Maybe Blue 第一部 海の鼓動
初夏1
「おつかれー」
「やった、明日は休みだぁ」
「じゃな」
ゴールデンウィーク、凪浜高校は遠征と練習試合に明け暮れていた。練習試合は、他校に出向くこともあれば、今日のように凪浜で行った試合もあった。
三日連続での試合の疲れを癒すためか、明日の開校記念日が練習が休みになり、皆が楽しげに着替えをしていた。しかし、成は一人、部室には行かずにジャージ姿のまま浜辺に佇んでいた。
何でなんだよ。
この練習試合中、この思いがずっと成にはあった。
チームがＡになったと言っても、成はレギュラーになったわけでもなければ、サブになったわけでもなかった。それがこの練習試合では急にレギュラーになった。そのまえにサブを経験した右京の場合とは明らかに違う。
驚いたのは、それだけではない。ポジションが、従来のフォワードではなく、ディフェンダーだったのだ。それもセンターバックだ。
驚く成に、石橋はただ一言言っただけだ。
「やってみろ」
Ａチームのレギュラーの練習試合である。相手は格下でなく、同等、あるいはそれ以上だ。無理です、とは言えないような石橋の強い言い方に、成は一か八かでやってみることにした。
結果は散々だった。もしこれが、横田というトップレベルのディフェンダーや、朔哉といったトップクラスに点取り屋がいなければ、その差はもっと酷かっただろう、成は何度も相手のトップに抜かれた。その度に横田がカバーに入る。キーパーの中上が必死にボールに食らいつく。何度成は胸を撫で下ろしただろう か。しかも一度は、ディフェンダーという役割を忘れ、ドリブルして上がり、センタリングまでしてしまった。
もう駄目だ。
実際に負け試合を終えて、グランドから戻ってきたとき、三年の一人が言っていたのだ。
「あーあ。勝てた試合だったのによ。誰かさんのせいで散々だぜ」
しかし、次の日も、また次の日も成はレギュラーに名前を連ね、ディフェンダーとして試合に出場した。
石橋は何も言わなかった。叱りもしなければ、アドバイスもしなかった。成は落ち込んだ。そこであの、意地悪をしていた先輩が試合後に言ったのだ。
「監督が何考えてるかわかんねぇけど、お前。もう終わりだな」
それからはよく覚えていない。人をかき分けるようにして、ここに来てしまった気がする。
畜生。
成は思いきり、砂を蹴り上げた。
「また、だね」
ふいに声がして、振りかえるとそこに萌子がいた。
「沢木」
「練習試合のこと？」
「…ああ」
萌子も着替えをせずにまだジャージのままだった。砂浜に座っている成の隣に、萌子も腰を下ろすと、顔は成に向けずに、そのまま二人で夕焼けをしばらく無言のままで見ていた。しばらくしてふいに萌子が言った。
「監督の考えていることは、時々わからないけど、経験してほしかったんじゃない？ディフェンスを」
それは成にもわかってることだった。
「けど、いきなりだったから…。なんていうか、驚いてさ」
うん、と小さく答えて、萌子は続ける。
「誰だって初めては完璧になんかできないよ。それに監督はやってみたいんじゃないのかな」
「何を？」
「高校一のリベロ、作りたいんじゃないのかな」
それは微かに成も感じていることだった。でも、自分にそんなものが務まるのだろうか。そんな成の心を見ぬいたように萌子が言う。
「監督は、早坂君にその素質があると思って試してみたのよ」
けど…と成は顔を俯かせる。そこに萌子は元気な声で言った。
「頑張ってたよ、早坂君。ディフェンスに、オフェンス」
成は少し照れた。
「ありがとう。…沢木は、どうしたんだよ」
萌子は途端に少し寂しげな顔になり、弱い声で言った。
「うん」
「なんか板に付いてきたな、萌子のマネージャー姿」
今日の昼休みのことだった。慌しく走り回っている萌子に、偶然近くを通った篤志が言った。
「ほんとよかったよ、入部に協力した甲斐があった」
篤志はそう言って、にこにこと笑った。
「ほんと、篤志のお陰」
萌子はそう言って笑った。
「初めは、見学する場所とか、行く時間まで指定されて何事かと思ったけど」
「まあね。俺だって疑問に思うことあるもん」
そのとき、由太はブリックを買いに行こうとしているところだった。偶然萌子と篤志の会話が聞こえてきた。二人は販売機のすぐ裏に立っていたのだ。聞く気はなかったものの、由太は聞いてしまっていた。
篤志が、萌子に裏情報を流していたということを。
