Maybe Blue 第一部 海の鼓動
薄夏6
朝練が始まって、１５分もすると仕事が一段落する。
理香は、萌子がグランドから姿を消すのを見つけて、そっと追いかけた。萌子は理香に気づくことなく、昇降口に入っていく。理香はこっそり、萌子に気付かれないようにして、萌子の下駄箱の脇から、ぱっと顔を出した。
「何してんの？萌子っ」
突然現れた理香に、萌子は慌てて手にした手紙を背中に隠す。
「あの…理香。…何でも、ない」
しかし萌子の表情は、明らかに動揺していた。理香は大きく溜息をついた。
「身に覚えは？」
笠間にそう問いただされて、萌子は黙って顔を俯かせ、横に頭を振った。小山が口を挟む。
「だとすると、やっぱり部の関係かな」
「きっと、ファンの子がマネージャーしてる萌子に嫉妬したのよっ」
理香はそれしかないというように元気よく言う。今日は球技大会のため、自由な時間が有り余るほどにあった。
理香から話を聞いた笠間は、一部の人間たちの都合のつく時間に、部室に集まるよう召集をかけた。笠間の隣では、柳田も腕を組みながら萌子を斜めに見ているし、その後ろでは壁にもたれた朔哉がいた。そして、萌子を庇うようにして理香と、美都がいる。
中央の机には、理香が萌子から奪い取った例の手紙があった。白い紙には、赤いマジックで『むかつくんだよ、死ね』とだけ書いてある。
慎重に笠間が尋ねる。
「いつから？沢木」
下手な嘘はもうつけなかったし、隠しても仕方ないことだと萌子もわかっていた。
「先週の…火曜あたりです。でも、手紙だけだし、他には何も−」
「テスト期間中か。…妙な時期だな」
小山がそう呟いた。確かに、試合の翌日や、練習中ならわかるが、テスト期間中は基本的に部活動禁止であるし、学校にやってくる生徒も増えるので、犯行も見つかりやすいはずだった。
「俺、そろそろ−」
ふいに朔哉がそう言って、壁から体を起こし、出ていこうとしたが、それを笠間が止めた。
「まあ、待てよ。朔哉。お前のファンだとはかぎらない、それにお前に責任はないよ。横田のファンかもしれないし、司のファンかもしれない。凪浜高校のファンってこともある。相手がわからないんだから、これはサッカー部の問題だ」
そう言われた朔哉は、大人しく元の位置に戻った。しかし、気持ちは変わらなかった。
モエチャンの教室には何度も行ったことがあるし、1年も誰かには誤解を受けて迷惑かけたこともある。それにもしかしたら、この前の試合後に行ったことを、誰かが聞いていたのかもしれない。
そう思って、朔哉は萌子を見つめなおした。その時のことを思い出し、確認してしまう。
そう、俺は…見事にふられたんだ。
萌子は俯いたまま、珍しく顔も上げずに言う。
「私が、悪いんです。サッカー部は関係無いです」
「まあそう決めつけるなよ、沢木。
とにかく状況から考えると、相手も多分うちの生徒だろうから、問題を大きくするのは止めよう。こういうものは、こっちから対抗すると、余計エスカレートしていくんだ。ただの性質の悪い悪戯だと思う事。無視することだよ、沢木。お前は悪くないんだから」
「でも」
萌子はスカートを握り締める。理香がそんな萌子に言う。
「そうよっ、萌子は悪くないの。悪いのは、この手紙を書いた奴のひねくれた根性よ」
悪いのを、手紙を書いた相手だと言わないところが、理香らしい。
そう思うと、少しだけ元気が出てきた。そんな萌子を見て、自慢気な理香に、笠間はクギを刺す。
「それから、小池も意地になって犯人探しはやらないこと」
「え？」
「合宿費のことは、もう終わったんだ。変に探って、話をぶり返すなよ。柳田だって、これでもう納得したんだから。なぁ」
どうやら理香のやっていたことは、笠間には筒抜けだったようだ。話をふられた柳田は、そこで初めて口を開いた。
「…ああ」
「それから他の部員にも、この話はしないこと。勝手に騒ぎ出す奴もいるだろうから。篤志にもそう言っておいてくれ」
理香は頷く。それを確認した笠間は、萌子に向き直った。
「沢木、何かあったら、誰かに言うこと。俺でも、柳田でも、朔哉でもいい。とにかく一人で抱え込むな」
しかし、萌子ははっきりと返事はしなかった。
