぇちゃん？そういや、あまり顔あわせてないなぁ。毎晩飲み歩いてるみたいだし、昨日も帰ってこなくてさ、友達の家に泊まるとか電話かかってきたけど」
やはり昨日は帰らなかったのだ。それでも本当に友達の家に泊まったのなら、問題はないけれど。
考え込む萌子に、篤志は付け加えて言う。
「母さんは、相手が婚約者なのにはっきりそう言わないことを怒ってた。けど、まあどうせ結婚するんだしさ」
「そう」
篤志はじゃぁな、と言って校舎に入っていく。萌子も大きく手を振った。
その隣で、百合はひとりぼっちだった。
小声で話す萌子と、篤志。しかも、篤志は初め百合を一瞥した。まるで、邪魔者だとでも言うように。そして、そのまま、百合をのけ者にして話をする萌子。
おそらく篤志でなくても、そうなのだ。
いつだって、萌子にとっての１番は、サッカー部員なのだから。
「萌子っ」
突然グランドの方向から、元気な声がかかる。
「知朗…。なっなに？」
知朗は駆け寄ってくると、戸惑う萌子の手を無理やり取って、グランドに連れて行こうとした。今度は、萌子も振り払うようなことはしなかった。そして、諦めた顔をして、百合の方を振りかえった。
「ごめん、百合。ちょっとサッカー見てくるね」
お昼先に食べてていいから、と言い残し、萌子は知朗と消えていく。
ひとり残された百合は、誰かに側にいてほしいと思った。けれど、隣には誰もいなかった。
俊平とグランドを歩いていた朔哉は、ふと足を止めた。
「おい朔哉。どうかした？」
ついて来ない朔哉に、俊平が気づいて声をかける。朔哉は遠くを見ていた。少し、嬉しそうな表情だった。
それからすぐに、視線を俊平に戻す。
「何でもない」
朔哉の見ていた方向を、俊平も見るが、そこには何もなかった。
しかし、ほんの数秒前まで、そこを萌子を連れた知朗が、駆け足で歩いていた。その手がしっかりとつながれていることに、朔哉は軽い嫉妬を覚えたが、いつもの萌子の笑顔があったことの方が嬉しかった。
知朗は、グランドに萌子を連れてくると、サイドラインの脇に萌子を立たせて言った。
「見てろよ、ちゃんと」
萌子は知朗に掴まれて赤くなった手首をさすった。
「わかった。けど、知朗。細谷さんが怒ってたよ。ただの球技大会なんだから、もっと手を抜けって」
すると知朗は、怒ったように答えた。
「俺は試合に負けたくねんだよ。どんな試合だって、勝ちたいし、勝つんだ」
強い瞳がそこにあった。萌子はわかったと答えると、笑顔を見せる。
「知朗。頑張ってね」
すると知朗もぐっと口角を上げて言う。
「萌子に戻ったな」
その意味を知ろうと、萌子が知朗の顔を見つけると、知朗はグランドに向って走りながら答える。
「さっきのお前、おかしかったぞ」
そうして、知朗は整列に加わって、試合が始まろうとしていた。
確かに、あの時は何もかもから逃げ出そうとしていた。そうして、自分に負けてしまいそうだった。けれど、今は、違う。
「やっと見に来たか。萌子」
知朗のクラスの応援集団から、ケンが萌子を見つけてやってきた。
「ケンは出ないの？」
「俺は卓球。もう負けちまった」
ホイッスルが鳴って、試合が始まる。
そして大きなケンの溜息が聞こえてきた。
「まったく、あいつは突っ走って困るよな。後で」
ケンはそういって顎で知朗を指す。
「試合直前なのに、萌子を探してくるとか言い出して、グランド抜け出して。こっちは大変だったんだぜ。試合時間遅れて。
やっと戻ってきたと思ったら、すっきりしない顔して、お前のこと、おかしいとか言い出してさ。そりゃ、萌子だって人間なんだから、いろいろあるさって俺が言っても、聞かないし。挙句の果てに、ひとり勝ちしてんだぜ」
そう言われて萌子は何も言えなくなる。黙り込んだ萌子に、ケンは直球で聞く。
「お前らってどうなってるわけ？」
「どうなってるって言われても…」
「友達以上恋人未満ってやつ？」
ケンのその言葉は正しかった。けど、萌子にとって知朗はそれだけの存在ではない。
「わたしは、仲間だと思ってる。最高の、仲間」
それを聞いて、ケンはふーんと答える。
「それって男としたら、ふられてるのと同じことだよな」
更に黙り込んだ萌子を見て、ケンは言いすぎたと思った。
本当は、ただ萌子の気持ちを知りたかっただけなのだ。それも、これも、成のためだ。
このところ、二人のよそよそしい雰囲気を感じていたケンも、さすがに自分のせいじゃないかと思い始めていた。
もし、萌子の気持ちが成にないのだとしたら、いっそのこと、それを成に伝えるべきだと思ったのだ。
ケンは黙り込んだままの萌子にわざと明るく言う。
「よくわかんねぇけど、元気だせよ。みんな心配してんだぜ。この頃のお前の様子がおかしいから。特に、小池や、アッチや−」
成、と言おうとしたところで、萌子が答える。
「ありがとう。もう、大丈夫だから」
「そか。…なら、いいけど」
グランドでは、知朗がシュートを決めて、萌子も飛びあがって喜んでいた。その笑顔を見て、ケンは開きかけていた口を閉じる。
ま、いっか。萌子が元気なら。