Maybe Blue 第一部 海の鼓動
向夏3
「つきあって、ほしいの」
クラスメートから昼休みに中庭に来てほしいと呼び出された成は、長い沈黙のあとにそう言われた。告白されるのは、高校に入って初めてではなかったけれど、ずっと断ってきていた。
「…ご、めん。俺」
今までは、サッカーを頑張りたいからと断ってきた。しかし、今の成の気持ちは、そうではなかった。黙り込んだ成に替わって、クラスメートが尋ねた。
「…好きな人、いるの？」
驚いて成は顔を上げる。彼女の目は真剣だった。
この１週間ほどで、成の中では「気になる」だけだった萌子が、「好きな人」になっていた。
何かがあったわけじゃなく、もともとそうなるだとうなとは思ってたけど。
この前篤志に言われて、もしかして萌子も同じ気持ちなのかもしれないと考えたとき、成は自分の気持ちを認めた。
「うちのクラスの子？」
別に答えるべきことではないのかもしれない。でも、相手は真剣に好きだと言ってくれたわけだから、俺も言うべきなんだろうか。
成は決心して口を開きかけた。
「いや。…うちの…」
ガヤガヤと音がして、女の子の集団が中庭にやってきた。びくっとして成とクラスメートが顔を上げると、運悪く目が合う。まずいといった表情や、興味津々の顔をして、集団はさりげなく二人を見ている。
「ごめんね。呼び出して。ごめんなさい」
クラスメートはそう言うと、顔を真っ赤にして突然走り去ってしまった。取り残された成は、またも集団と目が合って、あわてて顔を伏せた。
「モエチャン」
廊下から呼ばれた萌子が、振りかえると、そこには朔哉が立っていた。昼休みのせいか、教室の生徒もまばらで、だからこそ以前ほどの騒ぎはなかった。一人 雑誌を見ていた萌子が廊下に出ると、取り巻きの生徒たちはいなく、朔哉一人だった。不思議そうな顔をしていると、朔哉のほうからこう言った。
「彼女たちは体育の準備中」
なるほど、と納得した萌子に、朔哉は部での仕事の話を始めた。
多くの三年は、このインターハイが終わると引退となる。大学受験のためだ。来年のキャプテンに朔哉がなることは周知の事実であったし、そのためにか、ほ とんどのマネージメントを仕切っている萌子との、こういった部活がらみの話し合いも増えていくことになる。朔哉には複雑な心境だった。
話の途中、廊下の向こうの方から、誰かが走ってくる音、それから大きな叫び声がした。
「萌子っ」
朔哉にむけていた視線を、声のする方に向けた萌子は、知朗と呟いた。そして、知朗はそのまま萌子まで猛ダッシュしてくると、唐突に言った。
「今日も差し入れ、あるんだろ？」
「あるには、あるけど」
「くれ、今」
知朗はそう言って、驚いたままの萌子に手を差し出す。けれど、萌子はその手をパシッと軽く叩く。
「駄目よ。あれは、練習のあとでしょう」
「腹へったんだ」
「腹って…。お昼食べたんでしょう？」
今は昼休み中なのだ。簡単に出てこないとわかった知朗は、ブスッとした顔になって言う。
「やきそばパン、売り切れててメロンパンしか食えなかったんだ」
駅前にも食べ物屋はあるが、校内に昼休みやってくるパン屋は安くておいしいと人気で昼休み開始１０分もすればだいたい売り切れてしまう。中でもやきそばパンは１番人気だった。
「他にもパンはあるでしょ」
「俺の昼は、やきそばパンとメロンパンって決めてんだよ。他のパンは売り切れてないし、金もうないし」
誰かに借りれば、という言葉を萌子は飲みこむ。昼休みはもう終わろうとしているのだ。
仕方ないと、一言萌子は言う。
「わかった」
ごめんなさいと朔哉に言って、教室に入っていく萌子を見ながら、朔哉が知朗に言う。
「うまいパンなら、グラタンパンもあるぞ」
グラタンパンは、朔哉のお気に入りだった。しかし、知朗ははっきりと断る。
「俺は卵が嫌いなんだ」
なんだよ、お前は…という言葉さえ出てこない朔哉の前に、包みを持ってきた萌子がそれを知朗に差し出した。
「はい。とりあえず、これだけよ。皆の分もあるんだから」
「サンキュ」
知朗はそれだけ言うと、さっさと廊下を歩いていく。
萌子はふうと溜息をついて、ようやく朔哉という存在を思い出したようだった。
「あ…。福山先輩も、どうぞ」