悩んだ挙句、朔哉は部室を出た萌子を追いかけた。どうしても自分が巻きこんだとしか思えなかった。前にも、同じような経験もあったし、自分の知らないところで『福山朔哉』という人間が大きく扱われることも、朔哉は知っていた。
だが、声をかける前に、知朗が萌子を見つけて掴まえていた。
「何してんだよ、萌子。早く来いってば」
知朗はそう言って、萌子の手を掴むと、無理やりグランドに連れていこうとしている。
「な、何？」
「次の試合。俺が出るんだ。見に来いよ」
知朗はサッカーの試合に出ることになっている。怪我が治ったので、どんな場所でも試合がしたくてたまらないのだ。しかし、萌子ははっとすると、慌てて知朗の手を振り払う。
「何だよ」
不機嫌になった知朗がそう言った。萌子はそんな知朗の顔も見ずに急いで言う。
「ごめん、わたし…。用事があるの。ごめん、知朗。試合、頑張って」
そして萌子は走り去って行った。残された知朗は、足もとの石を蹴って、何だよと起こっていたが、クラスメートが知朗を見つけて試合になるからと連れていかれた。
朔哉は気づいた。
相手が誰かもわからないんじゃ、迂闊に一緒にはいられない、か。
そして、それは自分も同じである。仮に話が部活のことだとしても、そして萌子がその部員を嫌っているとしても、犯人からすれば関係無いだろう。
充分、注意を払わなければならない。
そう朔哉が思っていると、いつも一緒いる女生徒がやってきた。
「朔哉っ。何してるの？」
目の前の3人は、体操服姿ではあったが、パーマをかけた髪も化粧も、似合っていなかった。司だったら、こんな彼女たちでもくどくのだろう。たしかに、派手で見栄えのする美人ではある。特に、堀江珠里は雑誌のモデルを少しやっている。だが、朔哉にとっては友達でしかない。
ふいに、朔哉は萌子に手紙を送ったのが、彼女たちではないかと思った。
以前にも、萌子が朔哉と話をしていて、睨みつけていたことを思い出す。
「あのさ、珠里−」
真っ向から尋ねようかと思った。しかし、もし犯人でなかったら萌子に迷惑がかかることに朔哉は気づく。だいたい、彼女たちが嫌がらせをするにしても、こういうまどろっこしいやり方はせずに、もっとすぐに効果のある方法をするに違いない。
「いや、何でもない」
朔哉は答えた。萌子の逃げるような去り方が少し気になっていたが、珠里は朔哉の腕を取って言った。
「もうすぐ朔哉のバスケよ。頑張ってね」
萌子は走っていた。時々、歩きながらも、とにかく走りたかった。足は自然と海へと向っていた。
校舎の角を曲がったところで、萌子は向こうから歩いてきた生徒とぶつかってしまった。しかし、相手は萌子がぶつかったのに、びくともしておらず、むしろ地面にしりもちをついた萌子の腕を引き上げると、そのまま立たせてくれた。
「すみません」
萌子がそう言って、そこで初めて目があった。萌子を引き上げたその力強さから、男子生徒だと思っていた萌子だが、相手は女子であった。だが、一見する と、男性にも間違われそうなルックスではあった。さっぱりとしてショートに身長も１７０はありそうで、体つきも引き締まった筋肉質だった。顔つきも凛々し いのだが、頬の辺りがふっくらと柔らかで、美形だなと萌子は素直に思った。
体操服には、宮尾と書かれている。萌子はとにかく頭を下げて、海に走り出そうとしたが、その宮尾が声をかけてきた。
「ねぇ、ちょっと」
宮尾の声は、はりがあってよく響いた。萌子は振りかえる。
「あんた、バレーに出る？
バレー？と萌子は一瞬考え込んだ。
そうだ、今日は球技大会なのだ。
「あ…はい」
すっかり忘れていたことを思い出した萌子の腕を、宮尾は無言で掴み、校舎の方へと歩き出した。
「あのっ」
どこに行くんですか？と言おうとした萌子だったが、強い力でひっぱられ、颯爽と歩く宮尾についていくのに必死で、それどころではなかった。しかし、萌子 には宮尾の行動に思い当たるところはない。宮尾の名前を聞いたことがなければ、顔も見たことが無かった。一瞬だけ、例の手紙のことを思い出し、ビクッと震 えた萌子だったが、宮尾の横顔を見ていると、そんな相手には思えなかった。むしろ、宮尾はそういうことを嫌うタイプに思えた。
連れていかれたのはバレーコートだった。着いた途端に宮尾は萌子の腕を離すと、何も言わずに人ごみの中に消えていった。唖然としていると、百合が驚いたように声をかけてきた。
