Maybe Blue 第一部 海の鼓動
春隣1
あーあ、ついてない。
成はそう思いながら、スーパーに入っていく。
近所のそのスーパーは夜の十時までやっていることで有名だった。
成は誰にも見られないようにそっと左手を広げる。そこには、雑な字で、買ってくる物リストが書き込まれているのだ。
もちろん、成は必死で抵抗してみたのだが、ここも含めて罰ゲームというのだから、最後には従うしかなくなっていた。
夜の九時半。寮の門限は十時だから、余裕があるわけでもない。
しかも、練習の後だから、体はくたくたに疲れていた。
あーあ。こんなことになるんだったら、大富豪なんてしなきゃよかった。
ため息をつきながら買い物カゴを掴むと、あれ？と聞き覚えのある声がした。
「あれ？成？」
顔を上げると、つい数時間前まで、一緒にグランドに立っていた萌子がいた。毎日顔を突き合わせているくせに、私服の萌子に成はドキッとする。萌子は冬だというのに、膝を出したミニスカートにブーツを履いている。
「萌子。…どうした？」
「買い物。お母さんが忘れてて」
そういって、萌子はトマトを手にすると、カゴに入れる。
「あと、ケチャップだ」
「何か作るとか？」
「うん、お母さんがね。夕飯にオムライスを作ってくれてたのはいいんだけど、ケチャップが切れてて。明日の朝の牛乳も、忘れたまま、行っちゃって」
行っちゃって、という言葉と少し目を伏せた萌子に、成は思わず聞き返した。
「どこに？」
「仕事始めたの、お母さん。それで、夜も遅くて。こうやってご飯は作ってくれてるんだけどね。おっちょこちょいだから、うちのお母さん。
それより、成は？」
話を自分にふられて、成はうっと言葉を詰まらせたものの、萌子があまりにまっすぐ自分を見ているので、そのままに答える。
「ゲームに負けた罰ゲーム。で、皆のパシリ」
萌子はくすくすと笑いながら言う。
「何買うの？」
「えーっと…」
思わず成が、手のひらを見つめていると、
「色々書いてあるね」
と萌子が横から顔を出して答える。成は慌ててズボンに手を突っ込んだものの、萌子は気にすることもなく、側にあったラックから七味唐辛子を成のかごの中に入れる。
「あと、牛乳と、ガムと、シャンプー、だっけ？」
そういうと、ガムガムと呟きながら、萌子はどんどん歩いていく。慌てて成がついていくと、萌子は一足先にガムを手にして、また成に差し出した。
「はい。ガム。篤志、いつもこれ噛んでるでしょう」
「え？何で？」
「字でわかるのよ」
にこっと笑う萌子を見て、成がへぇと感心した声をあげると、その様子を見て、萌子がまたクスクスと笑い出した。
「ごめん、実は理香から聞いたの。
環さんがテレビゲーム禁止にして、その反動で皆が大富豪やってることも、篤志がこのガムよく噛んでることも」
ふーん、と成がわざと不貞腐れると、
「ごめん、成。騙すつもりはなかったの。ほんと、ごめん」
と萌子が必死で謝ってきた。それでも成が顔を逸らして何も言わないと、萌子は慌てたように成の前に立ちふさがって、両手を合わせ、頭を下げた。
「からかうつもりとかじゃなくて。ほんと、ごめんね。ごめんなさい」
すると、少しして、ぷっと吹き出す声が萌子の耳に届く。顔を上げると、成がくすくすと笑っている。
「もしかして、成。怒ったふりしたの？」
「ごめんごめん。だって、萌子が―」
成はそこまで言いかけて、慌てて口を閉ざした。目の前では萌子が首を傾げて、何？と聞き返している。
「いや、なんでもないよ」
「何？気になるんだけど」
「なんでもないってば。あ、早く買い物しなきゃ」
成はそう言って、次の物を買いに歩き出した。
