Maybe Blue 第一部 海の鼓動
薄夏1
インターハイ出場が決まったからと言っても、決勝のキックオフを３０分後に控え、部員たちは緊張していた。監督の石橋から、今日の試合の作戦の確認があってから、開始まではそれぞれの自由時間となっていたが、その中で萌子は慌しく仕事をしなければならなかった。
選手たちの飲み物のチェック、テーピング、ストップウォッチの再確認。駆けまわっていると、控え室の前ですれ違った成に声をかけられた。
「あのっ、萌子」
萌子は足を止める。お互いに名前で呼び合うことに、特別な意識は二人の間にはもうなかった。むしろ呼んでいなかった時のほうが不自然と思えるくらいだった。
今日の試合、成は応援席での観戦が決められていた。この前のことから、成には向いていないと笠間が判断したからだ。替わりに興仁が入っていた。だから、成にはこのまま別れれば、今日は萌子とゆっくり会えないかもしれないのだ。
「…話、あるんだ。試合終わったら、ちょっといいかな」
「うん。ちょうどよかった。わたしもちょっと話あったの」
そう萌子が答えると、成はああと頷いた。すぐに萌子を呼ぶ笠間の声がする。
「それじゃ、後で」
二人はそう言って、別れた。
もう逃げられないな、と萌子は思った。
やっと、おいでなすったか。
大内はそう思って、ようやく本腰を入れて試合を見る気になった。会場は、グランドに現れた右京に、歓声を上げていた。
今日の試合、右京はスタメンから外れていた。怪我の影響もあるだろうと大内は思って、しかしふと、スタメンが確実だと思っていたことに気づき、笑いたくなった。
まだ１年坊主が、スタメン確実だと思ってるなんてな。
しかも凪浜は、選手権で優勝した、いうなれば今全国で１番強いチームなのだ。
サイドラインに立っている右京を見、煙草をふかしながら大内は思った。
こいつは大した器だぜ。
黄色い声援。たかれるフラッシュの嵐。その数は、全国的にも名前を知られていて、凪浜のアイドルと言われる福山朔哉となんら変わりないようにも思える。
いや。福山以上か。福山は努力型の人間だし、第一、福山が騒がれ出したのは、選手権で優勝してからだ。藤原右京は、まだ全国デビューさえしていない。
向けられる大勢の視線を、振り払うように右京はグランドに飛び出していく。試合は凪浜が明らかに押していたが、スコア上では０対０の同点だった。右京が出ることになったのも、その流れを変えるためである。
大内は借り物の一眼レフの焦点を、グランドを走っている右京に合わせ、シャッターを押した。
さて、これからどうなるものか。
大内は新しいタバコに火をつけて、ゆっくりと煙を出しながら、グランドを見つめた。
「厳己君」
ハーフタイムになったところで、篤志の母親昌江は、部員たちのいる応援席にやってきた。そして、厳己を騒がしくないところに連れてきて言った。
「今朝、出掛けに家の方から電話があって、ご両親は来れないそうよ」
両親という言い方をしても、実際は母親であることを、厳己はわかっていた。そして、昌江に頭を下げる。
「わかりました。わざわざすみません」
頭を上げたところで、昌江は厳己の肩に軽く手を乗せた。
「大丈夫よ。いつか、すべて分かり合える日が来るわ。あなたのご両親なんですもの」
厳己は笑顔を昌江に向ける。そして、父兄席へと戻る昌江の後姿を見送りながら、厳己は深く溜息をついた。
グランドから戻ってきたところで、息を切らせながら朔哉は横田に言った。
「すみません、点取れなくて」
凪浜が清海大付属に対して点を許していないのは、横田によるところが多い。横田が武原を完璧に抑えられてるからこそ、点を取られずに済んでいるのだ。反 対に、凪浜が清海大付属に対して点を取れずにいるのは、攻撃サイドの詰めの甘さにある。そしてその原因を、朔哉はゲームを創る役目の自分にあると思ってい た。
