Maybe Blue 第一部 海の鼓動
薄夏2
表彰も終わって、グランドから一歩奥まった広いフロアでは、写真撮影やインタビューが始まっていた。インタビューを答え終わった朔哉が、控え室に戻ろうとしたところで、横から急に手が出てきた。
「どーも」
差し出してきたのは、清海大付属の武原だった。朔哉は握手をし返す。武原は負けた割には落ちこんでいない表情で言った。
「今日はおつかれさま」
「お互いにな」
朔哉がトップに上がり、すぐだった。凪浜のフォーメーションが変わったことで、清海大付属のディフェンスは少し乱れていた。
その隙をついた右京がミドルシュートを決めた。そして、その五分後にも、トップに変わった朔哉のセンタリングを、またも右京が決め、凪浜は二対０で県大会で優勝を決めた。武原は、県の得点王として表彰されていた。
「うちとしては万々歳だ。インターに出れるんだからな」
あっさりした顔で武原は答える。確かに、一般評価はそうかもしれなかった。四強のうち、ディフェンス面で清海大付属はやや一歩遅れている。
「いいのかよ」
ふいに武原がそう言って、朔哉の背中に視線を向ける。
「藤原っつったっけ？あっちの方がインタビューされてんじゃん」
今日の２得点で、右京はますます注目株になったようだ。特に、１点目のミドルシュートは、芸術的とも思えた。朔哉は右京の能面のような変わらぬ表情を見ながら言う。
「いいんだよ、俺としては。チームが勝てばさ」
朔哉自身も感じていた。右京には天賦の才能があるのだと。
そこに人が集まるのは当然だ。
側にいたチームメイトに名前を呼ばれ、武原は朔哉に言った。
「インターでも戦いたいな」
「決勝でか？」
神奈川県同士の高校がぶつかるには、そういうことになる。
武原はそれには答えずに笑って手を上げた。
「じゃな」
朔哉は、自分とライバル視されながらも、親しくする武原に手を振った。ショックを隠してはいるが、あれで結構負けず嫌いなのだ。インターでの話も、屈辱戦という意味かもしれない。ふうと溜息をついて、控え室に戻ろうとした朔哉は、ふいにタオルを渡された。
「お疲れさまです」
萌子だった。
「サンキュ。あ、手の具合。どう？」
成の顔が浮かんできて、朔哉はそれを誤魔化すように尋ねると、萌子は包帯の巻かれていない手を朔哉に見せる。
「もう全然平気です。それより−」
監督が呼んでいる、と言おうとした萌子は、自分の背後に誰かの気配を感じると同時に、聞き覚えのある声が自分の言葉を遮っていた。
「おめでとう、朔哉」
「コウさんっ」
顔を上げた朔哉がそう言う。萌子はゆっくりと振りかえった。
聞き覚えのある声。それは、テレビを通してのインタビューを受ける声だった。
菊地光一。初全国制覇の時の、そして前凪浜高校サッカー部キャプテンだ。
目の前の朔哉は、子供のような笑顔を見せる。すぐに他のニ・三年も集まってきた。
「菊地先輩じゃないですか」
「どうしたんですか？西田先輩まで」
西田も菊地と同級生の選手権出場選手である。
「応援に来たんだよ、応援に」
何人かのカメラマンがその様子を写真に納めている。萌子は一歩離れて、緊張しながらその様子を遠巻きに眺めていた。
菊地は、朔哉の肩を叩くと言った。
「これで全国だな」
それから、ふと萌子に気付いたようで、視線を向けた。突然目が合って、萌子は戸惑う。
菊地の視線に答えるように朔哉が言った。
「マネージャーの沢木です」
慌てて萌子は頭を下げる。菊地もそれに合わせるように、どうもと言った。顔を上げた途端に、また目が合って、萌子は恥ずかしそうに頭を下げる。菊地はそのことは特に気にすることふうもなく、朔哉と会話を続けている。
「へぇ、監督が女の子のマネージャー認めるなんて珍しいな。初めてじゃないのか？」
「かもしれないですね」
萌子は、自分から視線が逸れて、安心しながらも菊地を見ていた。
あの瞳だ。あの時の、瞳だ。
その視線は、ブラウン管を通して、鋭く何かを訴えていた。そしてそれは萌子に何かを見つけさせるきっかけになった。だから、萌子はここまでやってきたのだ。
髪型や雰囲気は、多少変わっていたが、それでもあの瞳は同じだった。
そして菊地は西田と共に現れた石橋に呼ばれていく。
ふいに朔哉は、萌子が放心状態にあることに気づいた。菊地に話しかけられた時からずっとだと気づいた朔哉は話しかける。
