Maybe Blue 第一部 海の鼓動
薄夏5
篤志たちが慌てて部室にやってきたとき、中には萌子たちとマネージャーと３年３人が立っていた。テニス部員の話を、小山が萌子たちに聞かせ終わったちょうどその時だった。そして、開いたドアからは、萌子のか細い声が聞こえてきていた。
「それ…多分、私です。テニス部の人が見たの」
一瞬、成は萌子が自分でやったのだというのかと思った。が、その様子はどう見ても思い詰めた様子だった。
「そんなこと、朝はお前言ってなかったぞ」
柳田の声に、萌子は顔を上げる。
「関係ないと思ったんです。ミーティングルームを出ていたのは、ほんの５分くらいだったし」
部室が静まりかえる。そして柳田がまた口を開いた。
「…何してたんだ」
成は萌子が戸惑っているのがわかった。しかし、それは柳田も同じく感じたようで、さらに尋ねた。
「お前はその５分、どこに行ってた」
「あの…」
「答えろ」
柳田に詰め寄られる萌子は、何だか小さく思えた。すぐでも、萌子を助けてやりたいと朔哉は思った。しかし、そんなことをしても萌子への疑いははれるわけではないし、むしろ萌子の状況が悪くなる。
それに、忘れることにしたんだ。
朔哉はそう思ってぐっと堪える。だが、理香が耐えきれず、萌子と柳田の間に入った。
「ヤナギさんっ、そんな怒ったような言い方じゃ、萌子だって答えにくいでしょっ」
理香の勢いに、一瞬おされた柳田だが、口調は緩めなかった。
「俺は怒ってるぞ、きちんと話をしなかったことにな、沢木。
お前はいったいどこに行ってたんだ」
それはきちんと説明できない萌子に対して、信頼を求める柳田の言葉だった。いつでも萌子は柳田に対して、生意気なくらい真っ直ぐに向ってきていた。それが今は背を向けている。それが不信感を生み、またそう思ってしまう自分自身にも柳田はいらついていた。
萌子は、考えてから答える。
「昇降口です」
「で、何をしていた」
柳田の質問には間がない。萌子は一瞬考えた。手紙のことを言うべきか。
しかし、ここで答えれば、今度は手紙の主探しが始まる。今部員たちが考えるべきなのは、なくなった部費のことでも、手紙のことでもなく、インターハイのことなのだ。
萌子は覚悟を決めた。
「傘を持ってきてました。雨が降りそうだったから。朝練の後に濡れないようにと思って」
間違ってはいなかったが、正解でもなかった。天気は悪かったが、今にも振り出しそうでもなかったし、部室から昇降口までは、走れば３０秒でつく。
諦めたように柳田が聞く。
「他に言うことはあるか？」
「いえ」
はっきりと答えた萌子から顔を逸らすと、柳田は皆に向って言った。
「荷物検査するぞ。まずは沢木からだ」
そして近くにいた篤志に、萌子の鞄を持ってくるように指示した。戸惑う篤志の前で、理香が言い返す。
「ちょっと、待ってくださいってばっ。ヤナギさんっ」
理香は明らかに柳田を睨んでいた。だが、柳田は理香を無視して萌子に言った。
「俺だって疑いたくて疑ってるわけじゃない。いいな、沢木」
「はい」
潔い返事だった。柳田は訳がわからなくなる。そして、混乱の中で萌子はきっぱりと言った。
「私は、盗んでません」
柳田にそう言った目は澄んでいた。
だったら、何を沢木は隠しているというのだ。何を庇おうとしているのだ。
篤志が鞄を持ってきた。机の上にそれが置かれるのを見て、理香は柳田に強く言う。
「わかりました。荷物検査は、あたしと美都がやります。女の子の鞄だもの。見られたくない物だってあるんだから」
柳田はそれを許可すると、部室の周りにいる部員に言った。
「お前らは昼飯食ってろ。そんなとこにたむろってたら監督が怪しむ。結果は後で言うから」
その言葉に、部員たちは渋々出ていく。朔哉は出るかどうか迷ったが、笠間がいるようにと視線で伝えてきた。
目の前で、誰かの鞄が開けられる様を見るのは、どことなく気分が悪かった。理香は業とらしく教科書をパラパラをめくってみせる。そして、出し終わった全てを、机の上に並べて言った。
