Maybe Blue 第一部 海の鼓動
初夏7
一学期中間テスト一週間前ということで、練習は一時間程で切り上げられた。本来ならば練習は中止なのだが、関東大会が近いために、特別許可がおりたのだ。萌子達が片付けをしていると、見知らぬ四十歳くらいのスーツ姿の男性が声をかけてきた。
「あの、すみませんが、渡部一馬はいますか？」
一馬は萌子がひき止める前に、早々とバイトに行ってしまっていた。
「今日の練習がもう終わっていて、渡部君はもう帰りましたけど。
あの、どちらさまですか？」
「ああ。これはすみません。一馬の父親です」
驚く萌子の前で、その言葉を聞きつけた理香がやってきて、いきなり一馬の義父に言った。
「あのっ、あたしが言うことじゃないかもしれないですけど、ひとこと言わせてもらっていいですか？」
萌子が止めようとする前で、理香は言った。
「いくら連れ子だからって、あんまりじゃないですか。そりゃ見た目の渡部君は不良に見えるかもしれないけど、いい人なのに、新しい家に連れていかないなんて。ひどいじゃないですか」
「理香」
家庭にはそれぞれの事情があると、萌子が止めようとすると、反対に渡部が聞き返した。
「そう、一馬が言っていたんですか？」
渡部はひどく驚いた顔をしたため、面食らったのは理香の方だった。
「渡部君は…何も言ってませんけど、でも仕送りも充分にしてあげないから、部活だけでもキツイのに、バイトして、おかげでこの前倒れちゃったんだからっ」
その言葉に、渡部は真剣な顔をしてまた聞き返した。
「倒れた？一馬が、ですか？
…あの。詳しい事お話してもらえますか？」
「あーあ。俺ショック。沢木が渡部みたいな不良とつき合ってるなんて」
一年部員の山田がそう更衣室で嘆いた。厳己がそれを聞いて反論する。
「渡部は不良なんかじゃないよ。そう見えるだけで−」
「どっちにしてもショックなんだよ。皆の前であれだけ庇うんだからさ。べたぼれってことじゃねぇかよ」
畜生と叫ぶ山田に、成が言う。
「俺は、違うと思うけど」
「何が違うんだよ、早坂」
山田はやけっぱちになっているようだ。
「沢木は、ただの部員の一人として、渡部を助けたいと思ってるだけだと思う。
「ただの部員に、弁当作ったりするのかよ」
そうじゃなくて、と成が溜息をついていると、篤志が助け舟を出した。
「俺も、そう思う。別に今回の事が渡部じゃなくても、作ってきたんじゃないかな、萌子なら」
山田は一際大きい溜息をついて言った。
「だったら、俺にだって作ってくれてもいいじゃねぇかよっ」
「そうですか、そんなことが」
着替えもせずに、理香と萌子は渡部を近くの喫茶店・アルジャーノンに連れていった。話し終えて、目の前で驚きを隠せない渡部に、理香ははっきりと言う。
「どうして引き取らないんですか？引き取らなくても、せめてお小遣いくらいあげられる余裕がないとか、そういうことですか？」
隣の萌子が心配そうに理香を見つめている。これは一馬一人の問題ではなく、一馬の家の問題なのだ。
しかし、渡部は冷静に答えた。
「いえ。それは十分とは言えないかもしれませんが、一馬の養育費はちゃんと出すつもりです。家にも、一馬の部屋もきちんとありますし、いつでもこっちに来れる状態なんです」
「じゃあなんで」
思わず萌子も口を出した。
「一馬が反対したんですよ」
その答えは二人の予想外だった。
「実は今回の転勤はわりと急に決まった事でして、受験の直前になって知らせたんです。そうしたら、自分はこの高校に行きたいから、ここを離れたくないといわれまして。それが固い決意でして、事実受験も向こうの学校は受けなかったんです」
そこで渡部はコーヒーを一口飲んだ。
