Maybe Blue 第一部 海の鼓動
向夏1
「友近君。一緒に写真撮ってくれる？」
自分の出番がそろそろ近づいてきて、知朗が立ち上がった時、クラスメートの女の子が話しかけてきた。空はなんとか晴れを保っているような天気だ。
梅雨に入る直前に、凪浜は体育祭というものを開催する。まるで気分が憂鬱になる直前に、楽しいことをやってしまおうとでもいうように。
しかし、時に天気は気まぐれで、本来は二日前だった今年の体育祭は、生憎の天気で今日に延期されていた。だからこそ、生徒たちの気持ちは盛り上がっていた。
知朗は、午前中の最後の競技であり、最も興奮する色別リレーの選手に選ばれていたのだ。
「悪いけど、パス」
はっきりと言われて、カメラを用意していた女の子たちは戸惑う。
「え、どうして？」
それでも、知朗はその女の子たちを無視して、さっさと歩きながら言った。
「そういうことする女は、一人と決めてるんだ」
「萌子っ」
突然呼ばれて振り返ると、やはりそこには知朗がいた。萌子は篤志や理香など、一部の部員たちと一緒に競技を見ているところだった。もとは、笠間のところに練習のことでやってきた萌子と理香だったが、そこに篤志が加わって、気付けば色とりどりのサッカー部員が集まってきていた。
この頃の知朗に、萌子はどう向き合っていいのかわからなくなっていた。思えば、あの関東大会から、知朗が萌子に謝ってから、それまでの険悪な関係は一切なくなった。が、その反対に、知朗は何かと言えば萌子を呼ぶのだ。その掌を返したような態度に、萌子は戸惑っていた。
「写真撮ろうぜ」
知朗はそう言って、カメラを持っている篤志に、自分と萌子を撮るように言う。
「いいけど…。後ろにいる子たち、知朗のこと待ってるんじゃない？」
萌子が振り返ると、憤慨した表情の女の子たちが立っている。
「ああ。いんだよ、そんなの」
「でも」
萌子は後ろを気にしながら言う。
「あの子たちと先に撮ったら。それから、撮ろう」
「俺はお前と撮りたいんだ」
頑固な言い方に萌子は溜息をつく。篤志が撮るよと言って、萌子は仕方なくファインダーをのぞいた。
「最近の知朗、おかしいよ。今朝だって、お弁当作ってくれなんて言うし…」
ブツブツという萌子に、篤志が、二人とも動くなよ、と言っている。
「そんなん、決まってるだろ」
ふいに知朗がそう言った。え？と萌子が言った声に重なって、篤志が1足す1は…と言いかけている。しかし、萌子には、その先の『２』が聞こえなかった。篤志よりも知朗の声が、先に萌子に届いてしまったから。
「お前に惚れてるからだ」
昼休みになった。
朔哉が校舎に戻ろうとしていると、笠間と小山が肩を揺すり合って笑っている。
「何か、あったんですか？」
「朔哉か。友近のことだよ」
友近、と聞いて朔哉はああ、と言う。
「金子さんとのことか」
あの事件以来、知朗の格は上がったかのように扱われている。最も、上級生からはあまり関わらない方がいい1年という扱いになっていた。
「さっきのことだよ」
「さっき…。リレー？」
皆が注目する中で、知朗はなんと4人抜きをしてトップで次の選手にバトンを渡したのだ。見ていた生徒たちも、思わず沸き立った。
「違う、違う。その前」
「友近が、突然告白したんだ。沢木に、公衆の面前で」
は？という顔の朔哉に、小山は続けて言う。
「素直もあそこまで来たら、馬鹿正直みたいなもんだよ」
そこで、また二人は笑い出す。朔哉はそんな二人についていけない。想像ができないのだ。最近まで触れるとケンカをしていたような二人が、仲良くなっただけでも驚きなのに。
でも、よくよく考えれば友近が一方的に沢木を冷たくあしらっていたのを、止めただけか。でも、それにしても、友近が告白だって？何がどうなってるんだか。
「それで、沢木はどうしたんですか？」
朔哉は興味なさそうにそう尋ねた。自分の気持ちを隠す事など、いつものことだった。
「呆気にとられて、一言ありがとうだってさ。友近はすぐにリレーに出るためにその場を離れて、取り残された沢木が居たたまれなくなって校舎に戻っていった」
ということは、つまりＯＫを出したわけでもなければ、断ったわけでもない。
まぁ。それが妥当ってところだけど。
「それにしても、沢木は一歩前進かと思ったら、後退したようなもんだな」
笑顔の笠間に、朔哉は答える。
「まだまだ、ですよ。友近は確かに単純かもしれないけど、一筋縄じゃいかない奴が、ゴロゴロしてますから。藤原だって、解決したわけじゃなし。特に、高岡は頑固だし」
笠間はそうだな、と真剣に答えてから、それでもまたすぐに笑顔に戻った。
