Maybe Blue 第一部 海の鼓動
初夏9
中間試験が終わるとすぐに関東大会が始まった。公式試合ということで、部員の参加は前提だ。レギュラー選手たちＡチームはバスで移動、他の部員は電車で会場に向かう。
萌子がバスの中で、レギュラー選手たちの間を走り回っていると、柳田が突然声をかけてきた。
「おい、沢木。お前、部内に好きな男がいるそうだな」
「何ですか、突然」
萌子は理香の余計な発言を知らなかった。柳田は素直に答えなかった萌子を、反応アリと判断した。もちろん目的は、萌子をいびることである。
「やっぱりお前はそれが目当てで入部を−」
「今部員の間では、その話が持ちきりなんだけど、真相はどうなんだい？」
横槍が入って、柳田は隣の小山を睨む。萌子は驚いた顔をしてから、無機質に答えた。
「いませんよ。…いても、柳田さんには内緒にしておきます」
「何だと？」
「姑より恐い舅みたいなんだもの」
「しゅ…っ？！」
小山は声を殺して笑っている。からかうつもりが、からかわれたのは柳田だった。
その後ろから、笠間が顔を出してきた。今回、笠間は一応マネージャーとして参加をしている。
「でも、田島はそう言って断られたそうじゃないか」
「違いますよ。やだな、ただ一馬とつきあっているのかって聞かれたから、一馬は違いますといっただけです」
「その言い方じゃ、他がいるように聞こえるな」
「だって、最後まで聞かないで田島さんいなくなっちゃうんだもの。呼び出して、きちんと話しなおすようなことでもないし」
「だけど、気になる男がいるらしいとも聞いたよ」
小山がそう聞いた。
あの時は、と萌子は思い出す。
呼び出され、付き合ってほしいと言われた。断ると、一馬のことを聞かれたので、否定をした。それから、田島が聞いたのだ。
だったら、気になる奴、いるとか？
聞かれた萌子は、すぐに返事ができなかった。男として、かはわからないけれど、側にいて疲れない人間、自然と何でも話せてしまう人間がいることに気付いたからだ。
そう、萌子が知る限りで二人目の…。
萌子が答えずにいることを、田島は他に好きな人間がいるのだと判断をしたのだ。
三人の視線が自分に集まっていることに気付いて、萌子は慌ててニコッとすると、はっきり言った。
「いますよ」
「やっぱりいるんじゃねぇか」
柳田がにやりと笑った。萌子は得意そうに言う。
「柳田さん」
「へ？」
一瞬にして柳田の顔が、驚きで崩れる。そこで、すかさず萌子は言った。
「だって、いつも人の粗探しばかりしてるから、こっちもチェックいれてないと、やられちゃうもの」
「お前な…」
「まさに嫁姑の闘いだな」
小山がそう言って、笠間と笑い転げていた。馬鹿にされたと思った柳田は、萌子を睨みつけて何か言い返そうとしたのだが、言葉がうまく出てこなかった。その隙に、萌子は自分の席に戻る。そしてそっと溜息をついた。
好きな人なんて、いない。
そんな人、わたしにはいない。
いなくったって、生きていけるもの。
それでも、目を瞑ると、耳にはさざなみの音が響いてくる。爽やかな風の感触まで感じそうになったところで、全てを振り払うように萌子は目を開けた。
萌子の席は一番前であったが、そこから三つほど後ろの席には、一年生三人、右京と成、そして知朗がいた。知朗は、試合前にＡに昇格したことに加え、初めてサブメンバーに名前をつらねたことで、わくわくしていた。
「今日は高葦商だろ？楽勝だな」
強気な知朗に、成は言う。
「でも、あそこの奴らって、皆背が高いんだよな」
凪浜は決して整った体格のチームでは無い。
けれど、そんな成の呟きも耳にはいらないように、知朗は言った。
「何言ってんだ、関係ねぇっつーの、そういうのは」
その横で、初先発となった右京は、一人ウォークマンを聴いていた。
競技場に着いた美都は、選手たちのためのドリンクを目の前にして悩んでいた。
持てるかな。
三リットル入りの魔法瓶二つに、タオルを脇に抱えなければならない。理香は自分の仕事で手一杯のようだった。
よしっ。
気合を入れて持ち上げようとした時、隣からすっと手が伸びて魔法瓶を持ち上げていた。