「ところが、それに対して文子…一馬の母親が怒りましてね。だったら勝手にすればいいと言ったものですから、一馬も家を飛び出すようにして、一人でアパー トを決めてしまって。結局きちんと話し会いまして、一人暮しをさせることにしたんです。家賃、光熱費はもちろん、小遣いも全てこっちが負担すると言ったん ですが、それはいいと一馬にはっきり言われました。出してもらうのは、家賃と光熱費だけでいい、自分の勝手な意志でこっちに残るんだから、あとは自分で何 とかすると。
とは言っても気になりますし、後に鳴って、こちらの部活では普通のところよりもお金がかかると聞いたので、すぐに別の仕送りをしたのですが、そのまま返されてしまって。
それで今回、私が東京に出張することになったので、一馬とも話をしなければと思って、こうしてやってきたわけなんです」
そうですか、過労で…と呟く渡部に、萌子は確かめるように言った。
「それじゃ別に、一馬君と渡部さんの仲が悪いとか、そういうことじゃ−」
「私は一馬を本当の息子として見ているつもりです。最も、一馬も同じように思ってくれているのか、自信はありませんが」
仕事が残っているというので、渡部はそのあとすぐに店を出た。
残された萌子と理香は、ご馳走になったケーキを食べながら話していた。
「渡部君のわがままかもね」
理香がケーキを頬張りながら、もごもごとしゃべる。
「きっとお母さんを取られたみたいで、悔しくて、だから一緒に住みたくないって、駄々こねてるだけなのよ、多分」
萌子は理香の話を聞きながら、渡部が話していたことを思い出していた。
『確かに見た目は、不良と思われがちですけどね、優しい子なんですよ。
自分の母親と妹の幸せを願ってる。小遣いがいらないと言ったのは、私に迷惑をかけまいと思っているんでしょう。
もっと、いろんなことを話してほしいと思うこともあるんですけどね』
「おつかれ」
部室に戻ってきた湊は、一人着替えている由太を見つけて言った。由太は、ちらっと湊を見て、おつかれと返した。
「さっきはさ…。萌子も興奮してたんだと思うよ。最近、渡部の事でいろいろあるみたいだしさ」
湊が急にそう話だし、由太は着替えをしていた手を止めた。
「あれだけの人数を統括しなきゃなんないんだから、悪役も必要だって事、本当はわかってると思う。分かってたはずだけど、一つの事しか見えてなかったんだと思うんだ」
しかし由太は答えずに、着替え終わって鞄を持つと、じゃあなとだけ声をかけて部室を出ていった。
家に帰っても由太は何となく気持ちが落ち着かなかった。
こういう時は、と風呂に入り身体はさっぱりしたものの、気持ちは変わらない。
それが余計に不快になっていたところで、妹から受話器を渡された。
「お兄ちゃん電話。サッカー部の沢木さんだって」
気がすすまなかったが、仕方なく電話に出ると、高岡君？という萌子の声が聞こえてきた。
「何か用事か？」
高圧的な声のためなのか、萌子の声は躊躇いを感じさせる。
「あの、今日の事。ごめんなさい」
突然言われて由太も驚いた。声を出さないでいることを、萌子は由太の怒りと感じたようで、続けていった。
「感情的になりすぎてたから。あんな風に高岡君だけを責めた事、悪かったと思って、謝りたかったの。ごめんなさい」
言われた由太は戸惑っていた。素直に謝られる事になれていなかったというよりは、自分がそうしたことがなかったのだ。
由太が黙り続けていると、高岡君？という萌子の声がまた聞こえてきた。
「話がそれだけなら、切るぞ」
由太は萌子の返事も聞かずに電話を切った。しかし、それからも、しばらく電話を眺めていた。
一馬に言った言葉で、自分に非のある言葉はない。由太はそう思ったし、信じていた。しかし、何故だか自分が責められている気分がしている。
いつだったかの、笠間の言葉が頭を過る。
欠けているのは物事を下から見る視点だ。
由太はずっと人の上を歩いてきた。成績も、人格も、ずっと人をまとめる立場にあった。それが由太に合っている役割なのだということは、自他共に認められるだろう。それでも由太はそういう立場にあって、自分に厳しくすることを怠ってはいなかった。ただ、相手にもそれを求めていただけだ。
