Maybe Blue 第一部 海の鼓動
寒昴2
静まり返った居間に通された厳巳が、佇むその後姿を見て、足を止め、反射的に身を竦ませると、それに気づいた環が小さな声で、
「厳巳」
と進むように名前を呼んだ。後ろにいた篤志たちにも聞こえるほどに、厳巳は唾を飲み込むと、そのまま大人しくソファにどっしりと構えている父・川瀬精一の向かいに座った。
どうやら篤志の母親で、厳巳の保護者でもある昌江はまだ帰ってきていないようだ。
膝をぐっと握り締めるが、それでも手の震えは止まらず、厳巳は俯いたまま黙り込んだ。
父が、どうして一人で凪浜にやってきたのか、その理由を厳巳は何となくだがわかっていた。わかっていたが、それを受けいれることは今の厳巳にはできない。それを先に伝えなければならないと思うのだが、うまく言葉が出ない。
沈黙が積もり積もった後、ガサッと物音がすると、厳巳の目の前に川瀬が立ちふさがっていた。
「父さん？」
そう厳巳が言えたかどうかのタイミングで、川瀬は息子の腕を取り上げた。
「帰るぞ」
「え」
そうして、有無を言わさぬ速さで厳巳を立たせる。その力に、思わず厳巳は顔を顰めた。
家を出たときも、この凪浜に母親とやってきたときも、川瀬は決して厳巳に手を上げなかった。厳巳に浴びせられるのは、常に厳しい視線と言葉だけだった。
その父が実力行使に出た。
厳巳は戸惑いながらも、その腕を振り払おうと声をあげる。
「待って、待ってくださいっ」
だがその腕をがしっと掴まれると、小柄な厳巳は川瀬に引きずられるようにしてドアの前まで引っ張られた。唖然としている環に、川瀬はわずかに息を切らせて言った。
「荷物は改めて引き取りに伺います」
その一言に、厳巳の顔は青ざめる。
思っていた通りだった。
やっぱり、僕のこと、連れ戻しに来たんだ。
その途端、厳巳は体中の力が抜けてしまった。川瀬がドアを開ける前に、その向こうに隠れていた部員の中から、知朗が突然に川瀬の前に立っていた。
「おい放せよっ、厳巳が嫌がってるだろうっ」
そうして知朗は、厳巳から無理やり川瀬の腕を離す。
糸の切れた操り人形のように、厳巳はすとんとそのまま床に座り込んだ。
息荒く睨みつける知朗を無視して、川瀬は厳巳に向って言った。
「こんなくだらない部活、辞めなさい。所詮、去年の全国制覇は、奇蹟だったんだ。
たいした実力もない高校サッカーの、レギュラーにすらなれないお前が、大事な三年間を棒にしてサッカーを続ける意義なんてまったくない」
「なんだ、このクソ親父っ」
思わず腕を振り上げそうになった知朗を、後ろから篤志と湊が慌てて取り押さえる。
「知朗っ」
「やめろって」
知朗は腕を取られながらも、足をばたつかせながら、川瀬に食ってかかる。
「くだらないか、くだらなくないか、決めるのは厳巳だろうっ」
だが川瀬は、あくまでも冷静に答える。
「子供にはその判断ができないから、親が決めるんだ」
「子供にだって意志はある。それを無視するようなくだらない親の判断なんて、信用できるかってんだよっ」
「友近っ、言い過ぎだ」
さすがに環が立ち上がって知朗を黙らせた。そして、静かに頭を下げ、
「川瀬さん。失礼なことを言ってしまって―」
申し訳ありませんでした、と謝る前に、川瀬がそれを遮って全員に聞こえるように言った。
「こんな寮にいては、もっと成績が落ちる。さ、厳巳帰るぞ」
静まり返った中で、川瀬は厳巳を立ち上がらせる。それまでは多少なりとも反抗していた厳巳だったが、今度ばかりは素直に従うしかなかった。知朗も、息を荒くして川瀬を睨んではいるものの何も言えずにいた。
他の寮生も、騒ぎを聞きつけて、階段から様子をじっと見つめてはいたが、誰も何も言うことができずに、ただことの成り行きを見守っていた。その中を、罪人のように項垂れながら厳巳は歩いていた。
川瀬が自分の靴を履こうとした時、名前を呼ばれ、思わず川瀬は顔を上げた。
