Maybe Blue 第一部 海の鼓動
春陽4
「あれ？成は？」
朝練で、寒さに震えながらグランドを見つめていた萌子の耳に、近くでストレッチをしている一馬と興仁の会話が届く。
確かにグランドには成の姿がない。
「それがインフルエンザらしいよ」
「インフルエンザ？」
一馬が驚いて声をあげる。そうそうと、興仁が半ば呆れて答えた。
「ピーク過ぎたってのに、あいつってば馬鹿だよな」
インフルエンザが猛威を振るっていたのは、もう二週間ほど前のことで、試合のことを考え部員たちには予防注射をしていたはずなのに、どうしてか成は今になってかかってしまったらしい。
「じゃ、暫く休むことになるのか。あ、次の試合は？」
「ケンがスタメンだって」
「ついてねぇな。早坂も」
どおりでケンがはしゃいでるわけだ、と思う萌子は、突然名前を呼ばれてびくっとしてしまった。
「萌子っ」
振り返れば理香だ。
声をかけた理香も、それほど驚かれると思っていなかったらしく、
「どうかした？」
と尋ねた。
「ううん」
何でもない、と答え、手にしたスコアブックを眺めたところで、理香が呟いた。
「あ、朔哉さんだ。やっぱり、かっこいいなあ」
グランドでのシュート練習は、まさしく朔哉の番で、蹴られたボールは弧を描いて綺麗にゴールに吸い込まれていく。
それを眺めていると、隣の理香がふいに言った。
「ねぇ。萌子。
もしかして、あたしに内緒にしてること、ないよね」
「え？」
ドキッとしたのは、勿論、田中のことがあったからだ。
その田中は、あの後一度も練習に参加することなく、退部していった。表向きは、受験勉強の為ということになっていたけれど、本当の理由は違う。
『モエチャンが気にすることないよ』
朔哉はそう言ってくれていたけれど。
だけど、まさか。
あのことが、理香の耳に入ったの？
思わず無言で理香を見つめた萌子がだったが、理香が聞いたのは別のことだった。
「もしかしてさ、実はこっそりと、朔哉さんと付き合っちゃったりしてない、よね？」
「ないよ。何よ突然」
緊張したぶんだけ、ホッとした萌子は、思わず顔を背けて答える。
「だって、萌子。最近あたしも美都も避けて、ずっと朔哉さんと一緒だったじゃない。だからね。ちょっと、寂しかったのだよ、リカチャンは」
おどけた理香の言い方に、思わず萌子は吹きだして笑う。
「別に避けてなんかないよ。もう理香ってば。勝手に勘違いして」
二人のことは、決して避けていたわけじゃない。
でも、田中のこと、そして亜衣の死を受けた萌子は、それを隠して明るく二人と付き合うのがどこか重荷に感じて、居心地のいい朔哉と一緒にいただけだった。
正確には、一人になろうとすると、必ず朔哉がそばにいたのだ。
亜衣の死。
それは、三上の笑顔と共に萌子の心の底に深く刻まれていた。
『期間限定の恋』
笠間はそう言っていた。
三上さんは、亜衣さんは、二人の『今』を精一杯生きぬいたのだろうか。
「…ね、理香。聞いてくれる？」
ぽつりと萌子が言うと、理香が身を乗り出して聞いてくる。
「うんうん。何何？」
「このままでいたいな、って思ってたの。
ずっと、このまま。居心地のいいまま。
何も考えずにいられたら、って。
だけどね。
やっぱりいつか、『今』じゃなくなる時が来るんだよね」
昨日、真琴も言っていた。
『どうすんだよ、あいつは』
一緒にいてほしい。
だけど、これからどうなりたい、とかは、思ってなかった。
ただ、一緒にいる今が、心地よかったから。
…でも、きっと。
そのままじゃ、いられない。
理香の返事がないことに、萌子は気づくと、照れ笑いして続けた。