「お金なんてどこにもありませんっ」
柳田は依然厳しい表情で答える。
「わかった」
理香はそんな柳田を睨みつける。
合宿費は鞄にはなかった。けれど、それは萌子の潔白を証明したことにはならなかった。そして柳田はまだ疑っているのが、朔哉にもわかった。ふと萌子の方を振りかえると、萌子にはホッと安心している様子もなく、むしろどこか怯えている雰囲気があった。
部員全員の荷物検査をするという柳田に、もう１度教室を探してみると部室を出た萌子だったが、足取りは重かった。
お菓子の缶に、集金していたことは、部員以外知るはずも無い。
あの時間帯に、部室の周りをうろついていても当然なのは、部員でしかない。
疑っているわけではないけれど、と萌子は心の中で一呼吸した。
盗まれたんだとしたら、それはサッカー部員かもしれない。
階段を上ろうとして、逆に下りてくる百合と目が合った。百合は微笑みかけたが、萌子はうまく笑える自信はなかった。そんな萌子を見て、百合は駆け寄ってきた。
「どうしたの？萌子。何か、あったの？」
真剣な百合の表情に、萌子は戸惑う。
言うべきなんだろうか。相談してもいいんだろうか。
でも、無関係な百合には全てを話してしまいたい。手紙のことも知ってる百合なら、何かいいアドバイスをくれるかもしれない。
友達でしょ？あたしたち。
百合がいつも言っている言葉を、萌子は思い出した。
そう、友達なのだから。
萌子は自然に話していた。
「実は、合宿費が…ないの。なくなっちゃったの」
驚いた表情になってから、百合は真剣に尋ねる。
「盗まれたの？」
「わからない。けど、朝に集金してたの。ちょっと、席を外したら、もうなくなってたの。
でも、盗まれたとしても、絶対に部員じゃないって信じたいの。そんなこと、するような部員はいないって。…だから探してるんだけど、なくて。練習前には監督に渡さないといけないし、もし…盗まれたんだとしたら、問題も大きくなるし」
そう言ってから、萌子はこの先のことを考えた。その事の重大さに、思わず座りこみたくなって、頭を抱えた。百合は優しく萌子の肩を抱くと、ふいに聞いてきた。
「いくら？」
「…５２万円…」
何も考えずにそう答えた萌子は、盗まれたと言われた時の石橋の表情を想像した。
やっぱり、盗まれたなんて言えない。
でも、どうしたらいいの？
千円、二千円の額ではない。いつまでも隠しつづけるわけにもいかないのだ。
すると、百合が鞄を開けて、大きな封筒を萌子に差し出した。
「ね、萌子。これ使って」
「え？」
戸惑う萌子に、百合は無理やりその封筒を握らせる。その封筒はかなり厚みがあって、重かった。中を見ると、一万円札がたくさん入っている。
「この前ね、おばあちゃんがお小遣いくれたのよ、どんと。定期にいれようと思ってたお金なの」
「駄目よ、百合−」
「でも困るんでしょ？使ってよ。あたしの方は、すぐになきゃ困るってものでもないから」
「でも」
素直に借りるわけにはいかなかった。５２万円の重みを、今萌子は手にして感じていた。しかし、百合はにっこりと笑う。
「いいから。だってそうしないと、サッカー部が大変なんでしょ？」
萌子は答えることができない。
「萌子には、たくさんお世話になってるんだから、そのお返しよ。萌子の役に立ちたいの」
百合はそう言って、萌子の手と封筒を握り締める。
萌子は、小さくありがとうと言ってから、それを受け取った。
「…ごめん、百合。すぐに返すから」
「体操服入れの中に紛れ込んでいて、教室に置いたままになってました。みなさま、ご迷惑かけました」
萌子のその謝罪の言葉に、誰もが大きくため息をついた。お金はすぐに笠間によって、石橋に届けられた。
そうして誰もが、快く練習を始められると思っていた。
「とりあえずは、やれやれ、だな」
大きく深呼吸をした篤志の隣で、理香が突然叫んだ。
「むかつくぅっ」
「どうしたんだよ、理香」
「ヤナギさんってば、萌子の事疑ってるっ、まだっ」