しかし、由太が出ていく前に、萌子は石橋に呼ばれてどこかに行ってしまった。由太は、この種は摘み取るべきだと思った。
そして、練習試合も無事に終了し、1年はグランド整備を終えると一斉に部室に戻ってきた。皆が着替え終わった頃に、萌子たちマネージャーが入ってきた。そこで、由太は萌子に言ったのだ。
「卑怯だな」
突然言われた萌子は、初め何のことだかわからなかった。
何？と聞く前に由太が続けていった。
「マネージャーになる条件、篤志から聞き出してたそうじゃないか」
その言葉に、着替え終わった篤志も驚いていた。ケンが条件って何だと誰ともなしに聞くと、由太が答えた。
「見学期間にマネージャーの候補はおおよそ決めてるんだ。その選別方法だ」
「ほんとなの？萌子」
一緒にいた理香も驚いた顔をして萌子を見た。美都はそんなものがあったことを初めて聞いて驚いていた。萌子を庇おうとした篤志が何か言う前に、萌子は言った。
「聞いたわ」
いつのまにか、部室は静まり返っていた。由太は萌子に詰め寄った。
「他のマネージャーやりたがっていた人間に、悪いと思わないのか？」
皆の視線が萌子に注がれた。
「違う、萌子は−」
そう言った篤志の言葉を遮って、萌子は言った。
「思うわ。ごめんなさい。…ごめん」
更に何か言おうとした由太だったが、その前に萌子が部室を出ていった。そして、萌子はそのまま海辺にやってきたのだった。
「アッチ。あたしも、聞いて無かったよ、そんなこと、萌子に教えたなんて」
ドアが閉まった瞬間、追いかけようとした篤志を理香がひき止めるように言った。篤志は仕方なく足を止めた。
「久子に頼まれたんだよ」
「だからって」
もし、理香が久子に頼まれていたら、教えていたかもしれない。でも今の理香は、それよりも篤志が萌子に教えたことの意味を知りたかった。篤志は周りの視線も受けて、話すことにした。
「萌子は…。萌子は心に傷を負っている。そして今、何とかしてそれを治そうとしてる。それができる方法が、マネージャーなんだって、久子がそう言ってたん だ。もちろん、俺だって萌子がただのミーハ−でやりたがってるだけだったら、教えないよ。ちゃんと話聞いたし、萌子は真剣だった。だから話した。
けど萌子は、初め拒否したんだ。フェアじゃないからって。でも俺と久子で説得したんだ。もし話が納得できないことだったら、やらなきゃいい。それに、本当に決めるのは監督だから、俺が小さなこと教えたくらい関係無いと思った」
「けどな」
由太が続けようとした言葉を、篤志は遮る。
「いやだったんだよ。…選手権で優勝して、嬉しかったけど、なんか変わっていってる気がしてさ。ずっとずっと、小さい頃から憧れてた凪高が、変わっちゃう気がして、遠くなった気がして。けど、萌子だったら、何か変えてくれる気がしたんだ。元に、戻してくれる気がしたんだよ」
いつからだったか、石橋が楽しい監督から恐い監督に見えることもあるようになった。
篤志が凪浜に憧れるようになったのは、小学校時代にサッカーの楽しさを教えてもらった石橋の元で、もう一度サッカーをやりたいという気持ちからだった。 しかし石橋からは、その楽しみがいつか見えなくなっていた。今思えば、それは笠間のことがきっかけだったかもしれない。そしてその不安は、選手権に優勝した時、さらに強くなったのだ。
「言っておくけど理香。お前もそうだろ？萌子のこと責められるのかよ」
篤志にそう言われて理香は黙り込んだ。そういう意味では、理香はもっとずるいかもしれない。顔見知りだということで、入学前からマネージャーをやることはほぼ決定していたのだ。
しかし、由太ははっきりと言った。
「俺は認めない」
「由太」
「不正は不正だ」
篤志は一度由太がそう言い出したら聞かないことを知っていた。由太は何よりも不正を嫌う。いつでも公正な立場にいて、いつでも公平は判断を下す。だから、いつもキャプテンを務めているのだ。
しかし、そのとき、それまでは一年生に混じるようにいた笠間が口を開いた。
「高岡。スタートラインってのはな、誰にも平等なわけじゃない」
その言葉は、由太の考え方を真っ向から否定していた。
「俺はそう思う。沢木のことを不正だというんなら、お前だってどうだ？春休みから練習に参加してる。それだって一つの不正じゃないのか？」
由太は唇をかみ締める。笠間は由太が自己批判しだす前にやんわりと言った。
「不正って言葉はよくないな。高岡、こう考えればいいんじゃないか？
