Maybe Blue 第一部 海の鼓動
初夏5
「渡部君ってさ、引っ越したんだね」
スパイクを履いていた一馬は、突然そういわれて顔を上げると、理香が立っていた。
「今日名簿作ってたんだけど、渡部君四中でしょ？でも住所はうちの近くだったから。そうなんだろうなと思ってさ。うちね、ラーメン屋やってるの。結構評判いいし、よかったら来てね。安くするから。あ、出前もＯＫ」
「…ああ」
機関銃のような理香のしゃべりに圧倒され、とりあえず一馬はそう答えた。しかし、理香のおしゃべりはまだ止まらない。
「でも珍しいね。四中って。あんんまりいないでしょ？同じ中学出身の人。サッカー部にもいないし、あたしも知ってる人、一人くらいしかいないもん、でも、 いるからいいってもんでもないんだよね。あたしなんか中等部上がりだから、広がりが少なくてさ。それに昔の恥ずかしいこととか、知ってる子いっぱいいる し」
一馬は止まらない理香のおしゃべりに、驚いたままじっと聞いてしまっていた。
「なんか調子悪そうじゃない？渡部君」
練習をじっと見ていた萌子が、理香が隣にいる時にそういった。いわれた理香も、思い出したように言う。
「そういえば、さっき話してた時も、顔色悪かったなぁ」
「どうかしたのかな」
二人はじっと一馬を見つめた。理香が口を開く。
「ちょっと謎だよね。今住んでるところも、家族で住むようなところじゃないし」
その言葉に、萌子は理香を見つめる。
「渡部君の四中ってね、学区外なんだ。だけど、今日の名簿の住所はうちの近くで、多分引っ越したんだと思うんだけど、あのアパート、こう言っちゃなんだけど、ぼろっちい六畳一間なんだよね。あ、もしかして…。お父さん借金抱えちゃった、とかなのかな」
「理香」
萌子は宥めるように言ったけれど、一度そう思った理香の想像力は止まらない。
「でも、だったら、バイトしてるのも理由がつくでしょ？普通の高校生が、バイトと一緒にできるような部じゃないのに、やるってことは、相当お金に困ってるってことよ」
「家族の反対を受けてっていってたよ」
突然男の声がして、振りかえると、済まなそうな顔の厳己がいた。
「ごめん、話聞こえちゃったんだ。
反対されてるから、お金出してもらえないらしいんだ、渡部。遠征費とか、部費とか。結構お金かかるから、だからバイトしてるんだって」
理香は思っていたことと違って、悔しい表情を浮かべていたが、萌子はしんみりと呟いた。
「そう、偉いんだね。渡部君って」
ぼうっとして、和美を見ていた美都は、ふいに耳元に熱い息を吹きかけられて驚き、途端に座っていた椅子から落ちてしまった。
「おいおい、大丈夫かよ」
息を吹いた司は、慌てて美都に手を伸ばしたが、美都は自分で立ちあがった。
「せっ先輩、練習はいいんですか？」
「怪我しちゃってさ、ここ」
そういって、ユニホームを捲り上げ、肋骨の辺りを司は指す。突然、司の上半身裸を目の前で見せられ、思わず美都は顔を真っ赤にして目を覆った。そんな美都を見て、司は更ににんまりする。
「治療してくれよ」
「萌子のとこに行ってください。あたしはチームが違いますから」
「だって、あいつこえーんだもん」
そこで司は、美都に顔をぐいっとつきつける。
「なめてくれれば、すぐに治るからさ」
美都の顔はさらに真っ赤になっていく。そのままユニホームを脱ごうとしている司に気付いた美都は、慌ててばんそう膏を取り出して、司に押しつけた。
「これでも貼ってください」
「貼ってくれよ」
「自分でやってくださいっ」
それだけ叫ぶと、司はようやく渋々とグランドに戻っていった。美都が一息つくと、今度は別の声が、おいと言った。振りかえると、何故か怒り顔の和美だった。
「あの、怪我−」
「グランドの隅でいちゃいちゃしてんじゃねぇよ」
「いちゃいちゃって…」
「目障りなんだよっ」
和美はそれだけ叫ぶと、さっさとグランドに戻っていった。美都は泣きたい気分だった。
「高岡君」
萌子に名前を呼ばれて、由太は立ち止まった。部活も終わり、着替えもして、これから家に帰ろうとしている時だった。
「あの、さっきはありがとう。箱」
「落とされたら、部の迷惑になる」
取りつくしまもないような言い方に、萌子は崩れそうになる笑顔をなんとか保った。