「どうした？モエチャン。感動した？」
萌子の好きな選手が菊地だということを、朔哉は忘れていなかった。萌子はゆっくりと、何度も頷くと、まだ夢心地のような表情で言った。
「だって、あの菊地さんがいるなんて…」
菊地から見つけた、何か。
萌子の中にもあった、その何か。
それは何かひとつに一生懸命になるという気持ちだった。
言葉にすれば、ひたむき、になる。
全てに無気力になりかけていた私を、引き戻した瞳だ。
朔哉は軽く溜息をつくと、こう言った。
「俺も一応出てたんだけど、選手権」
それは嫉妬でもあった。今までのところ、萌子は横田に対しても、選手権で活躍した選手、という枠組みには考えておらず、ただの先輩という風にしか見ていない。それは朔哉に対しても同じで、誰に対しても同じ『先輩』扱いだった。
それでも萌子の視線は、まだ菊地を追っている。
「はい、でも…。そのまま、だったから」
「そのままって？」
朔哉の表情が強張る。萌子はただ菊池だけを見つめて言った。
「イメージ通りの人だったから…」
一生懸命で、だけど押しつけがましくなくて、真面目で、力強くて…。
萌子は心の中で、次々と菊地のイメージを連ねていく。萌子の耳に、朔哉の呟きは届いていなかった。
だが、その言葉を聞いて、朔哉はショックを受けていた。
テレビと同じイメージだったわけか、俺は。
運だけでのし上がった、ラッキーボーイだったわけか、俺は。
朔哉は自嘲的に笑いたくなった。
結局、誰もがそうなんだ。
みんながそうなんだ。
わかってた、はずなのに…。
まだ萌子は菊地を追いかけている。朔哉は、今日の優勝も、何もかもどうでもよくなっていた。
「モエチャン、コウさんはやめときなよ」
え？と萌子が戸惑った顔つきで朔哉を見つめる。ただ真っ直ぐに見つめる瞳。朔哉は急に滅茶苦茶にしたい気分になった。そしてその瞳を見つめながら、朔哉は口許に微笑をつくりながら、瞬きもせずに萌子の目をじっと見つめる。
そう、福山朔哉になるんだ。
「やめて、俺にしたら？」
途端に萌子の表情が固まった。視線は軽蔑に変わっていく。最後にはきっぱりと萌子は言った。
「冗談やめて下さい。大槻先輩みたいなこと言うの」
この傷は、自分が作ったものだ。
だから、痛くなんかない。傷つけようとしてつくった傷なんだから。
だから朔哉は微笑もうとした。福山朔哉として、微笑まなきゃいけないと思った。しかし、できなかった。その表情に萌子が気づく前に、横から気だるい声がした。
「俺が何だって？」
司はそう言って、朔哉の肩に手を回した。朔哉は今の会話を聞かれていたかもしれないと思わず顔を赤らめて、顔を背ける。司はニヤニヤと萌子だけに言う。
「お前ってば、コウさんのこと好きだったんだ」
「違いますっ、ただファンなだけですっ」
にらみ合う二人を尻目に、朔哉は傷ついた自分の胸にそっと触れた。
痛みはほとんどない気がする。それは、もしかしたら予防線を張っていたからかもしれない。
…いや、違う。本気じゃないからだ。
そんな朔哉を無視して、二人は話を続けている。
「先輩である俺が、忠告してやろう」
自慢げにいった司に、萌子は冷たく言い放つ。
「大槻さんのアドバイスなんか受けませんよ。だいたい、和美のことだって、好きな相手って美都だったのに、素直に言ってくれないんだから」
「なんだ。もうばれたのか」
「ばれたのか、じゃないですっ」
そこで俊平が呆れ顔で現れて言った。
「その前に司。忠告も何もないだろう。さっき美智さん見かけたぜ。まだうまくいってるってことだろ？」
「何だよ、俊平。もう種明かしかよ」
知らない名前が出てきて、萌子はその答えを朔哉に求めた。だが、朔哉は顔を逸らしたままで、萌子を無視していた。すると俊平が代わりに答える。
「コウさんには、原田美智子さんっつーれっきとした彼女がいるんだ。だから沢木、素直に諦めろ」
「そうそう、諦めて他の男に目を向けるこったな。ヤナギさんなんてどうだ？」
するとどこからともなく、柳田の低い声が聞こえてきた。
「大槻っ、いい加減にしろっ」
司は慌てて逃げ出した。しばらくは、司と柳田のおいかけっこになりそうだ。
あっと、萌子は声をあげて朔哉を見た。
「だから、さっきあんな冗談…」
何も知らない俊平が、説明を求めるように朔哉の顔をのぞき込み、慌てて朔哉が答えた。
