Maybe Blue 第一部 海の鼓動
向夏2
「早坂君って彼女いるのかな」
萌子にそう聞かれた理香は、思わずにやりとしてしまった。
やっと萌子も自分の気持ちに気付いたのね。
今日はインターハイ県予選、決勝リーグの初戦ということで、皆どこか緊張しているものの、ほぼ勝てる試合という安心感も混ざり、テンションが上がっていた。
控え室で、一人一人のユニホームを並べていた二人の周りには、誰もいない。湊の情報だと、中３の秋くらいに別れてから、成には恋人がいないはずだったが、敢えて理香はこう言った。
「さあ。本人に聞いてみたら？」
萌子が聞いたら、成は萌子の気持ちに気付くだろう。そうすれば、後はトントン拍子にうまく進んでいくはず。理香の頭の中では、その後のいろいろな想像がふくらんだ。
しかし、萌子はうーんと言ってから、独り言のように呟いた。
「湊に聞いてみようかな」
それは理香の計算外だった。
「駄目だよっ」
突然強く言われたので、萌子は驚く。
「そういうことは、本人に聞かないといけないのっ」
そ、かなと萌子が困っていると、理香が意味ありげに尋ねた。
「気になるんだ、成君のこと」
「違うわよ」
萌子はあっさりとそう答えたが、理香はふーんと言いながら、じっと萌子の顔を見ている。萌子は溜息まじりにもう１度言った。
「違いますっ」
もとはといえば、百合に頼まれたことなのだ。成に彼女がいるのかと聞かれた萌子は、知らなかったので答えることができなかった。聞いたことはないけれど、いないとは限らない。すると、百合は萌子の前で手を合わせて言った。
「お願い、萌子。聞いて欲しいの」
これまでも、他の部員のことでクラスメートから頼まれたことはあった。でも、それは萌子が聞くようなことではないからと、断ってきた。もちろん明らかにいる場合はそう答えて。
躊躇っている萌子に、百合は頭を下げていった。
「ね、お願い。あたしたち、友達でしょ？」
友達、と言われた萌子は、わかったと答える以外にはなかった。
仕方ない、早坂君本人に聞くしかないか。
萌子はそう溜息をつく。できれば、成には必要以外に近づきたく無いと思っていたのだ。その気持ちは、百合の告白を受けて、いっそう強くなった。
過ちは、２度と繰り返さない。
『闘え、蒼き戦士』
そう書かれた横断幕をくくりつけながら、厳己はずっと考え込んでいた。
部活が終わるのが午後七時。
片付けをして、学校を出れるのが七時半過ぎ。
寮の門限が十時。
自分の空き時間は二時間半。その時間だけでバイトできるところなんてあるんだろうか。
もし、夜がだめだとすると、朝。
朝…と呟いた厳己は、はっと気付く。
朝なら、新聞配達のバイトができるかもしれない。低血圧で、朝は弱いけど、頑張って早起きすれば、朝練が始まる時間前にはなんとか終わる。
厳己は顔を上げて、前のほうで別の準備をしている一馬を見つめた。
あとは、自分のやる気次第だ。
「モエチャン、氷ある？」
ハーフタイム、萌子はそう朔哉に声をかけられた。
「口内炎が痛いんだ。ちょっと冷やしたい」
「だったら、ハチミツありますよ」
萌子はそう答えて、バッグの中からハチミツ付けしたレモンを取り出した。
「レモンのせいでしみると思うけど、効果抜群だから」
ハチミツを蓋にのせられ、それを口に入れた途端、朔哉は顔をしかめた。その様子を見て、萌子は微笑みながら言った。
「福山さん、左足出して。テーピングしておいかないと、悪くなったら大変だから」
しかめていた朔哉の顔が、真顔に変わる。萌子は手早く準備をしながら答える。
「センタリングする時、ひねったでしょ？」