「和泉君」
湊は、魔法瓶二つを抱えると、笑顔を見せる。
「大変そうだから、俺が持っていっておくよ」
「ありがとう」
湊はこのくらい簡単だと言って、先に選手の控え室の方に向かう。助かったと美都が息を吐いて、顔を上げた時、そこには和美の姿があった。
「あ…の」
怒った表情の和美に、美都は驚いて何を言えばいいのかわからなくなる。
そして和美は美都を怒鳴りつけた。
「お前の仕事だろっ、お前がやれよっ」
それだけ言うと、さっさと他の一年生に混じっていく。
また、怒られた。
美都は手にあるタオルに、顔をうずめたくなった。
「椎名」
ところが声をかけられて、美都は慌てて顔を上げる。そこには成がいた。
「あのさ。氷を持ってきてもらうように言われたんだ」
「それなら高岡君が…。持って行ったと思う」
心なしか、成は美都が今にも泣き出しそうに見える。成は、多分入れ違いになったんだといってから、ちょっと心配そうに聞いた。
「何か、あった？北内と」
Ａにはなった成だったが、今回は調子が上がらず、サブも外れて、サポート側にまわることになっていた。Ａだからといって、決してレギュラーになれるわけではないのだ。
サポートという仕事は初めてだったが、とりあえず笠間たちの指示のもとに動いていた。その一つが、怪我をした時のための氷を、観客席にいる部員が用意し てるから、控え室に持ってくる仕事だった。理香か美都が用意しているという萌子の話を受けて、見つけた美都に声をかけようとしたところ、自分の反対側から 和美が困った顔の美都のところに歩み寄るのが見えた。思わず足をとめた成だったが、和美が声をかける前に、湊が先に美都に近づいていた。二人は笑顔で話し 出す。そして、湊がいなくなったところで、ようやく美都が和美に気付き、和美が何かを言った。時間にして数秒。そして、和美はさっさと姿を消し、残された 美都は顔を俯かせていたのだった。
「何でもないの。仕事をきちんとやれって言われただけ」
そう答えると、美都は仕事があるからと成の前から走り去っていく。
美都は柔らかそうに言っていたけれど、和美は怒鳴っているようにも見えた。それに、言い終わったあとで、和美はさっさと１年の集団の中に戻っていったのだ。しかも肩をいからせて。
どうも、あいつはわからない。
成は首をひねりながら、控え室に向かった。
その頃、控え室では問題が起きていた。レギュラーのフォワードである太田が練習中に足を怪我したのだ。大怪我ではないものの、今回の試合は見送った方がいいというドクターストップがかかった。メンバー表の提出まで、あと十分ほどしかない。
「どうします、監督。やはり三好で行きますか」
言われたサブの三好は、もう自分が行くものと考えて、ブレーカーを脱ごうとしている。コーチにはそう言われた石橋だったが、ずっと組んでいた腕を外すとこう言った。
「いや、今回は友近で行こう」
部員全員の目が石橋と知朗に注がれる。
「しかし、高葦商のディフェンス陣は、平均身長百七十五ですよ。友近は六十ちょっとです。競り合いに勝つのは難しいです」
そういうコーチを無視し、石橋は知朗に尋ねる。
「どうだ、友近。やれるか？」
知朗は大きな声ではっきりと答えた。
「できますっ」
頷く知朗を見て、石橋は選手たちに言う。
「作戦を変更する、いいな」
「な。頼むからさ。アッチ」
篤志の目の前で、ケンは頭を下げている。それにどう答えていいのか、篤志も悩んでいた。
「たかが、二十分、抜けるだけだからさ」
ブリックも奢ってやるからといわれ、渋々篤志は口を開いた。
「わかったよ、なんとか誤魔化しとく」
途端にケンは顔を上げた。
「サンキュッ、アッチ」
「あ、ケン。試合には間に合うように帰って来いよ」
ケンは足を止めることなく、わかったという声だけが篤志に届く。全く、と篤志は溜息をついた。
関東大会の会場で、恋人と待ち合わせという話を聞いたら、柳田などはケンを退部させるだろうことを予測して、篤志はもう一度大きく溜息をついた。
ケンも、目的が試合であることはわかっている。それでも、亮子に会いたかったのだ。