「まあ、そういうこと」
これでよかったんだと、朔哉は思いながら、微笑んで見せた。俊平は、その『冗談』を聞きたかったが、朔哉が顔を逸らしたままなので、追求するのは止めて、萌子に尋ねた。
「ショックか？沢木」
しかし萌子は首を振る。
「ファンなだけだし、当然です。でも…原田さんか。どんな人なんですか？」
話をふられたのは朔哉だった。意識を取り戻されて、朔哉は戸惑った。しかも、原田美智子について、だ。
朔哉が口を開く前に、俊平が割って入った。
「美人で気さくで、優しくて、女らしく落ちついた人だよ」
なるほど、と頷いた萌子に、笠間が仕事があるからと声をかける。消え行く萌子の背中を見つめながら、俊平はまだ戸惑っている朔哉の肩を叩いて言った。
「今日はコウさんがおごるってさ、朔哉。山ほど食ってやろうぜ」
朔哉はああと答え、萌子のことを飛び越えて、意識が現在になかったことに気づいた。
そうあれは、昔のこと。
「おつかれさま」
スパイクを脱いで、一人遅れて着替えをしようとしたところで、突然声がして右京は顔を上げた。控え室の入り口には萌子が手に氷を入れたパックを持っていた。
「一応、念のためで持ってきたの」
そしてベンチに座る右京の前にやってくると、怪我をしていた左足首に巻いた。
「ちょっとは、楽になったらいいなと思って」
右京は黙って萌子を見ていたが、ふいに横を向いて答えた。
「別にいい」
一人着替えが遅れていて、早く着替えなければならないこともあった。
試合後、インタビューを受けた疲れもあった。
とにかく右京は、一人になりたかった。
だが、萌子は困ったように右京を見つめた。
「よくないでしょう？これから、インターハイに向けて、練習もっと頑張らなきゃいけなくなるんだから」
試合には勝った。
だが、課題は山積みだった。
そのひとつは、右京自身にある。
「右京」
返事をしない右京に、諦めたのか萌子は立ちあがった。
そのその表情は、試合中に柳田に怒鳴られたことも、忘れてしまっているかのように無表情だ。
「もっと、チームメイトとコミュニケーション、取ろう？」
萌子はそう言って、右京の肩にそっと触れたが、それでも右京は萌子の顔を見ようともしなかった。
ふーん。マネージャーか。
そう思いながら、大内はシャッターを押した。
夕陽の差す控え室で、選手とマネージャーが二人きり。
しかも、なかなかいい雰囲気だ。
萌子には見えなかった右京の表情に、大内にはその微妙な変化を感じ取れていた。
女の一人くらい、いてもおかしくはない。
大内は、先ほど右京にひどく無視されたことを思い出した。
大手のインタビューを取り終えて、控え室に戻る右京を掴まえようと、名刺を差し出したものの、右京は軽く大内をちらりと見とめただけで、さっさと控え室に戻ってしまっていた。諦めきれない大内が追いかけてきたところで、今の場面に出くわしたのだ。
まあ、手はいくつもあった方がいいだろう。
大内はそう思って、カメラを鞄にしまうと、控え室を後にした。
誰だ？今の人。
くたびれた感じの背中を見つめながら、成は控え室の前に立つ。先ほど笠間とすれ違ったときに、萌子が控え室にいることはもう知っていた。
薄く開いていたドアを、思いきり開けたところで、成は思わず声をあげた。
「あ」
中にいた萌子と右京が同時に振り向く。
一瞬だったが、萌子の手が右京の肩に触れていたように思った成は、戸惑いながら萌子を廊下に呼び出した。
「話って？」
二人の声が重なって、慌てて成は言った。
「ごめん」
「ううん。こっちこそ。いいよ、成から」
菊地たちがやってきたことと、優勝したことで、石橋はまだ会場から出れずにいた。応援席の部員たちと、バスに乗らずに帰る選手たちは、そのまま解散と言うことになっていた。だから、成は控え室に萌子を探しにやってきたのだった。控え室脇の廊下には、今は誰もいない。
「いや。萌子から」
成は緊張していた。だから、萌子から話をしてほしかった。
萌子は、一呼吸つくと、思いきって話を切り出した。
「百合…。白井百合って、覚えてるでしょ？」
シライユリ、と頭の中で変換した成は、上履きに書かれた文字を思い出す。
「…萌子の、友達？」
「うん。…かわいいよね」
「…ああ」
やや間があって成は答える。萌子は自分の心がギュッと掴まれたような気持ちになった。それが何なのかはわからなかったし、わかってはいけない気がしていた。