理香はボールを乱暴に磨きながら言う。怒り続ける理香を、珍しいと思いながらも、篤志は理香の言っていることも確かだと思っていた。
柳田は、たしかにまだどこか、疑うような視線を萌子に向けていた。萌子は、それを知ってか知らずか、柳田を避けるようにして立っている。
「けど、お金は出てきたんだからさ、もういいだろ？」
そう言った篤志に、理香は怒鳴り返した。
「萌子が可哀相でしょっ」
確かにそう思う。
けれど、萌子が何かを隠しているのは篤志にもわかったし、それを誰にも明かしていないことが、一線引かれたような気がして、篤志は寂しく感じていた。
「けどさ、こんな考え方も嫌だけどさ、もしもだよ。萌子がお金を持って、下駄箱に隠して、ミーティングルームに戻ってきたとしても、誰もわからないよ」
「何の為にするのよっ、そんなことっ」
またも怒鳴り返されて、思わず篤志はあとずさりする。そして、小声で答えた。
「…気の迷い、とか」
「そんなことっ、絶対に絶対にないっ」
理香はそう言うと、立ちあがって宣言をした。
「あたしが、萌子の無実を証明するっ」
借りたお金をどう返せるのか。
できるだけ、早くしないといけない。
その思いから、バイトをしようと考えたのは当然といえば当然でもあった。萌子が自由に使える貯金は、２０万円で、どうやってもあと３２万円は工面しなけれ ばならなかった。百合はいつでもいいと言ってはくれたが、そういうわけにもいかない。両親に話せば、本当の事を言わなければならない。と、なると自然と石 橋の耳にも入るだろう。
すると、やはりバイトしかないのだ。場所はできるだけ部員が立ち寄らないようなところ。萌子がバイトを始める事は、誰にも話してはいけないのだ。誰かに知られれば、すぐに合宿費と結び付けられるに違いなかった。
萌子も柳田がまだ自分を疑っていることに気づいていた。いっそ、盗まれたのだとすればよかったのかもしれない。しかし、萌子にはそれができなかった。
今は言えない。
今は。
「お母さん」
台所で洗い物をしている母親に萌子は声をかける。ここ数ヶ月で見なれた風景ではあったが、萌子は最近の母親が、その専業主婦業に少し飽きてきていることを知っていた。振りかえった母親に、嘘をつく事は気が引けたが、萌子は笑顔を作ると答えた。
「インターハイが近いから、これからちょっと夜遅くなると思うんだ」
母親は意外にあっさりと返事をした。
「そう。わかったわ。楽しそうね、サッカー部」
「うん」
「頑張ってね」
もともと、家族のご飯を作るために、家でじっとしているような性格でないことはわかっていた。そうさせて、ストレスを溜めるよりは、娘の行動にいちいち口を挟むほどに気持ちが内に入るよりは、外を見ていた方が母らしいのだ。
萌子は少し寂しく思いながらも、小さくうんと答えた。
週が開けて、月曜日がやってきた。今週末で１学期は終わりになる。夏休みになって、合宿が始まり、少しすればもうインターハイだった。
戻ってきたテストの解答用紙を見ながら、萌子が欠伸をすると、百合が気づいて声をかけてきた。
「何だか眠そうだね。萌子」
「うん、ちょっと」
土曜日からバイトを始めて、今日は三日目になる。萌子は駅の裏にある、レストランバーのようなところでウェイトレスのバイトをしていた。勿論、高校生で あることは隠して。部活が終わってから、慌しく７時半頃に学校を出てから、１１時までバイト。家に帰って、できなかったマネージャーの仕事をして眠るのは ２時。朝練のために起きるのが５時。それに今週末の練習試合があるために、いつも以上に萌子の気ははりつめていた。それに何よりも、例の手紙は相変わらず 下駄箱に入っていて、それが萌子に安らぐ時間を無くさせていた。
しかし、この生活をしばらくは続けなければならない。自給がいいとはいえ、残り３２万円のお金をなるべく早くに百合に返さなければならない。
バイトの話は、百合に言えば気を使うに決まっているからと、萌子は誰にも言わずにおいた。
「ねぇ、今度の球技大会、早坂君って何に出るの？」
