Maybe Blue 第一部 海の鼓動
春隣3
翌週に重要な試合を控えた凪浜の練習は、時間的にはいつもより短いものの、内容としてはいつもよりも濃いものとなっていた。
選手権が終わり、実質抜けた三年の穴を埋めるように編成したチームから、それぞれの個性を生かすための「今年」のチームに変わる、その最初の試合にあたるのだ。
その中で、朔哉はゲームメイカーとして、そしてキャプテンとして、いっそう広い視野を求められていた。
体調や、その時の心理状況によって、選手たちの動きは変わる。キャプテンでもある朔哉は、そういったことまで、管理するような立場になっていた。
そんな中にあって、新チームでも重要なポジションである右京の調子が思わしくない。いつもならば正確なパス回しも、今日は僅かにタイミングがあわない。
どうしたんだ。
そう思って、気をそがれていると、逆に自分が擦り傷を作ってしまった。
「大丈夫ですか？」
治療にやってきた萌子にそう言われた時、だから朔哉はひどく自分が情けなく感じた。
『私は、自分の目の前で、今まで見てきた福山さんを信じてます』
萌子はそういった。
だが、現実の自分は、そんなに立派な人間だったのだろうか。
信じてもらえるほどの人間なのだろうか。
目の前に跪いている萌子の寒さでほんのりと赤くなった頬を見つめながら、朔哉は言う。
「ごめん、モエチャン」
そういった朔哉の膝は、先ほど転んだために出来た擦り傷で、赤く滲んでいる。萌子は朔哉の本心に気づかず、顔も上げずにその傷をじっと見つめ、マキロンを片手に答える。
「沁みますよ。ちょっと我慢しててくださいね」
「…ハイ。っっ」
冷たさと、痛みとで思わず声を詰まらせると、クスクスと萌子が足元で笑ってた。
その笑顔を見ていると、朔哉の肩も自然と力が抜ける気がした。
「だから言ったのに」
「こういうのは、『痛い』って考えるからいけないんだよ。不意打ちの方が、変に構えなくていい」
「そうかなぁ」
そう答えながら萌子がマキロンを吹きかけると、不意打ちを食らった朔哉の頬がぴくっと反応して、更に萌子が笑う。
モエチャン…と苦い顔の朔哉に謝る萌子の耳に、グランドの中の声が聞こえてきた。
「うわ」
「どうした？成」
ランニングをしていた成は、何もないところで突然、前のめりになったのだ。隣にいた湊はびっくりして、足を止めた成の様子を伺う。体勢を立て直して、転ぶことはなかったものの、成は、じっと俯いていたかと思うと、突然スパイクを脱ぎだした。
「切れた、スパイクの紐」
掲げたスパイクの紐は、確かに途中でぷつりと切れてしまっている。
大事なスパイクだったのになぁ。
それは、選手権を二回経験し、引退した横田からもらった大切なスパイクだった。
途方に暮れている成の側には、ケンと篤志までもが近寄っていく。
「何かそれって、縁起悪くねぇ？」
「下駄の鼻緒と一緒だよな」
そういわれて、成は思わずどきりとした。そんな気持ちを見抜いたようにケンが意地悪く言う。
「来週の試合、お前がレギュラーで大丈夫か？」
「ケン、そういうこと言うなよ」
成の表情が強張ったのを見て湊が慌ててそう答えた。篤志も思わず言い返す。
「そうだぜ、ケン。あっ、もしかしてお前が仕組んだのかよ」
言われたケンは、ふんっと顔を背けて答えた。
「お前な、俺がやるなら、もっと用意周到にやるぜ？こんな心理作戦にでねぇっつーの」
「だよなぁ。ケンがやるなら、もっとばれやすいもんな」
篤志が妙に納得した声で答えたのに、ケンは思わず言い返す。
「んだとぉ？」
そこからはいつものパターンで。
篤志に掴みかかるケンに、止めに入る湊。
ただ一人、いつもは止めに入る成が、ただじっと自分のスパイクを見つめている。
「モエチャン」
ふいに朔哉にそう呼ばれ、萌子は顔を上げたところで、言葉を止めた。
「はい、あ」
治療した朔哉の膝に、何重にもテープを貼っていたのだ。
「すっすみませんっ。やり直します！」
「今度は優しく頼むよ」
慌ててテープとガーゼを外している萌子に、朔哉はそう言うと、そっと顔を上げる。その視線の先には、ついには成も巻き込んでじゃれ合いだした四人があった。
来週の試合には、成がレギュラーとして、そしてケンと湊はサブとしてベンチ入りをする。
