Maybe Blue 第一部 海の鼓動
春陽3
「ん、よし。完璧だな」
萌子に腕をねじり上げられて、苦しそうな顔をしながらも、真琴は言う。萌子が手を離すと、真琴はその腕を軽く振りながら、尋ねた。
「飲み込み早いな。前に何かやってたのか？」
「クラシックバレエを、昔」
萌子はトーンを下げて答える。真琴はそれに気づいたようだが、あえて触れることなく言った。
「ま、何はともあれ、今日で終わりだ。
一週間、お疲れさん」
その言葉に、萌子は礼をする。
「本当にありがとうございました。今度、なんかおごらせてください」
「その言葉、期待してるよ」
そう言ってから、真琴は軽くため息をつくと、声をいくらか潜めて萌子に言った。
「ところで、どうすんだよ。あいつは」
「え？」
「気づいてるんだろう。一週間、毎日のぞきにやってきて。あいつはばれてないと思ってるみたいだけどな。
まったくあれがうちのアイドルとは情けない」
二人は朔哉が隠れている方に視線を向ける。
戸惑って視線を落とす萌子に、真琴はいつもの声に戻って言う。
「護身術はそれなりに身に着けたわけだし、もう護衛はいらないだろ」
その凛とした声が、道場に響いたが、萌子は何も答えない。
「萌子が、迷惑じゃないなら、引き続いてもいいかもしれないが」
そういった真琴の目を見つめ返せずに、萌子は俯いたままに逆に真琴に質問をした。
「真琴さんは、どうして細谷先輩と付き合い始めたんですか？」
突然の質問に、真琴も戸惑ったのか、少し間があってから答えた。
「いわゆる、腐れ縁なんだけどな。小学校からの。
どうしてか。
そうだな、甘えられる唯一の相手だったから、かな」
「甘えられる相手？」
「そう。
いつからか、気がつけばいつもピンと張り詰められたものが、私の中にはある。
あいつに言わせると、試合のしすぎで、気を張るのが常になってしまったらしいけど。たまに根つめすぎて、自分に堪えられなくなることがある。
だけど、あいつにはそんなもの、ないんだよな。いつもヘラヘラしてて、だけど、本質は見抜いてて。あの薄っぺらに思える笑顔がさ、時々気に障ったりするときもあったけど、あいつの前だと、その『気』が気づいたら緩んでて、いつも自然体で、安らげるんだ」
柔らかに微笑んだ真琴の表情に、その安らぎを感じた萌子は、ずっと聞きたかったことを口にした。
「いつも、気になってたんですけど。
真琴さん、知ってるんですよね。細谷先輩がコンパしたりしてるの」
「ああ」
「…いい、んですか？」
躊躇いながら言葉を選ぶ萌子とは反対に、真琴は清清しい笑顔を見せる。
「いいも何も。
あいつは、私が一番側にいて欲しいときは、必ずいてくれる。
それで、十分じゃないのか」
一番そばにいて欲しいときに、いてくれる。
萌子は心の中でその言葉を繰り返した。
「萌子も私と似たところ、あるよな。意地っ張りなところとか。
だけど、それじゃたまに疲れるだろ。
疲れない相手、私にはそれが細谷だった。それだけ」
「疲れない、相手…」
呟いた萌子に、真琴は頷き、そしておもむろに声を張り上げた。
「まあ、そんなとこかな。
さてと。それじゃ、最後の練習に入るとするか」
「え？」
驚く萌子の前で、真琴はずんずんと朔哉の方に歩いていき、声をかける。
「何覗いてんだよ、福山」
焦って逃げ出そうとした朔哉の腕を、真琴はしっかりと捕らえて言った。
「違うっ。俺は別に覗きなんか…」
「いいわけは後で聞くさ。それよりちょっと来いよ」
「へ？」
真琴は無理やり朔哉を連れ出してきた。萌子と目が合うと、朔哉は慌てたように無理やりな笑顔をつくる。
「いいか、萌子。何事も実践が重要。
丁度いいから、さっきの技。こいつにやってみろ」
「え？」
驚く萌子に代わって、真琴はすでに朔哉の腕をねじりあげようとしていた。
「本気でやれよ。まあ、ひどくても骨が折れるくらいさ。
とりあえず、見本から」
「げ。おい待て、宮尾っ」
思わず朔哉が叫んだが、真琴はニヤリと微笑んで答えるだけだった。
「大丈夫。折れるのは腕だ。サッカーには関係ない」