何も言わずにじっと自分を見つめる朔哉の視線に気付いた萌子は、どうかしました？と朔哉を見つめ返した。
「…いや、何でも無い」
足の痛みは、ほとんど感じていなかった。おそらく捻ったのは小指で、そちらに重心をかけない限りは、走っても大丈夫だったのだ。
誰も気付かなかったのに、見ていたのか。
萌子は朔哉の視線に気づいているのか、テーピングを巻きながら話す。
「頑張ってアイドルやるのもいいですけど、無理はしないで下さいね」
その言葉に朔哉は唇をかみしめる。
気付かれているのだろうか。
そして、そんな俺に呆れているのだろうか。
俯いた朔哉に、テーピングを巻き終えた萌子が言う。
「怪我して心配するのは、ファンの人たちだけじゃないんですよ」
優しさのこもった言い方に、朔哉が顔を上げた時、遠くから知朗の声がした。
「おい、萌子っ」
呼ばれた萌子が立ちあがると、知朗はもう１度叫ぶ。
「俺のドリンクどこだ？」
「ベンチの側に置いたよ」
「ねぇんだよ」
溜息をついた萌子が立ち上がった時、朔哉が茶化した。
「やきもち、妬かれたかな」
それが知朗のことを指しているのは確かだ。
「違います」
萌子はそう言って、知朗のところへと走る。朔哉はその後ろを見つめながら、人知れず溜息をついていた。
岡野商との試合は、３対０で凪浜が勝った。知朗は１得点１アシストの大活躍だった。
「調子いいな、あいつ」
他の１年がそう言っているのを聞いた。
成は溜息をつきながら、ベンチを立った。サブにはなったものの、ベンチ入りできただけだった。荷物を持ったところで、ふいに肩を叩かれた。振りかえると萌子だった。
「おつかれさま」
「ああ、おつかれ」
そうは答えた成だが、実際に疲れるようなことは何一つもしていない。何となく顔を合わせ辛くなったところで、萌子が言った。
「ちょっと、いい？」
「あ、美都。旗どうした？」
試合も終わって、岡野商を出ていこうとした時、理香にそう聞かれた美都は、あっと声を上げた。確かに理香に頼まれていたが、美都には他にも仕事が合って、それが後回しになり、そのまま忘れてしまったのだ。
「今、持ってくる」
それだけ言って、美都はグランドに逆戻りする。どうしてか、二つを同時に頼まれると、ひとつは忘れてしまう。頼まれたことをきっちりこなす理香や、頼まれてないことまでやってしまう萌子に比べ、自分は情けないと思いながらも、またやってしまったと、美都は後悔をしていた。
慌ててグランドに来たものの、ところがグランドにはあるべき旗がもうなくなっていた。
どうしよう…。
おろおろしている美都に、おい、とぶっきらぼうな声がかけられた。慌てて振りかえると、旗を巻き終わって肩に持った和美がいた。
「…ありがとう」
和美の優しい一面に触れた気がして、美都は感激しながらそう言った時だった。
「そこのフェンスに無造作に立て掛けてあったぞ。何してんだよ。
お前、マネージャー失格だな」
突き刺すような冷たい言葉に、美都はかたまる。そんな美都に旗を渡すと、和美はさっさと部員たちが集合してる場所へと戻って行った。
美都は唇をかみ締めた。涙を堪えていると、近くを通りかかった他校生の声が聞こえてきた。
「あの子、泣いてるよ」
「試合に負けたんだろ」
「でも、ジャージにＮＡＧＩＨＡＭＡって書いてあるよ。勝ったんでしょ、凪浜高校」
涙を拭うと、遠くから理香の呼ぶ声がした。出発時間らしい。美都は、もう１度顔を拭うと、理香の声のほうへ走っていった。
「ごめんね。ちょっと聞きたいことがあって」
そうは言ったものの、萌子はなかなか話し出せなかった。周りに部員はいない。スタメン選手は着替えをしている頃だ。萌子にだって、時間がないわけではない。
