Maybe Blue 第一部 海の鼓動
向夏7
美容院の仲間と、カラオケで一晩明かした環が家に戻ってきたのは朝の四時半だった。大きな欠伸をし、霞む目をこすってみると、ちょうど家に新聞がやってくる時間だった。ランニングしながら日比野家に新聞を入れた配達人は、環に気づくとびくっとして、慌てて駆け出した。
「あれ？ちょっと」
その背格好に見覚えがあること、環を見つけての異常な反応、そして街灯に一瞬映し出されたまだあどけない顔つき。環は追いかけながら、朝方ということも忘れて叫ぶ。
「ちょっとそこの新聞配達少年っ。厳己じゃないの？」
名前を呼ばれた厳己はびくっとして、仕方なく立ち止まり、振りかえると頭を下げた。
「お…はよう…ござい…ます」
「何してんの、あんた」
環が駆け寄っていくが、厳己は俯いたまま何も話そうとしない。
「バイト？なんで？いつからよ」
しかし厳己の返事はない。何なんだ？と環が思ったところで、厳己は急に土下座した。
「ちょっ…、ちょっと何してんのよ、こんなとこで」
人がいないからといっても、ここは公道なのだ。戸惑っている環に、厳己は真剣に言った。
「お願いします。このこと、他のみんなに黙っててください。おばさんにも、篤志にも、寮生にも。お願いしますっ」
例えばこれがケンだとしたら、環は半分冗談に思うだろうが、相手は厳己なのだ。真面目で礼儀正しい厳己なのだ。その厳己が土下座までするとは、よっぽど の理由があるのだと環は思い、まずは厳己を起こした。 気まずそうな厳己だったが、環は溜息をつき、じっと目を見て尋ねた。
「ひとつ聞いてもいい？お金、必要なわけ？」
「…はい」
反応からしても本当らしい。しかし、厳己の実家は大きいし、お金になど困ってはないはずだ。
「どうして？カツアゲされてるとか？」
だったらこの環さんが…、という前に、厳己はきちんと顔を上げて言った。
「違います。…僕、自立…。したいんです」
その言葉に、その心意気に、環は感動すら覚えてしまった。誰にも内緒にやっているということは、それなりに覚悟のいることだし、続けるのも簡単ではない。
「部活は、ちゃんと出てるの？」
「配達は朝の四時から六時までです。朝練は六時半に集合だから」
「勉強は？たしか、約束してたはずだよね」
「してます、きちんと」
「両親には話したの？了解してくれたわけ？」
ややあって、厳己が答える。
「…母は…」
その言葉を聞いて、環はにっこりと笑った。
「よし、だったら別にいいよ。内緒にしといてあげる」
厳己は深深と頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ただし、変なバイトに代わったら、言うからね」
「はいっ」
厳己は全てをはっきりと言うこの篤志の姉・環が少々苦手ではあったが、物の言い方はとても好きだった。そして、その環がきちんと約束してくれたことに、とても満足していた。
「遅いね、萌子」
朝錬はもうすぐ始まろうとしていたところで、萌子が慌ててかけ込んできて思わず理香が言う。
「うん、ちょっと」
「寝坊？そういやクマできてるよ」
「うん。ごめん」
そういった萌子は慌ててブレザーを脱いで、上だけトレーナーに着替え、部室に入っていく。
通常なら、試合の翌日の朝錬はないのだが、話し合った末に１年だけでこの日は朝練することになっていたのだ。だから、部室も１年だけでごったがえしていた。
「うっす」
「園部。お前」
突然現れた園部に、１年は皆驚いた。昨日の試合に来なかったことは、誰もが知っていたのだ。それでも、園部はあくまでも明るく、皆の輪の中に入って、着替えようとした。
「昨日は、悪い。実はさ−。なんだよ、高岡」
しかし、自分の定置に行きつく前に、由太が立ちふさがった。途端に園部の顔も険しくなる。由太はきっぱりと言った。
「お前は退部だ。もう練習に来なくていい」
しんとした部室に、由太の低い声が響く。
「なんだよ、それ」
園部の顔は強張っている。そこまではっきり言われるとは思ってなかったようだ。