「ごめんね、理香。わけわかんないこと、言ったね。私」
笑い飛ばすかと思った理香だったが、珍しく浮かない表情で元気のない声が返ってきた。
「そんなこと、ないよ。
あたしも、昔はそうだったよ。
今のままで、心地いいからいいやって、思って、そのままでいた。
だけど。
最近、ちょっと。不安なんだよね」
「え？」
驚いた萌子が、思わずそう聞き返すと、理香はハッと気づいたようにいつもの元気いっぱいの笑顔になって、大声で言う。
「あー、ごめんっ。何でもないっ」
「理香―」
「何でもないからっ。ほらっ。萌子っ。監督が呼んでるよっ」
理香の指す方向には、確かに石橋がこちらを見て、手招きをしている。
萌子は、一瞬でも、元気のなかった理香が気になりつつも、石橋の方に向った。
朝練を終え、教室に向う途中で朔哉は、取り巻きの珠里、まゆ子、織江に声を掛けられた。中心は珠里だ。
「ちょっと、朔哉。聞きたいことがあるんだけど」
「ああ。俺も。話したいことがある」
「ここ最近、沢木萌子ってマネージャーと一緒に帰ってるって話聞いたけど、嘘よね？」
否定から入るところが、いかにも珠里らしい。目は明らかに朔哉を睨んでいた。
「嘘じゃない。本当のことだ」
にこやかにかわすと思った朔哉がすんなりと認めたことに、珠里はムッとする。
「それって、どういうことなの？
第一、 昨日はあたしと待ち合わせしてたじゃない」
練習後に、一緒に帰る約束をしていたことを今になって思い出した朔哉は、素直に謝った。
「昨日のことは、謝る。ごめん。悪かった」
珠里の表情がいくらか和らぐ。
朔哉が自分だけのものでないことは、珠里もわかっていた。
朔哉はゆうなれば、皆のもの、なのだ。
誰か一人が朔哉を独占することなどできない。
だがそれは、決して自分だけがそうなのではなく、誰もが同じ立場なのだ。
ただ、その中でも、自分は朔哉に近い存在だと、珠里は思っていた。
「わかった。
昨日のことは許すわ。
その代わり、今日の夜、つきあってほしいのよ」
甘えるように言い、珠里は朔哉の腕に手を伸ばすが、朔哉はそれをするりと交わした。
「悪いけど、それはできない」
珠里は唖然とした。
今までも予定が変更されることはあったけれど、そういう時の朔哉は、次の予定を決めてくれるので、こうしてはっきりと断られたのは初めてだったのだ。
返す言葉もない珠里に気遣うことなく、朔哉はどんどん話し続ける。
「それから、映画見に行くって話も、無しにしてくれないか。
まゆ子も、サッカーの試合見に行くのも、無し。
織江は…買い物に付き合う約束してたか。悪いけど、それも」
三人は顔をしかめ、代表して珠里が不満そうに言った。
「ちょっとそれ、どういうこと？朔哉」
「偽るのを、止めようと思う」
それだけいうと、朔哉は教室に戻ろうとした。しかし、それを珠里が引き止める。
「言ってることがわからないわ。ちゃんと説明してよ」
朔哉は斜めに振り返りながら、珠里を見て、確かに微笑んだ。
珠里も、何度も朔哉の笑顔は見ていた。
例えば、皆で遊んでる時に。
例えば、サッカーの試合中に。
だけど、その笑顔は、今まで見たことがない笑顔だった。そして、その笑顔に、珠里は見入ってしまった。
柔らかな春の陽射しのように、朔哉は微笑んで、言ったのだ。
「好きな子ができたんだ。
だから、今までみたいに遊びでも、他の子とはつきあわないことに決めた」
その瞬間、珠里の顔は一気に青ざめる。
まるでいきなり冷水を浴びせられたような気分だった。
「誰よっ、その女っ」
噛み付くように言ったその質問に、朔哉は余裕たっぷりの笑顔で答えた。