ようやく成に向き直ったところで、一気にたたみかけるように萌子は言った。
「早坂君って、彼女いるの？」
あまりに突然で、成は驚いてしまい、口を開けたままぽかんとしてしまっていた。すると、慌てたように萌子が付け加える。
「あ、言いたくないなら、いいよ。別に」
それは、萌子の気遣いであったが、そうと思わない成は素直に答えた。
「あ…、その。いないよ、俺」
そう答えたものの、成は萌子の顔を見つめ返すことができない。顔を俯かせた成と同じく、萌子も成から視線を逸らした。
本当は、こんなことは聞きたくなかった。けれど、百合にどうしてもと頼まれると、萌子は断ることができなかった。
成の鼓動は、自然と早まっていた。成自身、もう気付いていた。萌子が好きになっている自分に。
黙りこんで、お互いに俯く。その沈黙に耐えられなくなった成が、口を開いた。
「けど、どうしてそんなこと聞くの？」
聞き返された萌子は、はっと顔を上げる。百合に頼まれたとは言えなかった。
「それは…」
上目遣いの成と、目が合う。萌子は自分の心臓の音が大きくなったように思った。
「それは…。それは。…相談したいことがあって」
そんなことがあるはずもないが、口が先にそう言っていた。戸惑う萌子に、成が思わず聞いてしまう。
「それって、知朗のこと？」
言ってすぐ、成は後悔をした。萌子と知朗のことが気になっていたのは事実だ。だから思わず口にしてしまったのだが、萌子にここで知朗が好きだと言われたら、それこそ自分は立ち直れないと思った。
だが、萌子はこう言った。
「違うよ、知朗のことじゃないんだけど…」
萌子は成から突然知朗の名前が出てきて驚いていた。と同時に、知朗のことが頭を過り、溜息をつきそうになった。
知朗は、相変わらず、いつもと変わらない。付き合ってくれともいわなければ、あれ以来好きだとも言わない。デートにも誘わない。一緒に帰ってはいるが、 今まで通りに他の部員たちと一緒に、である。あの告白を、本人さえ忘れているのではないかと思える態度だ。かえって、萌子の方が知朗への態度に困っている くらいだ。
「多分。あの告白は、そういうんじゃないから。知朗の好きは、友達の好きなんだと思う」
結局萌子の出した結論だ。
知朗の告白は、友達として、マネージャーとして、仲間として萌子を認めた言葉だった。そうすると萌子は安心したが、心のどこかで知朗に振りまわされてしまったような惜しい気持ちもあった。
だんだんと、萌子の言葉に力がなくなっていくことに、成は何故か不安を覚えた。知朗の告白が友情の告白だったということを、萌子が寂しく思っている気がして。
「沢木は、どう思ってる？知朗のこと」
萌子は言葉を慎重に選びながら、答えた。
「仲間、だと思ってる。正直言って、戸惑ってる。あんまり突然だったし、周りの方が騒いでるっていうか」
萌子はふいに朔哉のことを思い出した。朔哉にまでからかわれると思っていなかったから、今日のことは少しショックだった。
けれど、すぐに忘れるようにして、成にバスに戻るよう、萌子は促した。
はぁ、と大きな溜息が二人分こぼれる。
フェンスにしがみつくようにして、二人の様子を見ていた理香と篤志は、二人が消えた途端に溜息をついたのだ。
理香がフェンスに寄りかかりながら言う。
「成君って、ほんど鈍感ね。萌子が半分告白してるようなもんなのに」
篤志は、地面にしゃがみこんだ。
「つーか、お互い好きなのバレバレ」
萌子が成を呼び出しているのを見つけた理香は、篤志を連れて二人の後を追いかけて、こっそり観察していたのだった。
よしっ、という掛け声と共に、理香がすくっと立って、手を大きく上げた。
