Maybe Blue 第一部 海の鼓動
春隣8
バレンタインデーの翌日の理香は忙しい。何故なら、誰が誰にチョコをあげたのか、結果付き合うことになったのか、ふられたのか、その情報収集に明け暮れるからだ。
昼休みも弁当を慌てて食べ終えると、学校中にいる友人たちに聞きまわっていた。
「へー、本命４個。佐野君てもてるんだ」
バレー部の佐野は、背が高く手足も長いが、顔は理香の好みではない。だが、一年なのにレギュラー選手という実力の持ち主だ。
運動神経がいいってだけで、五割り増しだしね。
理香はそう納得する。他にも情報をお互いに交換していると、必然誰がチョコレートをもらったのかもわかることになる。
「それを言うなら早坂君じゃない？」
友人がそう言って、理香は素早く頭の中で計算する。
密かに人気だとは思っていたけれど、確かに成はたくさんもらっている。
「でもねー、成くんチョコ食べれないんだって」
「えーそうなの？じゃ、来年はチョコ以外のものにしよっと」
「え、なにそれ！初めて聞いたよ」
理香が突っ込むと、友人はにやりと笑った。
「将来有望株に投資するのも、いいでしょ？」
本気で好きというわけではないらしい。だがその気持ちは理香にもわかる。いうなれば、人気絶頂の芸能人を駆け出しのころから目をつけていた、という自慢に近いものかもしれない。
だけど、成くんには萌子がいるのよね。
ちらりとそんなことを理香は思ったが、敢て言わずにいた。
去年から、理香の中ではそういう図式が出来上がっているのだ。
いい相手が目の前にいるのに、しかし二人の関係は中々進まない。
何かいいきっかけ作らないと。
理香はまたそんなことを考えていた。
「しかし、成くんてモテるな」
確かにルックスはいい。おまけにサッカー部でもＡチーム。だが成の魅力は実のところあのギャップにあるんじゃないかと密かに理香は思っている。もともとおしゃべりな方ではないのも余計なことを言わないという点で高得点なのだが、実は意外と天然で可愛いのが、キュンとくるのだ。
成にチョコレートをあげた子の顔を思い浮かべていると、友人が不意に言った。
「転校しちゃったけど白井さんも好きだったよね」
「え？」
久しぶりに聞いた名前に、理香は声をあげた。
「知らない？七組にいた白井百合さん。たしか、理香と同じマネージャーの沢木さんと仲良かったよね」
忘れるはずもない。
合宿費を盗んだ犯人だ。そして、おそらくは萌子に怪文書を送っていた相手。
あの白井百合が、成くんのこと好きだった？
「理香？どうかした？」
急に青白くなった理香に、友人が心配して声をかける。
「ごめん、用事思い出した」
何とか理香はそう答えると、友人に背を向け走り出した。
『ちょっと話がある。何かはわかるだろうから、まずは部室に来い』
そういうと、田中は怯えた表情で、精一杯頷いた。
そうして、朔哉に付き従うように部室にはいると、掴みかかった朔哉の言うなりとなって、頬に平手打ちをうけ、そのまま床に倒れこんだ。
朔哉は怒りで震える声を、低くすることで抑えると、床にうずくまっている田中に言った。
「立てっ。田中っ、自分が何をやったのか、わかってるのかっ」
そう襟首を掴み上げ、田中を揺すると、田中は怯えた表情で声を震わせながら言った。
「すみませんっ、すみませんっ」
昨日の殴った痕が、怯えるその顔には痛々しく残っている。
だが朔哉の脳裏にあるのは、涙を堪える萌子の表情だ。
襲われた恐怖と、
相手が部員だったという裏切り。
「お前がやろうとしたことは、男として最低だっ」
そうしてもう一度殴ろうと大きく振り上げたとき、部室のドアが開いて萌子が現れた。
「やめてっ、福山さんっ」
駆け寄ってきてその手を押える萌子に、朔哉は言葉を詰まらせた。
「だって、モエチャン―」
「いいからっ、もういいんですっ」
萌子の悲鳴に似た声があがり、朔哉は田中から手を離す。やっと自由になった田中は、へなへなと床に座り込んで、何度か咳き込んだ。
萌子は朔哉の顔を見ながら言った。
「間に合って、よかった」
そんな萌子に朔哉は怒ったように言う。
「よくない。モエチャン。いいわけないだろう？田中は…」
そう言われて萌子は俯き、朔哉も黙り込んでしまったが、萌子は振り絞るように口を開いた。
「でも、部内で何かあれば、それが大きな騒ぎになれば、大変だわ」
朔哉はそんな言葉に何も言えなくなった。
それは、そんなことすら、キャプテンという立場でありながら忘れていた自分への失望と、
あくまでも客観的に見れる萌子への驚愕だった。
理由はどうあれ、たしかに部内で何か問題が起きれば、下手すれば大会に出られなくなる。
だけど、それと天秤にかけていいのか。
萌子にとって、深い傷となる出来事と、サッカー部の不祥事と。
そもそも、田中の行い自体が、不祥事じゃないのか。
…だとしたら、それも全てサッカー部の為に、隠そうとするのか。
モエちゃん、君は―。
「いいんです。わたしは。
ただ。教えて欲しいの」
萌子はじっと朔哉を見ていたが、ふいに視線を外す。そして、一呼吸おくと、まだ床に座り込み、俯いている田中に言った。
「田中君。