「昨日の大事な試合をすっぽかした奴は、我が部には必要ない」
それだけ言うと、由太はさっさと部室を出ていこうとした。園部にもう用はないのだと言わんばかりに。慌てて園部が由太をひき止める。
「おい、ちょっと待てよ。俺は昨日−」
「昨日の試合の意味はわかってるはずだ。確かにお前はレギュラーではないが、部員の一人として来なければならない試合なのは当然だ」
振りかえった由太に、園部は黙って俯いた。追い討ちをかけるように由太は言う。
「それも無断欠席」
篤志はドキドキしていた。前のようになってしまうのではないかと。しかし、自分がどうしたらいいのかわからずにいた。
ふいに部室を見回す。そこには、二人をただの鑑賞物のように見ている部員や、自分とは無関係のように、また自分は関わりたくないといった表情の部員もいた。しかし、真剣に心配している部員もいる。篤志は心強くなる。
由太はきっぱりと言う。
「部室を出ていけ。練習の邪魔になる」
「由太−」
ようやく出た篤志の小さな声をかき消したのは、他でもない園部だった。
「おいっ、おいって、待てよっ。高岡っ」
園部は由太の肩をつかんで、自分に向き直らせると大声で言った。
「何で俺がお前にそこまで言われなきゃなんねぇわけ？なんで部活辞めろとか、勝手に言われなきゃなんねぇわけ？」
そこでようやく篤志が二人の間に入った。
「ちょっと落ちつけよ、園部。由太も、園部にだって休んだ理由はあるんだからさ。それをまず聞こうよ、な、園部」
できるだけ穏便に話したい篤志とは裏腹に、園部はじっと由太を睨み続け、由太のほうは顔色ひとつ変えずに言った。
「そんなもの、負け犬の遠吠えと同じだ」
「え？」
園部は何を言われているのか一瞬わからなかった。しかし、すぐに理解をした。そして、掴んでいた由太の肩から、突き放すようにして手を離した。
「…わかったよ。ああ。いい訳はしないっ。辞めてやるよっ。
けどな、その前にお前に言っておく。なんでお前がそこまで偉そうにするんだよ？１年の代表だからか？中等部でキャプテンしてたからか？監督に気に入られてるからか？」
園部の口からは、次々と言葉が溢れてきた。
「確かにお前はしっかりしてるよ。ああ確かに、キャプテンの器だろうよ。未来の部長だろうよ。けどなっ、同じ１年のお前に、部活を辞めろとか、出ていけとか言われる筋合いはねぇよっ」
今にも殴りかかりそうな雰囲気に、慌てて篤志が二人の間に入る。すんなりと動かない二人に気づいて、篤志は由太もかなり怒っているのだと気づく。
「ちょっと落ちつけよ、園部。由太、言っただろ？昨日、俺は何度も園部の家に電話をかけた。けど、誰もでなかった。何かあったんだろう？そうなんだろう？園部」
篤志は必死で今までの園部を思い出していた。悪いやつじゃない。茶目っ気があって、とことん明るい。時々、度が過ぎる悪戯をすることもあるけど、基本的 にはサッカーが好きな奴だし、篤志はいい仲間だと思っている。だからこそ、信じたいのだ。きちんとした理由があれば、由太だって納得するはずだ。
しかし、園部は篤志の腕もとっぱらった。
「どうせ言っても、こいつにはわかりっこねぇんだから、言わねぇよっ」
「どういう意味だ」
ついに売られた喧嘩に由太が身を乗り出した。
「自分が恵まれてる環境にあるってことがわかってないって言いたいんだよ。だから物事を自分の定規でしか測ろうとしない。そして、その定規で他人も測る。 そりゃ楽だろうよ。自分が決めた定規なんだから、自分を守るのはさ。けど、他人からしてみれば、迷惑でしかない定規なんだよ。上の目線で決められた低い ハードルは、下の目線からすれば、高い高いハードルなんだよ。けど、お前はそんなことに気づかずに、そのハードルを飛べない人間を、無能だとしてさっさと 切り捨てる。そうだろ、違うかっ？」
園部の言うことは、あたっているところもある。が、それは全てではない。お互いがほんの少し誤解しているだけなのだ。