付き合って半年の恋人に、ケンはもう一ヶ月ほど会ってない。電話では毎日のように会話をするものの、やはり顔を見るのと見ないのとでは大違いだ。偶然に も、亮子の通う扶洋高校も関東大会への出場を決め、また幸運にも同じ競技場での試合であった。そこから亮子が言い出したのだ。ケンに会いたい、と。
約束の時間にもうなろうとしていた。待ち合わせたのは正門。ケンが大急ぎで走っていると、横からふいに声をかけられた。
「…ケン？」
声に聞き覚えのあるケンは、足を止めて、慎重にその方向を見た。馴染みのあるウェアの集団の中に、知っている顔がこっちを見ている。
「やっぱりケンじゃねぇか。久しぶり」
それは、中学時代の友人であり、チームメイトでもあり、今は扶洋に通う赤坂だった。
ケンは戸惑いを格して、笑顔を浮かべる。
「赤坂じゃん。久しぶり。元気だったか？」
「当たり前っ、お前も元気そうだな」
赤坂の笑顔に嘘はない。しかし、ケンはそれこそが嘘のように思えた。
「調子はどうよ」
「まあまあ、だな」
「聞いてくれよ。俺さ、レギュラーになったんだぜ」
その言葉はケンを驚かせた。
一年なのに、もうレギュラーかよ。
けれど、そんなそぶりは見せずに、ケンは明るく答える。
「やったな、赤坂」
「お前は？」
聞かれたケンは何も言えなくなる。レギュラーどころか、Ａチームにすらはいっていない。
「まあ、インターの頃には、そうなってるさ」
見栄を張ってはみたものの、赤坂にはそんなケンの状況がわかるはずもない。
「それにしてもお前、何してんだよ、もうすぐ凪浜の試合だろ？
あ、亮子か？全く、お前らもやってくれるよな。試合についてくなんて亮子がいうから、何事かと思えば、そういうことか」
亮子という馴れ馴れしい呼び方が気になったが。そういえば、亮子が赤坂と同じクラスだということをケンは思い出した。そのとき、赤坂を呼ぶ声がした。
「おい、何やってるんだ。先いってるぞ」
「すみません、今行きます」
声をかけた人間が、ケンをかるく睨んでいた。その人間以外にも、見覚えのある顔がケンをじっと睨んでいる。なんで、お前がこんなところにいるんだと、言いたそうな視線だ。
「それじゃな。これから俺ら、凪浜の試合を見るんだ。次の対戦に備えて」
今日の試合に両校とも勝った場合には、次の試合でぶつかることになるのだ。
赤坂は慌しくケンのをに走っていこうとする。明るい赤坂の笑顔が、ケンの胸をしめつける。ケンは、低い声で赤坂を引き止めた。
「赤坂。亮子に伝えてほしいんだ」
何だ？と赤坂は足を止める。
「試合始まるから、そっちに行けないって伝えてくれ」
「あと五分でグランドに行くからな」
小山がそう言った。ユニホームを着た選手たちは、皆緊張した面持ちだ。小山はじっと座りこんだままだし、柳田は軽く肩を回している。右京は、一人ウォークマンを聞いている。ニ・三年の中で、ただ一人の一年レギュラーである右京だが、彼が一番落ちついていた。
「どうした、友近」
突然立ちあがった知朗に、朔哉が声をかける。
「便所」
先発を聞かされてから、３度目のトイレだった。緊張しているのだ。落ちつきたいからと、個室に入って、蓋の上に座り、大きく溜息をつく。それでも、気持ちはどこか落ち着かない。
「大丈夫かな、あいつ」
ふいに知っている声が聞こえてきた。凪のニ年生だ。
「友近？」
答えたのも凪のニ年生で、今回知朗が入ったことからＢチーム落ちした選手だった。
「監督の前ではできるなんて答えたけどさ、どうみたってあれじゃ緊張しまくり。相手じゃなくて自分のところにゴールだってやりかねない雰囲気だぜ」
「いつも大見栄張って、強気なことばっか言ってるくせに、いざとなると小心者なんだな」
なんだとっ、とドアを蹴破った知朗だったが、そこには部員の姿は無く、揺れてるドアが閉まろうとしていた。
「ざけんなよ」
呟いてみたところで、かえって鼓動は高鳴るだけだった。
トイレを出て、控え室に戻ろうとしたところで、知朗は突然壁が現れたかのように、目の前が暗くなり、そしてその壁にぶつかり、倒れてしまった。
