Maybe Blue 第一部 海の鼓動
初夏8
「ありがとう」
すれ違う瞬間にそう言われた成は、戸惑いながら振りかえり、萌子にその答えを求めた。
練習が終わって、部室に戻ろうとしていたときだった。成が一番最後に片付けたために、周りに部員はもういない。
萌子は少し恥ずかしそうに時々俯きながら言った。
「この前、一馬のことでかばってくれたって、篤志が言ってたから」
呼び方が変わったことに成は気付く。ことはうまくいっているのだろう。ああと答えながら、成は顔を赤らめて萌子と同じように俯いた。
「すごく嬉しかった。わかってくれてる人がいるんだなって」
本当にありがとうと顔を上げた萌子と、成の視線が初めて交わる。二人はどちらからともなく微笑み合う。
優しい風が、二人を包んでいた。
「やっぱりな」
そう呟いた理香は、隣に朔哉がいたことを思い出して、慌てて言った。
「内緒っ、ですよ、このこと。二人のこと」
二人を見つけたのは偶然だったが、理香がそれ以上のことを言わなくても、朔哉には理香の言いたいことがわかった。
黙ったまま二人を見ている朔哉に、理香は余計にあせりを感じた。
「あの二人、結構いい感じなんです。でも萌子のことだから、変に騒いだら、きっとうまくいかなくなるだろうから。だから、何も言わないで、そっと見守っててくださいね、朔哉先輩」
朔哉はああとだけ答える。表情がどこか驚いているように思えて、理香はこう呟いた。
「萌子の本命、かずまっちだと思ってたんですか？先輩もまだまだね。あれはただの噂です、ウ・ワ・サ」
けれど、そんな言葉も、朔哉の耳には届いてなかった。
全てが片付いた後で、篤志やケンは、理香から本当のことを聞いた。
「それじゃ何？萌子と渡部って結局何でもなかったわけ？」
まずケンががっくりしたような声でいった。
「そういういこと」
「つまんねぇのっ」
おそらくこの話題は、明日中には部内に広まり、山田は小躍りすることだろう。
理香は冗談じゃないという顔をして、ケンに言いかけた。
「当たり前よ、だいだい萌子はっ−」
「萌子は、何？」
あっという表情で、理香は口に手を当てる。こういったところも篤志に似てきてるのかもしれない。ケンは再び目を輝かせる。
「もしかして、他に好きな奴がいるとか？」
「サッカー部でっ？」
理香は知らんぷりをして言う。
「な、なんでもないよっ。さっ、帰って勉強しないとっ」
篤志やケンがうるさく問い詰めようとしても、理香はさっさと部室のドアを閉めた。
さっき見たことは、誰にも内緒なのだから。
「田島どうしたわけ？ひどく落ちこんでるけど」
練習から引き上げてきた朔哉は、部室の一角が妙に暗いことに気付いて俊平に聞いた。
「ふられたんだよ、沢木に」
「田島マジだったの？馬鹿な奴」
「司ッ」
横から司が田島に届く音量で言った。朔哉は司をこづいた。
「ホラ、最近一年の渡部といろいろ噂なってただろ？けど、あれがただの噂だってわかって、焦って告白したんだってさ。ところが」
そこで俊平は大きくバツ印を作る。
「で。断られたときに、そのことも聞いたらしいんだ。ところが、渡部は違うらしいんだけど、他に気になる奴がいるみたいでさ」
「誰だれ？」
司はこの時ばかりはと、身を乗り出して俊平の話に耳を傾ける。
もし、その相手がわかったら、沢木のこと、とことんからかってやる。
ところが、俊平は、残念そうに言う。
「それは教えてもらえなかったって」
何だよ、と司は言ってから、田島に向かっていっている。
「じゃ、仕方ねぇな。俺が別の女でも紹介してやっか」
朔哉はさりげなく部室を出て、壁にもたれた。
朔哉にはわかっていた。二人がいつか、心を通わせるときが来ることが。そして、その時自分は後輩たちの幸せを心から祝福しているであろうことが。
「また一つ、ステップアップしたな。沢木」
ふいに話しかけられて、朔哉はどきっとした。そこには笠間が立っていた。
「そうですね、でも」
朔哉は平然を装って答えた。
「まだまだ先は長いですよ。今年の一年は問題児ばかりだから」
しかし笠間は、ハハッと明るく笑ってこう答えた。
「去年だって、同じようなものだったよ」
「これからバイト？」
着替えが終わって、部室を出たところで、一馬はそう萌子に話しかけられた。
「ああ」
アルジャーノンでのバイトは、楽とは言えないにしても、食事もあって、一馬にはいいバイトだった。
「頑張ってね」
そう言った萌子は、自分の前を右京が通り過ぎようとしていることに気付いて、それじゃを手を振った。慌てて一馬がひき止める。
