Maybe Blue 第一部 海の鼓動
向夏9
インターハイ神奈川県予選決勝が、あと三日後に近づいていた。準決勝の経験から、自然と練習時間は延びていた。その日は、ケンの持っているサッカーのビ デオテープの話をしていたところ、一馬が珍しく話に乗ってきた。バイトもないということで、萌子と理香も加え、いつものメンバーが帰り際に寮に集まること になった。月曜日の一件以来、一年生のチームワークはよくなったように萌子は感じていた。そして、その流れは、サッカー部全体にも広がっているように思え た。
リビングでビデオを見ようとケンがテープを用意していると、自分の部屋に戻っていた篤志が神妙な顔つきで言った。
「厳己。母さんが呼んでるんだけど」
その声が真剣なことに、厳己は一瞬で不安を覚える。
「お前、何かやらかしたの？」
立ちあがり、篤志の母親、昌江のいる隣の日比野家に向おうとした厳己に、何気なく篤志が聞くが、厳己は何も答えずに寮を出ていった。
「厳己、どうかしたの？」
「ああ、ちょっと」
篤志の表情も強張っていることに気づいたケンが、ビデオを再生するのを止めて篤志に聞く。
「まずいのか？まさか、実家に強制連行？」
「強制…連行？」
萌子と一馬はその言葉に驚く。繰り返し呟いた萌子に、篤志はいくらか小声になっていった。
「そっか。萌子は知らないんだよな。…な、ビデオちょっと待ってさ、俺の部屋に行かないか？」
日比野家のリビングにやってきた厳己は、まずソファーに座っている篤志の姉、環と目が合った。
「ごめんね、厳己。実はさ−」
しかし、隣に座る昌江がぴしゃりという。
「あんたは黙ってなさい、環」
厳己は大人しく席についた。呼び出されたのはわかっている。バイトのことがばれたのだ。
「まったく、環もグルになってアルバイトさせるってどういうことなの？だいたい環はね、もっとお姉さんらしく、寮生たちの模範となるような態度を示さなきゃいけないのよ、わかる？」
心なしか、昌江がいつもよりヒステリックになっている気がする。ガミガミ言い出した自分の母親に顔をしかめている環を見ながら、厳己は申し訳なさそうに言った。
「あの…。よく、わからないんですけど、とりあえず環さんは関係ないです。始めたのは、僕の勝手な判断で、この前偶然環さんにばれてしまって、黙ってほしいと頼み込んだだけなんです」
そう聞いた昌江は、環に向けていた体を厳己に向き直して、声をいくらか落ちつかせた。
「だけど、どうして急にバイトなんかしたいと思ったの？厳己君には、サッカーと勉強があるでしょう。その両立だけで大変なのに、バイトなんて…。まさか、誰かに脅されてるとか、そういうことかしら？」
「いえ。違います。あの…」
言うのが恥ずかしくなって、俯いた厳己を、環がしっかりと見据えていった。
「はっきり、言いなよ」
その言葉に、厳己は勇気を奮い立たせる。
「僕、自立したいんです」
厳己の答えは昌江も想像してなかったらしい。
「自立？どういうこと？」
「凪浜に入ったのは、僕の勝手なわがままだから、出きる限り自分の力でやりたいんです。できれば、寮を出て、一人で生活したいと思ってます」
はっきりと言った厳己に、昌江は戸惑いを隠せない。
「何でそんなこと…」
「渡部一馬ってのが、サッカー部にいて、その子は親と離れて一人で立派にやってるんだって。篤志から聞いたよ」
環が助け舟を出した。それでいくらか厳己は話しやすくなった。
「渡部を見てたら、なんだか自分がすごく子供に思えて…。父に認めてもらえるようになるには、きっと自分の力だけで何でもできなきゃいけないと思って」
「子供でいいのよ、あなたは。厳己君はまだ１５歳でしょう？」
「けど、渡部は−」
「渡部君は渡部君よ。彼は両親の承諾を得てるの？」
昌江の表情は真剣だ。厳己は力なく頷く。
「…はい」
「だったら、いいのよ。しかも立派にこなしてるのなら、問題はないわ。けれどね、あなたは、両親にも、誰にも内緒でそんなバイトをして…。どれだけ心配をかけているのかわかってるの？」
昌江の口調がまたもきつくなる。
「すみません」
素直に謝る厳己だが、更に昌江の声はエスカレートしていく。
「すみませんじゃありませんっ。お金が必要なんて、何事かと思うでしょう。聞けば、学校でも居眠りをしてるって話じゃないの」
「母さん、そんなに怒らなくても」