言われた方の由太は、いつもの冷静さを一瞬忘れかけた。声が強くなったことで、それを篤志は感じ取る。
「言いたいことはそれだけか。さっさと荷物をまとめろ」
そして、由太は本当に部室を出ていこうとした。園部もそんな由太の態度にカチンと来たのか、自分のシューズが入っている棚に手を伸ばし、シューズを鞄に詰めこもうとしている。そこに割って入ったのが、萌子だった。
「ちょっと待ってよ、園部君」
「離せよ、沢木」
突然萌子が自分の腕を掴んで、園部は驚いたが、それよりも由太への怒りが勝っていた。萌子は少しでも園部を落ち着かせようと早口に言う。
「違うの、高岡君は−」
「おい沢木っ−」
余計なことを言われるのではないかと、由太が慌てて振りかえりながら、萌子の言葉を遮るために大声を出した時だった。萌子の注意は一瞬、由太の方に移る。と同時に、園部は力強く萌子の手を振り払う。それまで園部の腕をちゃんとつかんでいた萌子は、注意がそれたことから簡単に振り払われてしまう。一瞬、 空中に投げ出されるように感じた萌子の体は、次の瞬間ロッカーに思い切りぶつかっていた。頭と背中が大きな音をたてて、痛んだ。そして萌子は、人形のよう にぱたんと床に崩れてしまったのだ。
「萌子？萌子っ？萌子ってばっ」
大丈夫よ、理香。
そう言いたかった萌子だが、その声が理香に届くことはなかった。
「悪かったな、俺のせいで」
ベッドに上半身だけ起こしている萌子は、すまなそうな顔をしている園部にゆっくりと首を振る。
「ううん。午前中の授業が堂々とさぼれたんだから、ラッキーよ」
今は三時間目と四時間目の間の休み時間だった。
「けど、傷が残ったりしたらさ」
園部はそう言って、包帯が巻かれた萌子の左手を見つめた。どうやらロッカーにぶつかったときに切れたらしいその傷は、その後部室をパニック状態にしてしまったのだと、目が覚めて萌子は理香から聞いたのだ。
「大丈夫だって。そんなに深くは切ってないし。それに、気を失ったんじゃなくて、ちょっと寝不足だっただけなの」
外を見ると小雨が降っていた。萌子のこともあって、あの後朝練どころではなくなってしまったというのも、前の休み時間にやっと目覚めた萌子は理香から聞いたのだ。ふと、萌子は、今週末の試合で雨は大丈夫なのかと心配になった。園部は軽く微笑んだ萌子を見て、いくらか安心したのか、ようやく笑顔を見せた。
「そっか…。なんだ、俺は男としての責任を取ろうと思って、一大決心してやってきたのにな。なぁんて言ったら、友近に張り飛ばされるか」
その知朗も、目覚めた時、理香と共にこの保健室にいた。
足の怪我のことがあって、１年だけでの朝練を聞かされていなかった知朗は、起きたら皆がいないので、慌てて学校にやってきたところだったという。萌子が 思っていた以上に、知朗は元気だった。県予選の決勝には出られなくても、インターハイの決勝には出てやるんだと豪語していたくらいだ。
そして、萌子のことを心配する知朗に、うるさいから出ていけと大声で叫ぶ理香。結局保健医は、二人を追い出し、美都一人が残った。
「さっき、美都から聞いた。お母さん、大変だったのね」
昨日の園部の無断欠席は、倒れた母親を病院に送ってのことだった。このところ園部の母親は調子が悪く、園部は石橋の許可をもらって世話をしていたのだが、倒れたのは初めてだったのでその日病院でつきっきりだったのだ。
「まあ問題はなかったらしいから、ちょっと安心してるんだ」
萌子が保健室の運ばれた後、誰かが園部のせいだと言い出す前に篤志がきちんと理由を聞き出したという。もちろん、その話を聞いた由太も、園部の無断欠席を認めた。そもそも石橋にはその連絡が入っていたために、この件で騒いでいるのは１年だけだったのだ。
「あいつ、ええかっこしー、だよな」
ふいに園部が言った。あいつ、とは由太のことだ。
「何でも自分のせいにしてさ。わざと悪役やったりして。お前ちょっとやりすぎじゃねぇかって思って、さっきは言いすぎた。
もちろんあの言い方にむかついてたのはほんとだけどさ」
