Maybe Blue 第一部 海の鼓動
向夏8
「あれ？どこ行くの？早坂くぅーん」
教室をこっそり抜け、廊下に出た成は、声をかけられて思わずギクッとして振りかえった。教室にいたはずの篤志と、にやついた顔のケンが立っている。
「あ、あの、ちょっと…」
おかしい。
昼飯は急いで食べたはずなのに。どうしてこいつらの方が早いんだ？
そう思いながら、ぎこちない笑顔で、二人の脇を通りぬけようとした成の腕をケンが掴む。
「残念だけど、今日の部室の掃除当番って俺らなんだよね。今朝、あんなことがあったから、汚いままだろ？ヤギさん怒るんだよなぁ、練習前に片付けとかないと。ランニング１０周とかって平気で言われちゃうんだよねぇ」
それを知っていたからこそ、こうやって成は抜け出そうとしていたのだ。困り果てている成に、隣の教室から湊が顔を出して言ってくれた。
「いいだろ、ケン。成がいなくても、俺たち三人でやれば」
もともと篤志は乗り気ではないのか、何度も頷いて湊の案に賛成している。それを見て、ケンはふうと溜息混じりに言った。
「湊は本当に友情にあつい男だなぁ。ま、それに免じて今日の掃除、さぼってもいいぜ。た・だ・し。行き先言えたらな」
成の顔は、ほっと緩んだ途端に今度は引きつり出した。にやけた顔のケンに、篤志が呆れて言う。
「お前って、ほんと意地悪だな」
どうとでも言え、というケンに、成は仕方なく答える。
「ちょっと…。保健室にでも行こうか…と」
「保健室。何で？」
ケンのその言い方が、わざとらしいと思いながらも、成は嘘をついた。
「は、腹の調子が悪いんだ…。だから、薬もらおうかと…」
「腹ねぇ。さっきまでガツガツ弁当食ってたのにねぇ」
慌てて食べていたのは、早く萌子のいる保健室に行くためだったのに…。だいたい、隣のクラスのケンが、そんなこと知ってるなんて、やっぱり何だか見透かされてるような気がする。
成はそう思いながらも、一応お腹を抑えて痛がるフリをしていた。篤志がケンをこづき、それでケンはずっと腕組をしていたのを解いた。
「しゃーない。それじゃ、掃除に行きがてら、保健室でも寄って、成の薬をもらいつつ、ついでに萌子を見舞って、それから部室の掃除に行くツアーにしますか」
やっとほっとした成は、思わずお腹を抑えていた腕を離した。
結局四人で保健室へと向いながら、篤志がケンに向ってそっと言った。
「この頃のケンって意地悪だよな。欲求不満とか？」
ケンは思いきり篤志の頭を殴る。
「ばーかっ、俺は賭けに勝ちに行ってんだよ。このまますんなり見舞いに行って、何かあったら七夕は二人の夜かもしれねぇだろ？」
「ずりっちー」
「何とでも言え」
何も知らずに、後ろを歩いてくる成と湊を確認して、そういえばここ１週間あいつの声を聞いてないや、とケンは思った。
「ごめんね、百合。騒々しくて」
由太や知朗が帰って、ようやく百合はカーテンの中に再び入った。首を横に振りながらゆっくりと椅子に座り、百合は話しはじめる。
「授業のノートはとっておいたから安心してね」
「ありがとう」
笑顔の萌子を見ていると、百合は勇気が湧いてくる気がした。そして、ようやくさっき話し出そうとしたことを話そうと、肩に力を入れた時、またもドアが開き、今度はがやがやと何人かの生徒が入ってきた。
「失礼します」
柔らかな声が響いた後、今度はハスキーな声が、半分怒鳴るように言った。
「沢木っ」
カーテンが一気に開いて、そこには３人の男子生徒が立っている。特に、真ん中の生徒は、どう見ても怒っているようにしか思えない。しかし、百合に気づくと、顔を赤くして俯いた。
「柳田さん」
萌子は苦笑いを浮かべた。その迫力に百合が驚いていると、柳田の隣の小山も苦笑いで言った。
「ごめんね、驚かせちゃって」
「３人お揃いでどうしたんですか？」
明るく尋ねる萌子に、柳田はまたも怒鳴る。