立ち並ぶ部員たちの中から、川瀬さんと呼びかけた一馬が一歩前に出て、
「ひとつ、いいですか？」
とそのまま尋ねた。
「何だね」
「凪高で、サッカーをする意義なんてのは、人それぞれです。将来プロを目指してやってるのもいれば、ただの運動としてやってるのもいるだろうし、好きだからという理由だけでやってる部員もいます。
川瀬が…息子さんが、何のためにやっているのか、ご存知ですか」
川瀬はいくらか言葉を詰まらせた。
「…そんなことは、関係ない」
一馬はたたみかけるように言う。
「知らずに反対をしているんですか？」
「はんっ、聞いて呆れるぜ」
知朗がそう呟いたところで、環からまた怒られた。だが、川瀬と一馬は、そのことは気にせずに、じっと向かい合っていた。
やがて、何かがほどけたかのように、川瀬が答えた。
「反抗心だ。
私に対する反抗心だよ。
引かれたレールをそのまま歩くのは嫌だという反抗期によくある気持ちだ。
君たちだって、そう思って親に反抗したことはあるだろう。誰にだってあることだ。
だが、その気持ちが将来を左右するのだとしたら、親として無視するわけにはいかん」
一馬は、俯いているままの厳巳を見つめて、もう一度尋ねた。
「本当に、そういう理由だと思ってるんですか？」
項垂れていた厳巳の顔が、ゆっくりと上がり、一馬を見つめるのと同じタイミングで、川瀬が憤慨した表情で尋ね返す。
「どういう意味だ？」
萌子が部室に着くと、電気がついていて朔哉がまだいることを知らせた。ノックをしてみたが、中から返事はなかったので、萌子はそのままドアを開けた。
「先輩？」
返事もなく、中を見れば机に突っ伏して眠る朔哉がいた。その寝顔は、幼い子供のようで、まだ泥のついたＴシャツのまま、頬の下にはノートが広げっぱなしだった。萌子は風邪を引くと思い、そっと椅子にかけてあった学ランをかける。
萌子が戻ってきたのは、もちろん忘れ物をしたからではない。だが、気になっていた朔哉は、目の前で寝入っている。このまま寝かすか、それとも起こすかと悩んでいると、ゆっくりと朔哉が目を覚ました。
「あれ？萌チャン。帰ったんじゃ」
「忘れ物、しちゃって」
「忘れ物？」
萌子は思わず目に付いたものを口にしていた。
「え、っと。あの、スコアブック、を」
それは、朔哉が広げたまま、その上に伏せていたもので、ごめんと朔哉は答えると、自分のノートの下からスコアブックを取り出した。
「置いてあったから借りてもいいのかと思って、ちょっと借りてた。ごめん」
そのとき、朔哉の腹の虫が鳴き声をあげた。思わず朔哉は、腹を押さえる。
「晩御飯、まだなんですか？」
萌子がそう尋ねると、ああ、とも、うん、ともつかない答えが返ってきた。萌子は鞄を開け、中からクッキーを出す。
「甘いもの、好きでしたっけ？」
頷いて、ありがとうと朔哉は素直に受けとる。
「食べる前に、着替えてください。風邪ひいちゃうから。あと、コーヒー入れますね」
そう言って萌子はコーヒーを入れるために、ミーティングルームに入っていった。
お湯を沸かす萌子に、わずかに開いたドアの隙間から、朔哉は着替えながらも気遣って話しかけてくる。
「萌チャン一人？他の奴等はみんな帰ったのか？」
「はい。今日は決勝の試合を、皆で寮で鑑賞するらしくて」
「それじゃ、俺が送ってく。ちょっと支度するから待ってて」
ロッカーを慌しく閉める音がして、萌子は声を少しだけ張り上げた。
「そんな急がなくてもいいですよ。コーヒー入りましたから、飲んでから帰りましょう」
「だけど、遅いし…」
「変わりませんよ。ほんの十分。休憩するだけですよ」
そう言って萌子はコーヒーを持って部室に戻る。いつもは汗臭い部室に、コーヒーの香ばしい香りが漂った。その香りで朔哉もコーヒーを飲むことに決めたらしく、萌子がカップを差し出すと、ありがとうと素直に受け取る。
「スコアブック、何に使ってたんですか？」