「この前言われたこと。卑怯だって」
由太は低く、ああ、と答える。できれば萌子とは１秒も話していたくないといった様子だ。
「確かにそうだったかもしれないけど、でもわたし頑張るから。高岡君に、そんなこと忘れてもらうくらい頑張るから。立派なマネージャーだって、認めてもらうように頑張るから」
しかし由太は、勝手にすればといったように、一言返しただけだった。
「ああ」
そして、さっさと歩いていく。その由太を、途中の校門で見知らぬ女の子がつかまえていた。
「亜紀ちゃんだ」
萌子の後ろで理香が言った。
「由太チャンの彼女。もう一年以上になるかな」
萌子はふぅんと答えた。すると理香が、にやにやしながら聞いた。
「ね、萌子ってさ。ほしくないの？彼」
「うーん、今はいい。やりたいことがいっぱいあるし、まだまだマネージャーとして半人前だし」
あっさりと答えられて、理香はそっか、と残念に答えるしかなかった。
「萌子っ、萌子っ。ニュース！」
これから朝錬が始まるという時に、萌子を見つけた理香は、おはようも言わずにまずそう言った。
「渡部君のこと、ちょっと調べたのよ。そうしたら、いろいろわかったんだ。
渡部君って、お母さんと妹の母子家庭だったんだって」
萌子は眉をひそめた。
「母子家庭…だった？」
「うん。今年の一月にお母さんが再婚して、それで名字も渡部になったらしいんだ。前の名字は小林。だから調べにくかったんだ。それでね、四中の知り合いに 聞いたんだけど、今お母さんは奈良にいるらしくてさ。その子のお母さんが、渡部君のお母さんと仲良かったらしいんだけど、再婚相手の都合で、奈良に転勤が 決まったとかで、引っ越したんだって」
「けど、渡部君は」
「今ここにいるでしょ？だから、その子もすごく驚いてた。
ねえ、萌子。思ったんだけどさ、渡部君、その再婚相手の人とうまくいってないんじゃない？もしくは、再婚相手の人が引き取りたくないって言ったとかさ。だって、ホラ、渡部君って、見た目不良でしょ？誤解されちゃったんじゃない？」
「そんなこと、ないと思うけど…」
でも、違うとも言えない。少なくとも、一馬が誤解されやすい人間であることは、萌子もわかりはじめていた。理香は自信ありげに言う。
「だって、妹さんは一緒に奈良に行ったって話だよ」
「大槻先輩」
萌子は遅刻してやってきて、一人部室でスパイクを履いている司の前に立った。その顔が怒っていることを、雰囲気で司は感じた。
「なんだ？今日は何のお説教か？」
「美都をからかうの、やめてください」
理香との話が終わったところで、部室にやってきた美都が落ちこんでいるために、その理由を聞いてみたところ、司の名前が出てきたのだ。
前から気にはしていたことだったので、萌子ははっきり忠告することを決めていた。
そんな萌子の言い方に、司は溜息をついた。
「美都は迷惑してるんです。女の子をからかいたいんなら、そういうの好きな人にやってください」
スパイクを履き終えた司は、さっさと立ち上がって、なかば萌子を無視して部室を出ていこうとした。
「いいだろ？俺、椎名のこと好きなんだから」
「大槻先輩の好きは、美都の好きとは違うんですっ」
司はふうと溜息をつくと、重苦しい雰囲気を消すように言った。
「俺と付き合うと楽しいぜ。って言っとけよ、椎名に。北内なんかよりも、絶対にな」
和美の名前が出てきて、萌子は驚く。その隙に、司は部室を出ていこうとして、萌子は慌てて言った。
「変なことしないでくださいね」
「変なことってなんだよ」
意地悪そうに司が振り向く。萌子は苛立ちを抑えて、低い声で言った。
「和美に余計なこと言わないでください」
司は面倒臭そうに、しかしさらりと言った。
「わーったよ。けどな、あいつ、好きな女いるぜ」
「ねえ、理香。この前の名簿ってどこにある？」
練習後、そう言った萌子に、理香は朔哉に渡したと答える。
「でも、今は笠間先輩のとこにあるんじゃないんのかな。萌子、必要なの？」
萌子は手にした紙を、理香に差し出す。それは、今度行われる関東大会への遠征への参加の有無を部員に問うものだった。
「これね、渡部君に渡さなきゃならないんだけど、もう帰っちゃったらしくて。どうしようかなと思って」
明日だと、参加費が集められないかもしれないと萌子が悩むと、理香が好奇心いっぱいの目で言った。