「萌子、どこ行ってたの？」
「ごめん、ちょっと。あれ？試合？」
気づけばクラスメートがコートで練習を始めている。だが、試合は昼前だったはず、と思うと、それには百合が答えてくれた。
「そうなの。順番が変更になって」
百合は萌子に伝えようとしたのだが、どこにいるのかわからなかったのだと言った。そこでクラスメートの美保が、萌子に声をかけた。
「ねぇ萌子ちゃんって、真琴先輩と知り合いなの？」
「真琴…先輩？」
美保は、相手側のコートで、一際目立っている生徒を指す。
「ほら、試合相手のクラスの人。さっき一緒に来てたじゃない」
「真琴先輩…」
宮尾真琴は、クラスメートとパスの練習をしている。萌子には、全く見に覚えがなかった。
「知らない？空手部2年の宮尾真琴先輩。めちゃめちゃ強くて、男子なんか目じゃないんだから」
「美保、ファンなんだよね。宮尾先輩の」
美保の友人が言った。
確かに、あの筋肉は嘘でないのはわかった。それに萌子がぶつかってもびくともしなかったのだ。美保は口を尖らせていう。
「だって、そこらへんの男子より、全然かっこいいじゃん」
それは萌子も納得した。立ち振る舞いが、キレがあって、どこか上等の刀を思わせた。
ピピッと笛が鳴る。
「ほら美保、見とれてないで、試合だよ」
実際、宮尾は運動神経もよかった。スパイクの威力はかなりのものだったし、そのフォームもとても綺麗だった。そして、コントロールも巧かった。
試合が始まって、少し経ったあたりから、萌子は自分が宮尾に狙われていることに気づいた。宮尾の打つスパイクは、全て萌子のところにやってきた。萌子も運動神経は悪くはないが、このところの寝不足と、例の手紙で心が常にはりつめていて、体調はとても悪かった。
1セット目はそうしてすぐに終わる。しかし、２セット目になっても、萌子への集中攻撃は止まなかった。初めはなんとか食らいついていた萌子も、そんな力もなくなっていた。交替したいと思うのだが、試合時間が変わったためにメンバーがいない。
執拗な攻撃は、なおも続けられ、そのうちにボールが萌子の肩に当たった。その痛みで萌子が肩を抑える。
「大丈夫？萌子」
一緒にプレーしている百合が駆け寄ってくる。
「うん、平気」
萌子がそう言って顔を上げると、宮尾と目が合った。宮尾は、まっすぐに強い視線を萌子に向けている。挑戦的にも思える視線の理由が、萌子にはわからなかった。
そう、わからないことだらけだ。
宮尾がここに萌子を連れてきたのも、
手紙が送り続けられていることも、
合宿費を盗んだ真犯人も。
それでも、宮尾の攻撃は続く。萌子はそのうちに、腹が立ってきた。
どうして私が、見知らぬ人にこうもいじめられなきゃいけないの？何もしてないじゃない。
腹立たしい気持ちは、徐々に悔しさに変わっていく。
負けたくない。この人には、負けるもんですかっ。
そのうちに萌子は、宮尾のスパイクに対して、きちんとレシーブできるようになって来た。萌子の顔は上気で赤くなり、ふらついていた足も、しっかりと地に立つようになった。それまでは届かなかったボールにも、飛びつくようになっていった。
そしてようやく、拾い上げることができたのだが、虚しくも、萌子のレシーブで始まった攻撃は、クラスメートのスパイクがアウトとなって、1点が宮尾のチームに入り、試合は終了した。スコアはセットカウント０対２。ストレート負けだった。
「ありがとうございました」
並んで礼をする。コートの外に出ていこうとした宮尾を萌子は追いかけた。
「宮尾先輩っ、あの−」
萌子が宮尾に礼を言う前に、宮尾が萌子に言った。
「あんた負けるの嫌いだろ？」
はっきり言われて、萌子は言うはずの言葉をなくしてしまったが、確かに宮尾の言う通りだった。宮尾は腕組をして、萌子のことをじっと見つめて言う。
「何があったか知らないけど、試合に負けるよりも、自分に負けるほうが悔しいよ」
思わず萌子も宮尾を見返した。
やはりわかっていてやったことであったんだと萌子は思った。再びお礼を言おうとしたところで、意外な声が聞こえてきた。
「おう、沢木。おつかれ」
「細谷先輩…」
俊平はタオルを宮尾に渡す。
「おつかれ、宮尾」
宮尾はサンキュと言うと、そのタオルで汗を拭った。
