Maybe Blue 第一部 海の鼓動
春隣7
夢を見ていた。
いつものあの場所。
海の中に立っている気分になれる、秘密の場所。
名前を呼ばれ、立ち上がる。
ふと気づくと、隣に萌子が座っている。
『寒い』
声はないが、萌子の口がそう言っている。
言いながら、両手に息を吹きかけながら、萌子は震えている。
何か上着をかけようと思うのだけれど、学ランのボタンは、外そうとしてもなかなか外れなくて、その様子を見て、萌子は微笑んでいる。
クスクスクス…。
でも、次の瞬間、また寒そうに眉をひそめると、両手をさするのだ。
寒そうな表情は、そうして次第に泣きそうな表情に変わり、手には徐々に土と血に塗れた擦り傷が現れてくる。
思わず手を伸ばし、自分の両手で包み込むと、萌子は驚いた表情を見せ、じっとこちらを見つめていた。
包んだ手は、思ったよりも温かかった。
そうして、萌子は逃げなかった。
ずっとこうしていたかったのだ、と改めて思う。
何かが彼女を温めるのではなくて、
こうして自分が彼女を温めたかったのだ。
想いがこみ上げてきて、名前を呼ぼうとすると、萌子の方が精一杯の笑顔を作って、声なき声で答えた。
『ありがとう。福山さん』
朝日を感じて、朔哉が夢から醒めると、昨日は一枚だった毛布が、いつの間にか二枚かけられていた。
台所からは、温かな湯気とおいしそうな香りが漂ってきている。
「今日くらいは、休んでもいいって」
朔哉は、台所に立つ萌子を見つけると、おはようと言った後にすぐそう伝えた。すでに制服に着替えている萌子は、そうやって、お弁当の用意すらしている。
朝の六時。
朝練がある日、マネージャーが学校に着いていなければならない時間は、六時半だ。
「いいんです」
萌子は背中越しにそう答える。
「けど」
昨日、あんなことがあったんだから、と思う朔哉に、萌子は淡々と答える。
「わたし…怖いんです。今日、休んでしまったら、また明日学校に行くのが怖くなりそうだから。
昨日は何もなかったんだって、
だから、今日もいつもと同じに始まるんだって、そう思いたいんです。
いつものように朝早く起きて、
いつものようにお弁当作って、
いつものように朝練に出たいんです」
そういわれると、朔哉は何も答えられなくなった。
昨日は何もなかった。
だけど、萌子がそう思いたいのならば、そうしてあげるのが、自分の役目のような気がした。
「わかった。
俺も、朝練行くから、一旦寮に帰る。また後で」
今帰ったならば、朝練に遅刻することもない。
萌子を一人にさせるのは、気が引けたが、朔哉が帰ると言うと、萌子は玄関まで見送りにきてくれた。
「本当に…？」
ドアを閉める瞬間、朔哉はそう尋ねた。大丈夫なのか、と聞くのはなぜか躊躇われた。萌子は小さく頷く。
結局朔哉は、
「無理は、しないで」
としか言えなかった。萌子は、夢で見た泣きそうな表情になって、はいと答える。
いっそ、泣いてくれれば。
朔哉は、そう思った。
早朝のランニングは、久しぶりだったけれど、それでも走ってよかったと成は思った。
心の奥がざわついて眠れなかった頭を起こすためにも、何も考えずにいるためにも、ランニングはとても有効だ。
気づけば、萌子の家に向おうとしている自分に気づいたのは、いつもの公園の横に来たときだった。
だけど、それじゃ、まるでストーカーだ。
成は、一休みしようと公園の中に入る。小さいが、そこに水飲み場がある。
冷え切った水を飲むと、心も頭も、体もしゃきっとした。
弾んだ息を整えながら、辺りを見渡すと、公園の奥で鳩が群がっている。どうやら何かが落ちているようだ。
少しずつ近づいて、成は鳩たちが必死で突きあっているものに目を凝らす。白と茶の塊のようなものだ。
クッキー？
近づくと、鳩たちの何羽かは、慌てて逃げて行った。
だが、時間がないことに気づくと、成は慌てて公園を出る。
明後日の試合の為に、今は部員たちの士気も上がっている。朝練に遅刻でもしたら、それだけで失格者扱いされそうだった。
急いで帰った寮の玄関で、成は先客にぶつかりそうになって、思わず声をあげた。
「あ」
相手が振り返る。朔哉だった。
「お、はよう。ございます」
自分を見る視線が、どこか厳しい気がして、成はいくらか緊張して答える。
おそらく部員のほとんどがそうだと思うが、成にとっても朔哉の存在は憧れに近い。
だが、朔哉はそれに驕れることなく、いつも誰にも同じように優しい態度だった。
だからこの日の朔哉の視線に、成はわずかに戸惑っていた。
ただ、それも数秒のことで、
「おはよう」
と朔哉は答えた。笑顔ではなかったかもしれないが、それでも厳しい視線ではなくなっていた。むしろ、どこか気だるそうな雰囲気の朔哉に、成はちょっと驚く。
『朔哉さんも、どうも外泊らしいしさ』
ふいに篤志の言葉を思い出して、成は思わず顔を赤らめると、俯いて、朔哉より先に階段を駆け上がろうとした。
「早坂」
そんな成を、朔哉が呼び止める。
成は大きく肩を弾ませて振り返ると、朔哉が頬の辺りを強張らせて何か考え込んでいる。
どうか、しました？
そう聞き返そうと成が思っていると、
「何でもない。すまない」
と逆に朔哉に言い直されてしまった。
気づいたら、朝練のウォーミングアップのランニングは、ひとりでさっさと終えてしまっていた。周りでは、眠そうな目を擦りながら、よろよろと走っている部員が多い。