園部はそう言って、口を尖らせた。そして小声で、ちょっとだけ嫉妬もあったけどな、と言った。正直な園部に、萌子は笑顔で尋ねる。
「続けるんでしょう、サッカー部」
園部は大きく欠伸をした。
「俺からサッカー取ったら、何も残らないぜ。下手の横好きなだけだけどな」
休み時間を告げるチャイムが鳴って、席についていた厳己に一馬が声をかけて来た。萌子は大丈夫だと言う情報を厳己に伝えると、一馬は妙に感心して言った。
「川瀬って冷静なんだな。朝の見て、思った」
倒れた萌子に、まず厳己は声をかけつつ脈を取った。そして反応がないことを確かめると、今度は口に手をかざして呼吸を確認、それから下瞼を抑えて様子を 見てから、左手の止血をして、とりあえず倒れたときに頭を打ったかもしれないので動かさないでおくことと、保健医を呼んでくるようにと指示をしたのだ。い つもはおとなしい厳己のその行動力に、皆が呆気に取られて、パニック状態はいつしか収まっていたのだ。
「萌子のこと？別に、大したことないよ」
「けど、すごかったぜ」
それに、前に一馬の調子が悪いときも、その手つきがどこか手馴れていたことを思い出す。
厳己は恥ずかしそうに笑った。
「実家が病院やってんだ。だから」
「ってことは、川瀬も将来は医者？」
教科書を整えていた厳己の手が止まって、一馬は声を小さくした。
「悪い。やなこと聞いたな」
そんな一馬を見るのが嫌で、厳己は笑顔をみせる。
「いいんだ。渡部の言う通り。一人っ子だしね」
いつもそうだったから。
小学校のときも、将来の夢を医者と書いて、誰も何も言わなかった。それが周知の事実だったから。
「嫌、なのか？」
遠慮がちに、それでもはっきりと一馬は聞いてきた。そんな風に考えたことは一度もないと、その時初めて厳己は気づいたが、そんなことは考えるべきではないと思い直した。
「そういう問題じゃないよ」
僕は、医者にならなきゃいけない。今は、それまでの限られた時間…。
昼休みになるとすぐ、百合がその手にお弁当を持ってきて保健室にやってきた。
「教室で一人で食べても寂しいから、持って来ちゃった」
そう笑いかけながら、百合はベッドの側の椅子に座る。
「怪我は大丈夫？」
萌子はベッドから起き上がって、百合に怪我をした手を見せながら言う。
「全然平気。公認で授業さぼれちゃったし」
明るく笑う萌子の顔には、それでもまだクマがある。
「どうしたの？萌子。クマ、すごいよ」
言われた萌子は、ああ…そう、と他人事のように答えてから、きちんと百合に言った。
「うん、ちょっとね。このところ寝不足だったから。それが祟ったのかな。でも、今日の午前中でプラスマイナス０」
ふいに、萌子は百合の弁当を開こうとしている手が止まったことに気づいた。
「どうかした？百合」
百合はその言葉を待っていたかのように、弁当をしまって、あのね萌子と言ったときだった。ドアの開く音がして、軽い咳払いと、カーテンの向こうに誰かが立つ気配がした。
「沢木、起きてるか？」
由太だった。萌子のうんという返事を聞いて、由太はカーテンを開ける。目が合った途端に、由太は軽く俯く。それが合図のように萌子は口を開いた。
「ごめん、百合。ちょっと席、外してくれる？」
萌子に真顔で言われた百合は、慌てて弁当箱をつかむと、カーテンの外に出ていった。由太は再び軽く咳払いをして、萌子に勧められるままに椅子に座った。
「…今朝は、悪かった」
素直に由太が謝るのはめずらしいと思いながら、萌子は微笑み返す。
「あれは誰のせいでもないよ。運が悪かっただけ。園部君のせいでも、由太のせいでもない」
名前で呼ばれたことに、由太は眉毛をそっと上げて反応した。それを見た萌子が言う。
「決めたんだ。名前で呼べば、皆親しみやすくなるでしょう？かわいい名前なんだし、もったいないよ」
かわいいと言われたことが気にかかったのか、由太は顔を逸らした。外の雨は止みつつある。しかし、グランドの土が水気を含んでいることは確かだ。由太の横顔を眺めながら萌子は優しく言った。