百合に聞かれた萌子は、部員たちとの雑談を思い出す。
「…バレーボール、じゃなかったかな」
このところ成とはあまり話をしていない。萌子はそれどころではないし、成も何故か萌子を避けているように思えていた。
百合はのんびりと、あたしと一緒だと喜んでいる。萌子は教室の窓から見える海を眺めて、ふうと溜息をついた。
「それじゃ、本当に萌子はその時間に下駄箱にいたんですね」
理香はそう問い詰める。相手は詰め寄られて、思わず手にしていた箒を握り締めて、後ずさりした。今は清掃時間である。
「まぁ、だいたいの時間だけど」
理香はやったーと叫びそうになったが、相手の疑うような眼差しに気づいて、上げそうになった手を下ろした。理香の隣で篤志が次に尋ねる。
「それで萌子は何をしてたんですか？」
理香は篤志をつれて、まずは萌子のアリバイを確かめることから始めた。つまり、あの時間に萌子が確実に昇降口にいたという証拠だ。
篤志の言うように、下駄箱に一旦隠したとしても、朝練が終わって、再び昇降口にやってきたとき、萌子の側には理香がいたし、その時萌子は普通に下駄箱から上履きを取り出しているだけだった。つまり、下駄箱には隠して無いということでもある。
学校が休みになって、なかなか思う相手を探す事ができなかったが、ようやく発見したのは朝早くに登校して受験勉強をする３年の男子生徒だった。彼は登校した時に、下駄箱で萌子を見たという。
「何って？よくわからないけど、下駄箱の前で立ってて、それから持ってた物を捨ててたよ。封筒かな」
一瞬、篤志の顔が曇る。部員たちはそれぞれの封筒に名前を書いて、合宿費を出していたのだ。
もしかして、それを捨てたんじゃ？
しかし理香は、不安そうな篤志の足を思いきり踏んづけると、こう聞き返した。
「どんな封筒でしたか？それに捨てたのはいくつですか？」
三年生は少し考えてから答える。
「どこにでもあるような白いやつだったと思うよ。それを１通。よくは見えなかったけど、ラブレターかなって思ったんだ」
「どうしてですか？」
「中の手紙を読んでたから。けど、それを捨てるなんて、結構冷たい女の子なんだなって思ったんだよね」
篤志はほっと肩をなで下ろす。少なくとも、萌子は部員たちの出した封筒を、証拠を無くすために捨てたのではないのだ。しかし、理香はムッとした顔で言い返した。
「違いますっ、萌子はっ、萌子は優しい女の子なんだからっっ」
三年はその勢いに負けて、また一歩後ろに下がり、壁にぶつかった。が、それでも理香にこう言い返した。
「けど、今日も見たんだよ。下駄箱に入ってた手紙捨てるの」
今日？と理香は聞き返す。
「同じ時間ですか？」
「ああ。俺はいつもと同じ電車で来たから」
理香も練習中は四六時中萌子と一緒にいるわけではない。確かにその時間、萌子をグランドで見ていない気がした。
「ありがとうございました」
理香は突然そう言うと、篤志の手を取って、廊下を走るように歩き出した。
「どうしたんだよ、理香。どこ行くんだよ。俺、これ以上掃除サボったら、トイレ掃除決定なんだけど」
「トイレと萌子とっ、どっちが大切なのよっ、アッチはっ」
そりゃ萌子だけどさ、と言っている篤志を無視して、理香は言い続ける。
「探すのっ、ゴミ箱探して、萌子が捨てた手紙を見つけるのっ」
「見つけてどうすんだよ」
「ヤナギさんに何も口答えしなかったのは、その手紙のせいなのよ。隠しておきたい手紙だったの、萌子にとって」
間があって、篤志が真剣に言う。
「だったら、勝手に見るの、よくないだろ？」
理香はついに立ち止まって、篤志の腕を解放した。
「けど、最近ずっと萌子が元気無いのは、その手紙が原因かもしれないじゃないっ。萌子ってば、聞いても何も教えてくれないんだもんっ、全部一人で抱え込んじゃってさ…。…話くらい聞くのに。相談にだってのるのに」
篤志も言われて黙り込んだ。このところ、理香が苛立っているのは、そう言った萌子の態度にあるのだ。
とにかくっ、と理香は再び声を大きくした。