とってつけたような言われ方に、思わず朔哉も言い返した。
「なるほど、これが差し入れか」
そもそも、そういったモノがあることを朔哉は知らなかったし、おそらくほとんどの部員は知らないはずだ。
その言葉に気づいた萌子は、少し焦って言った。
「別に、１年生だけにあげてるんじゃなくて、その…。最後まで残ってると、お腹がちょっとすいちゃって、そうすると周りにいるのは１年生だから、ご苦労さまってことで…。
ごめんなさい」
最後に残ってる一年生というのは、言わずもがなのほとんどが寮生のいつものメンバーだ。そして、その中には、成がいる。
朔哉は大人の笑みを浮かべた。
「いいよ。無理はしなくても。あげたい相手のためのカムフラージュなんだろう」
珍しく厭味っぽくいう朔哉の言い方に、萌子は完全に怒って言った。
「違いますっ、知朗は…。別にただの仲間ってだけで。
もう、そんなこと言うならあげません」
くるりと萌子は背中を向け、教室に戻っていってしまう。
怒らせたか、と思いながら朔哉は溜息混じりに呟く。
「友近じゃ、ないんだけどな」
「あの子、２組の関谷さんでしょ」
突然木陰から声がして、驚いて成が振りかえると、そこには理香がいた。理香はにこっと意味ありげに笑うと、成の前にやってきた。
「今、うちの部のマネージャーって言おうとしたでしょう？成くん」
まずい、という表情に成がなるのを確認する前に、理香は成の肩を叩くように手を振ると、自信たっぷりに言った。
「大丈夫、大丈夫。わかってるから。萌子なんでしょ？」
成は大きく目を開くと、慌てて顔を抑えて逸らした。その視線の先で、かすかに草が揺れる。
「まったく、二人とも間抜けなんだから」
「え？」
草に気を取られていた成だが、理香の言葉に思わず顔を上げた。
「大丈夫。萌子も、成くんのこと好きだから」
あっさりと理香に言われて、驚きと嬉しさとで間抜けな顔をしていることに気づいた成は、慌てて理香に背を向けた。理香は、その反応を楽しんでから、わざと意味ありげに言った。
「だけど、成くんも早く告白しないと、誰かに先越されちゃうよ」
成の肩がぴくりと反応をしたので、理香は調子付いて続ける。
「あ、ちょうどいいよ。七夕祭あるでしょ？あれに誘いなよ。いくらニブい萌子でも、誘われたらわかるだろうし」
成は顔を上げる、が再び視線を落とした。こうなったらと、理香は大きな声でけしかけた。
「早く言わないと、知くんに追い越されるよ」
「萌子、聞きたいことがあるんだけど」
「何？」
図書室に本を返しに行っていた百合が教室に戻ってくると、妙に真剣な表情で萌子にそう話しかけた。朔哉はもう用事を済ませ、自分の教室に戻って行った。
自分の前に座った百合に、萌子は笑顔を向ける。
「萌子、サッカー部に好きな人いるの？」
その突然の質問に、萌子が目を大きく開いていると、百合は続けていった。
「だから、友近君のこと断ったの？それって…。それって、早坂君？」
「ちょっと待って百合。どうしたの？
あ、わかった。あの噂のこと？」
一馬と成が入れ替わったことなのだと思った萌子は、田島のことから説明をした。そして、知朗のことがあって、今更のようにまた出てきたんだろうと言った。
「どこで早坂君の名前になったのか、わからないけど。やだな、誤解よ」
「ほんとに？」
「本当」
百合はしばらく俯いていたが、ぱっと顔を上げて笑顔で言った。
「よかった。だったら、この前嫌なこと頼んじゃったかなって思ってたんだ」
誤解がとけたようで、萌子もほっと安心した。
「ただの噂よ。私は早坂君のこと、別に好きでもないし、サッカー部に好きな人もいない。もしいたら、ちゃんと言うから」
「そうだよね、友達なんだもんね」
そう、友達なのだ。百合と私は。
「当たり前じゃない」
萌子は話が終わったと、教科書を開こうとしたが、百合はまだ話を止めなかった。
「…それじゃ、もしも。もし、早坂君が萌子のこと好きだったら？どうする？」
「ちょっとどうしたの？百合。そんなに噂が−」
「どうする？」
強く言い詰める百合の視線に、萌子は冗談だと笑いかけた顔を引き締めた。
「…別にどうもしないわ。だって、私と早坂君はただの部員とマネージャーだもの」
