Maybe Blue 第一部 海の鼓動
春隣5
「あれ？知朗。右京は？」
篤志が厳巳を伴って、知朗の部屋に入ると、寒いのに窓を全開にして、身を乗り出している知朗がいた。
「知らねぇ。ついさっき、出てった」
身長差２０センチ近い凪浜のツートップ候補は、中身もあわせてすべて真逆に思えるのだが、意外に仲がよい。
「そっか。で、知朗は何してんだ？」
篤志がそう尋ねると、知朗は篤志に向って乱暴に視線を投げた。
「見てわかんねぇのかよ」
「うん」
厳巳が答える。
「星、見てんだよ」
「「ほしぃ？」」
篤志と厳巳はあわせて声をあげる。
確かに夜空には、冬の星たちが煌いてはいるものの、知朗にそんなロマンチックな趣味があるようには思えなかった。
「萌子にチョコレートもらえなかったからって、そんなにへこむなよ。
義理は一応もらえたわけだし、他の女の子から、もらってんだろう？たくさん」
篤志が励ますように、肩を叩いて言ったものの、
「うっせーよ」
と知朗は答えると、窓枠から腰を下して、窓を閉めた。
実際に、知朗の机の端には、紙袋に入ったチョコレートの包みが見え隠れしている。
「で、何個もらったんだよ」
「関係ねぇだろ」
もらう数が関係ないのか、もらう相手が関係ないのか、篤志にはわからなかったが、知朗にぎろりと睨まれて、仕方なく話を変える。
「じゃーさ。右京ってばどのくらいもらったかって知ってる？」
「知るかよ」
「…だよな。やっぱ」
右京の机には、どこからか郵送さられてきたチョコレートが置かれているものの、もちろんそれだけじゃないことを篤志は知っている。
ふいに知朗が、ダッフルコートを掴んだかと思うと、部屋を出て行こうとした。
「知朗、どこいくの？」
慌てて引きとめようとした厳巳に、知朗は冷たく答えた。
「コンビニ」
せめて机の上の数だけでも確認しようとした篤志だったが、ふいに開け放たれたドアの向こうの廊下に、ケンが過ぎるのが見えて声をかけた。
「あ、ケン。右京、見なかった？」
右京？と眉をひそめて、ケンが答える。
「ジャージで、外に出て行ったぜ。ランニングじゃねぇの」
「そっか。あ、ケン。お前、チョコの数いくつ―」
だがケンは篤志を無視して、廊下を歩いていく。
ちぇっと篤志はわざとらしく言った。
「何だよ、ケンのやつ。チョコの数、賭けようっていったの、あいつなのに」
確かにそれはそうだった、と厳巳は思った。
だけど、このところのケンは、空元気なように見える。
ひとりでいる時は、今みたくテンションも低いし。
念願のAチームの、ベンチ入りもできたっていうのに。
「そういえば…」
「どうかした？厳巳」
篤志がそういったが、厳巳はすぐに否定した。
「ううん。何でも、ない」
そういえば、このところ、ケンが長電話をしていないな。
ただ、そう思っただけ。
右京は、いつものランニングコースを走っていた。
ウォークマンから流れる激しいリズムの洋楽は、右京を無心にさせ、集中力を高めるのにちょうどいい。
そして、冬のランニングは、火照る体を冷やしてくれる風が心地よいのだ。
朔哉のアドバイスを受けてから、それまで不調だったのが嘘のように、このところ右京は絶好調だ。
「まずは、体力をつけろ。それから、調子の波を作るな。それが、今年のお前の課題だ」
選手権が終わった後、石橋はそう右京に告げた。
一週間ほどの間に、優勝するためには、六回の試合に勝ち続けなければならない。
それに堪えうる体力と気力が、選手権には必要なのだ。
たった一度の試合だったが、右京はそれを感じていた。
また、この前現れた笠間が、調子の悪い右京を見て言ったのだ。
「人生には、避けられない波がある。
願うと願わざると、その波はやってくる。
小さな波、大きな波、どちらにしても乗りこなせるようになれば、お前はどこへだって行けるよ」
右京が何か言う前に、隣に偶然いた知朗の方が先に答えた。
「やってきた波を乗りこなすんじゃない。むしろいい波を、俺が起こす」
鼻息荒く言った知朗に、笠間はくすりと笑う。
「その意気だ、友近」
エヘンと威張る知朗に、右京は一瞬だけ視線を投げると、すっと視線を落とした。気づいた笠間は、だけど、と言葉を切った。
「波はいつまでも続かない。いずれは小さくなり、海に戻っていく。
