Maybe Blue 第一部 海の鼓動
春興17
「何でこうなるわけ？」
ケンのそう嘆く声を聞いて、篤志が肩をポンポン叩きながら言う。
「まあまあ、ケン。いいじゃんか、藤原巧いんだから」
今日の特別練習には、右京が参加した。笠間が誘ったらしい。フォーメーションの練習だが、ケンのペアは他ならぬその右京だったのだ。ケンは篤志の腕を振り払うと、強く言った。
「そういうもんじゃねぇよ」
練習は違いにマークをつけた状態で、片方がセンタリングを上げ、片方が真ん中にキーパーに見たてた板のあるゴールにシュートするというものだった。
しかし、タイミングが合わない。
時にボールはケンの１メートル前を駆け抜けていったり、時に頭上に飛んだいたりするのだ。そのたびに笠間から厳しい声がケンに浴びせられる。ケンは苛立つ心を抑えていたのだが、ついにボールはケンを飛び越えて、グランドを出て行ってしまった。
「ったくどこに蹴ってんだよ」
ケンはそう呟いてボールを追いかけた。右京が走ってくる気配はない。
てめぇのせいで、俺がこんなことしてるんだぞっ。
ふと誰かがボールを拾い上げたので、ケンも顔を上げた。
「何だよ、萌子」
萌子は足元に転がっていたボールを手にすると、ケンに向かって投げた。
「ケン、全速力で走ってないでしょ。だから右京のパスに追いつけないんだよ」
ボールを受け取ったケンは、萌子を睨みつけた。
「うるせーな、お前まで」
ケンは苛立ちながらボールを蹴る。
「俺は一生懸命やってんだよっ」
「でも右京はもっとケンはできると思ってるんじゃない？」
「ちげーよ、あいつのパスが…」
言いかけて、ケンは今までのパスのことを思い出した。タイミングは徐々に合い始めていた。しかし、ボールがいつも飛んでくるのは少し前なだけ。しかもその距離は、ケンがちょっと本気を出せば届くかもしれないのだ。
「おい、次ケンだぜ」
後ろの知朗にせっつかれ、ケンはボールを右京の方に蹴った。それがスタートの合図であり、ボールを受け取った右京は、ディフェンダーを伴って、上がりな がらセンタリングのチャンスをうかがう。ケンもついているディフェンスを振り払うように前に出た。いいタイミングで右京からのスルーパスが通される。その ときケンは、ボールの強さが前に比べると弱いことに気づいた。そしてケンの足元にぴったり届く。ケンはそのままシュートするだけで充分だった。
「ナイスッ！ケン」
萌子の明るい声が聞こえてくる。ケンは無表情のままに列に戻っていく右京を見ていた。
「いったぁ…」
救急箱を探っていた美都は、運悪く鋏で指を切ってしまった。切れた指には赤い線が引かれ、真っ赤な血が流れ出した。
またやっちゃった。
そう思っていると、上から高めの声がした。
「何やってんだよ。どんくせー女だな」
顔を上げると、和美が呆れた顔をして立っている。美都は慌てて立ちあがった。
「あ…。あの、どこか怪我でも」
「怪我してんのは、お前だろ？」
和美はそういうと、救急箱から消毒駅を出し、美都に手を出すようにと促すと、乱暴に消毒した。
「ごめんなさい」
美都は黙って作業をしている和美をみつめる。
怒ってるのかな。でも、今日は優しい。
そう思っていると、和美と目があった。美都は顔を真っ赤にして俯く。和美も不機嫌そうに顔を逸らし、そしてばんそう膏を美都に渡した。
「後は自分でやれよ」
美都は自分の手の中に置かれたばんそう膏を見つめながらいった。
「ありがとう…」
萌子は自分の足元に転がってきたボールを投げた。
「ファイト」
そう叫ぶと、ふとグランドで立ち尽くしている湊に気付いた。
どうしたんだろう？
湊はどこかを見つめているらしい。その視線を追うと、そこには美都と和美の姿があった。
よかったね、美都。
そう思った萌子が次に見たのは、少し悲しそうで、少し幸せそうな顔で美都たちから視線を外した湊の顔だった。なんとなくだが、萌子にはピンと来るものがあった。
「もしかして…」
「やっぱすごいよな、藤原って。一緒にやってみて、実感したよ」
練習後、更衣室ではその話題で持ちきりだった。あの後一人抜けたために、ペアではなくなり、全員が全員と一度プレーをしたのだ。中でも篤志は興奮気味だった。
「スルーパスも絶妙だったよなぁ。ケン」
突然篤志にそうふられたケンは、それまで珍しく一言も話さず着替えていたのだが、そのとき初めて口を開いた。
「…ああ」
「何やってんの？」
突然理香に声をかけられて、美都はびくっとした。
「な、んでもないよ。ごめん」