朔哉はクッキーをかじりながら答える。
「今度の試合の相手は、トップの二人が点をとりまくるオフェンスだから、その対策を練ろうかと思ってさ。その参考に、借りてたんだけど。このコメント、萌チャンしっかり見てるんだな。そこらへんの部員よりも、ちゃんと見てる。試合の流れも、選手の動きも、部員たちの事も、…俺のことも」
萌子は、自分が書いたことを思い出しながら口にする。
「少し一人で先走っていて、全体的に焦りが見られる。オフサイドにも気をつけるように、ってこと？」
朔哉は頷く。
「自分でもそう思うんだ。今までずっとトップをやっていたから点を取りたくなって、つい上がって、オフサイドにひっかかる。駄目だなとは思うんだけど、うまくいかなくてさ。こんなんじゃ、キャプテン失格だな」
道化のように失笑する朔哉に、萌子は思わず真剣に答える。
「原因は、トップをしてたからじゃないですよね？それに焦っているのはプレーだけじゃなくて、普段のときも。福山さん、この頃何かに追われてるみたいに急いでる。どうしてそんなに焦るんですか？まだ新チームは結成されたばかりなのに」
強すぎる言葉かなと思ったが、朔哉ははっと息を飲み、少ししてコーヒーカップを置くと、低く呟いた。
「そう、だな。たしかに、俺は焦っている。
早く周りのチームに追いつかなきゃって思ってる。
トップの経験なんてのは、言い訳で、本当は、俺がキャプテンとして勝つために点を入れなきゃいけないって思ってるだけなんだ。今年こそ、キャプテンとして皆を国立に連れて行かなきゃって思ってるから」
朔哉はそのまま、静かに、だけれども確かな言葉を話し始めた。
「一年前に優勝した時の俺は、サブでもメンバーに名を連ねていただけで嬉しくて、それが運よく出場できることになったもんだから、選手権のプレッシャーとか全然感じなくてすんだんだ。のびのびとプレーができて、それがうまく結果に繋がってた。
さすがに国立に立った時は、緊張で足が震えていたけど、どこかでコウさんがいるから平気だなんて考えてたんだ。実際、シュートを外しても自分がすぐ後ろ にいるから、ガンガン打っていけって言われてて、それがうまく点になったり、アシストになったりして、ラッキーボーイなんていわれて。
けど、違ったんだ。全部、コウさんがいたから、俺は気軽にプレーすることができたし、それがいい方向に繋がっていっただけだった。それを今回の大会で感じたよ。皆の期待に、俺は全然応えることが出来なかった。負けたことをヤナギさんのせいにしてたヤツもいたけど、別にヤナギさんが悪かったわけじゃない。 あそこで点を取っていなかった俺が悪かったんだ。
まだ夢に見るんだ、あの試合のことを。忘れたいのに、忘れられない。だから一生懸命練習するしかないと思ってるんだ。もう一度、同じことがあっても、今度は俺がきちんと決めて、皆のフォローしてやる。その為にも」
ぐっと拳に力を入れる朔哉を見て、思わず萌子はこう言った。
「違います、福山さん」
はっとしたように朔哉が顔を上げる。その目は、純粋に萌子を見つめていた。
「サッカーは、十一人でやるものです。一人で、フォワードとゲームメイクと、ディフェンスとキーパーはできません。だから、皆の責任まで、背負わなくていいんです。
確かに福山さんは、凪浜にとってなくてはならない人だけど、でも、十一人の中のひとりの選手なんです。たったひとりの選手なんです」
でも、と朔哉が言う前に、萌子は話を続ける。
「ごめんなさい。見ちゃったんです、私。
旅館で、福山さんが一人洗濯所に居るところ。
忘れられないんです。忘れたくても、どうしていいのかわからない。私…」
言葉をなくした萌子を、朔哉はただじっと見つめていた。その口が何かを言おうとして、萌子は待ったが、朔哉は小さなため息をつくと立ち上がり、諦めたように言っただけだった。
「帰るか、萌チャン」
朔哉は萌子から顔を逸らし、ゆっくり立ち上がった。