大事なのは、乗るタイミングだ。
いつだって、このタイミングを逃したら、もう二度と同じ波はやってこない。そのくらい思ってやらないとな」
一期一会。
それは、シュートのタイミングもそうだ。
パスされるボールのスピード、強さ、そして、相手ディフェンダー、キーパーの動き。
すべてのタイミングが合えば、点は入るが、そうはいかないのが試合だ。
またそのタイミングも、自己完結できるものじゃないのが、人生で。
渡ろうとした横断歩道の信号が赤になり、右京はその場で足踏みをする。いつもだったら車の通りも少ないはずなのに、今日に限って次から次へと車が通り抜ける。
仕方なく、右京は足を止めた。
空を見上げると、澄んだ空気の冬の空に、星が輝いていた。
ふう、とため息をつきながら、朔哉は夜空を見上げた。
冬の夜空は空気が澄んでいて、星が良く見える。
駅からバスで寮まで帰っても良かったのだが、それを止めたのはこの星空を見ながら歩きたいのと、夜風にあたりたかった為だ。
バレンタイン・パーティだと言って、いつものメンバーに召集された朔哉は、練習が終わると、指定された店に向った。
差し出されたチョコレートたちは、どれも高級ブランドのものだったし、高いだけあって、美味しい。彼女たちも綺麗に着飾っていた。店の料理も美味しかった。何より、すべて朔哉の為にと彼女たちがセッティングしてくれたのだ。
「ありがとう」
朔哉は何度もそう答えた。
確かに感謝はしていた。
けれど、楽しくはなかった。
たった四人で店を貸しきるのも難しく、彼女たちは他の遊び仲間と一緒にバレンタイン・パーティーということでこの店を貸しきっていた。だから、周りには 見知った顔もあったし、彼らはよく食べ、飲み、笑っていた。どこか浮ついたようなこういうイベントも悪くなかった。周りが楽しんでいれば楽しむほど、朔哉 にはそれが自分と違う世界の出来事のようにしか見えず、またもため息をつく。
「何だよ、朔哉。楽しめって。それから、今夜は寮に帰らなくてもいいって。司がさ、寮の方には俺の家に泊まることになったって電話したから。感謝しろって言ってたぞ」
本命の彼女がいる俊平が、見かねてなのかそういったけれど、それはむしろ朔哉の感情を逆撫でするだけだった。
今は横に女をはべらせている俊平も、宮尾の練習が終わって家に帰ってくる頃にはここを抜け出してるんだ。
ただの遊び。だからこそ、楽しめ。
俊平の言いたいことはわかる。だが、わかるのと、できるのは違う。
忘れなきゃいけないのは、わかってるのに、それがなかなかできないのが、何よりの証拠だ。
喧騒で、すべて忘れられると思ったのは間違いで、実際は余計に考えさせられただけだった。
「えー、朔哉。もう帰っちゃうの？」
立ち上がった朔哉を樹里が腕を絡めて引きとめた。
確かに主役である自分が帰ろうとしていることに、朔哉が悩んでいると、樹里は朔哉の耳元に口を寄せて囁いた。
「今日は帰らなくても、あたし大丈夫よ」
読者モデルをやっている樹里を見つめて、朔哉は思う。
樹里は確かに綺麗だ。
綺麗だけど、違う。
彼女ではない。
朔哉は絡んだ腕を離すと、
「ごめん。明日も早いからさ」
と言って店を出た。
自分はいったい、どうしたいんだ。
サッカーで思うことは、ただひとつ。選手権での優勝。
だが、それ以外となると、わからない。
追いかけていたのは、ずっと「福山朔哉」だった。
それも朔哉の姿なのだと言った人もいた。
それでも、どうしても演じている自分がいた。
だけど、彼女は言ったのだ。
そんな「福山朔哉」よりも、今の俺を応援する、と。
忘れようと思うのに、ふとしたときに思い出すのは、いつも萌子の言葉だ。
朔哉は立ち止まり、大きく息を吐く。白い息が、暗闇に消えていくのを見上げながら、朔哉は首に巻いていたマフラーを外す。
冷たい夜風が、煮詰まった頭を吹き抜けて、心地よかった。
…帰るか。
そうして持っていた鞄を肩にかけ直し、大きく一歩踏み出そうとしたところで、朔哉は道路に何か落ちているのに気づいた。
鞄？
鮮やかな青のトートに見覚えがあったのは、それが萌子の持っている鞄に似ていたから。
モエちゃん？
駆け寄って、朔哉はそれを手にする。
前方には誰もいない。
朔哉はゆっくり隣の人気のない公園を見つめた。