「手紙を見つけたら、萌子の悩みだってわかるし、そうしたら疑いだってきっと晴れるし、萌子だって元気になるのっ」
全てがうまく行くとは篤志には思えなかったが、反対するつもりはなかった。昇降口にやってきた理香は、ゴミ箱を探すが、見つからず、近くで箒を持っていた生徒に聞いた。
「あの、ゴミ箱は？」
生徒は、箒を片付けながら答える。
「さっき、掃除当番が焼却炉に持っていったよ」
バイト時間が終わり、最後にゴミを出したところで、萌子がふうと溜息をついていると、聞き覚えのある声がした。
「あれ？萌子ちゃんじゃないの？」
「環さん…。右京？」
環は、隣で右京が支えてなければ今すぐにでも倒れてしまいそうなくらいに酔っていた。右京は萌子と目が合うのを避けて、そっぽを向いている。環が萌子に 走り寄ろうとして、右京の手が離れた。千鳥足の環が転びそうになって、慌てて萌子は駆けよって支える。その反対側で、右京も環の腕を掴んでいた。
「酔ってるんですね、環さん」
環はふふんとわらうと、店の外壁に寄りかかる。アルコールの匂いが萌子の鼻をかすめた。
「うん、ちょっとねぇ。あ、安心して。藤原には飲ませて無いから、酒。つうか、飲まないんだよね、こいつ」
右京は再びそっぽを向き、視線を落とした。
「何してたんですか？」
「デートだよ、で・え・と」
「…ふざけんな」
右京に寄り添うようにして腕を組んだ環を、押しのけるようにして右京が言った。環はからめていた腕を離して、壁に寄りかかり笑い出した。
「おっ、やっとしゃべったな、こいつ」
右京は黙れと言わんばかりに、環を睨んだが、環は酔っていてなのか、一向に気にしていないようだった。
そういえば、環さんは酒豪だって、篤志言ってなかったっけ？
ふと環の視線が萌子に向いた。
「でぇ、萌子ちゃんは何してるの？バイト？」
はっと気づいた萌子は、慌てて背中を向ける。が、そんなことをしても今更遅い。戸惑う萌子に、環は言った。
「わかったよ、皆にはナイショって奴でしょ？わかった、わかった。藤原っ、あんたも言うんじゃないよ…って、あんたの場合、口がないか。アハハハ」
またも笑い出した環を睨み、右京は無言のままに去って行こうとする。環は追っていく様子も無く、ただ壁に寄りかかって笑い転げている。
「ちょっと右京。環さんどうするのよ」
弟の篤志が１６０を切るくらいなのに対して、姉の環は何故か１７０近くあるのだ。１５０台の萌子に、千鳥足の環を運ぶ事はかなりの苦労だし、第一右京の帰ろうとしている寮は、環の家の隣なのだ。
だが、右京は冷たく言うだけだった。
「関係無い。勝手に呼び出されただけだ。行ったら、すでにできあがってた」
笑い声がしなくなったかと思うと、環は崩れるようにして床に座りこんでしまった。萌子は、悩んでから歩き出した右京を追いかけた。
「ねぇ待って、右京。このこと、皆に言わないで」
右京は足を止める。街の灯りに、右京の背中が浮かび上がって見えた。その背中は、全てを拒否していた。そして、無言で萌子に対して、合宿費の疑いを向けているようにも思えた。
「わたしは、やってないわ」
右京は振り向こうとしなかったが、歩き出そうともしなかった。
「もしも、部員の誰かが、ほんの出来心で盗んでしまったんだとしたら。
後悔したけれど、気づけば大事になってしまったとしたら、その人は言い出しにくいはずでしょう？柳田さんにばれたら、それこそ退部させられるかもしれない。たった１度の過ちでも」
柳田がそう判断するのは、柳田自身が厳しいからではない。立場がそうせざるを得ないのだ。
「でも、私がああいう形でお金を出せば、反省するかもしれないわ」
それに、問題はその部員と萌子の間だけで終わる。
右京の肩が少し揺れて、心の中に切りこむような掠れた低い声がした。
「部員が犯人だと思ってるのか」
萌子は答える事ができなかった。信じたくはなかった。けれど、事実は全てその方向に向っているのだ。それでも、いつかは反省をして、萌子に言いに来ると信じていた。それで、解決すると思っていた。