「だったら、もし告白されても断るよね」
萌子は、百合のその頑なさに不安を覚える。
「百合？何かあったの？」
「それとも、つきあうの？」
真剣な百合の表情を見て、萌子は思い出す。自分が誓ったことを。
過ちは、もう二度と。
一呼吸すると、萌子はひとことずつはっきりと言った。
「断る。だって、早坂君は百合の好きな人だもの。でしょ？」
「…うん」
「おい、萌子」
廊下からケンの呼ぶ声がして、萌子ははっと思い出した。
「そうだ。部室にいかなきゃいけなかったんだ。ごめん、ちょっと行って来る」
駆け足で教室を出ていく萌子の後姿を見送りながら、百合はただじっとその背中を見ていた。
『大丈夫。萌子も成君のこと好きだから』
確かにさっき、中庭で理香はそう言っていた。百合にも、萌子と理香が仲がいいことは知っている。その理香が断言していたのだ。
二人が、両想いであると。
百合は無意識で、軽く唇をかみ締めていた。
「亜紀ちゃん」
選手のためのタオルを運んでいた理香は、グランドの端に立っている少女を見つけて声をかけた。
亜紀子は、理香に挨拶をすると、安心したような笑顔を見せた。周りには大勢の観客がいる。今年も選手権で二連覇を、その前にインターハイでも優勝を、と 願う凪浜の人々にとって、地元での試合は、ホーム試合のようなものだった。応援の為に配る青の旗もいつも以上に風に揺れている。
その中で、亜紀子は一人で立っていた。理香の隣にいた萌子は、自然とそこで足を止める。
「由太チャンは残念ながら出れないよ」
知っていると言うように亜紀子は軽く微笑んだ。理香は、萌子に亜紀子を紹介した。
「佐々木亜紀子ちゃん。由太チャンの彼女」
頭を下げる亜紀子に、萌子は微笑む。
「よくすれ違うんだよね」
「はい」
「なんだ、知り合いか」
理香がつまらないといった声を上げた。もっと話していたかったのだが、試合前で時間がなく、二人は慌てて部室に向った。少し歩いたところで理香が肩越しに亜紀子の方を振りかえりながら言う。
「結構びっくりしたでしょう。由太チャンに彼女がいるのって」
「そんなことないよ」
「あたしはひょえーって驚いたよ。あ、別に亜紀ちゃんが悪い子だとかいうんじゃなくて、あの由太チャンに彼女ができたなんてって意味」
「けど、高岡君って人気あるじゃない」
右京や朔哉に隠れてはいるものの、由太は同級生や教師からの評判も良かった。理香もそのことは知っているようで、まあそうだけど、と言った。
「けど、硬派でしょ。一部じゃ女嫌いだって噂もたったことあるし」
それは今でも聞いたことがあると萌子は思った。
噂なのだが、由太に告白をした女子生徒が、ひどく冷たくふられ、１週間もショックで学校を休んだという。萌子は、由太は冷たい人間だとは思っていなかった。ただ、物事をはっきり言いすぎるところと、自分にも他人にも厳しいことから、そう見られがちになってしまうだけなのだ。
「だけど、亜紀ちゃんと運命的な出逢いをして、変わったんだよねぇ。由太チャン」
理香は思い出すように空を見上げ、そして突然萌子の顔をのぞきこんだ。
「その話、聞きたい？」
目がキラキラと輝いている。そういう時の理香は、決まって話したくてたまらないのだ。
「嫌だって言っても、話してくれるんでしょ？」
もう萌子ってばっ、と軽く怒りながら、理香は話し出す。
「中等部の時ね、由太チャン生徒会長だったし、頭もいいし、絵に書いたような優等生でね。先生からの信頼も厚くて、しっかりしてるし、まあかっこいいし。 いわゆる有名人でね。だから亜紀ちゃんは由太チャンのことは知ってたけど、由太チャンは知らなくて、ほとんど無関係だったのよ、あの二人。
それがある時、由太チャンの蹴ったボールが、ミスってグランドの外に飛び出したことがあったのね。それが偶然亜紀ちゃんにぶつかって、更に運が悪かったことに、それで亜紀ちゃん階段から落ちて怪我しちゃったの」
「捻挫？」
「ううん、足首にヒビ入ったんだ。１週間くらいかな、入院して、その間毎日由太チャンは御見舞いに行って、退院してからも学校を行き来するの大変だからって、鞄持ちしてたの。信じられないでしょ、あの由太チャンが鞄持ちよ、鞄持ち」
確かにそれは、信じがたい光景だ。
