Maybe Blue 第一部 海の鼓動
春陽5
どうやら、中庭での告白は、全校生徒の見守られる中で行われてしまったようだった。
取り巻き三人の派手な行動に気づいた生徒たちは、何事かとその後をおいかけ、
その後、ただならぬ雰囲気で走り抜けていく朔哉を見つけた生徒たちは、同じようにその後を追い、
そして、教室にいた生徒たちは、中庭に響き渡った平手打ちの音に驚き、教室から顔を覗かせたのだった。
かくして二人の仲は、瞬く間に学校中の知られるところとなり、萌子は歩くたびに誰かに声をかけられる羽目になった。
「あ、ほら。福山さんの彼女の沢木さんだ」
「いいなあ、羨ましい」
「福山とつきあってるんだって？あいつは、女にモテるからなあ。お前、苦労するぞ」
「お似合いの二人ね、若いっていいわぁ」
学年に限らず、先生からも言われる始末。
石橋にすら、
「部活内恋愛は、禁止じゃないが。
あいつの調子が悪かったら、自分のせいだと思え」
と練習試合のスケジュールを受け取りに行った時に、ニヤリと意味ありげな笑みと一緒に言われた。
選択、間違えたのかな。
でも、嬉しい話も聞いた。
「そりゃね、はっきりと言ったのよ。好きな人ができたから、遊びでも他の女とはつきあわないって。
あそこまで言われたら女冥利に尽きるでしょう」
朔哉の人脈なのか、萌子に向けられる視線や言葉は、たいていは祝福や憧憬といったもので、萌子は戸惑いながらも、それらを素直に受け止めることにした。
そうしているうちに、すぐに放課後がやってきて、萌子はどうしたらいいのかと悩んだ。今日は、学校の都合で部活が休みの日なのだ。
福山さんの教室に、行くべきなのかな。
それとも待ってた方がいいのかな。
鞄に教科書をつめ終わり、悩みながらも席を立ったところで、萌子は声を掛けられた。
「いいな、朔哉さんと待ち合わせですか？」
「ラブラブだねぇ」
萌子の前には、ニヤニヤと笑う篤志と理香が立っていた。
「何言ってるのよ！理香と篤志だって、いつも一緒に帰ってるじゃない」
「やだな、もう。照れちゃって」
「ちょっと理香っ」
逃げ出した理香を追いかけようとした萌子は、廊下に出たところで突然腕を掴まれて、足を止めた。
「と、知朗…」
そこには、萌子を睨みつけている知朗がいた。
「ちょっとこいよっ」
「先輩？」
柔らかな声と共に、腕を掴まれた由太はハッとした。
隣を見れば、自分以上に驚いた表情の亜紀子が、自分の腕を掴んでいる。
放課後、珍しく練習がないということで、由太は亜紀子と待ち合わせをして、『アルジャーノン』に来ていた。
形式的ではあるが、中等部から高等部へ上がるために試験ももう終わっており、亜紀は春から由太と同じ校舎に通うことになっていた。
「…どうした」
由太がそういうと、亜紀子は更に困った表情を浮かべて答える。
「だって、先輩。お砂糖２杯目だから。いつもブラックなのに」
言われた由太は、持っていた匙を、慌ててポットに戻す。
昼休みの出来事を思い返していたなどとは、亜紀子にはいえずに、照れ隠しにコーヒーを一口飲むと、確かに甘くなっていた。
店の奥で、バイトに入っている一馬が、くすりと笑った気がしたが、由太はふんっと顔を背けた。それを、自分に対しての態度と取ったのか、亜紀子は、話題を変えた。
「萌子さん、福山先輩と付き合ってるんですってね。お似合いのカップルだって、中等部でも今日は、すごく盛り上がってて…あ。ごめんなさい」
由太の視線がすっと下がるのを見て、亜紀子は思わず謝った。
変わらない、と思う。
こういう、人の噂話、特に色恋沙汰を嫌うところとか。
変わってない。
なのに。
「きっと、お似合いなんだろうな。私も早く高等部に行きたい」