後ろからなぁに？と萌子が言っているのが聞こえたけれど、それに答えるわけにもいかない。
だって、萌子がかわいかったから。
なんて、言えないよ。
しばらくすると、パタパタと足音がして、萌子が追いかけてくるのがわかった。
スーパーを出てからも、二人は同じスーパーの袋を持って、同じ速度で歩いた。
「それじゃ、本当に毎朝牛乳飲んでるんだ、知朗」
「毎朝というか、昼も夜もかな」
おかげで寮には、知朗の名前の入った牛乳が必ず一本は用意されているくらいだ。
そこまでしても、１６０センチの知朗の身長は、伸びる気配がない。
監督には、あのマラドーナだって１６６しかないんだと、身長を伸ばすことよりも体を作ることを勧められてはいるものの、どうしても諦められないらしい。
確かに、周りの選手たちは、一年前とは比べ物にならないくらい身長が伸びてきている。
成だって、と萌子は思う。初めて出会ったときは、萌子の肩が成の胸くらいだったのに、今では萌子の視線がちょうど成の胸くらいになっている。
「成は身長どうして伸びたの？」
「伸びた？」
「うん。そう思うけど」
「だといいけど。俺ももっとほしいからさ。やっぱり右京くらいは」
右京はすでに１７８センチになっていた。まだ伸びそうな気配からすれば、１８０センチも夢ではないかもしれない。
でも、どちらにしても、１５７センチの萌子にとっては、あまり変わらないことだった。
「わたしは、今くらいがいいな」
「どうして？」
「だって右京と話す時って、結構疲れるの。首」
え？と成は思って、思わず萌子を見返すが、萌子はそれには答えずに、
「それじゃ、わたし。こっちだから」
と言った。気づけば、寮と萌子の家との分かれ道に立っていたのだ。
手を振って、歩き出そうとする萌子を、成は慌てて引き止めた。
「あ、送るよ」
「大丈夫。ここからすぐだし、それに、門限近いでしょう？」
言われて時計を見ると、確かにあと十分で門限の十時だった。見透かしたように、萌子がにっこりと微笑んで言う。
「それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみ」
「また、明日ね」
「ああ、明日」
そうして買い物袋を揺らして帰っていく萌子の後姿を、成はしばらく見つめていた。
今のって、もしかして。
俺と話すのが、萌子も楽しいってことかな。
自然と緩んでくる頬を、しかし成は両手で軽く叩いた。
いや、期待しすぎちゃいけないよな。
うん。そうだ。
けれど、自然に頬が緩んできて、慌てて成はもう一度軽く叩いて、小さく気合を入れると、寮に向って歩き出した。
春の関東大会に向けて、練習は続けられていた。
選手権後のチーム作りからか、新人戦の初めの二、三試合は、かろうじて勝っているという状況だった凪浜も、その後チームワークがまとまると、一番勢いにのっていると思われていた川城にも快勝し、その勢いにのり優勝した。
「俺たちの目標は、あくまでも国立だ。
来年の選手権で、優勝することだ」
だが、優勝を決めた後のミーディングで朔哉が言った通り、部員全員はそれに満足することなく、毎日の練習に真剣に取り組んでいた。
「皆頑張ってるなぁ」
「俺たちの時よりも、真面目じゃないか？柳田」
「ふんっ」
ベンチ脇に立っていると、ふいに後ろから聞き覚えのある声がして、萌子は振り返り声をあげた。
「小山さん、柳田さん、笠間さん」
ほんの一ヶ月ほど前は、このグランドで走り回っていた三人が、そこには立っていた。
「どう、沢木。調子は？」
笠間がそういって、グランドを見渡す。その鋭い観察眼は、相変わらずだった。
「頑張ってますよ。今年の悔しさを、無駄にしない為にもって。
それより三人お揃いでどうしたんですか？」