「沢木、萌子」
「沢木さん、廊下で二年の女の人が呼んでるよ」
四時間目が終わった途端、クラスメートが廊下を指してそういった。
「誰？」
「堀江さんって人だったと思うけど」
なんだろう。
萌子は首を傾げながら、廊下にでる。
そこには、朔哉の取り巻きの女生徒が三人、腕組みをして並んでいた。
中央の、一際派手な顔立ちの女生徒が一歩前に出て萌子に尋ねる。
「沢木萌子？」
「そう、ですけど…」
萌子がそう答えると、横にいた二人が萌子の腕を掴んでずんずんと廊下を歩き始める。
「ちょっと来なさいよっ」
「え？あの？」
ものすごい力で引っ張られ、長く綺麗に磨かれた爪が腕に食い込む。萌子はその痛みを堪えることに精一杯で、振り払うことができずについていくしかなかった。
ずるずると中庭までつれて来られると、昼休みになって間もないためか、生徒もあまりいない。掴まれた腕の力がいくらか弱くなって、萌子はようやく聞き返した。
「何です？中庭までつれてきて―っわ」
いきなり突き飛ばされた萌子は、よろけながら何とか転ばずに呼吸を整えて、しっかりと三人の表情を見つめる。
派手な顔立ちに化粧で繕われたその表情で睨まれると、本当に怖い。
加えて、萌子に食ってかかるようにそのまま三人はしゃべりだした。
「この泥棒猫っ。
いったいどうやって朔哉に取り入ったのよっ」
「どうせ汚い手でも使ったんでしょうっ、マネージャーっていう立場利用して」
「それか弱みを握ったに違いないわ。
かわいそうな朔哉っ」
一体何をいいたいのか、萌子にはわからずに、首を傾げて聞き返す。
「あの、いったいどういう…」
取り巻きの一人・珠里の手が、その時大きく振りあがった。
殴られる、と思った萌子が思わず目を瞑る。
派手な平手打ちの音が中庭に響いたが、萌子は全く痛みを感じなかった。
恐る恐る目を開けると、目の前には朔哉の姿があった。
「…危機一髪、ってとこかな」
「福山先輩…」
振り返った朔哉の頬は、見事に手の形になって赤くはれ上がっている。朔哉は、目の前で、わなわなと震える珠里に言った。
「珠里、こういうことするの、やめてくれ。まゆ子たちも。
今度彼女に手を出したら、俺はお前たちを絶対に許さない」
「朔哉…」
他の二人が今にも謝りそうな雰囲気の中で、珠里だけはキッと萌子をにらみつけると、さっと踵を返して校舎へと戻っていた。その姿に、他の二人も慌てて追いかけていく。
「ってぇ…」
三人が完全に消えると、朔哉は自分の頬を押さえた。萌子は急いで自分のハンカチを差し出した。
「大丈夫？ですか」
「平気、このくらい。昨日の宮尾に比べれば」
笑顔の朔哉だが、それでも辛そうに頬を押さえる。心配そうに自分を見つめる萌子に気づいて、朔哉は乾いた笑みを見せた。
「格好悪いな、いつもそんなとこばかりみられてる」
「そんなことないですよ」
萌子は優しくそう言ったが、朔哉は笑みを顔から消し去ると、真面目な表情で言った。
「ずっと考えてたんだ。
どう伝えたらいいのか、
どういえば気持ちがつたわるのか。
でも、どう考えても恰好いい言葉思い浮かばなくて」
そうして気づいたんだ。
恰好つけたところでも、こうして結局全てを見られてしまっているんだから、そもそも恰好つけることはないんだって。
それに、彼女はそんな言葉を待っているわけじゃない。
「だけど、そんなこと関係ないんだってことがわかった。
だからそのままで伝えたいと思う」
何を？と首をかしげる萌子と、正面で向き合うと、朔哉はすぅっと僅かに息を吸い込んで言った。
「亜衣さんが言った、すべての出会いは必然だって言葉、俺もそうだと思う。