顔を背けたままの由太にそういうが、返事はなく、亜紀子は心の中でため息をついた。
なのに。何だか、先輩との距離は、どんどん離れて行ってるような気がするのは、気のせいなのだろうか。
すると、突然由太が立ち上がった。
「先輩？」
「帰るぞ」
そういったときには、すでにコートを着て、伝票も持ち、亜紀子を待つことなく、由太はさっさと一馬のいるレジに向う。
亜紀子は慌てて自分のコートを掴むと、由太の後を追いかけて行った。
知朗が連れて行ったのは、部室の脇にある狭い通り道だった。
すでに周囲は部活の時間とあってか、人は誰もいない。
知朗は、萌子の腕を離すと、叫んだ。
「何だよっ、突然フクちゃんとつきあうとかっ。
何なんだよっっ」
萌子は黙って俯く。
知朗から告白されたのは、八ヶ月ほど前のことだった。
それまでただの部員という関係だったのに、いやむしろ、邪険にされていたというのに、ある日突然好きだ、と言われ、萌子は戸惑い、悩んだ。
悩んでいると、逆に知朗が言った。付き合って欲しいと言ったわけじゃないと。更に言うなら、萌子にとって恋愛対象ではなかったということも、わかってるんだと。
『付き合いたいと思ったら、そういう』
あの知朗の言葉に、甘えていたのかもしれない。
萌子は無言のままにそう思った。
言うべきだったのかもしれない。いくら今日のことが突然だったにしても、福山さんと一緒にいたいと思ったときに。
「ごめんなさい。…でも、わたし―」
「俺は認めないっ。認めねぇぞっ。フクちゃんなんてっ、あいつならともかく…」
「あい…つ？」
萌子がそう聞き返すと、知朗はハッとして、珍しく顔を背けた。そして、勢い良く続けた。
「ともかく、オレは一歩も引く気はねぇかんなっ、いいなっ。
オレは、フクちゃんよりずっとお前のことが好きなんだっ」
最後には振り返り、激しく言われ、萌子は答えられなかった。
知朗の気持ちが、まっすぐな分だけ、心に刺さった。
だけど。
「でも、決めたの。
わたし、福山先輩とつきあう。
ごめん。知朗」
口調がはっきりしていることが予想外だったのか、知朗は一瞬言葉を無くした。
けれど、キッと萌子を睨むと、尋ねた。
「それじゃ、フクちゃんのこと好きだっていうのかよっ」
「それは…」
一瞬返事を戸惑った萌子に、逆襲とばかりに知朗は激しくくってかかる。
「フクちゃんの言葉で、仕草で、表情で、自分が幸せになったり、落ち込んだり、悩んだり、そういうことあるのかよっ。
どうしようもなく会いたくなったり、
時には抱きしめたくなったり、そういう気持ちになったことあんのかよっ」
その時、萌子は自分の胸に小さな痛みを覚えた。
それは、知朗の言葉が萌子の忘れていることを呼び起こす痛みだった。
なんだろ…。
萌子は思わずそっと胸に手を置く。
答えない萌子に、更に知朗は続けた。
「今のオレの言葉に、お前がすぐに答えられるようになるまでは、オレは絶対に認めねぇからなっ、認めなんかやんねぇっ。
オレが萌子のことを、一番好きなんだからっ」
「それは違うぞ、友近」
後ろから声がして、萌子は慌てて振り返ると、そこには朔哉が立っていた。朔哉は萌子ではなく知朗を見つめていた。その証拠に、朔哉は萌子の前を素通りすると、知朗の前に立つ。
「俺が、世界中の誰よりも、萌子のことを好きだ。
だから、つきあってくれといった。
萌子はそれを受けた。
そのこと、認めろよ」
「フクちゃん。あんたの好きってのは、相手の我侭を聞いてやることなんだろうな。
オレは違う。
正しいことは、正しいというし、
間違ってたら、間違ってるという。
それに、相手だけが幸せになればいいとは思わない。
俺も、相手も、幸せになる。そこに一緒にいる意味がある。