「ここは、あたしとアッチの出番でしょう」
「そっか、いないのね。良かった」
試合の結果と、成の告白の答えを百合に電話で告げると、百合は嬉しそうな声でそう言った。萌子はそんな百合の笑顔を想像し、嬉しく思うと同時に、別の話をしようとすると、ふいに真剣な声で百合が言った。
「…でも、好きな人とか、いるのかな」
あ、と萌子は小さく叫ぶ。
「ごめん。それ、聞いてなかった」
話が何故か、知朗のことになったので、萌子はそのあと成にいろいろ聞き忘れていたのだ。すると、百合が元気な声を出した。
「いいの。友達だからって、そんな萌子に頼りっぱなしじゃいけないもの」
ありがとね、と百合は明るく言う。けれど、萌子がそんなことないよ、というと、あのね、とまた沈んだ声を出した。
「ごめん、萌子。でも、あとひとつだけお願いがあるの」
「何？」
「あたしと早坂君って、クラスも違うでしょ？…だから、まだ話したこともないの。できれば、一度、話してみたいんだ。…お願い、できる？」
百合の頼みは、萌子にとって難しいことでは全然ない。けれど、萌子のどこかでこのとき少しだけ、ストップがかかった。萌子はその理由を、今まで他のクラスメートなどから、朔哉や横田に対して頼まれたことを、断り続けていたためだと考えた。
「お願い、萌子」
それは、今まで自分の中のポリシーでもあった。
けれど、百合は違う。百合は友達なのだ。
「わかった」
「笠間さんは友近のこと、単純で素直な奴って言ってたらしいけど、あいつって実は策略家じゃねぇの？」
突然声をかけられて、朔哉はびくっと振りかえった。俊平だった。
一昨日の初戦は、無失点で勝ちぬいたが、また今週末にも試合がこの凪浜で行われる。いつも以上にギャラリーや応援が多いだろう。そうおもうと、選手たちの練習にも力が入っていた。
朔哉の足の怪我は、ひどいものでもなく、１日様子を見てみたが、いけるという判断が出た。そもそも、そんな小さな怪我くらいで、試合に出ないわけにはいかない。
俊平は、朔哉の見ていた方向をじっと見ると、こうも言った。
「沢木の奴、ちらちらと友近の方見てさ。気になってしょうがねぇみたいじゃん」
そこには、走っている知朗を見つめている萌子がいる。ここ数日の萌子を見ても、確かに、俊平の言う通りだった。
「ふられる方に、ブリック賭けたんだってな」
情報が早いと、朔哉は心の中で溜息をつく。
「俺だったが、付き合う方に賭けるけど」
「モエチャンには、別に相手がいるんだよ」
「そりゃ初耳だ」
疑った口調に、朔哉は自嘲気味に笑いながらも優しく言う。
「まだお互いに気付いてないみたいだけど、わかるんだ。二人が近づくと、ピンク色の雲が二人を取り囲んで、周りと隔てる壁を作るんだ。モクモクと」
冗談めいて言ったものの、俊平が笑う様子はない。もし、煙草を吸ってよいものならば、俊平はここで一口吸って、ゆっくりと煙を吐きながら言っただろうな、と朔哉は思った。
「よく、見てるんだな」
見えない煙が、消えていくさまをじっと見ている気持ちで朔哉はすぐに言葉を返す。
「ああ、見てる。皆のことを。
お前がさっき練習抜け出して、道場に行ってたことも、司が新しい女と行く映画のチケットを田島に渡してたことも、全部。な」
「萌子、テーピング」
練習中、そう言って知朗が足を出してきた。萌子は一瞬ビクッとしてから、慌てて動き始める。テーピングを巻きながら、そっと知朗の様子を伺うが、知朗はグランドをじっと見つめているだけで何も言わない。
突然、横を司が通りかけて、足を止めた。
「なんすか？」
知朗が、じっと自分たちを見つめる司に気付く。
「いや、逢引きでもやるかなと思ってよ」