「しかし、沢木はつきあうのかな。友近と」
「あれで結構かわいい顔してるからな、友近」
小山がそう答える。太陽にかかっていた雲がようやく消えて、グランドは一気に夏を向えたように明るくなった。朔哉は眩しそうに空を見上げながら言う。
「俺は、付き合わない方にブリック1個」
「モテモテだな、モエコチャン」
昼休みも終わってグランドに出てきたところ、司と鉢合わせたモエコは、そのまま右向け右をして、帰りたくなった。それほど、司の顔はにやけていたのだ。
「からかわないで下さい」
司を避けて通ろうとする萌子の後ろを、司はそのままの顔つきでついてくる。
「で、友近とお付き合いするんですか？」
知朗の告白のせいで、萌子は今や時の人となっていた。どこを歩いても、指をさされて、あの人1年1組の友近君に告白されたんだって、と囁かれているのだ。萌子はそんな好奇に満ちた視線が堪えられなかった。
「別にそう言われたわけじゃないですっ。だいたい、大槻先輩は、関係無いでしょ」
「あーあ、ふっちゃうんだ。もったいな」
「もったいないとか、そうゆうことじゃありませんっ」
萌子は早く、ニヤニヤと笑う司を振り払いたいのに、司はどこまでも萌子を追いかけてくるのだ。
「つきあってみりゃいいじゃん。男の価値なんて、すぐにわかんねぇって。試しに付き合って、相性悪いんなら別れりゃいいんだからさ。あ、相性ってのは、性格の相性じゃねぇよ、もちろん−」
「先輩っ」
怒鳴りつけた萌子だが、司の顔はにやけたままだ。
萌子は大きくため息をつき、ふと思い出したことを聞いた。
「そんなことより、聞きたいことがあったんです。和美の好きな人って誰なんですか？」
しかし、司は腕組をして意地悪くこう答えた。
「俺のモットーは、ギブ・アンド・テイクだ。教えてやってもいいが、そのかわり−」
「もういいですっ」
司の言いたいことはわかっている。萌子はすぐに答えて、司を振りきるように走り出していった。
午後の練習開始の時間を聞こうと、成は萌子か笠間を探していた。が、グランドにその姿は見当たらない。
雲隠れ、してるのかな。
萌子と知朗の話は、成もすでに聞いていた。
自分には到底できないことだ。いつもながら、知朗には驚かされる。
沢木はなんて返事するんだろう。付き合うのかな。
知朗はそのキャラクターからも、ルックスの可愛らしさからも、女生徒からの人気が高かった。それに、根が言い奴だということは成も知っている。それにこの前の事件が、さらに評判をよくしていた。
そう考えて、成は何もできない自分がひどくもどかしく感じた。
自分の中で、萌子が占める部分が大きくなってることは、自分でも感じていたことだった。でも、自分からは動けない。もともとそういう性格だったが、去年の嫌な思い出があって、更にひどくなった気がしていた。特に女の子に対して。
そんなことを考えている時、成にはどこかを見つめている美都の姿が目に映った。
椎名に聞くかな。
そう思って歩き出したところ、自分よりも前に、和美が美都に話しかけていた。いけないとは思いながらも、ついつい成は耳を傾けていた。
「どんくせー女だな。全く。こけてんじゃねぇよ」
美都は俯いている。
ずいぶん、キツイ言い方だな。
和美はそれだけ言うと、さっさとどこかに行ってしまう。そこで、成は美都に声をかけた。
美都は一応は練習の時間を知っていたけれど、念のために萌子や理香に聞いて欲しいと言った。暗い表情に、成は何も言えずにいると、
「ごめんね。あたし。ちょっと保健室行くから」
と言った。どうしたんだという成に、美都は恥ずかしそうに言う。
「さっき、走ってて転んじゃって。ムカデ競争」
よく見ると、膝がすりむけて、血が微かに滲んでいる。そこで、成は初めて和美の言っていたことを理解した。
それにしても、何であいつはそれだけ言うために椎名に声をかけたんだろう。
成はそう思ったけれど、後ろからケンに思いきり頭を叩かれて、怒りとともにすぐに忘れてしまった。
「だって、好きだって言われたから、ありがとうって言ったのよ。どこか間違ってる？」
萌子は興奮しているのか、多少早口に理香に言った。質問したのは理香だったのに、勢いは萌子に押されている。練習前のミーティングルームは、女子の更衣 室となっていて、ここにいるのはマネージャーの三人だけだった。ミーティングルームに入る前は、篤志に同じ質問をされ、その前はケン、その前はクラスメー トに、その前は…。考えるだけでも、萌子は頭が痛くなりそうだったところに、理香だったのだ。
「間違ってるような、間違ってないような」