チャンスがあったか、なかったか。そしてそれに気付いて、そのチャンスを生かせたか、どうか。
お前は中等部だったからチャンスがあった。沢木も日比野と知り合えたからチャンスがあった。皆に与えられたチャンスは同じものじゃない。だから、それを気付く奴と、気付かない奴がいて、生かせるやつと、生かせないやつがいる。
そして、ゴールに近いスタートラインにいる奴が、必ずしも一番になれるわけじゃない。
大事なのは本人の努力だ。いくら練習に参加しても、本人が努力してなければレギュラーにはなれない。そうだろう？」
事実、和美などは寮生でもなければ、内部生でもなかったが、今はＢチームに入ろうとしていた。
「沢木は確かに第一関門は日比野のお陰で簡単に突破した。けど、実際に仮入部の面接を通したのは俺だ。通ったのは沢木の実力だ。それから、本入部できたのも、沢木の実力だ。それはお前も見ていたからわかるだろう」
石橋にくってかかり、結局は認めさせた萌子。誰もがその勇気を、意志の強さを目の当たりにしていた。笠間は最後に少々厳しい声で言った。
「高岡。お前はキャプテンの素質は十分にある。ただ一つ欠けているのは、物事を下から見る視点だ。裏で支える人間がいなければ、表に立つ人間もいないんだぞ。それを忘れるな」
気付けば萌子は、由太に言われたこと以外の、知朗に言われた雑用係の話まで成に話していた。話し終わると成が言った。
「でも俺は、篤志に教えてもらっただけじゃ、入部できなかったと思うよ。それに沢木は充分立派なマネージャーだと思うし、皆も同じに思ってるよ」
「ありがと」
「知朗の言うとおり、雑用的な仕事もあるけど、それだけじゃなくて、メンタルな部分も見てもらってるし。ほら、あいつって何でも真っ直ぐしか見てないから、気付いてないだけだよ。気付いたとき、きっとすごく感謝すると思う」
「…ありがとう。何か、落ちつけた」
知朗の話は萌子を安心させた。そうして萌子は大きく伸びをした。そして笑う。成もつられて微笑んだ。
「俺だって、話聞いてもらえて落ちついたよ」
波はずっと、押し寄せては引き、また押し寄せては引くを繰り返している。変わったことと言えば、二人の気持ちと沈んできた夕日だった。成がそんな海を見つめながら呟いた。
「けど、不思議だな、何でか無性に海に来たくなった」
そう言われて萌子は、この前の三上のことを思い出した。
「波の音は、地球が呼吸してる鼓動の音なんだって。誰かにいてもらいたくて、でもいてほしくない時に、きっとその鼓動を聞いて、一人じゃないんだって確か めたいから、来ちゃうんじゃないかな。今のままで大丈夫だ、頑張れってそう言ってくれる気がするから、来るんだよ。多分」
爽やかな風が吹いていた。二人の呼吸が静かに、合い始めていた。
「初夏の海か。真夏はすごいんだろうね」
「うん、しかもここの夏の花火大会はすごいよ。毎年家族で見に来てたけど、人もすごいから必ず妹か俺がはぐれちゃうんだけど、迷子なこと忘れるくらい、圧倒されるんだ。他のどこの花火大会よりも、大きいんだ。沢木ってそういう花火大会よく行った？」
二人の呼吸がそこで途絶えた。萌子は困ったように慌てて言った。
「うちね、変な家族なの。わたし、今まで一度も花火大会とか、夏祭りとかつれていってもらったことないんだ、小さい頃からお父さんも、お母さんも仕事ばっ かりでなかなか暇がなくて。遊びに連れていってもらえても、絶対にどっちかがいないの。でも、バレエの発表会の日だけは違った。お父さんも、お母さんも必 ず来てくれた。だから、いつも…。頑張ってた」
萌子はそこで大きく深呼吸した。
「けど、怪我しちゃって。この足の傷。バレエでやったの。おかげでもう駄目だって、バレエはできないって言われたんだ。
結構ね、辛かった。何もなくなっちゃって、何も残らなくて。お父さんとお母さんも、一度駄目になっちゃって。
…ごめん、わたし。関係ないこと」
急に恥ずかしくなった萌子に、成は優しく言った。
「いいよ。話したいんなら聞くから」
萌子はそっと成の顔を見た。そういえば、浜辺にやってきてから、初めて成の顔を正面から見た気がしていた。成は連日の練習試合で顔が少し焼けていた。そして、優しそうな瞳をしていた。
「何か…海のせいかな、こんなに話せちゃうの」
自分自身を納得させるように萌子が言うと、成も言った。
「今年の夏は、花火大会行こうよ。…皆で、さ」
「うん」