司はにやけた顔つきでそう言った。萌子の方が恥ずかしくなって、赤い顔で司に怒鳴った。
「何言ってるんですかっ」
ところが、知朗は冷静に受け答えた。
「見てわかんねぇの？つかっちゃん。テーピング巻いてもらってんの」
拍子抜けしたのは萌子だけでなかった。司までもが、呆気に取られている。
つかっちゃん、などと知朗が呼ぶようになったのは、理香が原因である。理香は、片っ端から先輩にあだ名をつけ始めたのだ。
朔哉はフクチャン、柳田はヤギさん、そして司はつかっちゃん。
先輩や、さん付けするのが面倒だと思っていた知朗には、それが好都合だったようで、どんな場所でもそう呼ぶようになっていた。
しかし司はそう呼ばれることに、あまりいい顔をしていなかった。
「お前さ、そのつかっちゃんっての、やめてくれない？野郎にいわれると、無性に腹が−」
立つと言おうとした時、グランドから声がかかる。後で行くと叫んだものの、大槻っ、と叫ぶ柳田の声がして、仕方なく司はグランドに戻って行った。
「何だっつーんだ？」
そう呟く知朗に、萌子はテーピングを巻き終わったことを告げる。
「サンキュ」
それだけ言うと、知朗はさっさとグランドに戻ろうとした。それが、萌子には意外だった。
知朗ならば、もっとむきになって、司に怒鳴りつけるくらいのことをすると思ったのだ。だからこそ、司だって声をかけた。赤い顔のままの自分が恥ずかしくなって、萌子は思わず言ってしまった。
「知朗のこと、わからないよ。どうしてあの時好きだ何て言ったの？他に何か言ってよ、何か聞いてよ」
歩き出そうとしていた知朗はすぐに振りかえる。知朗は戸惑いもせず、怒りもせず、むしろ冷静に言った。ただし、萌子に向けられたまっすぐな視線だけは、熱を帯びていた。
「何でって、お前が聞いたからだろ？」
そう言った覚えは、萌子にはない。すると知朗は平然とした表情のままで答える。
「写真撮るとき、聞いただろ？」
あ…と萌子は口を抑えた。確かにそうだ。
「だから」
知朗の言っていることが冗談でないことはわかる。
でも、それだけ？
もしわたしが何も聞かなかったら、そうしたら知朗は何もいわなかったとでも言うの？
戸惑う萌子に、知朗は歩み寄ってきて言った。
「こう言いたいんだろ？付き合ってくれって、何で言わないのか。
俺は今の関係が好きだからだ。今のお前が好きだ。それを無理して付き合いたいなんて思ってねぇから、安心しろ」
「安心しろって」
頼もしい言い方に、萌子は何と答えて言いかわからなくなる。知朗は、そんな萌子に、だから、と言いながら頭を掻いた。
「お前はそれを望んでない。だろ？」
言い当てられた萌子は、それまで泳いでいた視線を、スッと下におろした。それでも、知朗は落ちこむ様子はなく話しつづける。
「今の俺は、サッカーで手一杯だ。萌子だってそうだろ。どっちかひとつに選べってわけでもないし、比べるもんでもねぇけど、俺はそんな器用じゃねぇから。
付き合いたいと思ったら、そういう。
萌子のことで、もっと聞きたいことができたら、聞く。
それから、萌子に好きな奴がいるかどうとか、それを聞かないのは、俺に関係ねぇからだ」
「関係…ない？」
そのはっきりした言い方に、萌子は驚いて顔を上げる。知朗が真正面からそんな萌子を見据えた。
「萌子が誰を好きであろうと、誰と付き合っていようと、俺が萌子を好きなことには変わらない。そんなことで俺の気持ちは変わらないってこと。
俺、戻るぞ。練習中だから」
そう言って、結局知朗はグランドに走っていく。萌子はそんな後姿を見ながら、ますます知朗がわからなくなっていった。