はっきりしない理香に、萌子は間違ってないわよ、と説得させるような言い方をする。美都は、ずっと落ちこんでいるのか口を利かない状態だったけれど、二人にとってはそれどころではなかったのだ。
「でも、付き合うの？どうするの？」
のぞきこまれるようにして、理香に聞かれ、萌子はちょっと悩んでからはっきりと答えた。
「知朗とは、いい仲間だと思う」
なるほどね、と理香が言った。
「友達としてしか見れないってことか」
「だって、つい最近まで邪険に扱われてたのに、それが急に掌を返したみたいになったので、充分驚いているのに」
あんなこと、言い出すなんて…。そう思って萌子は知朗の瞳を思い出していた。
まっすぐに、萌子を見ていた。何もかも、見透かされそうだった。
「それじゃ、知君はふられるわけか」
萌子は軽く唇をかんだ。
「知朗には、もっといい人がいるだろうし、それに今の私には、そういう人は必要無いもの」
今度は理香が考え込む番だった。
「あたしはそんなことないと思うよ。好きな人がいると、世界が明るくなって、毎日楽しいもの。ね、萌子。本当に好きな人いないの？」
『本当にいないのね。信じていいよね』
ふいに萌子の中で、記憶のある声と理香とが重なる。
「何度も言わせないで」
何でもないようにかわす萌子だが、ロッカーを閉める手が微妙に震えている。けれど、理香は気付かずに話を続ける。
「萌子が、気付いてないだけじゃないの？ちょっとくらい気になるような人はいるんでしょ？ああ、この人いい人だなぁとか、かっこいいいなぁとか、気が合うなぁとかさ」
いい人…。
そう、思った。あの時も、側にいて安心できる人だって。
でも、それで…。
急に黙り込んでしまった萌子に、理香は脈アリと思って話を続ける。
「例えば、知君だって、今は気になる存在でしょ？他にも、身近な人でさ。近くに居過ぎて気付けないんだけど、よくよく考えてみると、実はぁ−」
そう。
気がついたら、その存在は思っていた以上に大きかったんだ。
じっと自分を見つめる理香の視線に気付いて、萌子ははっとすると軽く流すように言う。
「もう理香ってば。芸能リポーターみたいに聞かないでよ」
そういうと、さっさと着替え終わった萌子はミーティングルームを出ていく。その後姿を見ながら、理香は腕組をして呟くのだった。
「なるほどね。のんびりしている二人には、ちょうどいいカンフル剤になったな、知君も。なんて言ったら、知君に悪いか」
萌子の妙なぎこちなさを、理香は自分の話から、ようやく成を好きかもしれないという気持ちに気付き始めたのだと思っていた。
その理香も着替え終わり、ロッカーを閉めると、まだ着替えている美都に声をかけた。
「美都も、遅れないでね」
うんと答えた美都だったけれど、気が進まずに、動きはむしろ遅くなるばかりだった。
どんくせー女だな。
和美の言葉が、耳から離れなかった。
「こないだといい、今日といい。しっかしお前も何しでかすかわかんねぇな」
着替え中、ケンは隣の知朗に話しかけた。知朗はスパイクのヒモを締めながら平然という。
「俺はただ、自分に正直に生きてるだけだ」
「けど、あんな公衆の面前で告白するこたなかったろ」
非難的なケンに、知朗はさらりと答える。
「関係ねぇよ」
そして、さっさと部室を出ていってしまった。その後姿を見て、ケンが言った。
「自信あんだか、ただの馬鹿なんだか」
「けど、勇気はあるよな」
厳己の呟きに、ケンは溜息と共に答える。
「確かに」
部室を出ていこうとしたケンを、篤志がふいに引きとめた。
「仲直り、したんだな」
「あいつらのことか？あれは仲直りってより、愛の告白ってやつでしょ」
「そうじゃなくて、お前と彼女だよ。昨日は長電話してたみたいだったからさ」
萌子と知朗のことを言われるのかと思っていたが、自分と亮子のことを言われてケンは驚いた。
「ここんとこ、電話してないって聞いたし。試合のときも、会えなかったんだろ？」
篤志は心配そうに言った。10分で戻ってくるといったケンは、ものの5分で戻ってきて、その暗い表情から、篤志は二人がうまく出会えなかったのだと感じたのだ。それに、あれ以来、ケンは時折元気がなさそうな顔をしているのを知っていた。
「ケンカもしてねぇのに、仲直りすっかよ」
ケンは篤志の肩を小突く。
「昨日も電話したし、お前になんか心配されてたまるかよ」
冗談めいたような言い方に、篤志はほっと安心した。ケンも、心の中で、そうだよと納得させるように呟いた。
気になる人くらい、いるでしょ？
理香の声は、まだ萌子の中に残っていた。
確かに、いないわけではない。何故だろう。何でも話せてしまうのは。何故だろう。何故、早坂君には話せるんだろう。
