Maybe Blue 第一部 海の鼓動
薄夏4
「おはよう、萌子」
下駄箱で声をかけられた萌子は、振りかえって笑顔になった。
「百合。おはよう。嫌だね、テスト。１時間目、化学だって。勉強してないのに」
二人は廊下を歩きながら、話をする。そのまま教室に入ると、中でも何人かの生徒たちが必死で追いこみの勉強をしていたり、友達と教え合ったりしている。その一方で、昨日の七夕祭のことを話す生徒たちもいた。
席についた萌子に、百合は少し微笑む。萌子は、その意味がわからずに、でも笑顔を返すと、百合が言った。
「あたし、今日は結構自信あるんだ。昨日勉強してたから。萌子はその様子だと、七夕祭に行ったんだ」
言われて初めて気がついた。成に断られた百合は、そのまま祭りには行かなかったことを。
「あ…、うん。篤志たちに誘われたの」
萌子は少し焦って、鞄から筆記用具を出しながら付け加える。
「せ…、早坂君は、来なかったよ。やっぱり、自主トレしてたみたいで、忙しいんだって。サッカー」
「そう」
百合が少し悲しそうに思えて、萌子が余計なことを言ってしまったかもしれないと思っていると、ふいに百合は笑顔を萌子に向けた。嘘をついたことに、萌子は罪悪感を感じながらも、それは百合の為だと思いなおした。
うそつき。
ふいに解答用紙にそう書きたくなった。もちろん答えはそうではない。
嘘、つき。
百合は、咳払いする声が聞こえて顔を上げると、試験管の教師と目が合った。真面目にやれ、ということらしい。仕方なく、百合は問題を読むフリをして、別のことを考える。
『早坂君は、来なかったよ』
うそつき。本当は、成って名前で呼んでるくせに。
『忙しいんだって。サッカー』
うそつき。二人で歩いてたくせに。
『どうして百合断ったの？いい子なのに』
うそつき。そんなこと思ってもないくせに。
本当は、あの人の気持ちが自分にあること知ってるくせに。
『行けなくなったと伝言がありました』
うそつき。本当は、話さなかったくせに。
『もちろん、友達だもの』
うそつき。本当は、あたしのこと友達だと思ってもないくせに。
カチカチと押していたシャーペンの芯が、ぽとりと落ちる。百合は、しかし芯を入れ直そうとはせずに、ぐっとシャーペンを握り締める。
あたしはチャンスをあげたのに。あげたのに。
朝のセリフは、全部できあがっていた。こういう風に萌子に聞いてみよう。萌子が本当のことを話してくれるように。
しかし、萌子は嘘をついた。
うそつき。萌子の、嘘つき。
チャイムが鳴って、解答用紙が回収される。それをまとめた教師が、教室を出ていく。大きく伸びをした厳己に、クラスの女子が声をかけてきた。
「川瀬君。問い７の答えって、Ａだよね」
厳己は自分が何を選んだのか思い出す。
「…多分」
「やった。川瀬君と同じ答えなら、当たってるもんね」
ありがとうと言われ、厳己は首をふる。ふうと溜息をついていると、ふいに一馬が横に立っていることに気づく。
「どうだった？今日の試験」
「聞くなよ、俺に」
一馬はそう言って笑う。それから、反対に厳己に尋ねた。
「お前は？」
うーんと答えてから、厳己は謙遜したように答える。
「まあまあ。かな」
厳己が凪浜にいられる条件のひとつは、定期試験で１０位以内の成績であることである。一時期バイトをしていたこと、サッカー部がインターハイ出場で、練習時間が増えたことからすれば、厳己の勉強に集中できる時間も少ないに違いなかった。
「親父さんから連絡あった？」
試合の後、電話をすると母親は風邪をひいたのだと言っていた。父親は仕事で抜けられなかったのだと母親が説明した。わかったと、軽く返事をしたものの、それが嘘であることを厳己は知っていた。
でも、わかってたことだから。
厳己は、言葉を切るようにその質問に答える。
「ないよ。母さんからはあった。試験頑張れって」
「そっか」
うまい言葉がみつからず、一馬は唇をかんだ。
テスト期間は、流石に朝錬もやらないことになっていた。朝寝坊できるようになったことが、萌子には嬉しかった。
「おはよう、萌子」
下駄箱で百合に話しかけられる。そんなことも今まではなかったことだ。
「おはよ」
百合は萌子の隣に立って、靴を入れようとした。同じように下駄箱を開けた萌子は、あれ？と思う。萌子の上履きの上には封筒が置かれていた。横から顔をのぞかせた百合が言う。
「ラブレターじゃない？もしかして」
「違うって」