練習が終わり、篤志はケンたちと帰りにどこかに寄ろうと話しこんでいた。すると、すでに着替え終わった厳己が、それじゃあと二人に手を振ろうとしている。
「あれ？厳己。どこ行くんだ？」
振りかえった厳己は、顔一杯に笑みを浮かべていた。
「ちょっと、さ。用事があって。門限までには帰るから」
その笑顔に、ケンは疑いの目を向ける。しかし、篤志はあっさりと答えた。
「そ、わかった」
門限までに帰ってくるなら問題はない。特に厳己のようなまじめな人間なら。
「あいつ、デートじゃねぇの？」
ふいにケンが言った。
「かもな。あとで帰って来たらとっちめよう」
部室を意気揚揚と出ていこうとした厳己は、まだ着替え途中の一馬とすれ違った。
「おつかれ、渡部」
明るい声でそういうと、顔を上げた一馬が厳己を確認して答えた。
「ああ、おつかれ」
部室のドアを閉めた途端、厳己は自分が大人になった気がした。
僕は自由だ。
僕はなんだってできるんだ。何だって。
そして、大きく伸びをした。
知朗と目が合うと、確かにどきっとする。
でもそれは、恋をしてるからじゃない。それはわかってる。
でも、最近ずっと目で追いかけてしまっていることも確かだし。
今日はあんな風に言われたし。
これからいったい、どうしたら…。
夏に向かい、日は確実に伸びている。時間は６時半になろうとしていたけれど、海にはまだ夕日が浮かんでいる。悩み事があると海にやってくることは、萌子の習慣になってしまったようだった。
「どうかした？」
ふいに話しかけられて、萌子はどきっとして振りかえると安心した声を出した。
「三上さん…。こんにちは」
三上は笑顔で答えると、堤防に座った萌子の隣に立って、海を眺めている。
「今日の夕焼けは綺麗だね」
梅雨に入り、ぐずついた天気だったのが、今日は雲ひとつないような晴れだったので、今日の夕日もはっきりと海に映し出されていた。海の青と、夕焼けの紅のコントラストがとても綺麗な夕焼けだった。
今日の帰りも、知朗は萌子が用事があるというと、じゃあなと答えてだけで、送っていくとも言わず、何があるのか？とも聞かない。それでも好きだというのだから、ますます萌子は頭を悩ませていた。
ふいに萌子は隣の三上に話しかける。
「あの、三上さん。ちょっといいですか？」
「いらっしゃい」
アルジャーノンのドアを開けると、一馬の声がした。一馬も萌子に気付いて軽く手を上げる。客は他に一組しかいない。
席についた萌子は、三上に知朗の話をした。知朗の言った言葉、それに対しての自分の気持ち。三上は黙って聞いていた。そして、話が終わったところで、運ばれてきたコーヒーを一口飲んで答えた。
「きっと彼は、純粋なんだね」
確かにその通りではある。単純明快というのは、ある意味で純粋なのだ。そして、知朗は、部活にしてもひたむきに目標に向かって走りつづけている。
「まっすぐ、なのはわかるんです。でも、これからどうしたらいいのか」
でも、萌子にはあの知朗の真っ直ぐなところが、恐かった。あまりにまっすぐすぎて、戸惑ってしまう。そして、本当の自分に気付かれてしまう。そんな気がしていた。
三上は、コーヒーをもう一口飲むと、俯いた萌子に優しく声をあけた。
「別にどうもしなくていいんじゃないかな、そのままで。
君が大事な仲間だと思ってるんなら、それでいいんだよ」
そのまま、と萌子が呟いたとき、店の時計が７時を告げた。思い出したように三上は立ちあがり、ちょっとごめんねと電話をかけに行く。
三上のいうとおり。知朗は何も望んではいないし、萌子だってこの仲間の関係が続けばいいと思っている。
今のまま。それでいいんだ。
戻ってきた三上は、自分の鞄を取ると、早口に言った。