「何を言ってんだ、朔哉」
横田はそう言って、軽く朔哉の肩を叩く。
「焦るなよ。これから後半もあるんだぞ」
横田はそう言ってはいるものの、今は笠間にテーピングを巻かれているような状態だ。試合中、足を痛めたのだ。となれば、武原の得点チャンスは増えることになる。清海大付属のチャンスだ。
朔哉は落ちつこうと、ベンチに座って、ゆっくりと目を閉じた。焦っているのは、決勝だからでもあり、相手が勝てるチームだからでもあり、それが武原のいるチームだからでもある。
それからもうひとつ。朔哉は気づいてしまったのだ。萌子と成が名前で呼び合っていることに。
決まり、だな。
その思いが、朔哉の意識をいっそうサッカーへと向かせようと思う反面、集中力を欠けさせていた。
「相手も研究し尽くしてるってとこだな」
小山がそう言った。選手それぞれが、飲み物を口にしたり、テーピングをし直したりしているところに、石橋がやってきて口を開いた。
「作戦を変える」
緊張感が走った。監督はホワイトボードに描かれたフォーメーションの形を、説明しながら変えていく。
「後半十五分までは、今のままでいい。それでも点が動かなかった場合、朔哉。お前、前に行け」
１０と書かれたマグネットは、１４の司と、９の太田と同じラインに置かれる。朔哉は呼吸を落ちつかせた。
「トップに上がるって、ことですか？」
それこそ、選手権以来のトップだった。新チームになってから、朔哉はミッドフィルダーとしてゲームを創る側になっていたのだ。石橋は頷いた。
「ゲームの組み立ては藤原に任せる。藤原、足の具合はどうだ？」
右京は無言で頷く。よしっ、というように石橋は、ボードのマグネットを動かしていく。
「朔哉が上がる場合、守備が若干手薄になる。サポートを忘れるな」
「はいっ」
部員全員が元気よく答えた。答えながらも朔哉は選手権のことを思い出していた。
ラッキーボーイと呼ばれた自分。
あの時と同じことを、監督は俺に期待しているのかもしれない。
福山、朔哉に。
頬を軽く叩き、朔哉は立ちあがる。
…モエチャンのことは、俺には関係ない。
朔哉は一人、気合を入れなおした。
「あ」
大声を上げると、知朗は身を乗り出すようにしてグランドに見入った。隣にいた篤志が尋ねる。
「どうした？知朗」
「フクチャンが上がった」
呟くように言った知朗に倣って、グランドを見ると確かに朔哉のポジションが上がっていた。後半の１５分を過ぎようとしている時だった。
「本当だ」
「上がったって？」
立ちあがった理香に、美都は尋ねるが、それには湊が答えた。
「ポジションが上がったんだよ。フォワードに」
いつものように集まった１年生たちの中に、和美はいない。ハーフタイム、美都がいるからと無理やりに連れて来ると言った理香に、美都が断ったのだ。お互い に、まだ慣れてないし、和美は恥ずかしがるからいいというのが、その理由だった。しかし、実際には、理香は和美を引っ張ってこようとした。そこでこう言わ れたのだ。
「このおせっかい女」
カチンと来た理香が、和美の悪口を本人の目の前で並べ立てようとしたのだが、篤志が止めに入って、そのまま理香は自分の席に連れてこられた。それから理 香は、和美と口を利こうとしない。美都はその話を聞いた後、理香に謝ったが、多分和美の喧嘩口調は、誰に対しても直らないと思っていた。それが、本当は恥 ずかしいからなのだということも、ようやく美都にはわかりかけていた。
朔哉のポジションが変わった意味を、美都は考える。
「ええっと、福山先輩は、それまではミッドフィルダーだったから、つまり−」
