Maybe Blue 第一部 海の鼓動
薄夏3
神奈川県決勝が終わると、意外にも練習が軽くなった。
理由は単純だ。来週から期末テストになるために、一応部活動禁止となるからだ。
だからこそ、今、成は部室の掃除もせずに、昼休みに呼び出された中庭にやってこれた。萌子を介して呼び出した相手は、百合だった。
「七夕祭、行かない？」
突然そう言われて、成は戸惑っていた。
萌子は何も言っていなかった。この時間に中庭に来てほしい。それだけだ。萌子の呼び出しかと期待したところで、萌子は百合が待ってるからと付け加えた。
現実は、そううまくいかない。
「悪いけど、俺−」
「練習の後で疲れてるのはわかってるから。でも、少しでいいの。少しだけでもいいの」
百合は強く言った。決勝の後、萌子からの連絡を待っていた百合は、一通り二人の会話を聞いた後、こう萌子に言われたのだ。
結構脈アリだと思うよ。
百合は素直に喜んだ。何より、萌子がきちんと話してくれたことが嬉しかった。それはつまり、私は貴方に、萌子は成に興味がない、と言っているのと同じなのだ。
練習を理由に無難に断ろうと思っていた成は、先回りされて真剣な百合の視線から逃げるように俯いた。
「…ごめん」
都合よくチャイムが鳴る。成はそのまま百合と別れたかった。傷心の成には、他の女の子と付き合うとか、デートするとかいうことは、しばらくはしたくないことだった。
しかも、萌子の友達なんて。
成はそのまま頭を下げて、教室に戻ろうとすると、百合が急に叫んだ。
「考えてくれるって、そう萌子に答えてくれたんでしょ？」
立ち止まった背中に向って、百合はそう言った。言ってから、後悔した。萌子のことなんて、今口にするべきじゃないのに。萌子の言葉を聞いて、成は萌子を 諦めて、萌子の為に自分と付き合おうとする。百合はそう思っていたのだ。だが、それが間違いだったことに、このとき百合は初めて気づいた。
成は、振りかえりはしなかったが、横顔だけ百合に向けると、本当に済まなそうに言った。
「…ごめん」
返事の意味を、百合は考えたくなかった。けれど、もうわかっていた。成の答えは、七夕祭のことだけ言ってるんじゃない。萌子に言われて考えた、その答え。
百合の返事がないことを、話が終わったと感じた成が、歩き出そうとしたところで、百合がまた口を開いた。声高ではないが、断定的に、はっきりと。
「でも、早坂君。萌子は駄目だよ。いくら、萌子のこと好きでも、萌子は絶対に早坂君のこと振り向かない」
突然そんな風に言われ、思わず振りかえった成に、百合は笑いかけていた。
「だって、あたしたち。友達だもの」
篤志は牛乳を飲み干すと、口を拭ってから言った。
「だけど、萌子が成のことふるなんてさ」
「萌子に聞いたけど、成くんは告白したわけじゃなかったみたいだよ」
理香はそう反論する。今は昼休み。成の様子を見に来た理香とケンだったが、教室には成の姿はなく、篤志がどこかに出ていったのだと答えた。
ケンは篤志の弁当からウインナを盗むと、それを食べながら理香に聞く。
「じゃあなんであいつはあんなに落ちこんでるんだ？」
困ったのは理香だった。
「さぁ。何話してたかは、萌子教えてくれなかったから。だけど、あの後の萌子も何だか暗かったし、楽しい話じゃなかったんじゃない？」
七夕まで四日だった。周りは七夕の為にだけかと思われる俄かカップルが大勢できあがっていた。
「俺はてっきり、椎名と北内の方が駄目だと思ってたけどなぁ」
そうケンは呟きながら、篤志のジュースを飲む。と、横から篤志が小突いてきた。
「お前のせいだよ、ケン」
「なんだよ、アッチ」
