Maybe Blue 第一部 海の鼓動
寒昴1
凪浜の冬は、意外に寒い。
海から吹いてくる冷たい風が、思い切りグランドを吹き付けるからだ。
それゆえに、誰もがウォーミングアップのランニングでは、ウィンドブレーカーを着ている。だが、それでも数分すると誰かがベンチ脇にそれを投げ捨てるようになり、ランニングが終わる頃には、一山できているのだ。
そしてグランドには、選手たちの熱い息が、白く浮かんでは消えていく。
一通りウォーミングアップを終えた朔哉が、タオルを探しにベンチに戻ってくると、萌子が先に気づいてタオルを差し出した。
「福山さん、どうぞ」
「サンキュ…。何？」
朔哉はタオルを渡し終えた萌子が、じっと立ち止まって自分に視線を向けているのに気づき、聞き返した。すると、萌子はぽつりと呟いた。
「治ったんですね、右手の傷」
反射的に朔哉も自分の右手を見つめた。
数日前までは、この手には沢山の絆創膏と、テーピングが巻かれていた。
指の関節の擦り傷と、手のひらを抉るような切り傷。
猫をからかっていた時の傷だというのはもちろん嘘で、悔しさのあまり自分がつけてしまった傷だった。
だが、その傷跡はどこにも見当たらない。
朔哉は完治したことをアピールするかのように軽く右手を振ってみせる。
「もう二週間のことだからね。それがどうかした？」
子供っぽい嘘だったが、誰も疑うことはなかった。
ただ司だけが、
「猫って、女じゃねぇか？」
と冗談めいて言っただけだ。
朔哉の笑顔を見たからか、萌子も軽く微笑むと、
「いいえ、何でもありません」
と答えた。
選手権に負けたからといって、練習が休みになるわけではない。
結局翌日からも、サッカー部の練習は、いつもの通りに行われた。テレビの向こうで、邦南の選手が優勝旗を手にした時も、練習は続けられていた。
ただ、圧倒的に違っているのが、いつもグランドに響いていた柳田の怒鳴り声や、小山の温かい視線、笠間の細やかな気配りがないことだった。
選手権で負けたら引退というのは、初めから決まっていたこととはいえ、消化不良に似た形で終わってしまったからなのか、新しい体制にまだうまく萌子は馴染めないでいた。
選手たちも気持ちは同じなのか、消化できなかった気持ちを、新人戦に何とか切り替えようとしているようだった。だが、つい先日まで３年生のいるチームで 戦っていた凪浜の新しいチーム作りは、他校と比べて遅れていて、試合は勝ちあがってはいるものの、それは個々の能力だけに頼った結果だった。パスミスや、 チームワークの悪さは、明らかだ。全国の壁を感じた今だからこそ、そういった短所はなおさら強く感じられた。
その中で、一人グランドで声をあげているのが、新キャプテンとなった朔哉だ。
二年の代表ではあったし、誰も朔哉がキャプテンになることに異議を唱えるものもおらず、副キャプテンにも俊平があっさりと決まった。
「友近っ、上がれっ」
朔哉の声に、知朗がゴール目がけて走り出す。
「藤原っ」
熱い朔哉の声とは正反対に、右京が涼しげな顔をして、朔哉の指示通り知朗にパスを出す。二人ついていたディフェンダーの足元をすり抜けて、ボールは正確に知朗に届く。放たれたシュートは、ゴールネットを揺らしていた。
「よしっ」
大きく手を叩いた朔哉に応えるように知朗はガッツポーズを見せる。
実力もあって、リーダーシップを取るのがうまい。
石橋からの信頼も得ていて、同級生からも後輩からも人望が厚い。
キャプテンとなる素質を、朔哉はすべて持ちえている。
誰もが、そう思っていて、萌子もそれを否定したいわけではなかった。
ただ不安だったのだ。
沢山の人の、色々な想いが、希望が、夢が、全て朔哉にのしかかっている気がして、萌子は不安だった。
練習後、久しぶりに萌子たちは学校の側にある喫茶店・アルジャーノンに集まっていた。
閉店時間まであと僅かだからか、店内には、萌子や寮生が中心のいつもの一年生メンバーに、そしてバイトとして練習後に働く一馬がいた。
「とりあえず、おめでとう、由太に湊、それから、ケン」
萌子の声にあわせるように、それぞれがジュースを入れたグラスを掲げ、三人に祝いの言葉を述べる。
三人は、新生・凪浜高校サッカー部の、晴れてＡチーム入りをしたのだった。
すでにＡチーム入りをし、レギュラーとなっている、成、知朗、そして右京に加えて、この三人も新人戦において、それぞれ途中交代などで、試合に出場をしていたのだ。
「っつーか、実力？当然の結果？」
ニヤリと笑うケンに、和美が思わず立ち上がり、
「んだとぉ？てめぇ」
とけんか腰に応える。慌てて隣の美都と湊が、まあまあと言って和美の肩を叩き、和美も苛立ちを隠さず、ふんっと息を吐いて椅子に座りなおした。そういう和 美も、今回はＡチームには上がれずにいたものの、ここ最近めきめきと力をつけていて、そのうちAチーム入りするだろうと言われている。
「まあまあ。そう怒るなよ、北内」
篤志がぽんっと肩を叩くが、和美は顔を背けたままだ。萌子もため息をついて、