小山が軽く肩を動かして、萌子の質問に答える。
「みんな受験だからさ、自由登校になったんだけど。余計体がなまっちゃってさ」
すると、偶然近くに居た知朗が、三人に気づいてやってきた。
「あれ、ヤナギさん。暇なんすか？」
「おい友近っ。俺を名指しで暇だってのは、どういうことだっ。
お前っ、しごいてやるっっ」
だが当の知朗は、ベンチ脇にあったドリンクを一口飲んで、すぐにグランドに戻って行く。手を伸ばした柳田は怒りでその腕を振るわせた。
仕方ないな、というように小山が柳田の肩を掴む。
「おいおい、柳田。着替えが先だろう。まったく」
そう言われくるりと踵を返し、無言のまま部室へと向った柳田を、小山も追いかけていく。
萌子の隣で、笠間が小さくため息をついて、話を変えた。
「どう？沢木。新しいチームは」
「皆が明確な目標を持って取り組んでて、練習も無駄がないって感じです」
「そうか。試合の結果もいいみたいだし。今年こそ狙えるかもな」
グランドでは、監督である石橋のもと、セットプレーの練習が先ほどから行われている。
萌子は、その様子を眺めている笠間に、小声で尋ねた。
「笠間さん。あの…。三上さん、元気ですか？」
「うん。病院と、受験会場を行ったりきたりしてる。でも、滑り止めだけどひとつ受かったって」
「よかった」
「今のあいつには、頑張れとしか言ってやれないけど。でも、あいつもわかってると思う」
選手権で凪高が負けた途端、笠間は具合の悪くなった亜衣の病院へと飛んで行った。その後、萌子も見舞いにいくべきかと笠間に相談したのだが、状況は思っていた以上に悪かった。
「朔哉にも同じこと言われたけど。亜衣の状況が良くなって、面会謝絶じゃなくなったら、連絡するから。そうしたら、見舞いに行ってやって」
小声で、萌子がはい、と答えると、目の前にボールが弾みながら転がってきた。思わず拾い上げると、朔哉が手を上げて、こちらに走ってきている。
「ごめん、モエチャン。あ、笠間さん」
元気ですか？と朔哉が切り出す前に、笠間が口を開いた。
「いいチームみたいだな。マネージャーから今お墨付きもらってたところだ」
「まだまだです。先輩たちみたいにはうまくいかないところだらけで」
朔哉がそういいながら、萌子の手からボールを受け取ろうとしたところで、脇から出てきた手がそのボールを掴む。
「仕方ないな。俺たちが、相手になってしごいてやりますか」
「覚えてろよ、友近っ。笠間も早く着替えて来いよ」
すでにジャージ姿に着替えた柳田がそうして、掴んだボールを大きく蹴り上げると、小山と一緒にグランドに走って行く。
萌子はその後姿を見つめながら、そっと微笑んだ。
「ね、バレンタイン、どうしよっか」
その日の練習後、着替えをしているとふいに理香がそう切り出した。
「もうそんな時だっけ？」
「何言ってるの、萌子！あと二週間もないんだよ！」
カレンダーを見ながらぼんやり萌子が答えると、理香が一際大きな声をあげる。
「本命以外にも、マネージャーとして部員にもあげなきゃいけないし。
これが、後々で響くからね。それに、ホワイトデーのお返しも大きいし。でもみんなそれぞれにって考えると、お金も時間もないから、大きなパックに入ってるチョコでもいいと思うんだけど」
するといつも大人しい美都が、珍しく意見を言った。
「でも、それじゃ味気ないんじゃないのかな。せめて、手作りのをひとつずつあげるとか」
「もしかして、美都。和美くんに手作りのあげるの？」
理香に質問された美都は、思わず頬を赤らめる。
「あ、うん…」
掃除も、洗濯も、何もかも鈍くさい美都だが、お菓子作りだけは定評があった。頷いた美都を見て、理香はあっと大きな声をあげる。