「悪いんだけど、用事ができて帰らなきゃいけないんだ」
三上は伝票を取ろうとする。
「いいです、私払います。私が話を聞いてもらったわけだし、ここサッカー部だと割り引きになるんです」
うーんと言った三上だが、素直に萌子の言葉を受け取ることにしたらしい。
「ありがとう」
「いえ、こっちこそ、ありがとうございました。それより、ごめんなさい。帰るところを引きとめて」
「いいって。ちょっと自由奔放な弟に、親が過剰に心配してるから、兄として間に入るだけなんだ」
三上はそう笑って言った。
「弟さん、いるんですか」
「ああ。凪浜の生徒じゃないけどね」
それじゃ、と手を上げて、三上は店を出ていく。ドアが閉まったところで一馬がやってきた。
「うちの先輩か？」
「うん。三上さん。笠間さんの友達」
「…三上」
一馬がそう呟く。
「知り合い？」
一馬は三上の消えていった方を見ながら、答えた。
「いや、違うとおもう」
さっきいたはずの客もいなくなり、店にいるのはマスターと萌子と一馬だけになっていた。
一馬はさっきまで三上が座っていた席に座る。
「随分と悩んでるんだな。知朗のこと」
「そんなこと、ない…けど、でもないか」
軽く笑う萌子に、一馬は言う。
「聞こえてしまって悪いけど、俺は、お前の正直な気持ちをあいつに言えばいいと思うけど」
「それは…。きっと、わかってる、知朗は。ううん。きっとじゃなくて、知ってるの。だから−」
だから、困らせるようなことはしないかもしれない。
ふいに萌子はそう思った。
でも、まさか。
知朗は人に気を使うようなタイプではない。
萌子が紅茶を飲み終えたところで、ふいに一馬が言った。
「俺、お前にさ。言っておきたいことがあったんだ」
「何？やめてよ、知朗みたいなこと言うの」
ふふと萌子が笑うと、一馬は溜息混じりに笑う。
「冗談言うなって。
…お前にさ、昔何があったか知らないけど、話したいと思う時が来たら、話せよ」
一馬が何を言いたいのか、萌子にはわかる。
「ありがと」
そう答えて、支払いをしようすると、一馬が言った。
「支払いは、三上さんって人が済ませたよ」
「厳己、お前朝どこいってたわけ？」
朝練が終わって、教室に向かう途中、上履きを履いていると篤志がそう声をかけてきた。戸惑った厳己が、何も言わないでいると、篤志の方から口を開く。
「今朝さ。１度出かけてから、戻って朝練出ただろ？」
「ああ。ちょっと、その」
バイトを始めたことは、誰にも話してなかった。もし、篤志の母親・昌江にばれるようなことになれば、両親にも伝わるかもしれない。そうすれば、自分がどうなってしまうのか、厳己はよくわかっていた。うまく誤魔化さないとと思っていると、篤志の方から言ってきた。
「もしかして、ロードワークとか？」
「あっ…、うん。まあ。そう…」
曖昧に答えると、ふーんと言って篤志が呟く。
「俺もやろっかな」
慌てたのは厳己だった。もし、篤志にばれたら、いくら信用しているとはいえ、昌江にばれる確率は高い。
「えっ、けど。一人の方がいいよ。篤志とじゃ、話ばっかしそうだし」
その場しのぎのいい訳に、篤志は素直に納得した。
「だな…。そっか、ロードワークか」
「早坂君」
実験のため化学室へ入ろうと成が、振りかえると、萌子と、それから見知らぬ女子生徒がいた。
「今日の練習のこと、聞いた？」
「体育館でやるってこと？」
外は雨だった。これから、本格的な梅雨が始まろうとしているのだ。他愛もない話をしたところで、萌子は自分の隣でじっと二人の様子を伺っている女子生徒をちらりと見て、成に紹介した。
「彼女。クラスメートなの、白井百合」