萌子はそう言いながら、封筒を手に取る。一瞬、心臓がドキッとしたのは、同じ封筒の手紙を持っていたからだ。しかし、その封筒はコンビニでも市販されて いるようなものだったし、第一その相手が、凪浜までやってきて、萌子の下駄箱に置くなんてことはできないことはわかっていた。
封は閉じておらず、気持ちを切り替えて中の手紙を取り出した途端、萌子は凍りついた。
「なんて書いてあったの？」
百合は冷やかすように手紙を覗き見する。真っ白いコピー用紙に、マジックで書かれた赤い文字が乱雑に書いてあった。
『いい気になってんじゃねぇよ。ばーか』
萌子は頭の中でその言葉をもう１度繰り返した。自分の体がどんどん小さくなっていくような気がした。まるで、砂漠に埋もれていくような…。
しかし、萌子は百合に肩を叩かれてはっと気づく。
「気にすること、ないよ。きっとサッカー部あたりのファンのやっかみだから」
百合はそう言ってから、萌子から手紙を取り上げると、ぽいっと隅にあったゴミ箱に捨てた。
サッカー部のやっかみ。
萌子は百合に促されて、教室に向かった。
そうして長かったテスト期間も終わりを告げた。生徒たちは、テストが返ってくることも忘れて、夏休みがすぐそこにあることを喜んでいる。しかし萌子は、テストのことも、夏休みのことも忘れて、下駄箱の前に立っていた。
期末テストの二日目から、下駄箱に置かれていた手紙は、それから三日経った昨日までも続けられていた。百合の言ったように、サッカー部絡みならば迷惑を かけたくないと、萌子は誰にも話していなかった。事情を知っている百合だけが、気にすることはないのだと繰り返し萌子に言い続けた。
もしかしたら…という淡い期待を抱きながらも、どこかで今日もあるはずだと思い、それが理香たちにばれてはいけないと、一旦萌子は練習を抜け出して、昇降口に来ていた。
そっと開けてみる。
やっぱり、あった。
『あんたなんか、大嫌い』
書き殴ったその文字を目で追いながら、萌子は不安になっていった。見えない誰かが、どんな理由なのかはわからないが、自分に対して強くマイナスの感情を抱いているということは、気持ち悪いというよりは恐怖に近かった。
萌子はその手紙をそっと封筒にしまうと、そのままゴミ箱に捨てようとしたが、誰かがふと見ているような気がして、手を止めた。ゆっくりと振りかえる。誰もいない。
そして萌子は、手紙を投げ捨てると、部室に戻っていった。
ミーティングルームに入ったところで、ドアによりかかり、ふうと溜息をつくと、そのドアがノックされて、美都が顔を出した。
「萌子、ごめん。ちょっと来てくれる？」
美都が言うには、萌子のつけたスコアブックを小山に見せられたのだが、その説明ができなかったので、萌子を連れてくるように言われたのだと言う。
「小山さん。急いでたの」
「わかった」
萌子はそのまますぐに、ミーティングルームを後にした。
小山への説明もすぐに終わり、スコアブックが片付いたところで、萌子は笠間に声をかけられた。
「集金、集まった？」
今日はインターハイ前の合宿費の集金日だった。一人1万円なので、朝に集めて、それを石橋が学校の金庫に置くことになっていた。全員は出していなかったが、それでもいいから石橋に届けるようにと笠間は言った。
「合計で７８人分だから、金額も大きい。早めに監督に渡した方がいい」
夏合宿を前に、受験のために引退を決めた三年生も少なくなかった。それでも、選手権までは、という三年もいた。
萌子はわかりましたと返事をして、部室へと戻った。ちょうど、ミーティングルームの隣の部室から、理香が出てきたところだった。
「どうしたの？萌子」
「お金、もう監督に渡すようにって笠間さんが」
「８０万近くでしょ？ひぇー。あたしも手伝うよ。だって、そんな大金滅多に拝めないでしょう？…あーあ、制服汚れちゃった」
理香はそう言って、スカートを払う。朝錬は時間があまりないことと、練習内容もそれほど重くはないことから、マネージャーは制服の上にジャージを着て参加することが多かった。
「どうかしたの？」
「さっき転んじゃったの。アタタ」
理香はそう言って、腰をさする。そうしながらも萌子が笑っていることに気づいて、自分も痛みを忘れて微笑む。
このところ萌子の元気のなさが気になる理香は、昨日思い切って萌子に聞いてみたのだが、テスト中だから、とさらりとかわされてしまったのだ。元気がないのは、テストの前からであることは、理香もわかっていた。