少しむせそうになったケンは、機嫌悪く言い返す。しかし篤志はも、ケンの手からジュースを取り上げると、眉を吊り上げて言った。
「お前が何かっつぅと邪魔したからだよ」
「うるせーな。俺が邪魔しようと、しまいと、くっつくもんはくっつくのっ」
「ちょっと二人とも落ちついてよ」
慌てて理香が間に入る。
「一応、萌子との七夕祭の約束はしてるし、そこに成君も参加するわけだから、昨日二人の間に何かあったとしても、そこで一発逆転ってこともあるかもしれないよ。多分」
いまいち押しが弱いのは、集まるのは他に何人もいるからだ。
「知朗もいるけどな」
ケンがそう意地悪く言った。
初めは、理香が萌子を誘った。萌子はあまり乗り気ではなかったが、理香は篤志も来るし、美都と和美も行くからを言った。そこに知朗がやってきて、更に萌子に誘いをかけた。一緒に行こうぜ、萌子と。
そして、萌子は行くことになった。言うなれば、知朗が萌子を誘ったことになる。
ふぅと理香が溜息をついていると、篤志がケンに言い返している。
「ケンがこれ以上、邪魔しなかったら、うまくいくよ」
なぬ？とケンが立ちあがる。理香は話題を変えることにした。
「そういえば、亮子ちゃんは来ないの？」
すると立ちあがっていたケンは、ふんっと横を向いて座ってから怒り気味に答えた。
「人の彼女を勝手に友達風に呼ぶなよ。だいたい来れるわけないだろ？祭は夜がメインで、それに出てたら家に帰れなくなる」
「だったら、あたしの家に泊めてあげてもいいよ。ちょっとお店手伝ってもらうことになるけど」
それは理香のちょっとした親切心だった。しかし、ケンは椅子から立ちあがると理香を怒鳴りつけた。
「断るっ」
そしてさっさと教室を出ていった。
今度は、怒り出した理香を、篤志が慰める番だった。
「駄目だった。断られちゃった」
つくり笑うの百合の前で、昇降口で待っていた萌子はそうと沈んだ声を出す。
白々しい。
ふいに百合の心にそんな言葉が浮かんだ。こうなることすら、萌子は知ってたんじゃないかという気もしてきた。百合は歪みそうになる口元を隠して、続ける。
「練習忙しいんだって」
嘘をついた。本当はそういって成は断ったんじゃない。成の本当の気持ちを、聞くわけにはいかない。
萌子は黙ったままだった。百合は、宣言するように言った。
「でも、あたし諦めない。嫌いだって言われたわけじゃないし、他に好きな子いるってわけでもないから。もちろん萌子。応援してくれるよね」
そのときの百合の視線の鋭さに、萌子は一瞬驚いたが、それでも頷いた。
「もちろん。友達、だもの」
七夕の夜は、見事に晴れていた。梅雨の為に三日間ある祭の、前二日間は、小雨と曇りであまり盛りあがらなかったのだが、この最終日になって、ようやく星が見えた。
「わっごめんなさいっ、すみませんっ」
美都は人込みを謝りながら進んでいた。慣れない浴衣姿は歩きづらく、人の量も半端ない。転びそうになったところで、ふいに誰かの手が美都を掴まえた。
「ったく、何トロトロしてんだよ」
「ごめんなさいっ」
美都は機嫌の悪そうな和美に謝る。仕方ねぇなと言いながら、和美は掴んだ美都の手を、自分のズボンのベルト通しに持ってくる。
「さっさと行くぞっ。ほらっ」
そのまま手をつなごうとしないところが、和美らしいと思いながら、美都はされるがままベルト通しを掴む。
「ありがと…」
皆との集合場所は、もう少し先だった。場所がわからない美都に、和美がその前にわかりやすい場所で待ち合わようと言ったのだ。
もちろん二人だけで行きたかった七夕祭だが、それでも皆がいてよかったと美都は思っていた。まだ、和美が自分の隣にいることが信じられなかったし、ずっと近くにいると、ドキドキして仕方ないのだ。