早坂も、名取も、和泉も、今は調子がすこぶるいい。
そう思いながら、朔哉は視線を萌子に落とす。
加えていうならば、モエチャンの調子も。
そうして朔哉はそっと微笑んだ。
その次の日曜日の練習は、雨のお陰でなくなった。
この寒さで、雨の中練習をすれば、風邪をひく選手も出てくるだろう。それに、翌週の試合のこともあって、各自の自主トレということになったのだ。
久々の休日。
雨だからと、寮にこもる部員が多い中で、成は、ひとり隣町のスポーツ用品店にいた。
昨日切れてしまったスパイクの紐は、とりあえず他に持っていた紐に取り替えたものの、ケンの言っていたことも気になって、厄払いの為にも新しいものを買いたくなったのだ。
どうせなら、青いユニホームに似合うようなのにしよう。
いつもと違う大きな店舗に来たせいか、なかなか靴紐の売り場に行き着かず、キョロキョロしていた成は、角を曲がったところで、軽く人にぶつかってしまった。
「あ、すみませ…萌子」
驚いたように成を見ているのは、確かに萌子だった。
「成」
萌子も驚いた表情を浮かべている。確かに、ここは凪浜からひと駅先の街の店で、普通ならばこんなところで出会うこともない。
ラッキー。
弾む心を抑えながら、成は尋ねた。
「どうした？」
「うん。探し物してて」
「そっか」
成がそう答えると、ふいに萌子が手にしていたものを差し出した。
「ね、これ。どうかな」
「え？」
それは、鮮やかな群青色の紐だった。
あ。
成はそう呟いて、思わず口をぽかんと開けた。
萌子の差し出したそれは、まさしく成がイメージしていたような色だったのだ。
成が驚いた理由を、だが萌子は違うように受け取った。
「切れちゃったんでしょう？スパイクの紐」
「あ、ああ、うん」
「この色、すごく綺麗だと思うの。それに、凪高の青いユニホームに似合ってるし」
「ああ。ほんと…」
どうして、萌子。
俺が探してたもの、わかったんだろう。
どうしてスパイクの紐切れたこと、知ってたんだろう。
萌子からそれを受け取った成が、顔を上げると、はにかんだように萌子が微笑んでいた。
雨が小降りになったところで、朔哉はウインドブレーカーを羽織ると、ランニングにと寮を出た。目指すは、凪浜の浜辺。この天気ならば、駐車場には車も少ないだろうし、浜辺のランニングは、寮の周囲をただランニングをすることよりも、何倍も意味があった。
だが、そこには先客がいた。
軽いストレッチをしている様子からすれば、向こうも雨が小降りになったのを見て、寮を出てきたのだろう。
しかもヘッドホンをしているせいか、朔哉がきたことにまったく気づいていないようだ。
朔哉は少し悩んだ挙句、軽く咳払いをしてみたが、やはりこちらに向けた背中は無反応だ。
まあ、そういうヤツだし。
結局は割り切って、朔哉は話しかけることにした。
「藤原」
初めは普通に、だが変わらず振り返らないので、朔哉は諦めて大きな声でもう一度呼ぶ。
「藤原」
肩が反応したかと思うと、ようやく右京が振り返った。
その目は、朔哉を捉えると、疑うように僅かに細めてヘッドホンを外すと、それからぎこちなく会釈をした。
慣れない隣町に、成と萌子は迷いながらも、駅に向って歩いていた。
「あ、この映画」
ふいに、萌子がそう言って足を止める。ちょうど映画館の前を通りかかっている時だった。
「どうした？萌子」
萌子の視線の先には、今年最高のラブストーリーと銘打ったポスターがある。
「うん。この映画、まだやってたんだと思って。見逃しちゃってるんだよね、実は」
正直、成は恋愛映画は苦手だが、それでも残念そうな萌子を見て、思い切って言った。
「見よう、か」
「え？」
ポスターを見ていた萌子が、振り返ったことに、逆に成は慌てて答える。
「あ、その…。来週の金曜日までの上映だし、平日来れないだろう？今日見ないと、見逃して終わっちゃうし」
萌子の戸惑った表情と、まるで言い訳している自分に、成は情けなくなって、更に慌てて続けた。
「嫌だったら―」
「うん」
成の言葉を遮って、萌子がそう答える。
うん。って。
どっちの？
ごくりと唾を飲み込む成に、萌子は微笑みながら答えた。
「見たい」
話しかけたわけだから、逃げるわけにもいかず、朔哉と右京は隣り合わせるようにしてストレッチを始めた。
だが、二人の間に会話はない。