「礼、言ってなかったよな。ありがとう」
照れた萌子は、軽く首を振ると、じゃあねと言って、右京を追いかけていった。一馬は一生懸命に右京を追いかける萌子を見届けながら、よしっと気合を入れると鞄を持ちなおした。
「右京」
萌子は前を一人歩く右京にそう声をかけた。しかし、右京は一瞬立ち止まって、それが萌子であることを確認すると、再び歩き出した。仕方なく萌子は右京を 回りこむようにして走らなければならなくなった。右京は追ってくる萌子に対して足を速めるようなことはしなかったけれど、萌子に回り込まれ足を止めたと き、すでに萌子は息が切れてる状態だった。
「待って」
立ちふさがるように、両手を広げながら、肩を大きく上下させている萌子を見て、ようやく右京も顔を上げる。
「足のこと、話してないね」
その視線が、一瞬だけ萌子に向かう。
「話せば長くなることなんだけど−」
「別にいい」
そう言い返した右京に、萌子は思わず息を呑む。その隙に右京は萌子を越えていく。だから、萌子はもう一度右京の前に立たねばならなかった。
「それでもいい。でも聞きたくなったら聞いてほしいの。実はまだ、うまく話せる自信ないの。自分自身で整理してないから」
一瞬だけ、また目が合う。やはり綺麗な瞳だと萌子は思う。
しかし、右京はすぐに萌子から視線を逸らし、また歩き出す。今度は萌子も追いかけようとはしなかった。澄んだ右京の瞳は、また自分とは関係ないと言っていた。
「だから、右京のことも教えてね。今じゃなくていいから」
その言葉を右京の背中にかけると、萌子は軽くため息をついた。そして心の中で呟く。
焦らない、焦らない。
右京は振り返ることもなく、校門を出ていく。萌子がそっと一人微笑んだとき、後ろからざわめきが聞こえ、振りかえると数人の女子に囲まれた朔哉がいた。
萌子は気付いていなかったが、朔哉は萌子が右京を必死で追いかけていたときから見ていた。
あの映画の一件以来、二人は仕事以外のことでの話をしていない。どちらか一方が、ではなくお互いが近づいてないのだ。萌子とすれば、自分の中で『朔哉像』というのが、テレビを通してできあがっていて、それを知らず知らずのうちに押しつけていたのかもしれないと反省していたのだ。いつか小山が言っていた、理想と現実との違い。それを知るためには、距離を置くことが必要だと思っていたし、実際には一馬のことで頭がいっぱいだった。
萌子はさよならの意味をこめて、朔哉に頭を下げると、一人部室に戻っていった。すれ違うときも、萌子は何も言わなかった。そして朔哉はそんな萌子に何も言えずにいた。
「どうかしたの？朔哉」
自分に腕をからませた女がそう言う。
「いや、何でもない」
そう言いながら、朔哉は落胆している気持ちを感じた。しかし、短く心の中で笑うと、そのまま萌子とは反対方向に歩き出した。慣れていることなんだと思いながら、しかし、一瞬だけ後ろを振り返って。
「萌子っ」
練習時間、急に名前を呼ばれて萌子が振りかえると、百合がグランドの片隅で手を振っていた。どうしたの？と聞く前に百合は答える。
「図書室で試験勉強してたんだけど、気分転換に外見たら、グランドが見えて。頑張ってるねサッカー部」
「今度関東大会あるから」
四月の地区予選で、凪浜は神奈川の第一代表となっていた。この関東大会でいい成績を収めると、夏後半に行われる全日本ユース選手権という大会に出場できる。右京のクラブ時代のチームメイトの言っていた大会だ。
右京とはあの日以来口を利いていない、というのか右京が口を利かなくなったのだ。むしろそれが以前と同じ状態だと言えば、それまでである。
ゆっくりと、焦らずに。
萌子は三上の言葉を思い出していた。
「藤原君とかも出るの」
「うん」
「やっぱすごいんだね」
関東大会には右京がレギュラーで出ることが決まっていた。他の一年は、成とそして知朗が名を連ねている。一年も、徐々に実力を発揮し始めていた。成は最近いくらか自信をつけたようで、それに合わせてディフェンダーとしての実力も上がってきていた。
萌子は一馬を見ていた。相変わらず授業中は眠ることもあるようだが、顔色は戻っているし、元気にはなった。篤志が石橋にも入寮を相談したが、返事はＯＫだった。それを一馬にも話したが、その返事はまだ聞いていない。聞いたところによれば、一馬の母親がむしろ引き戻そうとしたようだが、その間に渡部が入っているともいう。
「ところでさ、萌子」
ふいに百合が言った。
「サッカー部って試験の方は大丈夫なの？」