どうして？なんで？あんなこと…」
萌子は小刻みに震えていた。それでも、言葉ははっきりとしている。朔哉はその萌子の震えに気づいて、自分の唇をかみ締めた。そのうちに田中がぽつりぽつり話出した。
「…悔しかったんだ、俺。
入学した時から、ずっと沢木のこと好きだった。
…でも、沢木は。いつも早坂のことしか見てなかったから」
その言葉に、萌子は驚いて言い返す。
「そんなこと…ない」
しかし、田中ははっきりという。
「あるよ。…俺にはわかる。
それに俺。この前の日曜に見たんだ。二人がデートしてるところ」
萌子はハッとして思わず声をあげる。
「あれはっ―」
「沢木が嘘をついてるんじゃないって信じたかった。
だから、昨日。園部に無理やり頼んで、聞いてもらったんだ。だけど、沢木は…。違うって嘘、ついた」
「違っ―」
「嘘をつかれたことが悲しかったし。悔しかったし、腹立たしかった。
だから、俺…。沢木のこと、何とかしたくて、俺…」
田中は床に着いた手を握り締めていた。
小さな声で、ゴメンというのが聞こえた。だが萌子は、何も答えられず、しばらくの間、重苦しい空気の中で、三人はただ黙り込んでいた。
それでも少しすると、田中は学ランの袖で顔を拭って、退部届けと書かれた封書を胸ポケットから取り出して朔哉に差し出した。朔哉がそれを受け取ろうとしていないことがわかると、田中は机の上にそれを置き、そのまま逃げるようにして部室を出て行った。
残された朔哉は、まだ呆然としている萌子背中を、黙って見ていた。
しばらくして、萌子は時々声を震わせながらも話し出した。
「違うのに…。わたし、違うのに。
成のことしか見てないなんて…。違うのに、日曜も、偶然で、違う。あれは…」
そのまましゃくりあげるようにして萌子は泣き出した。
いや、それでも涙を堪えていた。震える肩を見ていれば、わかる。
その姿が痛々しくて、朔哉はそっとその頭を撫でる。
もう、いいから。
我慢しなくて、いいから。
そうやっていると、突然萌子は朔哉に向き直り、シャツを手繰り寄せると、その広い胸に顔をうずめて声をあげて泣きだした。
朔哉はそんな萌子の背中に手を回して、守るように抱きしめた。
萌子の声が、いっそう大きくなる。朔哉はゆっくりと萌子の背中を撫でる。
自分に触れる温かな手を感じながら、萌子ははき出すように考えていた。
わたしが、追い込んだの？
田中君のこと、追い込んだの？
わたしが、成を好きだから？
わたしが、成しか見てなかったから？
…違う。わたしは、成のことを好きなわけじゃない。
好きじゃない。
好きじゃないもの。
いつの間にか、萌子はそう考えていた。
それは強い想いで、決意で、徐々に事実になっていった。
まるで呪文にかかっていくように。
「どうかした？成」
話しかけられて、成は慌ててドアから体を離す。
昼休み、練習と遊びを兼ねて、湊たちとサッカーをしようということになったのだが、肝心のボールがない。
もしかしたら、部室が開いているかもしれない、と来てみたところ、やっぱり鍵はかけられたままだったのだ。諦めてグランドに戻ろうとした成の耳に、中から人の気配と泣き声が聞こえてきた。
何となく興味本位で覗くと、引かれたカーテンの奥に、誰かと抱き合う朔哉の姿が僅かに見えたのだ。
「あ、いや。なんでもない。部室も鍵かかってるから、今日は駄目だ」
「じゃ、野球でもしようか。ボールとバットは、あるみたいだし」
そういってグランドにかえっていこうとする湊に、成は着いていきかけたが、それでも一度立ち止まって、部室を振り返った。
相手、誰だろう。
微かに見えた女子生徒の背中にかかる髪に、見覚えがあるような気がした。
もしかして…萌子？
けれど、彼女は泣いていて、そこには第三者が踏み込めない雰囲気があって、成は黙って立ち去るしかなかった
朔哉は萌子を抱きしめながら、いつも強くて逞しく見えていた萌子の弱い一面を見たことで、確信していた。
いつも大きな荷物を運ぶその肩は、意外にも細く華奢で。
部員たちを怒鳴りつけることもあるその口からは、弱弱しい嗚咽が漏れている。
彼女も、自分を偽って生きてきた人間だった。
そして、自分に本当の姿を見せている萌子を、朔哉は心の底から愛しいと思った。そっと抱きしめると、前に笠間が言ったことがふいに思い出された。
『不謹慎かもしれない。
いろんな人を傷つけるかもしれない。
けど、俺は…。後悔してないんだ。あの時、試合に出続けたことを。
だから、俺は、試合に出る。
そして、最後まで走りぬく。
たとえこの体がまた駄目になろうとも』
あの時の笠間と、同じ目を今の自分もしているのだろうか。
『本当に手に入れたいことだったら、どんなことをしても、俺は手に入れたいと思うし、どんなことでもする。その時に未来なんか見えてない。
あるのは、その時だけだ。
違うか？朔哉』
どんなことをしても。
そこに未来がなくても。
本当に手に入れたいと思ったら。
あの時の呼びかけに答えられなかったのは、答えられるだけの確信がなかったからだ。
だけど、今。朔哉は確信した。
やっぱりあなたは、すごい人だ。笠間さん。
いつだって、あなたの言うことは、正しい。