「おーい、美都ぉ」
前のほうから理香の声が聞こえてきて、美都は自然と和美のズボンから手を離した。和美は人前で二人で仲良くしていることを嫌うのだ。人込みの中から、理香の姿が見えたと思うと、ずぐに他の部員たちの姿が見えた。篤志にケン、知朗、興仁、厳己、そして湊に成。
「あれ？萌子は？」
かわいいと言いながら、浴衣の触れる理香に美都が尋ねると、理香はうーんと首を傾げた。
「まだなんだよね、それが」
練習は午前中で終わっている。その後、それぞれ家に帰ってからの、再集合だった。理香は辺りを見まわした。
誰もいないリビングに、飲み物を取りに来た右京は、ばったりと環と鉢合わせた。
「あんた、何でいるの？」
環は不思議そうな顔で右京に聞いた。
「篤志たちは部員皆で、七夕祭に行くって言ってたわよ」
寮生ばかりの集まりに、当然右京も入っていると思っていた環が、そう付け加える。実際、篤志は右京を誘っていた。しかし、人込みが嫌いだからと右京が断ったのだ。
「俺には関係ない」
右京は冷たくそう言うと、目的の物だけ取って、自分の部屋に上がろうとした。環はちょっと考えてから、階段を昇ろうとする右京に声をかける。
「ね、藤原。あんた暇？暇よね」
脅迫めいた言い方に、右京は思わず足を止める。環はそれを、イエスと受け止めた。
「だったらちょっと、つきあってよ。環さんに」
サッカー部の１年集団は、待ち合わせの場所から大通りを通る山車の見える場所へと移動し始めていた。遅れてやってきた萌子は、最後尾で理香を捕まえると、皆には聞こえないように言う。
「聞いてないわよ、わたし。来るのは、篤志とかケンとかで。…成が来るなんて」
真剣な萌子に、理香は楽しそうに答える。
「いいじゃないの。部員みんなで仲良く楽しく。それとも、成君がいちゃいけないわけ？萌子は成君が邪魔なわけ？」
萌子は困った表情で、前を歩く成を見つめる。別に、嫌なわけではない。ただ、百合の誘いをサッカーの練習だと断った成が、ここにいることが、そしてそこ に萌子も一緒にいることが、百合に対しての裏切りのような気がしていた。けれど、成が百合の誘いを断ることは、それがどんな理由であっても、成の問題なの だ。
「…そんなこと、ないけど」
言葉を詰まらせながら萌子が言うと、理香が背中をポンポンと叩く。
「だったらいいじゃん、ねっ」
その前方では、成を囲むようにして篤志とケンが話をしていた。
「チャンスだぜ、成」
「なんだよ」
面倒そうに成が答える。篤志が後ろの連中に聞こえないように小声で言った。
「告白のチャンスだよ。この前、言えなかったんだろう？」
成は思わずムカッとして篤志の腕を振り払う。
「うるさいって言ってんだろ？」
できるなら、忘れたいことだった。すると、今度はケンが成に言った。
「お前は押しが弱いから駄目なんだよ」
「いつも邪魔してたのは誰だよ」
意地悪く成ににらまれたケンは、白々しく言う。
「今日から俺は、恋のキューピットになったんだ」
賭けの結果はもう出ていた。萌子は、成も含めた部員たちと今ここにいる。ケンは賭けの勝利者として、篤志と興仁から、それぞれブリックをもらうことになっていた。
「チャンスが来たら、二人きりにしてやっから。そんときは頑張れ」
しかし、成にはそんなことはどうでもよかった。
チャンスなんて、関係ない。
もう、結果は出てるのだから。
人通りを歩いていると、年を問わず、たいていの女性は環たちを振りかえった。環はふふんと笑いながら言う。
「いい気分。美少年連れてるって」