「ねぇあたしたちも一緒に作ってもいい？部員の分も、そこで作ればいいし。ね、萌子」
急に話をふられて、萌子も困ったように答えるしかない。
「部員のはいいけど。でも私、あげる人いないのに？」
「そんなの、それまでに作ればいいのよ」
そんな無茶な、と思う萌子を無視して、理香は大きな声を上げた。
「じゃ、決定！明後日の練習後に、材料の買出し。で、次の休みの日にうちで三人でチョコ作りね」
その日の夜。
成はゲームに関係なく、昨日と同じ時間に、同じスーパーの前に立っていた。
それはひとつの賭けだった。
概して成は、そういう賭け事には弱いのだが、今日は何となく、勝てる気がしていた。根拠は何もないのだが、そんな気がしていたのだ。
そしてそれは、待つこと数分でかけられた言葉で、確信に変わった。
「あれ？」
顔を上げると、そこには笑顔の萌子が立っている。今日はミニではなくて膝丈のスカートだ。
「成。また負けたの？」
「または余計だよ、または」
「ごめん」
「萌子も？買出し？」
すると、萌子は一瞬口を閉ざして、首をかしげた。それから、小さく頷くと、
「ちょっとね、甘いものが食べたくなって」
と答えた。成は、そう、と答えた後で、続けて言う。
「気をつけないと、太るよ」
「あ、ひどい。気にしてることを」
「ご、ごめん」
「やだ成。本気で謝らないでよ。でも、やっぱりあたし、太った？」
「ううん。そんなことないよ、うん」
「ほんとかなぁ」
二人はそうして、アイスクリームをふたつ買い、スーパーを出た。
萌子はストロベリーを、成はバニラのアイスクリームをかじりながら、寒い夜道を並んで歩いていた。
「バレンタイン、もう少しね」
理香の言っていた通りで、街はすでにバレンタインモード一色だった。スーパーにもチョコレートが山積みされていた。だが、成はそれも気づかなかったようで、
「あれ？そうだっけ？」
と答える。
「男子はあまり興味ないか」
「そうじゃなくてさ。実は俺、駄目なんだ、チョコ」
「え？」
「アレルギーがあって、食べると蕁麻疹が出る」
成は小さい頃を思い出し、思わず身を竦める。
「それじゃ、バレンタインの時なんて、大変なんだ」
「まあ。そんなにもらえるわけじゃないけど。それに、たいてい姉貴が俺の代わりに食べてたし」
そう答えて、成はおそらく今年も実らぬチョコレート作りに精を出す姉のことを思い描く。
「そっか。それじゃ、今年のバレンタインデーは、クッキーだね」
ふいに萌子にそういわれて、え？と成は足を止める。すると、そんな成に逆に萌子の方が驚いたようで、成は小首を傾げられた。
「クッキー、嫌い？」
「いや…好き、だけど」
「良かった」
そうしていつもの分かれ道になり、萌子はおやすみなさいと手を振って、家に帰っていく。
成も、寮へと歩きながら、今の会話を反芻する。
よくわかんないんだけど、もしかして俺、バレンタインデーに萌子からクッキーもらえるってこと？
えーっと、それはつまり、バレンタインにチョコもらうのと同じ意味だよな。
ってことは？
「あっ。うわっ…げ」
アイスを握りしめたまま立ち止まっていたせいか、どろっとした冷たいものが手について、成は思わず手を振り払う。そうしてアイスが道路に落ちて、成は少しだけ冷静になる。
いや、落ち着け。
萌子のことだから、単に義理チョコってこともあるだろうし。
そもそも、約束したわけでもないから、売り言葉に買い言葉ってこともあるだろうし。
…とにかく、落ち着けって。
成は大きく息を吸い込んだ。
冷たい空気が、体の中に入っていき、ぼうっとしていた頭や、赤らんだ頬を少し冷やす。だが、胸の鼓動だけは、変わらず激しく動いていた。