亜衣さんが、いろんな人と出会って、そして、その人たちを大事に思ったように、俺もそうしていきたい。
特に、萌子との出会いは、これからずっと、何よりも大切にしていきたい」
―――だから。
「俺と、つきあってほしい」
賭けだと思った。
しかも、ひどく勝率の悪い賭け。
それでも、朔哉は、かけてみたいと思った。
二月にしては、珍しく春の陽気に似た暖かな気温の中で、中庭の木々が風にそよいで音を奏でる。ふと見れば、いくつか新芽も見受けられる。春が近づいているのだ。
厳しい冬を耐え忍べば、こうして春が訪れる。
世界は、日々、前に動いているのだ。
清清しい気持ちに包まれた朔哉の前で、萌子はしばらくじっと俯いていたが、ふいに顔を上げて、小さくだが力強く頷いた。
「…はい」
それからたっぷり一分近く、二人は無言で立ち尽くしていた。萌子は、顔を上げるタイミングを逃して、そのままで俯いていたのだが、朔哉が微動だにしないことに、思わず顔を上げた。そして、
「あの…。福山さん？」
と呼びかけた瞬間、強い力に引き寄せられると萌子は朔哉の腕の中にいた。耳元で、震える声がする。
「…ありがとう」
いいえ、と答えようと思う萌子だが、朔哉の力が強すぎて、息をするので精一杯になっていることに気づいた。
「あの、福山さん。苦しいん、だけど―」
それを聞いた朔哉は、慌てて萌子を抱きしめていた腕を緩める。
「ごめん。その、つい」
つい？
そう首を傾げた萌子の耳に、次の瞬間、割れるような拍手と歓声が届く。
「よっ、この色男っ」
「よくやったぞっ、朔哉」
「おめでとう、朔哉先輩っ」
「お幸せにっっ」
中庭に面した窓からは、たくさんの生徒たちが身を乗り出して叫んでいる。
見られてたの？
ずっと？
恥かしさから、逃げ出したくなる萌子の肩に、安心させるように朔哉は手を回す。そうして、大丈夫だから、と言うように笑顔を萌子に見せると、その声援に応えるように手を大きく振る。
どうしていいのか、萌子が戸惑っていると、窓から即席の紙ふぶきが桜の花びらのように舞い降りてきた。
「ぅわ」
思わず萌子が声をあげると、朔哉も嬉しそうに笑った。ぎこちなかった萌子も、そんな朔哉を見て、思わず微笑んだ。
これで、よかったのだ。
そう思いながら。
ドアがノックされて、暖かそうな湯気と一緒に環が現れた。成は、体を起こそうと思うのだが、熱で思うように体が動かない。
そうこうしているうちに、環は持ってきたおかゆを、成の勉強机の上に置くと、顔を覗かせた。
「頑張るのはいいことだけど、頑張りすぎて風邪引いちゃ駄目でしょう」
コホコホと咳き込みながら成は答える。
「…風邪じゃなくて、インフルエンザです」
「え？もうピーク過ぎたんじゃないの？インフルエンザって」
「…スミマセン」
インフルエンザだと答えるたびに、何度穴があったら入りたいと思ったことだろう。
成は仕方なく、布団を頭から被った。すると、環の元気な声がくぐもって聞こえてくる。
「けど、最近頑張ってるって、京ちゃん褒めてたよ」
「キョウチャン？」
思わず布団から顔を覗かせると、目の前にしてやったり顔の環がいた。
「石橋京一。期待してるみたいね、あんたのこと」
成は朦朧とした頭を左右にふる。
「まだまだです。
監督の期待には、まだ応えられるレベルじゃないから」
萌子の期待にも、まだまだ…。
すると、環の手がいきなり成の布団を力強く叩く。そして、それは見事成の鳩尾を捕らえていた。
「いいね、その飽くなき向上心。
早坂、もっともっといい男になれるよ」
うめき声を隠して、成は何とか答えた。
「…アリガトウゴザイマス」