人々の視線は、右京に注がれているのだ。綺麗な男の子だと惚けた視線。それは次には隣にいる環に、羨望の眼差しに変わる。
あんな綺麗な男の子の恋人なんて、羨ましい。
その視線が、今の環には心地よかった。女子高生とすれ違った時には、ばばぁじゃん、なんて陰口も聞こえてきたけれど、そんなものはただの僻みだと環は流した。
そして、隣で黙り込んだままの右京の顔を見つめる。
「ねぇ、藤原って、祭嫌いなわけ？」
「…」
沈黙はまだ続く。無理やり連れ出されたことが機嫌を損ねているようだったが、環はそんなことおかまいなしで話を進める。
「あたしはね、大好き。皆でわっと楽しんでさ、周りの人全員が友達みたいで」
時間も何もかも忘れたようなこの騒ぎ方が、環はとても好きだった。右京は何も言わない。環は右京の顔を見つめるのを止め、目の前の山車を見ながら話続ける。
「実はさ、男にふられちゃってさ。結婚、しようかって言ってたのに」
付け加えれば、一緒に美容院をやろうとまで言っていたのに、それから…。もっと言いたいことはあったのに、目頭が熱くなって、環は大きく深呼吸をしながら夜空を見上げた。天の川は見えなかったが、いくつかの星を見ることはできた。
「一人で部屋にいたくないんだよね。第一、今日はお祭だし」
その白羽の矢が右京に当たったのだ。環は視線をゆっくりと右京に戻した。右京はその視線に気付いているのかいないのか、遠くの方を見ている。
「藤原、好きな女いるの？」
返事はない。
「恋、したことある？」
反応もない。
「黙ってないで答えたら？」
いらだって、詰め寄るように環が聞くと、ようやく右京は口を開いた。
「…ない」
環はその無表情な顔が気に入らなかった。
「もっと大きな声で言ってよ。周りがうるさいんだから、何言ってるか聞こえないし、ないって好きな女がいないの？それとも、恋？」
するとようやく意地になって右京が言った。
「両方とも、ない」
表情がうるさいと言っていた。
「へー。つまんないの」
環がそう言うと、意外にも右京は答えた。
「いちいち傷ついてる奴の方が、くだらない」
「それってあたしのこと言いたいわけ？」
思わず右京を睨む。しかし、右京はただ前を見ているだけだ。環は急に肩の力が抜けた。
「ま、いっか。今日は無礼講ってやつにしとく。言いたいだけ言えばいいよ。だけど、傷つくことはくだらなくないよ。人ってのはさ、傷つくたびに強くなっていくんだから」
右京の視線はまっすぐで、揺らぎさえしなかった。
「藤原は、もっといっぱい人を知ったほうがいい。知るって単に名前を覚えるってことじゃないよ。いっぱい人を知って、いっぱい恋をして、いっぱいふられること。そうすりゃ今の何倍もいい男になれるよ」
一瞬だけ、右京の視線は環へと向いた。が、目があった途端に、右京はそっと視線を戻す。恥ずかしがっているのかと思う環だが、そうではないようだ。
ま。いっか。
環はそう思うと、急に右京の腕を取った。
「よし、今日は年上の恋人役として、たくさんおごってあげようじゃないの」
一旦はその腕を振り払おうとする右京だが、思った以上に環の力は強かった。仕方なく諦めてこう言う。
「…俺にも、選ぶ権利はある」
「なんだってぇ…って、今日は無礼講って言ったのあたしか。ま。許そう」
環は嫌がる右京を、まるで引きずるようにして、屋台に向って歩きだした。
「あれ？皆は？」
全員分の食べ物と飲み物を抱えて萌子が戻ってくると、そこには成しか立っていなかった。
「花火の場所取りに行ってる。あ。持つ」
「ありがと。それにしても、すごい人ね」