しかし、それは間違っていたのだろうか。
どこかで自分に優しくしていたのだろうか。
そんなことに気付かされたのは、萌子と笠間が初めてだった。今までやってきた自分は、間違っていたのだろうか。
未だに戸惑っている自分の気持ちを隠すように、由太は食事をとろうと椅子に座る。
「父さんと母さんは？」
自分の食卓の場所には、冷えた天ぷらが並べてあるだけだ。テレビを見ている妹の好実は、由太を振りかえりもせずに答える。
「お母さんは友達とカラオケ、お父さんは残業で遅くなるって。それ全部お兄ちゃんのだから」
そういった好実は、どうやらお菓子を食べながら、雑誌を読んでいるようだ。テレビはただのＢＧＭでしかない。
「雑誌読むか、テレビ見るか、菓子食うか、どれか一つにしろ」
由太がそういうと、好実は黙ってテレビを消して、雑誌とお菓子を持った。そして由太の横を通りすぎるときに言った。
「そういうとこ、お父さんそっくり。命令口調の真面目人間」
にらみつけられる前に、好実はさっと自分の部屋に駆け込む。由太はイライラした気持ちを隠せなくなり、つい箸を乱暴に天ぷらに突き刺した。
何だというんだ。
それは好実に向けた言葉ではなく、萌子に向けた言葉であった。
「渡部君。昨日お義父さんが学校に来たわ。今出張でこっちに来てるんだって。明日、もう一度来るって言っていたわ」
朝練が終わって、またも萌子は作ってきたお弁当を一馬に持っていった。案の定、受けとろうとはしないが、それでも萌子は諦めなかった。
渡部の話を聞いて、一馬は驚きながらも、そうとだけ答えた。
「いいお義父さんなのに、どうして素直になれないの？」
その言葉に、一馬はカチンと来たようだった。
「お前には関係ねぇことだろ？
だいたい、気付いてんのかよ。部員たちが変な誤解してるって。迷惑なんだよっ」
ランニング途中、一馬は田島に足をわざとひっかけられ、その後小声で言われたのだ。
「いい気になってんじゃねぇよっ」
それが萌子の事を言っているのだと気付くのに、一馬は大した時間はかからなかった。しかし、萌子は言い張る。
「だって仕方ないでしょ。気になるんだもの。いいじゃない、言いたい人には言わせておけば。わたし、間違った事してないわ。マネージャーとして、正しい事をしてると思ってるもの」
「マネージャーは、ただ部活の面倒だけ見てくれればいんだよ。勝手にプライベートに立ち入るんじゃねぇよ。俺の事は放っておいてくれよ」
「ほっとけないよ」
確実に何も知らない人間が聞けば誤解する会話だと一馬は思った。しかし、萌子の感情は恋愛とは違う事は、一馬自身がよく感じていた。萌子は萌子の考えるマネージャーとしての立場をまっとうしようとしているだけなのだ。そのことに、多少がっかりもし、ほっともしていた。
「じゃあなんだ？お前は俺の全部を背負えるっていうのかよ」
いい加減にしろという感じの一馬に、萌子は言った。
「渡部くはそんな甘えん坊じゃないわ。だから一人で頑張ろうとしてるんでしょ？わたしはきっかけを作りたいと思ってるだけ。意地張っても、何もならないんだから。一度正直に話せばうまくいくことだってあるのよ」
その時カッとした一馬は、つい言ってしまっていた。それは、萌子が傷つくだろうと思い、避けてきた言葉だった。
「お前みたいなお嬢さんにはわかんねぇよ。人生を、順風満帆に生きてきた奴になんか」
他人に知られたくないことに、自分勝手に首を突っ込むな。迷惑だ。
誰にだって、そういうことがある。お前だってそうだ。
萌子には、右京にいわれた言葉を思い出していた。同時に、三上に励まされた言葉も。
軽くぶつかり合っていくだけじゃ、見えないものがある。時には思いきり傷つけることも、傷つけられることもある。でも、そうして作り上げた関係は、ちょっとやそっとじゃ崩れない。大事なものになっていくんだ。
萌子が黙ってしまった事に、一馬が後悔した時だった。