ほんのり赤らいだ笑顔でこんにちわと言われ、成もなんだか緊張した。
「どうも」
萌子の目が何かを訴えている。慌てて成は続けた。
「早坂デス」
「サッカー部、今度試合あるんでしょ？」
すぐに切り返されて、成は戸惑う。
「日曜にインターの予選が」
「うちでやるの。百合も見においでよ」
成のフォローをするように萌子が百合に言う。
「いいの？」
嬉しそうに百合は笑う。成が口を閉ざしていると、萌子が成に向かって言った。
「別にいいよね？」
「ああ」
百合がまたも嬉しそうに微笑む。
「早坂くんは、出るの？」
「いや、俺は…」
正式な試合で、スタメンにはまだ入ったことがなかった。沈んだ成に気付き、萌子が言う。
「早坂君はサブメンバーなの。もしかしたら、出れるかもしれないんだよね」
多分出れないことは、成にもわかっている。萌子を見ると、成を元気付けようと笑いかけてくる。何も知らない百合が明るく言う。
「すごいね、１年生なのに」
「どうかした？椎名」
廊下の窓から水溜りのできたグランドを見ていた美都は、はっとして振りかえると、心配そうな顔の湊がいた。
「溜息、ついてた」
そう言いながら、湊も美都の隣に立ちグランドを見つめる。
このところ、和美と顔を会わすたびに叱られてばかりで、美都はかなり落ちこんでいた。
「何でもないの」
そう強がってはみたが、すぐに溜息がこぼれる。萌子や理香に相談したくても、仕事ができないという相談は、できる二人にはすべきではなかったし、萌子は 知朗のことがあって、美都の悩みどころではなく、理香は理香で何か考えているようで、美都のことなどかまってくれなかったのだ。
いつまでも立ち去らない湊に、美都はあたしって…と口を開いた。
「あたしって、何をやっても鈍くさくて、もっとてきぱき仕事したいのに、できなくて。皆に迷惑ばかりかけて」
「そんなことないよ」
湊はすぐにフォローをいれる。
「でも、萌子や理香は、言われたことはきちんとできるのに、あたしはできなくて」
言いながら、美都は自分がどんどん惨めに感じた。
どうしてあたしはこうなんだろう。頑張っても、頑張っても、ドジばかりして。
俯く美都に、湊は優しく言う。
「萌子は萌子。小池は小池。椎名は椎名、だよ。
椎名は、確かに速さは遅いかもしれないけど、ひとつの仕事を一生懸命、丁寧にやってるじゃないか」
顔を上げると、湊は温かく笑顔を返してくれていた。
「まだまだこれから、頑張ればいいんだよ」
「…ありがと」
ようやく顔を上げた美都は、ふと廊下に和美を見た気がした。あれ？と思い、じっと目を凝らすが、和美の姿はない。
「どうかした？」
湊が美都の見ている方向を見つめる。和美の教室は、美都の教室からは離れていて、廊下を通ることはないはずだった。
気のせい、だよね。
「何でもない」
そう言って、美都は湊と教室に戻る。その途端に、廊下の角から、和美が顔をのぞかせていた。
「何してたんだよ、成」
化学室に入ると、すでに準備をすませてしまっている篤志が言った。
「ごめん。沢木がいて」
「萌子？」
「廊下であったから」
そこまで言って、二人はあれ？という表情をお互いにする。萌子の教室は、この化学室からは遠いのだ。
「で、何だったわけ？」
篤志にそう聞かれた成は、また首を捻る。よく考えてみれば、どうでもいい話だった。
「…何だったんだろ…」
呟く成に、篤志が意味ありげに言い返す。
「お前に会いに来たんじゃないの？」
「まさかっ」
すぐにそう答えた成だったが、ふいにこの前萌子に聞かれたことを思い出した。
早坂君、つきあってる人とかいる？
まさか。
そう心の中で呟く成は、自分の鼓動が速いことに気付いた。