ヘッドホンは外されたままで、それは右京なりの壁はない、というアピールなのかもしれないが、だからと言って、話しかけるようなことはしない。
朔哉としても、話しかけてはみたものの、特段話したいことがあったわけでもない。
声、かけなきゃ良かったかな。
朔哉が駐車場に横になってストレッチをしながらそう思っていると、一瞬だけ右京の動きが止まるのが見えた。
ちらりと見ると、右京は何でもないようにそのままストレッチを続けている。
膝か。
右京はちょうど膝のストレッチをしているところだった。
しかも、軸足の左か。
それが、不調の原因だ。
「藤原」
朔哉がそう呼びかけると、動きを止めた右京が、ゆっくりと朔哉の方に向き直る。
「膝の調子が悪いなら、足首のストレッチ、よくしておくといい」
言われた右京は、僅かに目を見開いたが、その意味を理解したのか、暫くして、
「はい」
とだけ、答えた。
とりあえず、話しかけてよかったな。
朔哉はそう思うと、気合を入れて立ち上がった。
ようやく現れた萌子に、理香はまず仁王立ちになって言った。
「おそーい！萌子」
サッカー部員の為のチョコレートを作ろうと、この日は美都もあわせた三人で、理香の家に集まることになっていたのだ。
だが、萌子はその約束の時間を、三十分遅刻してやってきた。
「ごめん、遅くなっちゃって…」
慌ててそう答えながら、萌子は持ってきたエプロンをつける。理香の家の台所には、チョコレートの甘い香りが漂っている。
「忘れたのかと思って、家に電話しちゃった。留守電だったけど」
理香は萌子をかるく睨みつけるものの、萌子はひたすら謝っているだけで、その遅刻の理由を言おうとはしない。
「ごめんごめん。何すればいいかな」
「っていうか、もうほとんど出来上がってるの」
「ごめん、理香」
深く頭を下げられて、理香はしょうがないなとため息をついて答える。
「いいよ。あたしもね、ほとんど美都頼みだったし」
そう言った途端に、冷蔵庫を覗いていた美都の楽しそうな声が響く。
「出来たぁ」
美都が持ってきたのは、単純にアーモンドにチョコレートをコーティングして、ココアパウダーをまぶしたものだ。
「わー。おいしそうっ。では早速…。うん、美味しい！
ね、美都。これはもういいからさ、本命チョコ、始めよう」
理香はそういうと、冷蔵庫から取って置いた高級なチョコレートを取り出す。理香が美都から教わろうとしているのは、初心者には難しいというトリュフだ。
「萌子は作らないの？」
頬を紅潮させた美都に、萌子は大丈夫とゆっくりと首をふる。
「私はこれ、詰めておく。何もしてないわけだし」
「いいの？本命チョコ」
美都の背中からそう聞く理香に、萌子は大きく頷いた。
「私には、チョコは必要ないから」
バレンタインの前日も、萌子は寮にやってきていた。理香や美都は、明日の準備があるとかで、今日はやってきていない。環にしても、家に帰ってきているものの、どうやら実家の台所にこもりっきりのようだ。
どこかそわそわした雰囲気が、寮の中にも漂っていた。
夕食が終わったところで、部屋に戻っていた右京の耳に、ドアをノックする音が聞こえた。
こんなことをする人間は、一人しかいないからと、右京がそのまま無視をしていると、
「右京？」
と言いながら、やはり萌子が顔をのぞかせた。萌子は暗がりの中で、右京の姿を見つけると、安心したかのように話し出した。
「一応、デザートあるんだけど」
「いい」
「甘いもの、苦手だっけ。そういやコーヒーもブラックだもんね」
話は一旦そこで切れ、右京は寝返りをうって萌子に背中を向けた。
話は終わっただろう。
だが、右京の考えとは反対に、萌子はむしろ部屋に一歩入ると、ドアをそっと閉めた。
「ね、右京。聞いてもいい？」
その返事はない。
だが、それが右京なりの答え、つまりはＯＫということを、萌子は知っていた。
「右京はいつも電気消して、一人でそこにいて、怖くないの？寂しくないの？」
それでも、右京が答えないと、萌子は急に弱気になって言う。
「ごめんね。変なこと聞いて」
そうして、そのまま出て行こうとする萌子に、右京はまた寝返りを打つことでその足を止めさせると、そのまま人差し指をそっと口許にもって、シーと小さな声で言った。
「え？」
