Maybe Blue 第一部 海の鼓動
初夏3
「ねっ、お願い。これ、福山先輩に渡して。一生のお願いだからっ」
昼休みに、萌子は突然隣のクラスの女子に呼び出されたかと思ったら、下駄箱まで連れてこられ、目の前に手紙と映画のチケットを出された。音楽の授業で仲良くなった子だった。
「って、言われても…。福山先輩の予定だってあるだろうし、直接渡した方が、いいと思うよ」
その後ろには、その子の友達がついてきていた。
「そんなの、恥ずかしくてできないし、それに知ってると思うけど、先輩の取り巻きがいるでしょ？あの人達の前で渡したら、あたし何されるかわからないもの。ね、お願いだから」
それでも萌子が受け取らないでいると、後ろの友達が萌子に言った。
「沢木さん、これだけ奈美がお願いしてるんだから、いいでしょ？渡すくらい」
奈美という女の子は、多少目を潤ませている。萌子もそれを見て、少し心が揺らいだ。
「気持ちはわかるけど…。ごめん、そういうことしないことにしてるの」
すると、奈美と呼ばれた女の子はしばらく黙っていたが、それでもやはり萌子が受け取らないことに、ようやく俯いていた顔を上げた。その時の目は、確かに萌子を睨んでいた。
「…わかった。沢木さん、福山先輩のこと好きなんでしょう」
「え？」
「だから、そうやって意地悪するんだ」
思いも寄らない方向に話が飛んでいき、萌子は唖然とした。そんな萌子に、二人は襲いかかるように次々と言葉を浴びせた。
「友達だって思ってたのに」
「最低。マネージャーだからって、威張らないでよ」
「そうよ」
「別に私は先輩のこと好きなわけじゃ−」
「だったら渡してくれてもいいじゃない」
「そうよ、別に無理なこと言ってないわ」
迫力に負けて、萌子が後ずさりしていると、下駄箱にぶつかってしまった。困り果てていると、急に後ろから手が伸びてきて、手紙とチケットを取った。
「それじゃ、遠慮なくもらうよ」
「福山さん」
奈美の顔が真っ赤になったのを見て、萌子も振り向くと、そこには確かに朔哉が手紙を手にして立っていた。
「福山先輩…」
朔哉は笑顔で言った。
「サンキュ」
「いっいえっ」
「で、これ何？映画のチケット？」
「はいっ、あの…一緒に行ってもらえないかと思って…」
自分で言えるじゃないの、と萌子が思っていると、朔哉は二つ返事で答えた。
「いいよ」
あまりにもあっさりしていて、驚いている萌子の前に、朔哉は女の子達との予定を話し合っていた。
「悪い、早坂っ」
昼休み、グランドでサッカーをして遊んでいた成は、クラスメートが蹴ったボールが大きく成の頭上を超えていき、追いかけることになった。さっき廊下ですれ違った俊平には、
「お前もよくやるな」
と半分呆れられていたけれど、やっぱり自分はサッカーが好きなのだと思う。正規の練習をこなしても、自分にはまだ不充分だと思っていた。ディフェンダーは、思っていたよりも勘と経験が必要だと痛感していたから、こういった遊びの中でも、それを養おうと自然と積極的になっていた。
転がり続けたボールは、一人の女の子に拾われて、そこで成は立ち止まった。成はどちらかといえば、女の子と話をするのが苦手だ。何を話せばいいのかわからないし、じっと見つめられたりすると、緊張する。
だからこの時も、女の子が笑顔でボールを投げてくれたのに、小さな声でどーも、とだけ言って、軽く頭を下げただけだった。女の子は笑顔で立っていた。 何処かで会ったような気がすると思ったが、深くは考えなかった。グランドに戻っていく成に、聞き覚えのある声で、百合と呼びかけている声がしたけれど、振りかえる前に、仲間に呼ばれ、成はそのままドリブルをはじめた。
「百合」
呼ばれた百合は振りかえると、少し驚いた顔の萌子が立っていた。
「どうしたの？」
「萌子がちょっと遅いから、心配して。もしかして、またサッカー部のファン？」
萌子は敢えて口では答えずに苦笑した。
「全く、自分で言えばいいのにね」
結局は言ってたんだけどね、と萌子は心の中で呟きながら、溜息をついた。
美都は、手に十円を持ったまま、四組の前をずっとうろうろしていた。
まず、北内君いますかって聞いて、それから北内君が出てきたら、昨日はごめんね、ありがとう、映画楽しかったね、また行こう…。だめだ、映画はあまり楽しくなかったんだから。
でも、だったらなんて言おう。今度は別の映画見に行こう…なんて言えないし、でも理香はせっかく、いいきっかけができたんだから、これを利用しない手はないって言ってたし、でも…。
「どけよ」
一人で考え込んでいると、後ろから聞き覚えのある声がして、美都は驚いて振り返ると。やっぱり和美が立っていた。
