Maybe Blue 第一部 海の鼓動
初夏6
「ごめん、萌子」
朝錬の前に篤志は萌子を呼び止めた。朝一で和美に聞いてみた結果、
「何でそんなこと答えなきゃなんねぇんだよ」
と怒鳴りつけられたそうなのだ。反応としては、どっちとも取れる反応だった。
謝る篤志に、萌子は明るく言った。
「ううん。勝手なこと頼んだのは私だから。それより、やっぱり嘘だったのかな。大槻先輩の言ってること」
それには篤志も首をひねる。
「さあ、何とも言えない。つかっちゃんは謎の男だから」
萌子がグランドを見ると、何故か朔哉と目が合った。笑いかけようとした萌子だったが、朔哉は不自然に視線を逸らした。あの日以来、萌子は何となく朔哉に近づけなくなっていた。
「遅刻だぞ、渡部」
「すいません」
朝錬開始の時間から十分が過ぎていた。
「グランド５周してこい」
コーチにそう言われて一馬はストレッチもほどほどに走り出した。
昨日、夜中の冷めたラーメンを食べたのはよかったのだが、遠征の費用の捻出を考えているうちに眠ってしまい、起きたらすでに遅刻の時間だった。
走っている一馬を見て、一年の誰かが言った。
「次辞めるの、あいつかな」
「昨日も注意されてたじゃん。集中してなくてさ。今まで辞めてった奴って、あんな感じだったもんな。練習に遅刻するようになって、そのうち姿が見えなくなって−」
「そんなことないよ、渡部は…。辞めないよ」
厳己は耐えきれずにそう言ったけれども、走っている一馬の辛い表情が印象に残っていた。
何か、ふらついてるな。
一馬も初めはそう思っただけだった。
頭は浮いているみたいに軽く感じるのに、足は鉄の塊のように重い。
突然グラッと視界が揺らぎ、一瞬白くなりかけた時、誰かの声が聞こえた。
「おい、危ねぇぞ、渡部っ」
一馬はその声のほうに何とか振り向いた。ボールがこっちに飛んでくるのが見える。
やべぇ。
自分では避けたつもりでいた。しかし、体はぐらりと揺れると、それから頭に衝撃を感じた。途端に、記憶がぷつりと途切れた。
腹が減った。
いや、それよりも今は眠りたい。
いや、眠るよりも金が…。
一馬が目を開けると、そこには萌子が半分怒り顔で立っていた。一馬が起き上がると、萌子はその怒りを抑えた口調で話した。
「過労と栄養不足、それと睡眠不足だって。成長期だっていうのに、困ったものだって保健の先生が言ってたわ」
「…そ」
時計を見ると、四時間目の始まる前だった。それまでずっと眠り続けていたらしい。どおりで少し体が楽になっているはずだ。萌子も休み時間に様子を見に来たといったところだろう。
一馬はとりあえずベッドから降り、保健室を出ていこうとした。萌子が慌てて追いかけてくる。
「ボールが当たって突然倒れるから、皆心配したのよ。特にボールを蹴った横田さんなんか、病院まで連れて行くって言ってたんだから。…幸い、怪我じゃなかったからよかったのかもしれないけど」
とりあえずと保健の先生を連れてきたところ、倒れたのは別の原因、しかも過労と言われたときには、本当にびっくりして、誰も反応できなかったのだ。
一馬は萌子を無視して、保健室のカーテンを開けた。昼の陽射しが眩しい。
「保健の先生は、バイト辞めるか、部活を休むか。しばらくどちらかにしなさいって」
一馬は上履きをつっかけたまま保健室を出ていこうとする。
「ねぇ渡部君。寮に入ったら？監督にお願いすればいれてくれる」
「部屋、空いてねぇだろ」
「…でも、なんとかなるよ。篤志もそう言ってたし」
「いい」
それだけは、できないことだった。一馬の意地にかけても。
しかし、萌子は心配そうに続ける。
「けどこまま部活もバイトも続けていれば、また倒れるわ」
「ちゃんと寝て、食べてればいんだろ？わかったよ」
一馬はポケットに手を突っ込み、いくらかお金があることを確認すると、パンでも買いに行こうと思った。何かお腹に入れないと力が出てきそうにない。
保健室のドアを開けたところで、追いかけてきた萌子が言った。
「できるの？そんな状態で」