合宿費はミーティングルームにある。サッカー部の部室は、他の部活と違い、特別にミーティングルームが隣にあり、ほとんど専用のものとして使われていた。そのためにか、部室との壁にドアもあり、そこを行き来できるようになっている。
理香は、ミーティングルームのドアを開け、合宿費を探す萌子の背中を見ながら考える。
どうしたら、萌子は元気になってくれるのかなぁ。冗談言っても、その時だけ笑ってくれるだけだし。
理香は、もっと萌子の悩みを聞きたかった。
「ない…」
ふいに萌子がそう言って、慌しく自分のロッカーを探し始めた。
「どうしたの？萌子」
自分の鞄を探って、それからロッカーのものを床に出し、そしてテーブルを見てから、ようやく萌子は理香の顔を見て言った。
「合宿費が、なくなってるの」
朝錬が終わり、部員が慌しく部室で着替えている隣のミーティングルームに、萌子はいた。目の前で、着替えの終わった柳田が言う。
「本当にないのか？」
「確かに、机の上にはおいてたんです」
萌子の記憶では、やってくる部員から次々とお金を徴収しては、空き缶に入れていた。それを忘れぬようにと、紙袋に入れて、ロッカーに入れた。…つもり だ。もしかしたら、机の上に出したままにしていたかもしれない。萌子は封筒のことが頭に合って、そのあたりの記憶が曖昧だった。けれど、ミーティングルー ムから持ち出していないのは確かだ。そして、昇降口から戻ってきた後、すぐに美都に呼ばれて、鍵をかけてミーティングルームを出てグランドに向った。
「そんなところに置いておくからだ」
そう言った柳田に、理香が慌てていい訳をする。
「そうだとしても、お菓子の缶に、お金が入ってるなんて誰も思わないですよ」
ね、萌子と励ますように理香は言う。
「だいたい俺は、お前にミーティングルームにいるようにと言ったはずだ。仕事の量も減らして」
「それは俺だよ。俺が、沢木のこと呼び出したんだ」
小山にそう言われ、柳田は口を閉ざした。小山は優しく萌子に話し掛ける。
「けど、沢木も鍵をかけなかったのか？ミーティングルームの鍵」
「すみません、わたしが急いでるって萌子に言ったから」
美都がそう言った。ごめんなさいと、美都の小さな声が響く中で、萌子は項垂れていた。なくなったのは、自分が悪いのだ。あの時、自分がミーティングルームを離れたから。
笠間がふうと溜息をつく。ここには、笠間たち３年生と萌子たちマネージャーしかいなかった。ことを大きくしたくないということで、笠間は石橋にも言わずに、ここに関係者を集めた。もう１度、確かめるように笠間が萌子に尋ねる。
「沢木、ミーティングルームの鍵はかかってなかったんだな？」
そして、そっと頷く萌子を確認して、笠間は柳田と小山に言う。
「もしかしたら外部の人間が、勝手に入って来て盗んだってこともある」
が、それは理香が言ったことと反している。見た目にはわからぬように、合宿費はお菓子の空き缶に入っていたのだ。しかも、お菓子の袋に入って。
理香は萌子をフォローするように言う。
「あたしは部室にいたけど、来るときミーティングルームに入る人はいなかったし、物音も聞こえませんでした」
理香としては、誰かが盗んだということではなく、たんに見つからないということにしたかった。しかし、柳田が言う。
「お前の方が物音たててたんだろう？」
あ…と言いそうになって、理香は口を押さえる。そして思い出したように、その手を腰に持ってきた。
言われた物を取り出そうと、理香は椅子の上に立っていた。が、爪先立ちをしてバランスを失い、落ちて、それから泣きわめいていたところに、萌子がやってきたのだ。
部室での騒音が、ミーティングルームでの物音を消してしまったのだ。
「向い側のテニス部に聞いたら、うちの部員しかみえてないらしいよ」
小山が真剣な顔つきで言う。今日はテニス部も朝練だったのだ。重い空気が漂い出して、それを振り払うように柳田が言った。
「仕方ないな。部員たちの持ち物検査をする」
「待ってください」
部室に乗り込もうとした柳田を、萌子は追いかける。
「もっとちゃんと探してみます。だって、部員がやったなんて思えないし、もしかしたらわたしの勘違いかもしれないから、もう１度探させてください」
言ってはみたものの、萌子には思い当たる場所がなかった。しかし、そう言うしかなかった。そっぽを向いた柳田に代わって、小山が答える。
「わかった。ただし、午後までだ」
小山の口から、合宿費がなくなったことを聞かされた部員たちはざわついた。柳田が皆を黙らせるように言う。
「言っとくが、このことは監督には秘密だ」