「ごっごめんなさいっ」
美都が避けると、和美はチッ舌打ちをして、さっさと教室に戻っていこうとしていた。慌てて美都は呼びとめて、手を差し出した。
「あのっ。これっ、お金…」
それは昨日電車に乗ろうとして、十円足りなくて、困っていたときに和美が貸してくれたものだった。和美は十円玉を見せられて、思い出したように、ああ、と言い受け取った。
「ほんと、あの時はごめんなさい、それで−」
話を続けようとした美都だったが、すでに和美は消えていた。
美都は両手を握り締めた。
「渡部」
厳己に呼ばれて、メロンパンを食べていた一馬は、残りを牛乳で流し込んで一息つくと、何？と聞いた。
「あのさ。親、どうした？反対してるっていう」
一馬は思い出したように、ああと答え、牛乳をまた一口飲んでから言った。
「まだ平行線。多分。俺がサッカー辞めるって言わない限り、駄目だな」
厳己は力なく、そっかと答えてから、もう一度顔を上げて聞いた。
「バイトって大変？」
突然の話に、一馬は驚く。しかし、厳己の顔は何故だか真剣だった。
「そうだな、楽じゃねぇよ」
一馬がそう答えると、厳己はやはり元気なさげに、そうとだけ答えた。
「おつかれ」
萌子が部室で片付けをしていると、練習を終えた朔哉が入ってきた。
「…お疲れ様です」
そう答えた萌子が、じっと朔哉を見ていると、ロッカーを開けたところで朔哉が振り返った。
「何？」
着替えることがわかっていても、その場にいることは、何か話があるんだろうと朔哉は思ってそう聞いた。萌子は躊躇いがちに聞いた。
「本当に行くつもりなんですか？映画」
「ああ。それがどうかした？」
あっけらかんと朔哉は答える。話がたいしたことではないと感じた朔哉は、さっさと着替え始めた。萌子は、それでも出ていかなかった。
「あまり、無責任なことしない方がいいんじゃないですか？」
面倒だなと朔哉は思って、軽く答えた。
「俺が行きたいと思って行くんだから、モエチャンが責任感じることはないよ」
「でもあの時、私が困ってたから福山先輩、助けてくれたんでしょ？」
着替えている朔哉の手が、一瞬だが止まった。それでもすぐに、朔哉はシャツのボタンを留めはじめた。
「別にそうじゃないさ。ただ、映画に行きたいと思ったからチケットをもらった。そういうこと」
「それじゃ、つきあうつもりなんですか？」
声に出さない程度に、朔哉は笑った。
「映画に行ったくらいで、つきあうことにはならないだろ？それに俺は誰とも付き合う気はないよ」
その言葉で萌子の表情が変わるのを確認して、入り口に立っていた俊平が朔哉に声をかけた。
「よう朔哉。外で堀江たち待ってるぞ」
「ああ、わかってる」
朔哉は鞄を持って、ロッカーを閉めると、そんじゃな、と言って部室を出ていった。追いかけようとした萌子を、俊平が引き止めた。
「朔哉のことは、放っておけよ」
「でも」
部室を出た朔哉に、女の子たちが群がっているのが、萌子に見えた。
「あいつはね、アイドルやってんの。アイドルってゆうのは、特定の相手と深く付き合っちゃいけないし、皆に平等に優しくなきゃいけないわけ。わかる？」
「でもそんなの、彼女たちが可哀想。本気で好きなのに」
その言葉に、俊平はムッとして思わず口走った。
「可哀想なのは朔哉の方だぜ。勝手な理想押し付けられてんだからさ」
萌子が驚いて、自分の方を向くのに気付いて、俊平は今の発言が失言だったことに気付いた。それで付け加えた。
「それでも朔哉はきっちりしてる方だぜ。司なんかつまみ食いしてるしな」
萌子の顔がいっそう険しくなる。俊平は、壁にもたれていた体を起こし、自分の鞄を持った。
「別にいいだろ？向こうだって嫌なわけじゃないんだから」
「精がでるな、早坂」
一人でボールを蹴っていると、ふいに笠間の声がして、成は顔を上げた。
「けど、あんまり無理はするなよ」
「はい」
成はそう答えたものの、まだボールを蹴っていたかった。しかし、気付けば練習が終わってからもう一時間は経っており、だからこそ笠間がやってきたことに気付いて、引き上げることにした。
「吹っ切れたみたいだな」
突然言われて、笠間の方を見ると、笠間は笑っていた。
「肩の力が抜けて、いい感じだ。
いいことあったのか？」
突然そう切り出されて、成は戸惑った。別に何があったというわけでもないのだ。答えを待つ笠間に、成は言った。
「ただ、思いきり落ちこんだから、これ以下はないってそう思ったら、すっきりして」
萌子に話をしたことが一つにはあるのかもしれなかった。ぐちゃぐちゃしていた気持ちを、誰かに話すことでいくらか気持ちの重しが取れた気がする。