「説教しに来たに決まっとるだろうがっっ」
その勢いに押されるように、百合は立ち上がる。笠間がそれに気づいて言う。
「あ、気にしないでいいよ。すぐに出ていくから」
「でも」
「そうよ、百合。居て、お願いだから」
萌子にも言われ、百合はカーテンの外で待つことにした。ごめんねと笠間が言って、百合は出ていく。百合が消えたのを確認した柳田は、またも声を張り上げて怒鳴りつけた。
「だいたいお前は、いつもいつも一人で突っ走りすぎてるんだっ。女なんだからもっと行動を慎めっ。一人で何でもできるわけじゃないんだっ。それから何でもかんでも首を突っ込むなっ。それにっ−」
「柳田。声が大きいって。ここ、保健室なんだから」
小山がカーテンの向こうから聞こえた保健医の咳払いを気にして言う。柳田は更に顔を赤くした。
「それに、沢木は怪我人なんだぞ。お前の怪我だって、怒ると治るもんも治らなくなる」
「関係ないっ。それに、こいつの怪我は自業自得だ。気を使う必要はないっ」
それから幾分か音量を下げて、柳田の小言は続く。ふうと笠間と小山が溜息をついた時に、もうひとつ大きな溜息が聞こえてきた。
「これはこれは、皆様お揃いで」
司は呆れた顔を、開けたカーテンからのぞかせている。萌子の寝ているベッドを中心に、男三人座ることなく、それこそ囲むように立っているのだ。
司は、萌子の隣の空いているベッドに腰を下ろした。柳田は言いたいことを言い終わったところで、肩で息をしていた。
「何だかんだとヤナギさん、沢木のことお気に入りなんじゃねぇか」
司の呟きに、本気になって柳田が言い返す。
「馬鹿野郎っ。俺は、こいつを叱りに来たんだっ、だいたいっ−」
「落ちつけって、柳田。保健室なんだから大声出すなって、何度も言わせるなよ」
小山にそう促されて、柳田は大きくため息をついた。そして、意地悪そうに司を見る。
「そういうお前は、何なんだ」
「俺はちょっと腹痛が痛くて…あ、センセイ。つーわけで、ベッド借りっから」
司はそう言いながらベッドに横になる。しかし、保健医は冷たく言い放つ。
「残念ながら、男子用は満員よ」
「じゃあこいつの横でいいや。安心してください。カーテンの中でこいつのこと襲ったりしませんから。仮に地球上の人類が滅亡して、俺とこいつだけになっても…、いや、そうなったらなったで−」
「大槻っ、仮病なら出ていけ」
またも柳田が怒鳴る。萌子と笠間たちが溜息をついていると、ふいにきつい香水の匂いがして、つんとした高い声が響いた。
「悪いけど、司。そのベッドは朔哉に譲ってもらうわ。それから、その女にも出ていってもらって、そこはわたしたちが使うから」
顔を出した朔哉の取り巻きの女生徒の後ろから、申し訳なさそうな顔の朔哉が顔をのぞかせた。さらに、その後ろから俊平がひょいと顔を出して取り巻きに言う。
「無茶言うなよ、珠里。お前たちは出てっていいから。後は俺が面倒見るからさ」
萌子を睨みながら、納得のいかないような表情の取り巻きだったが、俊平に促されて渋々保健室を出ていった。きつい匂いが消えて、ふうと全員が溜息をつき、笠間が尋ねる。
「で、朔哉は何なんだ？」
朔哉は申し訳なさそうに右手を差し出す。
「ちょっと指を…」
紙で切ったのか、中指と人差し指の間に、赤い線ができていた。怪我をしたのは本当だったが、その理由は考え事をしていたためで、その考え事とは、もちろん今朝起こった事件の被害者のことだった。
「しかし、沢木はトラブルメーカーだな、ほんっと」
俊平が司が寝ているベッドに腰掛けてそういった。
「ごめんなさい」
しゅんとして萌子が言うと、またも柳田が怒鳴りつけた。
「謝って済む問題じゃないっ」
「まあまあ落ちつけって、柳田」
小山はそう言って、柳田を座らせる。済まなそうにしている萌子の顔をじっと見ていた俊平が、ふいに言った。