「で、それがきっかけでつきあいだしたの」
「なるほどね」
二人はそう言いながら、ベンチにタオルをかける。試合まで、あと２０分程。
理香はそこから力説を始める。
「だからね。萌子。運命の相手はどこにいるかわらないの。結構身近にいたりすることもある−」
そう、例えばサッカー部の、そう例えば成君とか…。
そう言おうとした理香の声を、別の女の子の声が遮った。
「萌子っ」
立ちあがった萌子につられて理香も顔を上げると、そこには百合がいた。萌子の方に大きく手を振っている。
「百合、来てくれたんだ。あ、ごめん、理香。ちょっと待っててすぐ戻るから」
途端に萌子は百合に向かって走り出す。理香は溜息をついた。
「まったくもう。わかってんのかな。萌子は」
「手伝うよ」
差し入れの入った段ボールを抱え、移動していた美都は、その重さが急に軽くなったと思って顔を上げると、二つのうちひとつを湊が持ってくれていた。
「ありがとう、和泉君。でも、これはあたしの仕事だし」
また和美君にみつかったら、なんて言われるかもわからない。
それに、あたしは頑張るしかないんだもの。
しかし、湊はあっさりと答える。
「手があいてるから手伝うのは、部員の仕事でもあるよ」
美都は、自分に残された段ボール箱ひとつを見つめた。二つとらずに一つ残したこと。それが湊の気遣いのような気がした。
「ありがとう。なんか、いつも助けてもらってる気がする、和泉君に。ごめんね。頼ってばかりで」
「俺でよかったら、いつでも頼ってくれてかまわないよ」
前を行く湊の背中は、温かく頼もしく感じた。美都は素直に言葉をかける。
「ありがとう、優しいね。和泉君って」
湊はそう言われたことには謙遜したように微笑んでからこう言った。
「早く運ぼう」
歩き出そうとした美都は、ふと視線を感じた。振りかえると和美がいる。
また、怒られるかもしれない。
美都は怯えたように顔を伏せたが、怒鳴りつける声は聞こえてこない。おかしいと思って顔を上げると、和美の姿はもうなかった。
「早坂君、試合に出るの？」
駆け寄ってきた萌子に、まず１番に百合は聞いた。笑顔の百合に、萌子は申し訳なさそうに答える。
「多分ベンチだと思う」
成は結局スタメンには選ばれなかった。反対に知朗が、スタメン入りしている。しかし、太田の怪我もそろそろ治ろうとしていた。
グランドには、大勢の人が応援に来ていた。父兄たちは、皆旗を手にしており、一方で制服姿の凪浜の生徒たちもいる。
「ねぇ、萌子。今日試合の後って何かある？」
思っていた以上の応援の数に驚いている萌子に百合が尋ねる。
百合は成と何とか言葉を交わしたいと思っているのだが、萌子も成も忙しそうで、そんな時間はないようだった。
萌子はうーんと考えてから答える。
「片付けがあって、あとはミーティング、それで終わりかな」
試合に出ない一年生は自主練習するかもしれない。となれば、帰る時間はいつもの遠征と変わらなくなる、と萌子が思っていると、百合が明るい声で言った。
「それじゃ、待ってるから、どこかで会わない？」
「そうね…。あ、でも、遅くなるかもしれないけど−」
「それでもいいから。あの…。それで、早坂君なんかも誘ってさ」
そこに百合の本心がある。それにやっと気づいた萌子は、よけいに断ることができなくなっていた。
「わかった。話してみる」
けど、期待はしないで、と付け加える前に、理香が萌子を呼んだ。
「ごめん、百合。それじゃ後でね」
慌てて戻ろうとする萌子に、百合は慌てて紙切れを渡した。それは、シーサイドと書かれた店の名刺だった。
「ここで待ってるから」
シーサイドは、名前そのままに、海辺にある洒落たカフェだ。萌子は、なんとか頷くと、大きく手を振った。
厳己が大きく欠伸をしたところで、突然隣に誰かが座った。
「勉強、頑張りすぎんなよ」
顔を上げると一馬だった。慌てたように厳己はもう１度出そうになった欠伸をかみ殺す。そんな様子の厳己に、一馬はゆったりとした口調で話す。
「眠そうにしてるからさ。あ、厭味に聞こえたか？」
「ううん。そんなことない。勉強じゃ、ないんだ」