「いってぇ…」
しかし、相手はびくともせず、知朗をちらりと見ている。
「悪いな、見えなかったもんで」
知朗が打った腰をさすりながら立ちあがると、ぶつかった相手がそう言った。何だとっ、と顔を上げると、そこには高葦商のユニホームを着た選手が立っていた。
「おい、堺。行こうぜ」
声をかけたのは、同じ高葦商のユニホームを着た選手だ。堺はわかったと言い残して、トイレのドアに手をかける。知朗は舌打ちをしながら、汚れたユニホームの泥を払う。そのとき、トイレに入ろうとした堺の声が、知朗に届いた。
「あんなチビがトップだってよ。俺たちも馬鹿にされたもんだな」
カチンときた知朗は、思わず堺を降りかえったが、その大きな背中を見ていると、何故か飛びかかれずにいた。そんな知朗に気付いてか、堺が言う。
「今日は完封勝利だぜ」
知朗は、俯いていた顔を上げると、そのまま堺に向かっていこうとした。しかし、途中で見覚えのある顔が邪魔をする。
「…沢木」
どけ、という前に、萌子は堺に向かって言った。
「今の言葉、試合中に後悔することになるわよ」
何だこいつ、という堺に、隣にいた高葦商の選手が凪浜のマネージャーだと言う。しばらく萌子の顔をじっと見ていた堺だったが、相手にしても仕方ないと思ったのか、さっさとトイレに入っていった。
「お前…」
半分呆れたような顔の知朗に、萌子は言う。
「関係無いでしょ、身長なんて。だって知朗は、今まで頑張ってきて、その結果レギュラーになれたんだもの。それに、知朗のいいところは別にある」
知朗は息を呑んだ。
「…今の誰かわかってるのかよ」
「知ってるわよ、高葦商のストッパーの堺でしょ」
「五本の指に入るって言われてるんだぞ」
だからこそ、知朗は顔を見て堺だとすぐに分かったのだ。
しかし、萌子は平然と言う。
「だから、どうしたのよ。自信ないわけ？始まる前から、負けると思ってるの？」
どうなのよ、という萌子に、知朗は思わず叫んでいた。
「ばっ馬鹿野郎っ。んなわけねぇだろっ。俺が、一番だっ。勝ってみせるっ」
周りの選手も、そんな知朗を見つめる。その中で、萌子は笑顔を浮かべてこう続けた。
「だったら、頑張ってきなさいよ」
「言われなくてもやってくらぁ」
そう言われた知朗は、勇み足で控え室へと戻っていった。
「ああ、早坂。頼んだ氷、高岡が今持ってきてくれたんだ。悪かったな」
控え室に戻った成に、笠間がそう言う。箸って戻ってきた成は、息を整えながらいいえと答える。
「結構、大変ですね」
そんな自分を見つめる笠間との間が持てなくなった成がそう言うと、笠間はハハハと笑った。
「早坂はこういう仕事したことないのか」
言われてみれば、そうだった。先輩の荷物持ちはしたことがある。けれど、こういう雑用はしたことがなかった。中学のときは、すぐにレギュラーになって、自分のことをしていればよかったし、マネージャーもいた。
「感謝しなきゃ、駄目ですね。マネージャーに」
すると笠間は、まあなというように軽くまた笑う。
「レギュラーになる前に、いい経験したとでも思って、今回は一生懸命働いてくれよ」
そう言って、笠間は溜息をつきたい気分になった。
例えば皆に、こういう仕事をやらせたとして、何人かはマネージャーのありがたみを成のように感じてくれるだろう。
もちろん、しなくても朔哉のように感謝している部員もいる。
それから、やったとしても、何も感じない人間もいる。ああ、マネージャーは大変だな。それで終わり。
そして、高岡は、頭では理解している。大変な仕事だと。それでも、自分がやるべき仕事で無いと思っている。それはある意味正しい。マネージャーはマネージャー。部員の士気を取るのは、責任を負っているのは、全て自分一人である。そして、たしかにそれができる男でもある。
だけど、いつかその気持ちに、自分が押しつぶされるときが来るかもしれない。
笠間は何とかしてやりたかった。しかし、何をしても由太はその裏を見て、表面上は理解したフリをする。
でも、それでは駄目なんだ。
ふうと溜息をつく笠間に、小山の声が聞こえた。
「行くぞっ」