だからオレは、萌子のことを諦めないっ。
今の萌子じゃ、認めねぇぞっ」
鼻息荒い知朗に対して、朔哉は冷静だった。けれど、二人は確かに火花を散らすほどににらみ合っている。
だがその中で萌子は、知朗の言葉が気になっていた。
今の私じゃ認めないって、どういうこと？
しかし、二人は萌子を無視して話続ける。
「今はそうかもしれない。でも、すぐに絶対にそんな言葉すら、言えなくなるさ」
笑顔さえ見せて、そう答える朔哉に、知朗は生唾を飲み込んでから答えた。
「…認めるのかよ、今のオレの言葉」
「ああ、認める。
だけどな、それでも俺は萌子と付き合うことになったんだ。
振り向かせてみせる。
お前の気持ちもわかる。けど、実力行使に出てみろ。
俺はお前を絶対に許さない」
「馬鹿やろうっ、そんなこと誰がするかよっ。
そんなことするくらいなら、腹でも掻き切ってやるっ。
萌子っ」
突然名前を呼ばれて、燃えるような激しい目で見られた萌子は、身をすくめ、思わず息を呑んだ。そんな萌子の肩をぐっと掴み、知朗は言った。
「オレは、お前が好きだ。
これからも、ずっと。
忘れんじゃねぇぞっ」
知朗はそれだけ言うと、最後に朔哉を睨みながらも、去っていった。
その姿が見えなくなってから、ぽつりと朔哉が呟いた。
「…愛の告白じゃなくて、まるで宣戦布告だな」
話についていけなかった萌子は、まだ呆然としていた。そんな萌子の肩をポンと叩いて、朔哉が言う。
「帰ろうか、萌子」
言われて萌子ははっと気づいた。
「ねぇ、福山さん。
今の、どういうこと？
今の私は認めないって…」
歩き出そうとした朔哉だったが、そこで足を止めた。
「わかってるから。
萌子が、俺の事を真剣に好きになって、それでつきあうって決めたんじゃないってこと。
俺に頼りたくて、一緒にいると安心できて、甘えられて、だからＯＫしたってこと、わかってるから」
違う、と言いたかった。
けれど、朔哉が言っていることは本当のことで、それに気づいた萌子は、悔しくなって俯いた。
「でも、いいんだ。
恋愛の形は、人それぞれで、どんな風に始まるから正しいなんてない。
ＯＫしてもらえたってことは、でも好きになる予感がしてるってことなんだろう。
それでもいい。
何より、俺は。萌子が側にいてくれれば、それでいいから。
すごく、幸せだから」
「福山さん…」
ごめんなさい、と言おうとした萌子に、朔哉はにっこりと微笑んで言う。
「それ、止めよう。
部活では先輩後輩だけど、今の俺たちは対等なんだから。
俺は、萌子って呼ぶ。
だから萌子も、名前で呼んで」
「え？朔哉…さん？」
「さん付けって、なんか固いな。いいよ、呼び捨てで」
練習しようと、小さく『朔哉』と言おうとする萌子だが、どうもうまく言えずに首を傾げると、くすりと朔哉が笑った。
「すぐに呼べなくてもいいよ。
ゆっくりでいいから、そのうち呼んでくれればいい」
それはまるで、これから先、長く、ずっとずっと一緒にいるんだと言われたような気がして、萌子ははにかんで、はいと答えた。
そうして、そんな萌子を見て、また朔哉は微笑むのだ。そんな朔哉の隣を歩いて、萌子は思う。
福山さんは、本気で私のことを思ってくれている。
でも…。私は、どうなんだろう。
好きかどうかは、わからない。
一緒にいてほしいと思うだけで…。
ふと、さっきの知朗の言葉が浮かんでくる。
『言葉で、仕草で、表情で、自分が幸せになったり、落ち込んだり、悩んだり、そういうことあるのかよっ』
どうしようもなく会いたくなったり、
時には抱きしめたくなったり、そういう気持ちに…。
私、そんな風に誰かを想ったことあった…？
萌子はまた胸に、小さな痛みと何かが吹き抜けていく虚無感を覚えた。