慌てて美都は理香の片付けを手伝う。そうしながらも、そっと自分の指にしたばんそう膏を眺めては、ただじっと笑顔のままだ。
「美都ってば、また怪我したの？」
そんな美都に気付いた理香がそう言った。美都は慌てて手を隠す。
「うん。ちょっと切っちゃって」
「相変わらずドジだなぁ、美都は」
理香はそう言っていたが、美都はもう一度和美に治療された自分の指を幸せそうに眺めていた。
萌子は片付けを終えて部室に戻ってくると、着替え終わったケンが一人で立っていた。
「お前が仕組んだんだろ、今日の練習」
「え？」
「とぼけんなよ。藤原と俺、組ませたことだよ。俺だってそんな馬鹿じゃねぇよ」
ケンの視線に、萌子は笑顔で返した。
「ケンがね、口ではいろいろ言ってるけど、それって結局仲良くやりたいってことなんじゃないかなって思っただけよ。違ってたら、別にいいんだけど」
そう言われたケンは黙っていた、そして、ぽつりと言った。
「…悔しかったんだよ」
「え？」
「俺だって、監督にうちに来ないかって誘われて、他の推薦蹴ってきたんだ。いろいろあって、それでも凪を選んだ。必要だと思われてたからって自分が感じたから。けど、俺はすぐにＡには入れてもらえなかったのに、あいつはすぐＡに入ってさ。
成だってＡに入って。俺だって、中学のとき全国ベストエイトまで行ってたんだぜ。結構名前知ってる奴は知ってんだぜ。なのに、なんだよ。俺は必要じゃ ねぇのかよってそう思ったらさ、無性に悔しくて。あいつ、Ａに入るの決まっても全然顔色変えないで、まるで当然みないな顔してさ。それが余計むかついて」
「でももうわかったからいいじゃない」
萌子がケンを宥めるように言った。そして、ケンもそれに答えた。
「…ああ」
その時、足音がして、右京がやってきた。グランド整備を手伝っていたのだ。
「お疲れ様」
萌子はごく普通にそう言った。右京は何も言わずに歩いてくる。すれ違いざまにケンも言った。
「…おつかれ」
それはとても自然なケンの気持ちだった。右京の足が止まる。萌子は右京を見つめるケンと、ただドアと向きあっている右京を見ていた。
「…お疲れ」
右京の返事は消えてしまいそうな声だったけれど、きちんとケンと萌子に響いた。
「おつかれ、朔哉」
笠間に声をかけられた朔哉は、おつかれさまですと答えた後でこう言った。
「今日は笠間さんも考えましたね。藤原と名取。これで少しは一年もまとまりますね」
右京の不協和音は朔哉も気にしてはいたのだ。すると笠間はハハッと笑って答えた。
「実は今日のアイディアは沢木なんだ」
「萌子チャンが」
朔哉の驚いた声に、笠間はああと頷き返す。
「今日、相談を受けてね。見事成功」
笠間はほっと安心した笑顔で続けた。
「もっといいマネージャーになるよ。沢木は」
「ねえ早坂君。ちょっといい？」
帰りがけに萌子は成を引き止めた。呼ばれた成は、一緒に帰っている集団の中から一人外れて萌子の方にやって来た。その集団の中に右京はいない。着替えが 終わると、右京はいつものように一人部室を出ていったのだ。そのときすれ違った篤志に、小さな声で、お先、とだけ伝えて。
「どうかした？アッチ」
成に気付いた篤志が後ろを振りかえると、隣の理香がそう聞いてきた。
「ううん、何でも」
篤志はそう答えてすぐ向き直った。だが理香は、篤志が見ていたものをきちんと振り返って見た。それは萌子と成の姿だった。
少し首を傾げた理香だったが、ふと気付いた。
なんかあの二人って結構お似合いかも。
「あのね、違ってたらそういってほしいんだけど。湊って美都のこと好きだったりする？」
「えっ…あぅ…っと」
はっきりと聞かれて、思わず成もかわしようがなく、言葉にならない声となってしまった。くすくす萌子が笑って言う。
「嘘つけないタイプだね、早坂君って」
成は恥ずかしくなって、鼻の頭をかいた。
「鋭いんだな」
「今日ちょっと思っただけ。そっか。そうなのか…でも」
「でも椎名は北内のことが好きなんだろ」
今度は萌子が驚く番だった。
「鋭いのね」
「いいや。俺は全然鈍感。湊がそう言ってたから。好きな子のことはずっと見てるから何でもわかるんだって」
萌子が困った顔をしていると、でも、と成が付け加えた。
「でも、湊は椎名と北内がうまくいくといいと思ってるよ。そういう奴なんだ。昔から」
萌子はとても切ない気持ちに駆られた。そして、素直にそう思える湊を、少し尊敬した。
「そうだね、それじゃ。美都に頑張ってもらわないといけないね」
そうは言いつつも、萌子は前にいる湊をじっと見つめていた。