「それにしても、お前のそのクマ。ひどいな」
昨日はなかったと俊平は思い出す。笠間が心配そうに言った。
「悩み事でもあるのか？」
「おっ、恋の悩みか？七夕を前に」
ちゃちゃをいれてきた司に、萌子はぷうと頬を膨らませて言い返す。
「違いますよっ。ちょっと…。興奮して眠れなかったんです。昨日はインターが決まったから」
本当はそうじゃないけど、と萌子は顔を俯かせる。司はふうんと答え、視線を柳田に向けた。
「だって。ヤナギさん。ほっとした？」
「大槻っ」
面倒になったのか、今度は小山も何も言わなかった。するとまたドアが開いて、今度は篤志が顔を出した。
「あれ？」
篤志のその声に、後ろにいたケンたちも、その背中に乗るようにして顔をのぞかせ、まるでトーテムポールのような四人に、俊平が呆れて言った。
「…何してんだ、お前ら」
「あ…いや、その、萌子を見舞いに…」
答えながら、篤志は柳田の顔が見る見る赤くなっていくことに気づいた。そして、篤志が慌てて見舞った後に掃除を、という前に、ついに柳田が怒鳴りつけた。
「今日の部室の掃除当番、お前らだろっ。早く行けっ」
「はっ、はいっ」
四人は一目散に逃げだした。ふうと溜息をついた笠間が提案するように言う。
「このままじゃ、沢木もゆっくり休めないから、俺たちも教室に戻るとするか」
「お大事にな、沢木」
一緒になって帰ろうとした俊平は、すでにベッドにもぐりこんでいる司に声をかけた。
「おい、司？」
しかし、わざとらしいイビキが聞こえるだけで、仕方ないと保健医までが言う。
「人が来るまで寝かせておくわ。それから、福山君は一応治療をしましょう」
「あの、先生。わたし教室に戻ります。もう、体痛くないし、怪我も大したことないし」
保健医は、ベッドから置きあがった萌子を見ていたが、軽く頷いて言った。
「そう。わかったわ。もし何かあったら、いつでも保健室にいらっしゃいね」
帰ろうとした萌子は、ふと百合がいないことに気づいた。
「あの、白井さんは？」
「出ていったわよ、少し前に」
「そう、ですか」
ありがとうございました、と萌子が頭を下げると保健医はフフと笑った。
「いいわね、沢木さん。愛されて」
え？という表情の萌子に、保健医は笑顔で答える。
「皆、あなたを心配して来てくれたのよ。理由はどうあれ、ね。福山君」
言われたほうの朔哉は、敢えて何も答えずにいた。
教室に萌子が戻ると、百合は席に座っていた。
「ごめんね、百合。うるさかったでしょう？」
「ううん。あたしこそ、ごめん。勝手に戻ってきて。ちょっと用事思い出しちゃったの」
「全然。御見舞いに来てくれただけでも嬉しかった」
萌子はそう答えると、笑顔を百合に向けた。しかし、そんな萌子に、百合は素直に笑顔で返すことができなかった。
笠間たちが話している間、保健室で待っていた百合は、突然やってきた司に驚いた。しばらくして朔哉もやってきた。楽しそうな会話がカーテンの向こうから 聞こえてきて、百合はその場にいてはいけない気がして、思わず保健室を出た。すると百合と入れ違いのタイミングで篤志や成たちがやってきた。いつも静かで 無機質な保健室は、とても温かい空気に満ちていた。
あたしには、入っていけない空間。
あたしと萌子は、違うんだ。
百合が萌子に話しかけた理由は、ただ同じだと感じたからだ。同じ、集団からはじかれた存在なのだと。実際にクラスでも、百合をのぞいて萌子と親しくする友達はいない。百合も同じだ。百合には萌子しかいなく、萌子にも百合しかいない。そうであったはずなのだ。
なのに…。
萌子には居場所があった。サッカー部という居場所。そしてそこには、多くの萌子を見つめる温かい視線があり、その中には百合の片思いの相手、成もいる。
そう言えば、と萌子が百合に言った。
「さっき、何か話そうとしてなかった？」