萌子は、一馬の顔がまだ青白いのが気になっていた。しかし、一馬は肩越しに萌子を睨みつけると、それ以上の会話を止めるように強く言った。
「やらなきゃなんねんだよ。できるできないの問題じゃない」
「なあ湊と、成。もし、二人の部屋に、もう一人入ったら、どう？狭い？」
昼休みの部室で、掃除中に篤志が二人に尋ねた。箒を動かしていた湊は、その手を止める。
「別にいいけど、それどうゆうこと？」
「アッチが入寮するってのか？」
茶化したケンに、篤志が言い返す。
「違うよ、渡部。理香から聞いたんだけどさ、あいつって今一人暮ししてるんだって。すっげーぼろっちーアパートで。家庭の事情で、どうも生活費はあいつが稼ぐしかなくて、それでバイトしてるらしいんだ」
「それで倒れたのか」
湊が呟く。
「実は、倒れる前に萌子に軽く相談されててさ。こんなことになっちゃたし。寮に入れば食事のこととかもちょっとマシになるだろ？」
ケンは納得して頷く。
「たしかに。で、家庭の事情ってなんだよ」
篤志は、一瞬悩んだものの、ここにいるのがケン、湊、成、右京と由太という安心できるメンバーだったことから、理香から聞いた話をすべて話した。つまりは、義父に受け入れられなかった、ということまで。
「だからさ、何とかならないかと思って」
しかし、哀願するような篤志には冷たい声がかけられた。
「それは自己管理の問題だろう」
「由太…」
篤志に見つめられても、由太の表情は変わらなかった。
「うーん、俺も反対」
「ケンまで…」
「だってさ、俺たちって、スポーツ推薦で選ばれて入寮してきてるわけじゃん。生活は面倒見るから、サッカーに専念しろってことだろ？それだけ価値があるってことだろ。だいたい普通に入ってきたの奴でも、一時間半かけて来てる奴もいるんだぜ」
「けど、イズだっているだろ？」
「それは…」
監督の勝手だとは、ケンにも言えなかった。沈んだ空気を一掃するように、成が口を開いた。
「いいよ。俺」
その言葉をつなげるように、湊も言う。
「俺も。大勢の方が楽しいしさ」
「すみません。あっ…」
棚の本を取ろうとして背を伸ばしていた萌子は、後ろからすっと別の手が伸びてきて、借りようとした本を取ってくれていた。お礼を言いつつ振りかえると、そこには笠間の友人・三上が笑顔で立っていた。
「こんにちは」
三上は、はいと本を手渡すと同時に挨拶を返す。あと数分で昼休みを終えようとしている図書館はにわかに生徒たちのせわしない気配が漂い始めていた。
「他にとってほしい本はある？」
萌子がいいえと答えると、三上は本棚の脇にある台を指した。
「届かない本があるときは、あれを使うといいよ。無理すると倒れるからね」
納得したように萌子が頷いていると、三上が笑って言う。
「相変わらず頑張ってるみたいだね」
そう言って指したのは、萌子の本だった。成長期の食生活と書かれた本は、一馬の為になればと思って手にした本だ。
「三上さんも、難しそうな本を読むんですね」
三上が持っていたのは、医学全書と書かれた本だ。萌子の問いかけに三上が笑顔で答えると、ちょうどチャイムが鳴り響いた。
練習後、萌子は急いで部室に戻ると、ちょうど一馬が出ていくところだった。慌てて追いかけたが、一馬は半分萌子を無視して先をどんどん進んでいく。
「渡部君。今日は休んでね、バイト」
やっとそう言えたと思うと、一馬はすっぱりと拒否した。
「お前には関係ない」
一馬は苛立っていた。朝の倒れた原因を知った部員たちの目つきが何か変わったのだ。
一馬を蔑むような目。過労と栄養失調だって。馬鹿じゃないのか。そう言いたげな目が、一馬に向けられていた。
「でもっ」
校門を出ていく一馬を追いかけようと、出たところで、人にぶつかってしまった。ごめんなさいと謝って、先を行く一馬を追いかけようとした時、ぶつかった相手が言った。
「ああ、あの藤原と一緒にいた女じゃん。へぇ。二股かけてんだ。やるじゃん」
右京のクラブで一緒だったという男だと萌子が思い出したところで、男は萌子の視線の先にいる一馬の背中を見ながらそう言った。その声を聞いた一馬は完全に萌子を無視して言ってしまった。結局萌子は諦めるしかなかった。