車のライトが眩しく輝き、萌子が再び目を開けたときには、右京がこちらを見ていた。
「待っていても意味は無い。裏切られるだけだ」
希望の無い言葉に、萌子は思わず叫ぶ。
「そんなことないっ、私は信じてる。絶対に、後悔してるはずだもの」
だから、私は待ってるの。
萌子がそう言う前に、右京は再び背中を向けると、歩き始めていた。妙な不安感だけが残された萌子に、環の声が響く。
「萌子ちゃん」
振りかえると、環は壁に寄りかかりながらも立ちあがっていた。
「あたしさ、男に逃げられたんだ。結婚しようって言ってくれた男にさ。…信じてたからショックだったよ。しかも一緒にやろうっていってた店の開店資金まで 持ち逃げされてさ。馬鹿だったとは思うよ。信用しすぎてたって、友達には言われたけど…。信じるのって難しいよね。信じすぎてもいけないし、信じなければ 虚しいだけ」
俯いた環の表情は読めず、萌子は環が酔っているのか、酔いが覚めたのかわからなかった。そして、フフッと笑う声がして、環は顔を上げた。
「けどさ、結構好きだったんだよね。相手の事信じてた時の自分」
街灯に照らされてその瞳が潤んでいることに、萌子は気付いた。環はもう１度呟く。
「好きだったんだよね、一生懸命な自分」
「ひゃー、疲れたぁ」
そういって、ケンのベッドにダイビングした篤志に、ケンが慌てて言った。
「おい、俺のベッド、しわくちゃにすんなよ」
「そんなのいつものことだろ？」
篤志はそういうと、大きく伸びをした。インターハイを前に、本格的な練習が始まっていた。ケンと厳己の部屋には、右京以外の一年生の寮生が集まっていた。
ケンが篤志をベッドから落とそうと手を引っ張り上げて言う。
「トイレ掃除一ヶ月決定したお前に、俺の神聖なるベッドを汚されたくないんだよ」
その言葉に知朗が反応した。
「お前、トイレ掃除１ヶ月当番なわけ？何やったんだ？テストで赤点とか？」
「ちげーよ」
そっぽを向いた篤志に、成が言う。
「掃除当番さぼりまくったからな」
篤志は理香に言われた質問を、成にも言ってやりたくなった。ケンが大笑いをして、篤志の背中を叩く。
「馬鹿だな、お前。トイレ掃除のが辛いぜ」
「…理香のせいだ」
呟いた言葉に反応したのは湊だった。
「そういや、今日も理香と慌しく校舎駆け回ってたなぁ」
思い出して、篤志はまた溜息をついた。
「うん。…ちょっと」
「何それ。アッチくん、秘密主義ってわけ？」
ケンが篤志のわき腹をつつき、思わず篤志は体を起こす。
「そんなんじゃなくて。…萌子のアリバイ探し」
「アリバイ探し？…もういいじゃん、萌子の勘違いだったんだからさ」
厳己に言われて、篤志も心が揺れる。
「うん…。けどさ。本当かなって」
「本当に決まってるだろ？じゃなきゃ、あの金どこから出て来るんだよ」
怒り気味の知朗に、篤志も言い返せなくなって来た。
「そう、なんだけどさ」
けれど、篤志には、萌子が捨てたという手紙が気になっていた。
萌子が昇降口に言った理由って、本当はなんなんだろう。
篤志は答えにつまって、ケンに質問をした。
「な、もしケンが目の前に大金あったら、どうする？」
「間違い無く手に取るね。で、こう顔をぱたぱたする」
頬を札束で撫でるようなしぐさに、罵声が浴びせられた。
「成金っぽいな」
「趣味わりー」
「だーっ、うっせー、お前ら」
そこから話題は変わったが、それでも成は、篤志が言っていたことが忘れられなくなっていた。
本当は萌子の勘違いじゃないとしたら…。
でも、萌子が盗むわけ無いし。
そうしたら、どうして萌子はあんなにはっきり答えられなかったんだろう。
もしかして…。
誰かを、庇ってるとか？
それって…。
部員？
ふと成がそう考えたところで、突然枕が成の顔に飛んできた。
「なぁに考え込んでんだよっ、成っ」
「色惚けしてんじゃねぇぞっ」
篤志とケンがニヤニヤと笑っていた。
「色惚け？」
怪訝そうな知朗がそう言って、成は慌てて枕をケンに投げ返した。
「そんなことより、お前の化学の点数はどうだったんだよっ」