環が宥めるように言ったが、昌江は環を一瞥しただけですぐに厳己に向き直った。
「あなたは黙ってなさい。
いい？私はね、あなたのご両親からあなたのことを頼まれているの。いわば、あなたの親代わりだわ。あなただけじゃない、他の寮生の親代わりなの。悩み事が あったら話してほしいと思うし、楽しいことは一緒に喜びたいの。それを私自身も望んでるし、あなた方のご両親もそう願ってるわ。
人は真っ当に生きてれば、辛いことがあるし、悔しいこともあるわ。もちろん、幸せなことだってある。そうしてだんだんと大人になっていくの。焦って大人になる前に、あなたたちにはもっとやっておかなきゃならないことがいっぱいあるのよ」
ちらりと見た昌江の目は潤んでいた。厳己はそれだけ心配をかけたことをすまないと思う反面、少し驚いていた。環が昌江の肩を支えるように包み込んで言う。まるで母娘の立場が逆になったように。
「落ちついてよ、母さん。厳己、あんた頭いいからわかるでしょ？これはあんたの為でもあるのよ。このことをあんたの両親が知ったら、どうなるのか。それこそ、あんたが一番避けたい結果が待ってるんじゃないの？」
確かに環のいう通りだった。
母さんや、父さんへの信頼を僕が失うだけじゃない。おばさんや、監督の信用だって、僕のせいでなくなるんだ。
俯く厳己に環は言う。
「仮にそこで、あんたがわがままを言う。帰りたくないとね。だけど、それこそ子供のすることだよ。約束破ったらどうなるかってことくらい、幼稚園児だって知ってる。
あたしはね、あんたが立派にこなしてるならいいかと思ってた。けど、そうじゃないなら話は別。第一、母親にはＯＫもらったって嘘をついた。それに、今の 話を聞いて気持ちが変わった。父親を説得するために自立するってのは間違ってる。理解してほしいんなら、やるべきことはバイトじゃないはずだよ」
はっきり言われて厳己は気づいた。
僕は、渡部がそうやって親から認めてもらったように、同じことをすれば自分も認めてくれるんだって、思ってたんだ。
「ごめんなさい…」
その場の雰囲気は、まだ緊張しているままだ。問題はこうして厳己が謝ったことで解決されるわけではない。そんな簡単なことならば、もっと以前に終わっていたはずだ。
「あの…。僕の両親には…」
自分の独断でやったことを言わなければならないと厳己は思った。石橋も、昌江も無関係なのだと、伝えなければならない。もちろん帰って来いと言われれば、そうしなければならないかもしれない。
長い髪をかきあげて、環が答える。
「話してないよ。電話をかけた時の反応でわかったから、母さんは一旦切った。だけどあんたがこれ以上バイトを続けるっていうのなら、母さんがまた電話をかける。あたしも止めない」
「厳己は、家出してここに来たんだ」
最初の篤志の言葉は、萌子にとって衝撃的だった。いわゆるスポーツ推薦でないことは知っていたが、礼儀正しく、真面目な厳己が家出をするようには思えなかったのだ。
「２月の終わりだったかな。監督に連れてこられて、ここに来たんだ。雪が降ってたから、俺よく覚えてるんだ」
厳己は傘も鞄も持たずに、監督のコートに包まりながら、一緒の傘に入ってやってきたという。
「厳己の実家は、有名な病院で、厳己はそこの一人息子。将来は医者って、もう決まってるんだって。けど、どうしてもサッカーやりたいって、凪浜でサッカー やりたいんだって、親に内緒で凪浜を受けて合格したんだ。残りの受験校はわざと白紙で出して、凪にしかこれないように計画して。けど、そのことが両親にば れて、必死に頼み込んだんだ。けど、許してくれなくて、特に父親が絶対反対だって、どこでもいいから私立の２次を受けろって言われて、そのまま飛び出して きたって言ってた。その足で、凪高に行って、監督に頼み込んだんだ。ここでサッカーがやりたいんだって」
家出同然であることは、その身なりで石橋にはすぐにわかったという。初めはただのファンなのかとも考えて、少し一緒に練習をさせてみた。スポーツ推薦者 のための寮に入れられるかと思ってその実力も試していたのだが、そういった枠に入るには、実力も将来性もなかったという。そして、そのことは厳己が最も理 解していた。
下手に動けば誘拐罪にも問われると判断した石橋は、厳己自身にまず実家に電話をかけさせて、事情を聞いてから、凪浜に出向いてもらったと言う。