「細谷はどうだった？サッカーだったんだろ？」
「それが、友近っつうサッカー部の後輩が、本気出しやがって、一回戦負け。
あ、お前あいつに何か言っただろ？荒れてたぜ」
急に話をふられて萌子は戸惑う。慌てて、話を変える。
「あの、おニ人は知り合いなんですか？」
俊平は缶ジュースを取り出すと、宮尾に渡した。
「俺の彼女」
「えっ…」
萌子は金魚のように口をパクパクさせて言う。
「だって、細谷先輩。大槻先輩とよく…」
女の子ひっかけてるじゃないですか、とは宮尾の前では言えなかった。
だが、俊平は平然と言う。
「それはそれ、これはこれ。宮尾も知ってることだし」
萌子が驚いて宮尾を見つめると、見やおはジュースを一口飲んで、その缶を俊平に押し付けた。
「細谷、これまずい」
「げっ。新商品とか書いてあったから買ってみたんだけどさ」
俊平も一口飲んでみたが、ウエッと言って飲むのを止めた。宮尾は自分の持っていたジュースを口直しに飲み、同じように俊平に渡した。俊平は一口飲むと萌子に言った。
「ってことは、宮尾のことも知らないわけだ」
そこで宮尾が言う。
「さっき角でぶつかったんだ。試合時間だってのに、学校の外飛び出して行きそうだったから、掴まえた」
確かに、あの時の萌子はそうだった。無性に一人になりたくて、そして落ちこみたかったのだ。
俊平は、宮尾の肩に腕を回して自慢げに言う。
「宮尾、人気あるんだぜ。特に中等部の女子では朔哉と張り合うくらいにな」
「福山と一緒にするなよ。あたしはあんな、軟弱じゃない」
「まぁ、いいだろ？あ、そういや朔哉の奴、試合だったんだ。じゃあな、沢木」
二人は会話をしながら、仲良く消えて行こうとしている。萌子は宮尾にどうしても聞きたかった。
「あの、わたしのこと、知ってんですか？」
だから助けようとしたのかと、萌子は聞きたかった。すると宮尾は振りかえって言った。
「ま、名前だけはね」
そして、体操服にかかれた名前を指す。萌子がそんな宮尾を見つめていると、百合が寄って来て言った。
「萌子。一息ついて、バスケ見に行こう。うちのクラスの男子が出番なんだって」
体育館の隅に座って、朔哉が溜息をついていると、俊平がタオルを投げて言った。
「お前って男は、バスケ部相手に、本気で勝つなよ。あっちの立場ないだろうが」
振りかえると、その隣には司も立っていた。そして不満そうな顔をして朔哉に言う。
「また、モテやがって」
試合は終わったばかりだった。結果は三年チームに、しかもバスケ部がレギュラーを含めて３人もいるチームに二十点差で勝った。この点差は、朔哉によると ころが大きい。何しろ六十三点中、四十二は朔哉によるものだったのだ。おかげで試合後には、体育館が黄色い声援に包まれて、笛の音もかき消されてしまって いた。
「何かあったのか？」
「え？」
ふいに俊平が心配そうに言った。
「さっき沢木に会ったんだけど、あいつもちょっとおかしかったからさ、初め。
お前ら笠間さんに召集かけられて部室行ってたんだろ？」
「…まあな」
そう答えた朔哉は、ぶと俊平が言った言葉が気になった。
初め？
聞き返そうとすると、反対に説教されてしまった。
「むしゃくしゃして、本気でプレーすんのもいいけど、放課後までその元気とっとけよ」
俊平は、朔哉の肩をぽんと叩くと、司とどこかに消えていく。もう１度深く溜息をつくと、気持ちが落ち着いた。立ちあがった朔哉が、コートを出ていこうとすると、体育館を出ていこうとすると、篤志がやってきた。
「朔哉さん、おつかれでした」
「何だ、篤志も見てたのか」
「次、俺たちの試合なんですよ。な、成」
そういう篤志の手には、確かにバスケットボールがあった。そして、篤志の後ろには成がいた。
「これ勝ったら、次は、朔哉さんのクラスとなんだ」
篤志はそう言って笑った。
「相手は？」
「萌子たちのクラスです。ほら、藤原も出るんだ」
ぐるりと体育館を見まわすと、確かにボールを持って、やる気のなさそうな右京がいた。朔哉は篤志に、俊平からもらったタオルを渡す。
「ま、頑張れよ。怪我しない程度にな」
コートを横切って出ていく時、朔哉は右京ともすれ違った。一瞬だけ、お互い目が合ったが、逸らしたのは右京だった。一応、朔哉は言っておく。
「頑張れ、よ」
しかし、返事はやはりなかった。