明るい声で、萌子はその気持ちを誤魔化す。
「すごく優しい子なの」
「…そう」
成は、間を置いてだが、きちんと答えている。
そう。百合は、かわいくて、優しい子なのだ。
「どう、思う？」
「どうっ、って？」
答えを求められて、成は戸惑っていた。
何故、突然白井百合という萌子の友達の話になって、彼女がかわいいとか、優しい子だとか、萌子が自分に言うのかも、わからなかった。
それで、どうって？どういうこと？
萌子は仕方なく答える。
「つまり…。女の子としてどう思う？」
「どうって…、聞かれても…」
萌子が何を言いたいのか、それでも成はわからなかった。そんな成に気づいたのか、萌子は少し小声になって、早口で言った。
「百合は、成のことが男の人として気になるのよ」
萌子のセリフを、頭の中で反芻して、成はえ？と小さく声を上げて、慌てて萌子の顔を見つめた。視線を逸らしたのは萌子だった。
「やっぱり、気づいてなかったんだ」
「あ…ごめん」
顔を俯かせた萌子に、思わず成はそう答える。けれど、まだ頭の中が整理しきれていなかった。
彼女が、つまりは俺のこと好きだってこと？
どうして萌子はそんなことを言うんだ？
萌子は重くなった雰囲気を、明るくするように笑いながら話す。
「友達だから、これでもいろいろ強力してたつもりなんだけど」
ふいに、成の中で、化学室に現れた萌子と百合を思い出した。あの時、萌子は百合を成に紹介したのだ。
「…あ」
それじゃ、今までのことは？
俺に彼女いるとか、そういうのって、萌子の気持ちじゃなくて、その白井って子の為に？
「だからね、これからそういう目で見てあげてほしいの」
成は萌子の気持ちがわからずに、ぐるぐると思いを廻らせていた。それを確かめたくて成は顔を上げる。その視線が、萌子には今言った言葉の意味を問われているように感じられた。
「つまり、一人の女の子として、好きになれそうか、どうか」
その答えはとうに出ている。百合に出会う前から。この話を聞く前から。
だけど、同じように、萌子の答えも、もう出てるんだ。
「…萌子は、どう思う？」
これが最後だと、成が質問をした。萌子は聞かれて困ってしまった。だが、困ることはないのだと、すぐに思いなおして、心持ち声を大きくして言う。そうすれば、自分自身も納得できる気がした。
「さっきも言ったけど、本当に可愛いし、優しいし、いい子なの。友達だし。前に成はつき合ってる人いないって言ってたから、だから私としては、二人にうまくいってほしい」
それが、萌子の答えだ。
成は、目の前にある夕陽の眩しさに顔を俯かせた。
「そ…」
そして今まで、萌子がもしかしたら自分のことを好きなんじゃないかと思ったことを、笑い飛ばしたくなった。
「…考えて、みるよ」
けれど笑ったら、自分がとても惨めになる気がした。
解散の連絡を受けた成が、そそくさと控え室に向ったことを篤志から聞きつけたケンは、多分告白してくるのだろうと思って、成を待っていた。昨日だって、ケンが邪魔をしなければ、きっと言っていただろう。そのくらい、成は真剣だったし、それはケンもわかっていた。
その成が、戻ってくるのが見えて、ケンは大声で言った。
「おーい、どうだった？成君」
しかし成は、俯いたままで、ケンとその隣の篤志を無視して走りぬけようとした。
「成？」
そして側にある、置きっぱなしの自分の荷物を掴む。ケンがからかうように言った。
「うまく言えたか？」
「うるせーよっっ」
噛みつくように成は答えると、そのまま会場を出ていった。驚いたのは、ケンと篤志だ。
成は穏やかな性格をしていて、人にそんな風に意味もなく怒鳴りつける性格ではなかったはずなのだ。
ふうと溜息をついて、ケンが言った。
「なんだよ、あいつ。…つうことは、ふられたってわけ？」
「お前が横から邪魔ばっかしてたからだろ」
篤志がそう横から小突いた。けれど、篤志にもそれが信じられなかった。
理香の言っていたことをのぞいても、二人は仲良く思えたし、お互い意識してるようにも思えた。萌子と話があるから、先に帰ってくれて言いと言われた時は、何も聞かずに頑張れよ、と言ったのに。
全部が全部、うまく行くわけじゃないってことかな。
「俺の勝利だな」
ケンがそう言ったけれど、言葉のわりに表情はちっとも楽しそうではなかった。