新聞配達のバイトを始めて、四日になる。勉強時間を減らすわけにもいかず、厳己は寝不足が続いていた。ふいに一馬にならこの事情を話してもいいかもしれないと思ったのだが、厳己よりも先に一馬が言った。
「ああ、そうか。篤志から聞いた。ロードワークしてるとか。偉いな」
「そんなことないよ。それより、渡部の方はどう？バイト」
話がそれて、厳己は言いたかったことが言えなくなってしまった。つい口にした言葉だが、言われた一馬は幸せそうな笑みを浮かべている。
「よくしてもらってる。そうだ、俺。引っ越すことになるかもしれないんだ。義父さんが、もっと清潔そうなところに住めって言ってさ」
その笑顔が、厳己との溝をつくる。
「仲いいんだ」
「さぁ、わからないけど。悪くはないかもしれないな。いい人なんだ。俺の話、ちゃんと聞いてくれるし、それで悪いところは悪いって言ってくれる。俺のこと、ひとりの大人として見てくれる。最近じゃ、俺のサッカーのこと、お袋に説得までしてくれたんだぜ」
こんなに明るい一馬を見るのは初めてだった。
どうしてだろう。血のつながらない親だというのに、理解し合えるなんて。
僕なんか、血がつながっているというのに…。
「よかったな、仲直りできて」
暗くなった表情を隠すように笑顔をつくる厳己に、一馬は嬉しそうな顔を見せる。
「まあな」
「理香」
名前を呼ばれ、理香とその隣の萌子が振りかえる。恰幅のよさそうな男性と、愛嬌のあるてきぱきとした雰囲気の女性が、大きく手を振っている。理香は大きく目を開いた。
「パパ、ママ。お店どうしたの？」
「休みにした。なんてったって、凪浜での試合だからな」
その手には凪浜の旗がある。その旗を見ていた萌子は、自分を見つめる理香の父親と目が合った。
「萌子。いつも話してるでしょ？」
「これはこれは。いつも娘がお世話になってます」
「話に聞いてたより、べっぴんさんじゃないか。理香の代わりに、うちの看板娘にならないかい？」
「もうパパッ。さっさと向こう側行っててよ」
父親の背中を叩いた理香に、二人は手を振りながらいまや応援団化している観客の方に向っていく。
「いいお父さんとお母さんね」
「そう？萌子のパパとママは？」
萌子はさらりと答える。
「仕事あるって言ってたから…。時間があれば来るって言ってたけど、多分無理」
「そう」
理香はそう答えた。けれど、萌子の横顔をずっと見ていた。
１度だけ、萌子の両親のことを聞いたことがある。父親は車会社に勤めていて、母親は専業主婦。だけど、それだけで、いつも理香が質問をしなければ、萌子は何も答えない。自分のことは話さないのだ。聞きたいけれど、萌子が嫌がりそうで、それが理香には寂しかった。
選手たちがグランドに駆け出していくのを、応援する気持ちと、少し悔しい気持ちで成は見ていた。スタメンは無理でも、せめてサブくらいには、と思ってい たのだが、結果はベンチでドリンクを持ち、選手の帰りを待つ部員だった。加えて、成は昨日長居に言われた言葉が忘れられなかった。
知朗の一件があって以来、長居たち３人が１年を苛めるということはなくなっていた。そして昨日、長居はＡチーム復帰を告げられたのだ。代わりに落ちたのは、成ではない２年生だったけれど、思わず成は自分ではないかとドキドキしてしまったのだ。
そしてその後で、長居が成に言ったのだ。
お前には負けない。
その自信のある目に、成は何も言い返すことができなかった。
グランドに姿を現した選手たちを見て、青い旗が一斉に揺れて、それはまるで海のようだったが、成の気持ちは別にあった。
「早坂君」
名前を呼ばれて振りかえると、やはり萌子だった。その手にしたスコアブックをベンチに置きながら、萌子は成に尋ねる。
「今日の試合の後、何かある？」
声を潜めて、自分だけに囁くように言う萌子に、成は期待せずにはいられなかった。
話？なんの話だろう？
もしかして…。
そう考えながら、成は自分の浮き立つ気持ちを萌子にばれないようにと、顔を逸らして答える。
「いや…。ない、けど」
「あのね−」
萌子が何か言おうとした時、笠間の声が響いた。
「沢木、コールドスプレー新しいのを持ってきてくれ」
「はいっ。…ごめん、後でまた」
大きな声で返事をして、慌しく萌子に言われた成は、戸惑いながらも笑顔でわかったと答えた。