気を抜くと人の波に流されてしまうほど、たくさんの人が来ていた。一緒に来ていた美都と和美でさえ、はぐれてしまっていた。しかし、本当のところをいえ ば、これは理香たちの企みであり、今こうして萌子が一人で買い出しを頼まれて、そこで成が一人だけ待っているというのも、その企みのひとつなのであった。
「全国的に有名だから」
結果は出ている。そう知っていても、こうして萌子と一緒にいたいという気持ちを抑えられない自分を、成は情けなく思った。その時、萌子が思い出したように聞いてきた。
「ねぇ、成。どうして百合断ったの？いい子なのに」
成はずきんと胸が痛んだ。そして肩を落として答える。
「…ごめん」
そういわれると、萌子も言いようがない。
「サッカーを大事にする気持ちもわかるけど。もうちょっと百合のこと、考えてみて」
え？と成は声には出さなかったが驚いた。しかし、萌子は至って普通の顔をしている。
そういう答えなら、もう返したはずだし、白井もわかってるはずだ。
だから、成に宣言したのだ。
自分の友達である萌子を好きになっても、報われないのだ、と。
…萌子は、萌子も気付いてるんだろうか。
俺の気持ちが、自分にあるということに。
いや、気づいてたら。きっとこんなこと、俺に言わないはずだ。
そうだ、萌子は俺の気持ちに気づいてすらいないんだ。
途端に、成の鼓動は早くなった。そして隣にいる萌子の横顔を見つめる。
人込みがまるで海のように波を打っているようにも、成には見えた。その中で、ただ一人、萌子は必死に波に呑まれないよう歩いている。誰の手も借りずに、ただ一人で。
どこかからは威勢のいい掛け声が聞こえていた。成は、胸が熱くなる。
「…違うんだ」
ふいに成が立ち止まったことに気づいた萌子は、足を止め、振りかえる。
「え？」
そのとき、空に大きく花火が打ちあがった。掛け声も一瞬にして止み、人の波が、ぱたりと止まる。そして、一斉に空を見上げる中で、萌子と成だけが、お互いの顔を見つめていた。
『このまま時が、止まってくれたらな』
萌子が言った言葉が、成の中で過った。今も、二人をのぞいて、時が止まったようだった。
「違うんだ、俺は−」
何度も言いたくて、言えそうで、言えなかった言葉がやっと言えるかと思ったとき、二人以外の声が聞こえてきた。
「おいっ、萌子っ、成っ。はじまっちまったぞっ」
途端に成の耳には、人込みの騒音と、雑音が入ってきた。現れた知朗は、二人の前まで走ってきた。
「おっせーよ、腹へってんだぞっ」
萌子が溜息をつく。
「はいはい、わかりました」
そして、萌子の手ごと荷物を取った知朗に、そのまま萌子は連れて行かれてしまう。
いつも、こうなんだ。いつも、タイミングが悪いんだ。花火は次の二発目がなかなかやってこなかった。打ち上げるタイミング、間違えたんじゃないの？と雑踏からの声が聞こえた。
「あ、福山君」
「久しぶり？元気？」
人込みを掻き分けながら歩いていると、５分と立たないうちに、朔哉は声をかけられる。それは友人だったりもすれば、顔見知り程度の相手だったり、そうで なくてもファンだという女の子に写真をねだられることもあった。心は疲れているのに、そんなことを微塵にも出さずに笑顔を向ける自分が、ふと滑稽に思え た。
結局、そうなんだ。
俺は、凪浜の福山朔哉でありつづけるしかない。
誰の前でも、だ。事実、彼女の前でもそうだったのだし、彼女も俺の演技に気付くことはなかった。そういや、この頃、妙に早坂によそよそしいようにおもうけど。
…馬鹿らしい。俺は何を心配してるんだ。
フラッシュがたかれ、一瞬目の前が白くなる。ありがとうございましたという声に、朔哉は軽く手を振って、さよならと返す。