「監督は厳己の熱意に負けて、両親に頭を下げたんだ。自分の元でサッカーを教えてたいって言ってね。寮があるから食事に心配することはないし、普通の高校 としても凪浜はそこそこレベル高いから、大学受験を心配することもないって何度も何度も説得して。ようやく母親が折れて、けどなかなか父親がうんと言わな くて、何とか条件付で凪浜に入ったんだ」
この問題は揉めに揉めて、結局寮生にはきちんと話すことになった。だから篤志を含めて皆は知ってるんだと言った。篤志は、指を折りながらひとつひとつゆっくりと言った。
「ひとつは、凪浜での成績を十位以内でキープすること。それから、大学に入ったら、サッカーとはきっぱり縁を切ること。将来は病院を継ぐこと。それらの約束を破ったり、少しでも両親の期待を裏切るようなことをすれば、即刻実家に帰ること。それでようやく父親も凪浜に来ることを表面上は許したんだ」
「表面上ってことは…」
篤志の言い方が気になった萌子が繰り返すと、まるで萌子の考えがわかるかのように篤志は頷いた。
「一度だけ厳己がいってたことがあるんだ。あいつ、母親が心配するからってしょっちゅう電話かけてんだけど、父親は絶対に出ないんだって。だからもう、三ヶ月は口利いてないらしい」
初めてその話を聞いたケンは、よく電話をかけていた時の厳己の表情を思い出した。
あいつ、いつも電話を切るたびに溜息ついてたっけ。
「それで厳己ちゃん、何をしたの？」
理香の問いに、一瞬の間をおいて、篤志が答える。
「バイトだよ」
この話には、篤志も裏切られた気分だった。
「毎朝ロードワークしてるとかって言ってたのが、実は新聞配達のバイトだったんだ。今日、母さんが偶然新聞屋と話してわかったって」
「ご両親には？」
心配そうに湊が聞いた。
「もちろん内緒」
「知らせるの？」
ふうと篤志は溜息をつく。
「それを今話してるんだと思う。けど、まずいことにそこに姉ちゃんが絡んでくんだよなぁ」
「環さん？どうしてそれがまずいの？」
頭を抱える篤志に、萌子が不思議そうに聞いた。確かにそれまでは、厳己と厳己の両親と、厳己を管理する立場の石橋と篤志の母・昌江の問題である。昌江の娘である環は無関係だ。
篤志は言いにくそうに話をした。篤志自身もこの話を聞いたのが、つい昨日のことなのだ。
「まあ。厳己のバイトのこと知ってて黙ってたってのもあるんだけどさ。
母さん、花屋やってるだろ？それを姉ちゃんは美容院の合間で手伝ってたんだけど、本気で美容院をやりたいから手伝わないとか言い出してさ。母さんは、ゆくゆくは花屋を姉ちゃんに任せたいと思ってたクチだから」
「環姉が、花屋？」
嘘だろうという表情のケンに、何度も頷き返しながら篤志は言う。
「あれでも、高校は華道部だったんだ。幽霊部員だけどな。
けど姉ちゃんも、美容院の方は結構真剣に考えてて、仲間と一緒に資金もためて、店を建てる計画があるらしくてさ。でもって、その一人とゆくゆく結婚したいとか言ってて」
「結婚っ？！」
その場にいた全員が叫んだ。
「それを一度に聞かされて、母さんパニック起こしてさ。自分で内緒で全部進められてたのが一番ショックだったみたいで。多分姉ちゃんのことと、厳己のことが一緒になっちゃってるんだ」
環の話は正直言って、篤志も驚いた。それで自分の目の前に開いていた道も、微妙に変わってきた気がしていた。語り手になっていた篤志が黙り込んだことで、その場は静まり返った。そこに、成がぽつりと呟いた。
「けど、電話かけたら…。絶対連れ戻されるよな」
成たち寮生は知っていた。厳己が家出をして、両親が凪浜にやってきた時のことである。その時、父親は、会ってすぐに、厳己の頬を皆の見てる前で思い切り叩いたのだ。しかし、厳己は涙も流さずに、家には帰らないと言い張った。
ふいに一馬が口を開いた。
「俺のせいだ」
「一馬が？どうして？」
一馬は片手で頭を支えつつ、いろんなことを思い出しながら言葉をつなげる。
「あいつ、しきりに聞いてたんだ。俺に。バイトはどうだって。大変じゃないか、やってけるのか。とか。だけど俺は、やる気があればできるんだ、とか言って−」
加えて俺は何を言っていた？義父がいい人だとか、理解力があるとか、さんざん仲良くなったことを話してたし、この前は医者になるとかどうとか、聞いたりもした。あいつ、そのたびに嫌な顔もしないで、聞いてたけど。本当は…。
「一馬のせいじゃないよ」
萌子がはっきりと言った。