「あ…うん」
百合は言葉を濁し、唇をかむと明るい声で言った。
「何でも、ないんだ」
百合は今まで感じたことがないほどの嫉妬を、萌子に感じた。
「おい沢木」
横柄な口調で名前を呼ばれ、萌子が顔を上げる前に、誰かの足が目の前のベンチの上にドンと置かれた。擦り傷を負った膝から血がにじんでいる。顔を上げると和美だった。
「ごめん、和美。美都の方に行って−」
「いいからさっさと治療してくれよ」
萌子はスコアブックのチェックをするよう石橋にいわれていた。それは、手が不自由なので、今日の仕事は簡単にという柳田の配慮でもある。口うるさくはあ るものの、柳田は優しいのだ。とはいえ、仕事は山のようにあり、できれば和美のいるＢチーム担当の美都に治療をしてもらってほしいのが、萌子の気持ちだっ た。
「けど−」
「やれってば」
下から見上げる和美は、訳もなく怒っている。萌子は仕方なく救急箱を取り上げた。
「美都と話したくないの？」
「うるさいっ、さっさとやれよ」
足でドンとベンチを鳴らした和美は、腕組をして萌子を怒鳴りつけた。その大声に、近くにいた笠間がやってくる。
「俺がやる。沢木は無理するな。北内、沢木は手に怪我をしてるんだ。無理はさせるな」
穏やかに、でも厳しく言われた和美は、大人しく笠間の治療を受けながら呟いている。
「やっぱマネージャーは男がいいぜ。女ってのはいろいろうるせぇし、すぐ面倒を起こしやがる。関係ないこと部活に持ちこむし。何かといえば、すぐに好きだとかになるんだからな」
スコアブックを見ていた萌子は、思わず顔を上げた。
「いちゃつくんなら、他でやれっての」
「誰と、誰が？」
和美は一瞬だけ萌子と視線を合わせると、すぐに俯いた。
「あの二人に決まってるだろ？」
顎で和美が指した方を見ると、美都と湊が何やら会話をしている。
「美都と…、湊？」
萌子が呟くように尋ねると、和美ははき捨てるように言った。
「そうだっ。どうもありがとうございましたっ、笠間先輩ッ」
わざとらしくそう笠間に言い、和美は練習へと戻っていく。萌子は今和美が言っていたことを理解しようとした。
美都と湊がつきあってるって、そう言いたいわけ？それで治療してもらおうとしたけど、美都が湊と話してて、楽しそうだから、和美はわたしのところに来た？
「あの二人ってそうなのか」
意外だというように、笠間が萌子に尋ねた。
「違いますよ」
萌子がそう言うのを聞いて、笠間は救急箱を片付けながら苦笑していた。
「北内はかなり先走るからな。サッカーでも」
萌子は、和美の誤解を美都に伝えるべきなのか一瞬だけ迷ったが、すぐに美都の気持ちを惑わしてはいけないと思いなおした。仮に、和美が誤解しているからといって、今までの態度が嘘というわけではないのだ。
「沢木は、好きな奴いるのか？」
「え？」
突然聞かれた萌子が、いるともいないとも答える前に、笠間は話を続けた。
「別に、いても、いなくてもいいんだ。友近と付き合ってもいい。俺は反対はしないし、むしろ知ってる後輩同士だから、歓迎するよ。だけど、ひとつ忘れない でほしいんだ。ここでは、グランドでは沢木は皆のマネージャーなんだ。たとえ、好きな相手が練習中に怪我をしても、その怪我をさせた相手を恨んではいけな いし、他に、それよりひどい怪我人がいたら、そっちを優先させなければいけない。皆に、平等でなくてはいけないんだ」
「はい、わかります」
「別れた時もそう。ようは、個人的な感情でもって、接してはいけないってことだから。好きな相手でも、苦手な相手でも、同じように接してほしいんだ」
わかってるとは思うけど、といって笠間は萌子を見た。
「はい。それじゃ、柳田さんに毒を盛るのは止めておきます」
にこやかに言った萌子に、笠間は笑って言う。
「あいつの腹、強いから。普通の毒じゃ効かないけどな」