でも、今の私には好きな人なんて必要無い。いても、いけないんだ。
そんな萌子の意志が、心を抑える。
グランドに出ると、ちょうど体育祭の後片付けをしているところだった。入場門と書かれたゲートが外されている。紅白のテープが、螺旋を描くように巻かれたポールは、去年のことを思い出させた。
思えば、あの時。隣の男子校の体育祭に行こうと誘われたときに断っておけばよかったのかもしれない。そうすれば、出会わずにすんだ。そうすれば…。
そこまで考えて、萌子は溜息をつく。
…馬鹿みたい。そんなこと考えても、もう終わってしまったことなのに。
「あ、すみません。ちょっと通してもらえます？」
体育委員だろうか、ポールを抱えた生徒に言われて、萌子は横にどく。すみません、と言われ、ポールは体育館へと運ばれていく。萌子は自然とそのポールを目で追いかけていた。
元気…かな。
ふとそんなことを思った。けれど、会いたいとは思わなかった。凪浜に来てから、思い出すことさえなかった。それだけ、忙しかったし、それどころではなかった。第一、思い出すにはまだ早い。
体育委員は、途中でまたすみませんと言っている。気付いて萌子が顔を上げると、そこには練習の為に出てきた成がいた。慌ててポールを避ける成と視線が合 う。成は、アッと声にならない声をあげ、萌子に微笑みかけた。しかし、萌子は何も気付かなかったように、成にくるりと背を向けると、そのまま小走りに走っ ていった。
軽く手を上げようとしていた成は、萌子に気付かれなかったので、仕方なく手を下ろした。
「どうかした？成」
後ろからやってきた湊がそう言う。
「何でも、ない」
そう答えた成だったけれど、本当は萌子が自分を無視したように見えたことが気になっていた。
翌日、萌子は知朗との噂の続きを、百合から聞かされることになった。
2時間目の音楽の為に、移動していたその途中で百合にこう聞かれたのだ。
「ねぇ萌子。どうしてサッカー部の友近君、断ったの？」
どうやら、知朗が告白した、から、知朗がふられた、にステップアップしたようだ。
「別に断ってないけど」
「それじゃ、付き合うの？」
そう聞かれて萌子は困ってしまう。それは全て知朗にある。
昨日、部活の帰りは確かに萌子に一緒に帰ろうと言った知朗だったが、他に部員もいつもと同じでいたし、それでも知朗は嫌そうな表情をすることはなく、そしてまた萌子をデートに誘うこともしなかった。
聞き間違えたのかな。
思わすそう思えてしまうような態度だった。
「つきあわないよ」
と言いながらも、それが萌子だけの言葉でない気がしていた。萌子には、知朗がそれを望んでいない気がしたのだ。
「他に、好きな人いるとか？」
黙りこんでしまった萌子に、百合は不安そうに尋ねる。
「違うけど…」
ふいに萌子は知朗がいったい何をしたいのか分からなくなった。
好きだから、つきあってくれ、って言われるんだったらわかるけど、ただ好きだってだけで、もしかしたら、知朗の言ってる好きというのは、一般の好きとは違うのかもしれない。だったら…。
そう考えると、萌子は心が少し軽くなった。
しばらくは、そういうことから遠ざかっていたいのだ。今は…。
そう今は、心をときめかすのはサッカーで充分。
「あのね」
考え込んでいた萌子に、百合がかなりの間を置いてから言った。
「何？」
萌子が顔を向けると、百合は顔を赤らめて告白した。
「あたし、できたの。好きな人。萌子も、知ってる人よ」
驚いた萌子は、とりあえず聞いた。
「クラスメ−ト？」
「じゃなくて…」
俯いた百合を見て、萌子はピンと来た。
「…サッカー部？」
時間をかけて百合は頷く。
誰だというのだろうか。朔哉か、それとも横田なのか。それとも…？
「うん。２組の、早坂君」
その告白は、知朗のよりも真実味があった。
カチリと音がして、萌子の心の扉がひとつ、閉められた。
厳己は、買ったばかりの履歴書を取り出して、ふうと息をついた。必要事項は、住所に、氏名、年齢…。
保護者の名前。
厳己はごくりと唾を飲みこんだ。素直に名前を書いてくれないことだけは確かだ。
母親は心配するだろうし、父親は…。言うことはいつも同じだ。
どうすればいいんだろう。
ふいに厳己は、一馬の言葉を思い出す。
やりたいことがあったら、どんな状況でもやり抜けるんだ。
自分にもできるかは、わからない。でも、やってみたい。
今のままの自分では、父は説得できないのだから。
一馬のように、立派に一人でもやっていけるようになれば、きっと認めてくれるはずなんだ。
父さんだって。