「…違うわよ。わたし、お嬢様なんかじゃないわ。両親が別居してたこともあったし、小さい頃は苛められてた。挫折もあった。だから、今、必死になって夢を追いかけてるの。やっと見つけたものだから、簡単には諦めきれないの。
でも、自分の力だけじゃ、できないことでもあるの。時には誰かに助けてもらうことだって必要なの。それが今、やっとわかりかけてきたところなの」
それは笠間であり、石橋であり、理香であり、美都であり、部員たちであるのだ。
言われた一馬は驚いていた。が、そういえばと萌子の足の傷を思い出す。
反対に黙り込んだ一馬に、萌子は続ける。
「渡部君がここに残りたいって思ったの、サッカーやりたかったからでしょ？ここで、凪浜でやりたいって、そう思ったからでしょ？でも今のままだときちんと サッカーすらできないよね。だったら、話せばいいじゃない。お互い納得できるまで。お義父さんは、きっとわかってくれる人だと思う」
それでも答えない一馬に、ついに萌子もしびれを切らせて言った。
「それとも渡部君は、自分のお母さんが選んだ人が、そんなこともわからない頭の固い人だって思ってるの？」
一馬が呼び出したのは、一度行ったことがあるということからアルジャーノンになった。テストが近づいているせいか、常連客である凪浜の生徒はほとんどいない。
「少し痩せたな、一馬」
渡部はまずそう言った。一馬は何も言わずに俯く。
「練習きついそうだな。マネージャーの子に聞いたよ。辞める人間も結構多いって。だから今残っている部員は、根性があるらしい」
一馬はどう切り出していいのかわからずに、コーヒーを飲んだ。渡部は会話が途絶えるのを嫌ってか、話を続ける。
「母さんも、真理子も心配してる。連絡が全然とれないって。もちろん、父さんも心配してた。けど、結構安心したぞ。いい友達に恵まれているようだから。ただ、疲れて倒れるようじゃ、それは問題だ」
少し渡部の口調が厳しくなって、一馬は切り出す決意をした。
「俺、サッカーやりたいんだ。ここで。ここでなきゃ、駄目なんだ。だから−」
家には戻れないと言おうとした時、テーブルに封筒が置かれた。渡部は小声で、お前が送り返した来たものだ、と告げた。
「受け取りなさい」
「けど、これは俺のわがままで」
「こう考えてくれないか？これは、お前の夢への投資だって。まあ、投資って言葉は固すぎるかな。そう、父さんは、お前と言う選手のファンなんだ。ファンだから、選手を支えていくのは当然だろう？」
一馬は無言で渡部の顔をじっと見詰めた。
「一人で頑張ることは悪いことではないけれど、がんばりすぎると本当の目標まで失ってしまうぞ。バイトはしたいなら、すればいい。ただし、もっと楽なのに しなさい。お前がもう1度倒れることがあれば、いくら父さんでも、お前を連れ戻さなければならなくなる。スポーツ選手にとって、体は資本だからな」
渡部は一馬の手を取ると、封筒を握らせてから、軽く肩を叩いた。一馬は唇をかみ締め、声を震わせて言った。
「ありがとう、父さん」
渡部はにっこりと笑って答えた。会話をしないわけではなかったが、父さんと呼ばれるのは、これがニ度目だった。
「親として、当たり前のことをしているだけだ」
「じゃじゃーん、渡部一馬君にグッドニュースッ。喫茶店アルジャーノンのバイト募集」
渡部を駅まで送り、学校に戻ってきた一馬を見つけた理香が、大声を上げながら駆け寄ってくると、1枚の紙を手渡した。
「アルジャーノンのマスターだったら、サッカー部のことも詳しいし、いろいろ融通きくし、おいしい食事もただで食べれるし、何よりお客があまりいないから、忙しくない。時間も部活が終わってから。どう？」
一馬は一瞬戸惑ったが、結局受け取ることにした。
「サンキュ」
理香は大げさに首をふる。
「お礼なら萌子に言ってよ。提案出して、マスターに交渉したのは萌子だから。うちでもね、雇えればよかったんだけど、いろいろと口うるさいから、パパ。そのくせ時給も安いし、こき使わされるし」