わからず萌子がそう聞き返すと、右京は天井を見上げたままで、
「目を閉じてみろ」
と言った。
萌子は右京の言いたいことがわからなかったが、それでも素直に従って、目を閉じる。
すると、色んな音が耳に入ってきた。
下のリビングで、テレビを見ているその音と、それに対する寮生たちの声。
また同じように、誰かが風呂に入りながら気持ちよく歌を歌う声。
隣の部屋から聞こえてくる、音楽。そして、笑いあう声。
萌子はゆっくりと、目を開ける。
「そっか。わかった」
右京は何も言わなかったが、それでも萌子には右京が何を言いたかったのか、きちんと伝わっていた。
その隣の部屋では、まさしく明日のバレンタインの話で盛り上がっていた。
「明日、チョコいくつもらえるかな」
そう切り出した篤志に、ケンはケッと呟いてから言う。
「アッチはひとつは手堅いだろう。理香からのチョコレート」
「ケンこそ。亮子ちゃんからのチョコレート、郵便でくるんじゃねぇの？」
「ばーか。その間に溶けちまうだろう。それに。…多分送ってこねぇよ」
僅かに声が沈んだケンの肩を、篤志は思い切り叩く。
「またまたー」
そういえば、と厳巳が口を開く。
「マネージャーたちは部員全員にあげるチョコレート作ったらしいね。理香ちゃんが言ってた」
「大変だな、部員全員なんて」
ふぅとため息をついた湊に、ケンが意地悪く答える。
「けど一ヵ月後にはその何倍ももらえるんだぜ。まったく女ってがめついよな」
そういったケンは、ふいに声を張り上げて言った。
「な、賭けしねぇ？誰が一番もらえるか」
「いーねぇ」
「俺、パス」
「何だよ、成」
「気分、悪くなってきた」
成はそういうと、肩を落として部屋を出て行った。その後姿を見送りながら、湊が説明する。
「成さ、チョコレート駄目なんだ。体質的に受け付けてないから」
「へぇ。そりゃお気の毒に」
「けど、このメンバーだと成が一番たくさんもらいそうだよね、チョコ」
にこにこと言う厳巳に、ケンは眉をひそめた。
「そうか？あいつ人見知りだし。あんまり女子としゃべんねーぞ」
「俺も成だと思う。あいつってばさ、地味にもてるんだよな。何故か」
「しかもさ、結構可愛い子から告白されるんだよね」
だがふいに篤志は真面目な顔になって、答えた。
「けど、やっぱり右京だろうな、どう考えても」
実際に、前の日というものの、すでに右京宛に見知らぬファンの子からはチョコレートが学校や寮宛に届いているのだ。
「だったら俺、朔哉さんだな」
厳巳が楽しそうに言ったところで、ケンが呆れたような声をあげた。
「つーかお前らさ、もっと夢持とうぜ、夢」
その日も、萌子を送ったのは知朗だった。
自ら立候補して、まるで連れ去るように萌子を寮から連れ出していた。萌子としても、あまり寮に長居するつもりはなかったから、それはそれでよかったのだけれど。
成。何か話がありそうだったな。
それだけが、萌子の心残りだった。
「俺、甘党だから」
「え？」
黙りこんでいた知朗が、ふいにそう言って、萌子は声をあげる。少し先をゆく知朗は、萌子を振り返りもせずに、萌子が聞き逃した言葉を繰り返しもせずに、続けた。
「だから、いくらでも食えるから。チョコ」
「あ、そっか。明日だもんね、バレンタインデー。
あのね、この前理香と美都と作ったの、チョコレート。試しに食べてみたけど、すっごくおいしかったから。明日、楽しみにしててね」
「萌子は作らなかったのか？」
知朗の言葉に萌子は戸惑った。そして、その萌子の戸惑いを、いっそう強めるように知朗は言う。
「チョコレート」
ぴたり、と知朗の足が止まる。萌子もそれに合わせて足を止めた。
思えば告白されてから、もう半年以上過ぎた。
もう、はっきりさせないといけない時期かもしれない。
「…知朗、わたし―」
だが萌子の言葉を遮って、知朗は萌子の方を振り返ると、相変わらずの強い視線を向けて言った。
「言っただろ。
萌子が誰を好きであろうと、誰と付き合っていようと、俺が萌子を好きなことには変わらない。そんなことで俺の気持ちは変わらないって」
それは、どういう意味なの？
そう萌子が聞き返す前に、知朗は手を上げて、萌子に言った。
「じゃあな、萌子。また明日」
知朗の後ろは、すでに萌子の家の前で、知朗はそういうと、颯爽と萌子の脇を通りすぎて行った。