「違うわ。右京も違うし、今の人も違う」
戻るしかないと、踵を返した萌子に、その男は言う。
「ふーん。で、どうよ、あいつ。相変わらず一人でかっこつけてるわけ？」
「右京はそんなんじゃないわ」
男の厭味な言い方が、萌子にはひっかかっていた。校内に戻ろうとした萌子に、男は偉そうに言う。
「じゃあ、どんなんだよ」
萌子は一瞬悩んだ。
「…人とコミュニケーション取るのが、少し苦手なだけよ」
「少し、ね」
右京は相変わらず無口で、誰とも打ち解けようとせずに浮いている存在ではあったが、萌子は強気で言った。
「ようやく部員たちとも馴染んできたもの。これから頑張れば、もっともっと仲良くなるわ」
すると男はケッと笑って言った。
「仲良く皆で一緒にボール遊びですか。勝手にやってくれ。言っておくがな、サッカーは格闘技だ。闘いだ。そんなに甘いもんじゃねえんだよ」
何か萌子が言う前に、男は姿を消した。
美都は和美の背中を見ながら、あの、と言ったきり、次の言葉が出てこなくなっていた。理香に、もっと積極的になるべきだと言われ、背中を押されたのはよかったけれど、何を話していいのかわからない。和美の方も意地悪をしているのか黙ったままだ。
「あの」
十回目になる「あの」を美都が言ったとき、ようやく和美が振りかえった。
「何なんだよ、さっきから。言いたいことはハッキリ言えっ」
「誤解なの」
そこまで言えたのは良かったけれど、和美は更に苛立ちながら言う。
「何がだよ」
「この前の、大槻先輩といちゃついていたっていうの。何でもないの。大槻先輩、ただあたしのことからかってるだけで−」
「だったら何だよ」
美都は口を閉ざした。和美の舌打ちする音が聞こえる。
「大槻さんにからかわれてるっつーんなら、お前の方に好きがありすぎるからいけないんだろっ」
美都はショックで顔を上げる。和美はふんっとまた美都に背中を向けた。
「着替えるから出ていけよ」
「何だよ、これ」
朝錬が終わった途端、一馬は萌子に呼び出された。そして紙袋を渡されたのだ。
「お弁当、作ってきたの。お弁当箱は練習の後に返してくれればいいから」
正直言えば、朝ご飯は口にしていなかった。昨日の疲れからか、今日は遅刻をしてしまい、またグランドを人より多く走らされていて、余計にお腹はすいていたのだが、それでも受け取るわけにはいかなかった。
一瞬空気が固まったかと思うと、一馬はその袋を萌子につき返した。
「いらねぇよ」
「どうして？」
一馬は歩きながら、突き放すように言った。
「変な同情すんなよ」
そう吐き捨てるように言い、一馬は去っていった。
「ほっとけ」
一馬の怒った背中を萌子が見ていると、ふと声がして右京が立っていた。
「…どういうこと？」
「他人の問題に、簡単に関わるな」
冷たい言い方に、萌子は言い返す。
「確かに、渡部君は他人だけど、でも部員よ。無関係じゃないし、それに−」
「ただの偽善だ」
萌子は言葉をなくす。右京は珍しく話しつづける。
「他人に知られたくないことに、自分勝手に首を突っ込むな。迷惑だ。誰にだって、そういうことがある。お前だってそうだ」
「わたしは−」
ないと言おうとした萌子は、右京に言葉を取られる。
「足の傷のこと、誰かに話したか？」
痛い所をつかれ、萌子は何も言えなくなる。誰に話せたのだろうか。理香にも誤魔化したようにしか伝えていない。唯一成には、簡単に話した。けれど、本当 に言いたかったことは話せていない。ただ、怪我の原因を言ったまでで、その後どうなったのか、どうして怪我をしてしまうようになったのか、まで話していな い。
右京は横目で萌子をにらんでいた。
「クラブの奴に、余計なこと、言うな」
取り残された萌子は、ギュッと紙袋を握り締めていた。
「餌付け？」
突然声がして、萌子は持っていたハンバーグを床に落としてしまった。空を旋回していた鳶は、まだ次の餌を待ち構えている。
三上は、屋上のドアを閉めると、そのまま萌子の横にやってきた。