体が軽いのは、朝のランニングが効いてるのかな。
成はそう思いながら、今度はグランドに横になってストレッチに入る。ペアになる湊がまだランニング中だから、と待っている間、その視線は自然とベンチに現れた萌子を追いかけていた。
萌子、いつもと変わらない、か。
隣の理香や美都と、楽しそうに談笑している萌子は、昨日と全く変わらない。
それが、成には少しだけ残念だ。
成にとって特別だった昨日が、萌子にはいつもと同じ昨日なのだと言われているような気がした。
気づけば、萌子は一人で救急箱の片づけを始めている。
昨日、どうしたんだって。聞いてみようかな。
成はパッと起き上がると、そのまま萌子に近づいていこうとしたが、背中越しに名前を呼ばれた。
「早坂。余ってるんなら、藤原と組め」
「あ、はい」
朔哉が少し険しい表情をしている。
サボってると思われた。
成は慌ててストレッチしている右京の側に向った。視線を感じて振り返ると、慌てて朔哉が視線を逸らしたような気がして、成は首をかしげた。
朝練が終わって、グランドにはお疲れ様でしたっと元気のいい声が響いて、白い空気に包まれた。
「じゃ、グランド整備の奴は整備。あとの奴は、さっさと教室に向うこと」
今週当番の成は、篤志たちと一緒にトンボを手に取った。
時間もあまりないことから、朝の整備は、手早く終わらせることが重要だ。成も大急ぎでトンボを引いていると、少し先に萌子が見えた。
「あ、萌―」
そう言ったところで、萌子の後ろから、朔哉が話しかけた。当然萌子は、朔哉と話をしながら、成の前を通り過ぎていく。
なんか。
タイミング悪いな。
ため息をつく成に、篤志やケンたちの周りの声が聞こえてくる。
「俺、朝帰りした朔哉さん見ちゃった」
「今朝早くだろ？」
知らない湊や厳巳は、興味深そうにその話に聞き入っている。ケンが自慢げに答える。
「珍しくさ、寝癖なんかつけてたぜ」
「へぇ」
月に一度は美容師である環のところに髪を切りに行くという朔哉なだけに、余裕のなさが伺えた。
確かに、俺とすれ違ったときも、いつもと違ったし。
ただ、練習が始まってからの朔哉は、いつもと変わらなかった。
「それだけ、のめりこんでるってことかな」
湊がそう呟いたのにあわせて、厳巳も口を開く。
「けど、相手って誰だろう」
「厳巳ってば、そんな無粋なこと言うなよ」
「ごめん…」
厳巳はそう謝ったが、確かに本命の噂も聞いたことがなかっただけに、興味本位で成も気になった。けれど、ケンはそれを無視して話を続ける。
「つかっちゃんも遅刻してくるし」
「あの人は、派手すぎだって。首んとこにキスマークついてたらしいぜ」
何人かが顔を赤らめる。だが、当人は堂々としたものだった。
「皆それぞれのアツーイ夜だったんだ」
…俺は、寒い夜だった。
そう心の中で呟く成の耳に、ニヤけたケンの声が聞こえてくる。
「それって、北内と椎名もってこと？」
「きゃーっ、イヤッ。名取君ってば」
「何それ、椎名の真似？つーか、篤志だってそうじゃねぇの？」
「全然だっつーの」
一瞬だけ、湊の顔が強張ったように思ったのは、自分の気のせいかもしれない、と成は思った。その証拠に、湊が会話に加わる。
「そういや、田中もいないけど？」
「げげっ、あいつもそういうわけ？」
「まさかぁ。風邪じゃないの？」
ケンと篤志の会話を聞きながら、成は自分も風邪を引いてしまえばよかったのかな、と思った。
そうしたら、萌子。俺のこと、心配してくれるかな。
成は、そうやって萌子が朔哉と消えていった方向を見ていた。
昼休み、萌子は走っていた。
途中で何人かの部員に話しかけられたが、それを無視して、必死に走っていた。
目指すのは部室だ。
悪い予感が、あたっていませんように。と萌子は走りながら思う。
『モエちゃんは、何も気にしなくていいから』
朝練の終わりに、呼び止められて、朔哉がそう言った。
『昨日は何もなかったんだ』
確かにそういったのは、自分だ。
あの時の朔哉の目は真剣で、萌子は何も答えられなかった。
朔哉が何をしようとしているのか。
それが、田中に対する制裁だということに気づいたのは、お弁当を食べていたときにふいにやってきた園部の言葉だった。
「昨日、変なこと聞いてごめんな」
園部は萌子のクラスメートに用事があったらしく、それが終わると、教室にいた萌子に気づいて、話しかけに来たのだった。
変なこと？と萌子が尋ねると、
「ホラ。昨日、部室で早坂のこと聞いたじゃん」
と、園部が言う。ああ、という萌子に、園部は悪びれずに言った。
「実はさ、田中に頼まれたんだよ。ちなみに噂ってのも、あいつがそう言っててさ。
お前が違うって言ってたって伝えたのに、あいつ信じなくてさ」
萌子は思わず、机の下で、強く両手を組んだ。
「でもって、今日朝練休んだろ？お前、妄想だけでいい加減にしろっ、ってさっき話してた。しかもあいつ、馬鹿だから階段で転んだとかいって、顔に痣までつくってさ。ちょうど福山さん来てたし、きっと今頃こってり絞られてるんだろうけど」
「え？」
驚いて萌子が顔をあげると、園部はそのままに答える。
「あいつのところに、さっき来てたんだよ。福山さん。話あるから部室に来いって」
次の瞬間、萌子は教室を飛び出していた。
『モエチャンは、何も気にしなくていいから』
何かが起こる前に、どうか。
どうか、間に合って。
心にそう願いながら、萌子は部室のドアに手を伸ばした。