午後一番の授業は、選択の美術で、学校の周辺に出て、デッサンをひとつ仕上げることが課題になっていた。
萌子は、何となく一人になりたくて、海辺へを足を運んだ。
駐車場から海へと続く階段に腰掛け、絵を描く用意をするものの、鉛筆を持つ手が動く気配はなく、ただため息が零れるばかりだった。
波の音に混じって、砂を踏む足音が聞こえ、萌子が振り返ると、そこには海風に髪を吹かれるままにして立っている右京がいた。
「…右京」
「ため息、だらけだな」
右京はそれだけ言うと、萌子から少し離れたところで腰を下す。萌子にとっては、会話をするのに困らない程度のその距離感が心地よかった。
「うん。…ちょっと。悩み事」
萌子はそう答えて、またもため息をつく。
すると、右京が唐突に言った。
「行けよ」
「え？」
「お前の思うとおりに行け。
心の思うとおりに、体の動くとおりに」
掠れたハスキーな声が、波の音に混ざっては、萌子の心の中で、漣を起こす。
「…だけど、右京―」
「考えるより、まず動く。お前はいつも、そうやって俺の前を行っていた。
悩みながらも、とにかく動こうとしていた」
右京はそう言うと立ち上がり、海風に立ち向かうようにして、海と向き合った。
「行けよ。見ててやるから」
その言葉は、萌子の中の迷いを消し去る力を持っていた。
「…うん」
そう答え、萌子は顔を上げる。
目の前の海は、太陽を反射して、眩しかったが、それでも萌子は目を逸らすことなく、じっと見つめていた。
帰り道、朔哉はずっと顔をしかめていた。
「いってぇ…。宮尾の奴、本気でやることないだろうに」
そんな朔哉を見て、萌子はくすくすと笑う。
「よくマッサージしたほうがいいですよ。明日、もっと痛くなってるはずだから」
それを聞いて、更に朔哉の顔は曇っていく。
やっぱり宮尾ってば、俊平のナンパのこと、気に食わないんじゃないのか。
それで、仲間の俺に、仕返しとばかりに…。
そもそも宮尾の奴、ナンパは俺が司と積極的にしてるんだとばかり勘違いしてるみたいだし。
…いつか誤解、解かないと。
朔哉がそう考え込んでいると、隣で萌子が言った。
「それじゃ、福山さん。送ってくれて、ありがとう」
その言葉に朔哉が気づいたときは、もう萌子の家の前だった。
「また、明日」
そう言って、萌子は家に入ろうとしたが、門を開けたところで、急に呼び止められた。
「あっ、萌子」
ごく自然なことだったが、萌子にもその呼び方が変わった事は気づいた。
「悪いとか、そんなことは思わなくていいから」
萌子はじっと朔哉を見つめる。朔哉は萌子のまっすぐな視線から逃れることなく、堂々と答えた。
「俺は、自分がやりたいことをやってるだけだから。
それじゃ」
去っていく朔哉の後姿を、ただじっと萌子は見つめている。
初めて呼ばれた。
萌子って。
それは、朔哉の決意の表れでもあった。
ほとんどの部員が萌子のことを、「萌子」とか「沢木」と呼ぶ中にいて、ただ朔哉だけは、「モエチャン」と呼んでいた。それは、部員と対等であろうと、一人奮闘する萌子に対する、少々蔑称の意味でもあった。
だけど、それは。
――頼って欲しいという俺の気持ちの裏返し。
朔哉は立ち止まり、空を見上げる。
空気の澄んだ夜空には、綺麗な月と星がたくさん綺羅めいている。
かなわないと思っていた。
いや、今だって思ってる。
この夢も、
あいつにも。
諦めようとしてた時、だけど、チャンスが回ってきた。
神様がくれた、チャンス。
田中の行動は、決して許せないけれど、だけど朔哉はそう思った。
『本当に手に入れたいことだったら、
どんなことをしても、俺は手に入れたいと思うし、どんなことでもする。
その時に未来なんか見えてない。
あるのは、その時だけだ』
朔哉は笠間の言った言葉を繰り返し、心に深く刻んだ。
誰にも、渡したくはない。
どんなことをしてでも。
たとえ、未来が見えなくとも、
たとえ、色んな人たちを傷つけても。
大きく息を吸うと、体に冷たい空気が入り込み、自然と背筋が伸びて、気持ちがしゃんとするのがわかる。
よし、と小さく拳を握りしめて、朔哉は再び歩き始めた。