「厳己が決めて、厳己がやってることなんだから」
それは少し冷たい言葉にも思えた。一馬は厳己のことを思った。
真面目で、礼儀正しくて。だからこそ…。
「だからこそ、責任取ることになるんじゃいのか？」
それはつまり、家に戻るということだ。一馬は自分の言ってしまった言葉を取り消したいと思った。
もっと考えろと言ってやればよかった。それ以前に、相談してほしかった。だけど、前の俺にはそんな余裕なかったし、自分のことで精一杯だった。自分のことが片付いてからは、他に目をやることも忘れてたんだ。
しかし萌子ははっきりと言った。
「確かに、厳己のやったことは裏切りかもしれないけど、それも両親のためなんでしょう。それは本当の裏切りじゃないと思う。本当に裏切るっていうなら。サッカーを辞めてるはずよ。でも、厳己は一生懸命サッカーをしてた」
例え、それが結果に結びつかずに、スタンドで声援してるだけだったとしても。
けれど、その理論が、あの両親に通じるのだろうか。篤志は不安に思う。そして、理香が呟いた。
「どう、なるんだろう」
「あ、厳己っ」
篤志の部屋を出て、皆が寮に戻ったところで、電話の前に立っている厳己と環、昌江と鉢合わせになった。環は駆け寄ってきた篤志を軽く睨んだ。雅恵がゆっくりと、しかし強く言う。
「あなたたちは関係ないから、上に行ってなさい」
厳己の表情はどこか暗い。
「どこに電話かけるんだよ？厳己」
「篤志は余計なことに首突っ込まないの」
環はそういうと、シッシッと野良犬でも追い払うように手を振った。仕方なく、篤志たちは厳己と距離を置いて、しかし上には行かずに見守っていた。
厳己は溜息をひとつつくと、番号を押した。四度目のコールで、相手が受話器を取る。
「もしもし、母さん？うん、僕。厳己。元気だよ。母さんは？…そうよかった。父さんは？そう、父さん。いるかな？代わってほしいんだよ。…いいから、代わってよ。お願いだから」
気の乗らない母親に、厳己は少し口調を強めて言う。出るかどうかはわからないが、しばらくして、低く咳払いをする声が聞こえた。
「あ、父さん？厳己です。病院、どうですか？無理してないですか？…父さん、僕…。期待を裏切るようなことをして、悪かったと思ってるんだ。でもね、その くらいしないとわかってもらえないと思ったんだ。僕がどれだけ凪浜高校のサッカーが好きなのか。入学して、三ヶ月経つけど、やっぱり練習は厳しいよ。けど楽しいんだ。いい仲間にも会えたし、すごく幸せだと思ってる。父さんとした約束あるでしょう？条件だって言うかもしれないけど、僕は父さんとの約束 だって思うことにしてるんだ。
三年間、裏切らずに頑張るから。だから、父さん。一度試合見に来てください。下手だから、試合には出れないだろうけど、僕は応援席で精一杯応援してるから。見に来てほしいんだよ。今度の日曜、インターハイの県の決勝があるんだ。絶対、来てよ。ね」
様子を伺う萌子たちには、父親が何と答えているのかわからない。しかし、厳己はさよならといって、受話器をゆっくりと置いた。どうだったかと環が口を開く前に、厳己が悲しそうな笑顔を見せる。
「一言も、言ってくれませんでした」
ただ息遣いが、時々微かに聞こえていた。
「けど、すっきりしました。最後まで、電話切らずに聞いてくれたし」
悲しそうな笑顔が、安心した笑顔に変わる。そして、厳己は環と昌江に頭を下げた。
「ご心配かけました。新聞配達のバイトは、もう辞めます」
昌江は厳己を気遣うように、そっと肩に手を置く。
「厳巳君。わたしはね、別にあなたに厳しくしたいんじゃないのよ」
「わかってます。うちの母親を説得してくれたの、おばさんだし。今だって、一番考えてくれてるのは、おばさんだと思ってます」
その言葉に、昌江は絞り出すような小さな声で答える。
「何を言ってるの。厳己君のことを一番に心配してるのは、厳己君のご両親なのよ」
厳己は何も答えずにいた。わかっているのだと、昌江は感じていた。環が真剣な顔つきで口を開く。
「母さん。美容院のことだけど、あたしは諦めないからね。結婚相手はきちんと紹介するし、資金だってちゃんとあたしが貯めたお金なんだから、心配することない。花屋のことは悪いと思ってるよ。けど、母さんの夢とあたしの夢は違うんだ。そこをわかってほしい」
昌江は少し悲しそうな表情で、環を見つめた。
「環も、いつのまにか大人になっているのね」