「由太はええかっこしーだって、園部君言ってた。わたしも、そう思う。わたしたちは部員で、由太は確かに１年の代表だけど、だからってすべて由太に責任があるわけじゃない。皆で頑張れば、大きなことでも簡単に済む。そうじゃない？」
由太は同じようなことを笠間にも、ここに来る前に言われていた。由太の教室にやってきた笠間は、今朝あったことを篤志から聞いたと前置きして言った。
「いい経験になったな、高岡」
そして笠間はそう言った。由太は素直に頷けなかった。しかし、５月に笠間に言われた言葉を思い出し、その後自分が経験した感情を思い起こした。
「行過ぎていたと思います」
園部に言われた言葉は正しかった。だから、由太は何も言えなくなり、ただ出ていけと繰り返すことしかできなかったのだ。俯く由太に、笠間はぽんと軽く肩を叩いた。
「もうひとつ。お前の悪いところは、そう思い詰めるところだ。喧嘩両成敗というだろ？園部のことはお互いに悪かったんだ。園部も、きっと反省してる」
そこでチャイムが鳴って、笠間は自分の教室に戻っていこうとしたが、ふいに振りかえって言った。
「沢木を見舞ってやれよ」
そうして決心した由太は、保健室にやってきたのだ。
今までの由太は、皆が自分を頼ってくるのが当然で、だからこそ自分がしっかりしてないと皆がやっていけないのだと思っていたのだ。だから、萌子の言葉はある意味で由太を傷つけ、そして救っていた。
由太は何かを言いかけようとしたところで、カーテンが急に開けられた。
「おい萌子っ、園部にプロポーズされたってのは本当かっ？」
「知朗。何よ、急に。ノックもしないで」
「ドアがないのにノックできっかよ」
知朗は由太を押しのけるようにして、隣の椅子に座りこむ。足の調子は、ほんの少し引きずる程度で、そのことを除けば知朗はいつもと変わらず元気だった。
「知朗も無理しないでよ。足のことも考えてね」
「こんな怪我、すぐに治る。いいんだよ、これは神様がくれたお休み期間なんだから」
「…どこかで聞いたことのある言葉」
「休んで、栄養一杯溜めて、治ったら、インターで活躍しろってことなんだよ」
「どこまでも前向きな奴だな」
開け放たれたカーテンからは、前の時間にも来ていた園部が顔をのぞかせた。
「よっ、差し入れっ」
そして、腕一杯にのせたパンを、ベッドの上に落とした。由太は気を遣ってか、椅子から立ち上がる。
「やっぱり女の子に怪我さして、気分よくないからさ。お詫びに。お前にもこれやるよ」
園部はそう言うと、そのパンの山からひとつ取って、由太に投げた。由太はそのパンを受け取る。
「ありがとう」
二人に交される視線と言葉に萌子が安心したところで、知朗が由太の持っているパンを見て大声を上げる。
「あっ。ヤキソバパンッ。俺、食いたいっ」
勢いに押された由太が、目でいいかと園部に訴える。園部は仕方なしという顔を見せ、ヤキソバパンは知朗に渡った。
「まったく、知朗はわがままなんだから」
溜息をつく萌子に、園部は笑いかける。そして、パンを食べ出した知朗を横目で見て言った。
「殴り倒されはなしなかったけど、怒鳴り散らされたぜ」
プロポーズのことなのだと萌子がわかったとき、知朗がはっきりと言った。
「あったりめぇだ」
その返事に、ふーんそうかと園部は言ってから、妙に納得した表情を見せた。
「なんだ。お前らってやっぱりつきあってるんだ」
返答に萌子が困っていると、ヤキソバパンを口に押し込んだ知朗が、口もとの青海苔を拭いながら平然と答える。
「違う。ただ俺が好きなだけ」
呆気に取られたのは、園部と由太と、そして萌子だった。
「あ…そう」
ちょうど園部が答えたところで、保健医が顔を出した。
「こら、君たち。ここは食べ物禁止よ。外で食べなさい」
由太がもうひとつパンを食べようとしている知朗の腕を取る。
「すみません。ほら、いくぞ。知朗」
「じゃな、萌子」
大きく手を振る知朗に、萌子も手を振ると、その先にいた由太も振り返って、それじゃと言葉をかけた。