部室が静まりかえる。石橋には、笠間がすでに合宿費を昼に集め、午後の練習前に持っていくと伝えていたので、部員たちが言わない限り、萌子がそれまでに見つければ問題ない。
「それってつまり、盗まれたってこと？」
三年の一人がそう柳田に尋ねる。またも部員たちが騒ぎ出す。柳田は、その部員たちを黙らせるためにまたも大声で言った。
「思い当たる場所を探したが、あるはずのものがない。そういうことだ」
なくなったのは、今朝お金を払った五十二人分の合宿費用の五十二万円だった。笠間が時計を気にしながら手早く言う。
「１時間目が始まるから、朝はこれで解散するけど、だれか空き缶を部室で見たとか、不審人物を見かけたという話があったら、俺や小山たちに言ってくれ」
そう言いながらも、笠間は部員たちのそれぞれの反応を見ていた。笠間の目には、誰もがもっともらしく驚いた演技をしているようにも見えたし、純粋に驚いているようにも思えた。
「なぁ、もし合宿費が本当になくなった場合ってさ、やっぱもう１度徴収ってこと？」
昼休み、１年部員たちはお昼を食べるために、ひとつの教室に自然と集まっていた。授業はすでに午前中のみの夏季時間になっていた。つまり、午後は思う存分サッカー漬けになる。
その中で、誰ともなしにケンがそう質問をした。ふうと興仁が溜息をつく。
「１万か…。きついよなぁ」
他の誰かが同じようなため息をついた。萌子たちマネージャーは、今ミーティングルームで必死になって合宿費を探している。見つからないままであれば、盗 まれたということになるし、そうなれば、真っ先に部員に目が向けられる。もし部員の一人が犯人だったとしても、おそらく部費はもう外に持ち出され、証拠も ないことが予想された。ケンは、興仁に聞いてみる。
「萌子はきっとどこかにあるって言ってたけど、お前どう思う？本当にどこかに隠れてんだと思う？それとも−」
「誰かが盗んだって？…わかんねぇけどさ、なんかやな感じだよな。そうだったらさ」
空気は沈むばかりだ。厳己もお弁当を食べながら口を挟む。
「けど、監督に教えなくていいのかな。笠間さんの判断でそんなこと決めてさ」
監督は、まだ単純にお金が集まらないものだと信じている。ケンが、それはさ、と厳己に説明した。
「監督が知ったら、萌子が怒られるだろう？心配してんだよ。確かに萌子がちゃんと管理してないのが悪いけど、任せた笠間さんたちの問題にもなるし」
何人かが頷こうとしたところで、由太が断定的に言う。
「笠間さんが考えているのはインターハイのことだ」
由太はじっと黒板を見つめて話す。
「もし、誰かが盗んでいたとしたら、しかもその犯人が部員だとしたら、俺たちは出場辞退することになる」
部員たちがざわめいた。
嘘だろう。
せっかく県大会で優勝したのに？
園部が無責任に言った。
「けど、そんなん黙っちゃえばさ」
「それができないのが、うちの監督だろう？」
園部は何もいえなくなる。ケンも溜息をついた。
「けど、誰だろうな」
「金に困ってる奴かな」
「それって…。渡部？」
厳己が立ちあがって珍しく怒鳴った。
「渡部はちゃんとバイトしてるし、お金には困ってないよ」
とうの一馬はいない。だからこそ、名前が出されたのだが、厳己は一馬の名前を出した山田を睨む。黙り込んだ山田を見て、厳己は腹立たしそうに席に着く。
そのうちに園部が言った。
「なぁ、小池って、ずっと部室にいたんだろ？」
今度立ちあがったのは篤志だった。
「理香を疑ってるのかよ、園部」
「そうじゃなくてさ、ただ一般的な話。だって、隣に泥棒がいて、気づかないかな、と思ってさ」
またも由太が口を挟んだ。
「理香が部室にいたのは、５分ほどだ。その間に金を盗んで、監督に言われた仕事をこなすのは、あいつには無理だ」
今日の仕事は、萌子がミーティングルームで集金の仕事をしていたために、しわ寄せが理香と美都に回ってきたのだった。
誰もが口にはしなかったが、皆それぞれに部員が盗んだのではないかと考え出していた。そしてそれが誰なのかと、疑い始めていたのだ。
朝錬は自主練習に近いところがあって、ある程度自由に練習を抜けられるのだ。つまり、誰でも犯行可能なのである。
ふいに篤志が明るい声を出す。
「やめようぜ、こんな話」
もっと違う話にしよう。
そういう前に、他の１年が走って教室に入ってきたかと思うと、息を切りながら皆に言った。
「おいっ、新情報っ。テニス部の奴が、朝錬の時間に部室のあたりをうろついていた女子生徒を見たって」