「ね。だったら、家に行ってみない？」
「北内に好きな奴？うーん…聞いたことないけど」
帰りがけに、司の言っていたことを、篤志に萌子が聞いてみたところ、こう答えが返ってきた。萌子は、篤志に拝むようにして頼む。
「そこを何とか聞き出してくれないかな。こういうこと頼めるのって、篤志しかいなくて」
途端に篤志は笑顔になる。美都は、結局部活が終わっても元気がなかった。だから、これから理香との『計画』には、不参加である。
「わかった、聞いとく」
「ありがと」
「それよか、これからどこに行くわけ？」
篤志は理香のそわそわした様子から、その『計画』が気になっていたのだ。
「理香と一緒に渡部君の家。ちょっと届け物があって」
そうして萌子と理香が向かった一馬の家は、確かに理香が言うように、古いアパートだった。
「いない、みたいだね」
チャイムを何度か鳴らし、ドアを叩いてみたけれど、反応はないし、電気もついていない。
「渡部君、いる？」
もしかしたら寝ているかもしれないと、萌子が声をかけたところで、隣の住人が顔を出して言った。
「そこの人なら、帰ってくるのは夜中だよ」
「夜中？」
「時々明け方になることもあるけどね」
萌子と理香は顔を見合わせる。
「バイトかな」
「でも、高校生だから時間決まってるでしょ？」
するとその隣の住人が呆れたように言った。
「どうせどっかで遊びまわってるじゃないの？ああいう不良ってやつは」
「渡部君はそんなんじゃないですっ」
「萌子」
くってかかりそうな萌子に、隣人は疑い深い目を向ける。
「おやおや、そうかねぇ」
ドアが閉まり、萌子は大きく深呼吸した。
「帰ってくるのは夜中か。どうする？萌子」
考えてから萌子は言った。
「もうちょっと待ってみる？」
「北内に好きな女？聞いたことないなぁ」
萌子に頼まれて、とりあえずは情報収集と、篤志はケンに聞いてみた。
「だよな、やっぱ本人に直接聞くか」
ケンがにやにやした顔で、篤志に聞いた。
「誰が北内のこと好きなんだよ。萌子か？」
「まさかっ」
言ってしまって篤志は後悔した。ケンはしてやったりの顔をしている。
「ってことは椎名か。嘘つけねぇな、アッチ」
ケンに口止めしなくては、と篤志は思った。昼飯を一回くらいで済むだろう。
「けど、あいつの性格って、いまいちよく掴めねぇんだよな。機嫌いいと思ったら急に怒り出すし、素直じゃねぇし、何故か偉そうだし。
…そういや、あいつから女のオの字も聞いたことねぇな」
ようやく気付いたようにケンはそのまま独り言を続けた。
「あいつって、女嫌いじゃねぇ？」
「結構こういうところで食べるラーメンっておいしいね」
五月中ばということもあってか、外の気候はさほど冷たくない。その中で、萌子と理香は一馬の帰りを待つべく、ドアの前に座ってラーメンをすすっていた。
「野外ラーメンか。うん、おいしい」
理香の横には、小池軒と書かれた出前持ちが置いてある。
「ラーメン三つ持ってきたのにね。渡部君のラーメン伸びちゃったね」
「あ、大丈夫。うちのラーメン伸びてもおいしいから」
「ほんと？」
「嘘」
「もう理香ってば。でも、本当においしい。理香のとこのラーメン」
「ありがと。パパに言えば大喜びするよ、絶対」
萌子がスープを口にして、ふうと息をついてから言った。
「それにしても、大槻先輩の問題発言。本当かな」
「美都と付き合いたいってこと？」
「それはいつもの冗談でしょ？じゃなくて、和美のことよ」
二人はうーんと考え込んだ。
「大槻先輩って、基本的に嘘つきだけど、時々本当のことを含んで言うんだよね。まあ、和美君に好きな人がいても、おかしくはないけどさ」
確かにそれはそうなのだ。でもだからといって、いなきゃいけないわけでもない。
「美都ももっと積極的にアプローチしなきゃ」
理香の言葉に萌子も頷く。
「萌子もさ」
え？と思って萌子が理香を見たとき、理香は突然声を上げた。
「あっ、そういや宿題があったんだった」
夜中、一馬が戻ってくると、ドアのところに何かが置いてある。何かと思って見ると、それはラーメンで、その上には手紙が置いてあった。
『伸びてもおいしい、小池軒のラーメン。どうぞ』
一馬は冷え切っているラーメンを見つめた。