「どうしたの？」
手に持っているお弁当とは別に、床にはもう一つ別の弁当箱が置かれている。萌子は慌てて隠そうとしたが、三上が言った。
「昨日の本は役には立たなかった？」
萌子は全てを三上に見抜かれている気がして、素直に言ってしまった。
「同情するなって言われちゃって」
同情か、と三上は呟き、空を見上げた。
「そんなんじゃなくて、ただ何か力になってあげたかっただけなんだけど。そういうのって、偽善なのかなって…」
「人と人との関係はね、作り上げていくものなんだ」
三上は空を見上げたままに、話し始めた。
「軽くぶつかり合っていくだけじゃ、見えないものがある。時には思いきり傷つけることも、傷つけられることもある。でも、そうして作り上げた関係は、ちょっとやそっとじゃ崩れない。大事なものになっていくんだ」
三上は大きく伸びをする。
「ただ、焦ってはいけない。ゆっくりと、つくっていけばいい。うん、おいしいね」
萌子のお弁当箱から、卵焼きを取った三上が、それをほおばった。微笑む三上につられて萌子も微笑む。
「とりあえず、やってみること。そして、自分を信じること」
「自分を、信じること」
「気の済むまでやってみて、それでも間違えていれば、その時また考えればいい。ただし結果はでないかもしれない。でも何かが君の中には残るよ。頑張ってみて」
「…はい」
「おい、渡部。お前、今日の朝練どうしたんだよ」
午後の練習開始ぎりぎりになって飛びこんできた一馬に、ある一年が言った。
「悪い、ちょっと」
急いで着替えようとする一馬に、由太が言う。
「渡部。部の規律を守れないようなら、辞めろ。中途半端が一番迷惑だ」
急に空気が張り詰めたものに変わる。隣のミーティングルームにいた萌子たちも顔を出した。由太は続けていった。
「バイトをやるのも結構だ。でも、部に支障をきたすようなら、どっちか辞めろ」
「ちょっと、高岡君。今の言い方ってないんじゃない？」
萌子がそう言って中に入っていく。１年の一部は、そんな萌子に対してざわめきだす。特に今朝、萌子が一馬に弁当を渡しているのを目撃した一年が、着替えの時にそれを話題にしていただけに、部員たちの中では二人をそんな色眼鏡で見ている者もいた。成は少し不安に思った。由太は萌子に向かっても、一馬に向かっても言う。
「うちの部に残っている奴は、今まできちんと厳しい規律を守ってきた奴なんだ。そういう奴に迷惑だ。守れないようなら勝手に辞めればいい」
「確かにそうかもしれないけど、もっと同じ部員として助け合おうとか、励まし合おうとか、そういうこと思わないの？」
この前の由太の優しさに触れていただけに、萌子は少し寂しかった。しかし、由太は顔色一つ変えずに言う。
「去る者追わずが、うちの方針だ」
「だけど、それって相手の意志を尊重させるって意味よ。相手のことを気にしないってことじゃないわ」
誰もが、萌子の負けだと思っていた。萌子はただの私情を挟んでいるだけだし、第一由太の言っていることは正しい。そして、由太はそういうことには頑なだ。
それでも、一部の人間が萌子に共感を覚えていた。そして、その一人の興仁が、急に萌子と由太の間に入った。
「そうだよ、高岡。俺たちって仲間じゃねぇのかよ。確かに、レギュラー争いしたりもするけど、でも仲間じゃねぇのかよ」
いつも温和な興仁の強い口調に、呆気に取られている皆の中で、興仁は更に言った。
「何でそんなに冷たくなれるんだよ。一緒に頑張っていこうって決めた仲間なのに、どうしてさっさと切り捨てられるんだよ。少しは引き止めようとか思わないのかよ。何で、もう１度やっていこうって言えないのかよ」
それは、かつてのチームメイトに対する興仁の言葉だった。誰かが、監督や先輩、同級生。誰かが引きとめれば、辞めなかったのかもしれないのに、引きとめたのは自分だけだった。
皆、自分勝手だ。でも、そうじゃないだろ？
興仁はずっとそう叫んでいたのだ。
部室はいつまでも出てこない一年に痺れを切らしたニ年がさっさと出ろと呼びに来るまで静まり返っていた。