女友達に誘われてこの七夕祭に来たのはよかったのだが、頭を空にしたくなり、朔哉は買い出しに行くからとそっと抜け出してきた。だが、また少し行けば、 誰かに声をかけられる。今度は、小さな男の子とその母親だった。サインを頼まれて書いている時に、ふいにこの子はいつまでこのサインを持ってるんだろうか と思う。その時、ドドンと頭の上で大きな音がした。祭の終焉を告げる花火だ。
「わーっ」
子供は正直に、目の前の朔哉のことなど忘れて、空に浮かび上がった色とりどりの光に見入っている。花火は綺麗な円を描きながら、スッと空に消えていく。 こうして約十分間、恒例の花火が打ち上げられるのだ。そうして、花火が終わると、夢から覚めたような気分になって、辺りを見まわすと、きらびやかな山車や 露店はもうなくなっている。朔哉はこの祭の終わり方が潔いところが気に入っていた。
二発目が中々あがらずに、子供が母親にどうしたのか聞いているうちに、朔哉はサインを書き上げて渡した。そのとき、ようやく二発目が打ちあがる。朔哉は母子と別れ、一人その花火を見ていた。
そうだ。俺も、忘れてしまおう。花火が咲いて、消えていくように。
全てを忘れてしまおう。
この気持ちも。
その方が、ずっとずっと楽なのだから。
「あ。次のが多分最後だよ。いいっ？萌子？」
「う…ん」
萌子は理香に倣って、花火が打ち上げられると夜空に向って両手を合わせた。この七夕祭の終焉を告げる花火は、打ち上げ数が決まっておらず、凪高では、最 後の花火に願い事をすると叶うという迷信があった。理香はじっと拝んだままで、耳を澄ませてる。続けて上がる花火の音は聞こえてこない。
「ねっ、最後だったでしょっ」
理香は飛び跳ねて喜び、萌子に尋ねる。
「ね。萌子は何を願ったの？」
そしてその願い事は、１年間は他人に言わないということを、理香は知ってないようだった。
「理香は？」
反対に萌子が聞き返すと、理香はそっと萌子の耳元で小声で言った。
「アッチといつまでも一緒にいられますように。萌子は？」
萌子は夜空を見上げたままに、淡々と答える。
「…インターハイで優勝しますように、よ」
本当は何も願ってなどいなかった。萌子の頭は、他のことでいっぱいだった。記憶、というのは忘れた頃にやってきて、そうすると忘れたくとも忘れられない。記憶を消せる消しゴムがあったらなぁと、思ったのが本当のところだった。だけど、そう言うわけにもいかなかった。
「つまんないなぁ。七夕なんだから、もっとロマンチックな願い事すればいいのに。彼氏がほしい、とかさ。アッチは何を願ったの？」
「チームがＢに上がりますように」
その願いも、篤志がさらりと答えたことも、理香は気に入らなかった。
「何よ、それ。あたしのことは何も思わなかったの？それになによ、Ｂチームなんて。どうせならレギュラーにすればいいのに」
「アッチの小心者」
横からチャチャをいれてくるケンを無視して、篤志はまだ空を見上げている成を見た。
「成は、何を願った？」
「俺は…」
成はその夜空に、萌子の顔を思い浮かべる。
「レギュラーになれるように」
そして、インターハイで優勝するんだ。萌子の為に。
成は今思いついたその願いに、固く誓った。
「ケン、お前は？」
妙に爽やかな笑顔で成に聞かれたケンは、慌てて答える。
「俺は…」
願い事などしてなかった。ただ、考えていた。亮子とのこと。もう、１週間は声を聞いてないことを。そして、亮子からの電話もなくなってることを。
「忘れちまった」
もし花火大会に誘っていたら、亮子は来たんだろうかとケンは思った。