笠間はそうか、と答えただけだった。
「どうかした？萌子」
帰り道、萌子が無口なことに気付いた理香がそう聞いた。萌子はちょっと考えてから理香に聞いた。
「福山先輩って、よくわからないね」
萌子の見た朔哉と、今日の朔哉は百八十度とは言わないが、どこか違う気がした。よくわからないが、周りはちやほやしているけれど、それに奢れない、もっと誠実な人間だと思っていたのだ。簡単に人の気持ちを弄んだりしない、人間だと思っていたのだ。
「どうして？」
理香はくりくりとした目を更に大きくした。
「アイドルやってるって、細谷さんが言ってたの。でもそれって誰とでも付き合うってことを、いい言葉に直しただけでしょう？」
「アイドルか。確かにそうだもんな。
ね、知ってる？ニ年生でモテるのって、朔哉先輩か、つかっちゃんだって」
萌子は司のことをあまり認めたくなかったが頷いた。
モテるといっても、朔哉と司は質が違う。朔哉は老若男女問わず、といったまさにアイドル型だが、司はわりとすれた感じの女の子から人気があった。
「でも二人って、付き合い方が対称的に違うんだ。朔哉先輩は、広く浅く。つかっちゃんは狭く深く。もっと言うと、朔哉先輩は、誰でも受け入れるんだけど、 特別な人は作らないの。だから特定の恋人はいない。でもつかっちゃんは、選別が激しくて、しかも一度に三・四人くらいとつきあうんだけど、その間はその人 にべったり。でも飽きるとすぐに捨てるの。だからまあ、つかっちゃんには気をつけたほうがいいよ」
萌子はにやりと笑う司の顔を思い出して、納得したけれど、朔哉のことも思い出した。
あの奈美ちゃんは、先輩とのデートの為に、どれだけ真剣に服を選ぶんだろうか。どれたけ真剣に心をときめかせているんだろうか。
「どっちも最低よ」
ただ、気になるのは、俊平の一言だけだった。
可哀想なのは朔哉だぜ。勝手に理想押し付けられて。
黙り込んだ萌子に気づかずに、理香は話を一人で進めていく。
「でもいいな、萌子は。朔哉先輩に、モエチャンなんて名前で呼んでもらって。あたしだって、リカチャンって呼ばれてみたいな」
「篤志に頼めばいいじゃない」
萌子は最近、理香がミーハーで面食いだということに気付いた。それでも相手のことを気遣うところが、理香のいいところだとも思っていた。第一、篤志と言うれっきとした恋人がいることも、そして理香が本当に篤志が好きだということも知っていたから、気にするようなことではなかった。
「わかってないな、萌子。朔哉先輩じゃないと感動がないの。アッチになんてリカチャンって呼ばれたら、気持ち悪くて、鳥肌立っちゃうよ」
わざと震える真似をする理香に、笑顔を見せていた萌子だったが、ふと真剣な表情をしていった。
「わたしは、別に誰にどんな呼び方されてもいいけど、福山さんの呼び方は、何か嫌だな」
「どうして？」
萌子は悩んでから言った。
「少し、ばかにされてるような気がするの」
うまくは言えないけど、と萌子は付け加えた。年下の女の子扱いされている気持ちにさせられるのだ。しかし、理香は明るく言った。
「萌子の気のせいだよ、そんなの」
珠里たちと、司なども一緒にご飯を食べていた朔哉は、化粧直しに珠里たちが席を立ったタイミングで俊平から萌子の話を聞くことになった。それを聞いた司が、まず言った。
「変な女」
「だろ？俺もそう思った。自分をいじめてた相手から、かばった朔哉をひどいっつって、いじめてたやつのこと、可哀想だぜ？」
「どうにかなんねーかな、あの性格。顔はいいんだからさ」
そういえばケツもよかったな、と司は思った。俊平は呆れた顔で言った。
「まず無理っしょ。あーゆーのは、男嫌いっつうか、潔癖症っつうか、まぁ要するにお堅いってわけよ」
「せっかく女のマネージャーが入ったつーのにな。小池は初めから警戒されてるし、俺」
中学の時から、司の行動を見ていた理香は、できるかぎり司に近づかないようにしているのだった。
「けど、お前。椎名だっけ？結構からかって楽しんでんじゃねぇか」
ハッハッハと司は声を上げて笑った。確かにそうなのだ、何を言っても、何をしても、美都は真っ赤な顔で、止めてくださいとしか言わない。萌子のように頭を殴ったりもしないのだ。
そこが面白くて、いつも司は美都を見つけるとからかうのだ。
「からかい甲斐があるんだ。すっげー。
朔哉、どうかした？」
「え？」
突然話を振られた朔哉は、ぼうっとした顔で司を見返した。
「何もしゃべんねぇし、なんかぼけっとしてるし」
「いや、何でもない」
朔哉の頭は、萌子に言われたことでいっぱいだった。そうとも知らずに俊平が言った。
「もっと、楽なマネージャー。こねぇかな」