「点を取るってこと」
理香が答える。そして、篤志が感動したように呟く。
「選手権以来だ」
「そうだぁ。あ、美都には教えてあげる」
一人ぽかんとしている美都に、理香は得意げに言う。ごめんねと美都が謝った。おそらく部員の中で、美都は選手権に１番疎い。
「朔哉さんは１年の時はトップ、つまりフォワードだったの。清海大付属に武原さんがいるけど、あの人とよくライバル視されてたんだ」
美都は理香が指し示す先のグランドでボールを蹴っている武原を見る。武原が県下で屈指の点取り屋であるという話は、試合前に理香から聞いていた。
「だけど朔哉さんは、それまではずっとサブとレギュラーの繰り返しで、完璧なスタメンじゃなかったんだけど、選手権の３回戦目の時、フォワードの選手が怪我をして、途中で出れることになったのね。あの時の凪浜は、本当に苦戦してて−」
理香は自然と、中学３年で、篤志たちと会場で見守っていたことを思い出した。
寒い中、必死に祈ってたんだ。
神様、どうか凪が勝ちますように。
だけど、神様がなかなか意地悪なことを、理香は知っていた。
「今だから言えるけど、負けてもおかしくない試合だったよ。
でもそこで、途中出場の朔哉さんが、点を入れたの。スコアは１対０。でも、中々凪浜に流れが向いてくれなくて、そのまま相手ペースで、しかも点を入れられて、すぐに同点になっちゃったんだ」
喜んだすぐ後だった。
一瞬の隙を突かれる形で、点を取られた凪浜は、その勢いをすぐに失ってしまった。
あの時、理香は握り締めていた手を思わず離してしまったことを思い出す。雨が降り出して、周りの凪浜の応援団の士気も静まった感じすらあった。
「残り時間あと３分で、皆が諦めかけていたような時に、また朔哉さんが１点決めて、それで何とか勝って、ベスト８になったの。もちろんヒーローインタビューは朔哉さんで、すぐに騒がれ出したんだ」
インタビューでの物怖じしない態度、きちんとした受け答え。冗談も言える。加えて甘いマスク。すぐに朔哉は騒がれ出す。理香はちょっと悔しい思いをしたものだ。
朔哉さんがかっこいいことくらい、あたしの方がずっと早くに気づいているのに。
「そこで終わっちゃったら、たしかにそれだけだったかもしれないんだけど、次の国立を賭けた試合でも、初スタメンになって、１アシストの大活躍。準決勝でも１得点したし、決勝の３点のうち１点は朔哉さんが決めたし、一点は朔哉さんがチャンスを作ったんだよ」
そして凪浜は全国初制覇を果たすのだ。美都にも、その朔哉の活躍が、ようやくわかってきたようだ。
「すごい…ことだね」
その後、朔哉は優秀選手に選ばれて、唯一の１年生として海外遠征にも参加した。残念ながら試合に出ることはなかったが、福山朔哉という選手は大きく全国に名を馳せていた。
「だから、あんなに騒がれてるんだよ、朔哉さん。ただかっこいいってだけじゃないの」
「でもって、新チームになって、ミッドフィルダーに変わったんだ」
理香に続いて篤志がそう言った。得点能力よりも、チャンスを創る能力の方が勝っていると石橋が判断したからだ。しかし、その朔哉をトップに持ってくるということは、その得点能力に賭けていると言っていいだろう。
「負けねぇっ」
突然知朗が叫ぶ。耳元で怒鳴られたケンが、耳を抑えて聞き返す。
「何がだよっ、知朗」
「あそこは俺の場所なんだっ」
知朗ははっきり言った。怪我をしてなかったら、朔哉のポジションには確かに知朗がいたかもしれないのだ。
篤志はふうと溜息をついて、知朗の肩を叩く。
「だったら、落ちついて試合見ろよ。早く怪我治さなきゃなんないだろ？」
しばらく拳を握り締めて、睨むようにグランドを見ていた知朗だったが、そう篤志に言われた素直にベンチに座った。