「そうよ、悪いのは、ケンなんだから」
と冗談めかしたように言う。慌てて立ち上がったのは、ケンの方だ。
「おい萌子。何だよ、それ」
「そう言って、昔右京につっかかったのは、誰？」
勿論、こう言えるようになったのも、Aチーム入りをする選手たちの努力を、誰もが認められるからで、萌子はこの頃のケンの頑張りがわかっていた。
「チェッ。いーじゃん、少しくらい堂々と喜んだってさ」
そう言って、ジュースを一気に飲み干したケンに、湊が言う。
「ケンも偉いよね。電話の時間も減らして、練習に励んでさ」
「亮子ちゃんとのラブラブ電話？」
「うっせーよ。アッチ」
ケンからの平手を逃れた篤志は、意味ありげに成の方を見て呟いた。
「やっぱ恋愛と部活の両立は難しいのかなぁ」
視線に気づいた成が、挙動不審になっていると、理香が突然に立ち上がり叫ぶ。
「何言ってるのよ、アッチ！あたしたちには関係ないってば」
両手をむんずと掴まれた篤志は困り顔で、違うんだよ理香、と言っている。
カップを拭きながら、一馬はその様子を見て、さりげなく微笑んだ。そうして、目の前でテーブルを拭いている厳巳に、そのままの表情で話しかける。
「川瀬も、手伝いいいからさ、あっちに入れよ」
「うん。でも…。僕は…」
黙りこむ厳巳に、一馬は説教するように言う。
「引け目、感じることねぇだろ。って俺が言っても説得力ねぇけどさ」
力をつけ、上位のチームに入っていくチームメイトたちとは違い、厳巳は未だにCチームだった。だが、それは一馬も同様で、決して厳巳に限ったことではない。
「そんなこと、ないよ。ありがとう。渡部」
厳巳はそう答えて、再びテーブルを拭き始めた。
外見も、中身も一馬とは全然違う厳巳だったが、どうしてか一馬に対しては、本当のことを話すことができた。
「親父さん、元気？」
ふいに一馬がそう話しかける。力なく厳巳は左右に首をふる。
「電話には相変わらずでないし。お正月は、選手権で僕が家に帰れなかったし」
息子が、自分の意向に反対して、この凪浜でサッカーをすると言って以来、厳巳は父親とゆっくりと顔を付き合わせたことはない。
「忙しい人なんだ、もともと。一生懸命で、努力家で、患者さんが大事で、だから家族のことはいつも後回し。小さい頃からそうだったから」
厳巳がそう答えると、ふーんという素っ気ない一馬の返事に気づき、厳巳は急いでごめんと謝った。一馬は気にしてないという表情で淡々と答える。
「別に川瀬が謝ることじゃねぇだろ。俺に父親の記憶がないのは事実なんだし」
四歳の時に一馬の父が事故で死んだと聞いたことを厳巳はすっかり忘れていた。一馬の言葉に、小さく頷くと、厳巳は思い出したようにぽつりと言った。
「けどね、父さん。僕がもっと小さい頃は、サッカーなら相手してくれてたんだ」
「へぇ。親父さん、サッカー好きなんだ」
「昔やってたって母さんから聞いたことあるけど。…禁句だから、サッカーのこと」
厳巳にはサッカーを教えてくれた父親が、何故に自分がサッカーをすることに反対するのかが、どうしてもわからなかった。
そうして、一年経ったけれど、サッカーの実力も、父親の理解も、得られることができなかったのだと厳巳が俯くと、一馬がそっと言った。
「大丈夫だよ」
思わず厳巳が顔を上げたところで、突然横からわき腹を思いっきり叩かれた。
「そうそう、大丈夫だって」
「り、理香ちゃん？」
叩かれたわき腹をさすりながら、厳巳がそう答える。隣の理香は、満面の笑みを浮かべていた。そうしてテンションが高いままに、その笑顔を一馬にも向ける。
「よくわかんないけど、大丈夫！ねっ、渡部くん」
事情がよくつかめない一馬だったが、その勢いに押されて、あぁと答える。だが、理香は結局二人を無視するように、店内に響き渡るくらい大きな声で、
「みんな絶対大丈夫なんだからっ」
と叫んだのだった。
結局、店を出ると、外は寒く、真っ暗になっていた。
帰り道で、部室の近くを通った萌子は、ふと灯りを見つけた。
「あれ？まだ部室電気ついてる？」
消し忘れてしまったのかと思った萌子に、理香が答える。
「朔哉さん、ちょっと練習するって言ってたから、きっとそれだよ」
選手権があって中断することになったせいか、特別練習はもう一ヶ月は行われていない。
思わず足ととめていると、
「萌子、行かないの？」
と少し先を歩いていた理香が気づいて声をかける。だが萌子からの返事はなく、理香はしびれを切らしたように言った。
「もー置いていくよ？」
「あ、俺。遅れてついていくからいいよ。先に行ってて」
今にも萌子を引っ張ってきそうな勢いの理香に、成が慌てて答える。ニヤリと笑ったのは、理香だった。
「あー、なにそれー。成くんってばイヤ―」
イヤラシイ、と言いかけたところで、萌子が小走りで追い付いてきた。
「ごめん、理香っ。あれ？成？」
ニヤニヤしている理香に、戸惑っている成。
萌子が二人を見比べていると、最後に様子を見ていた篤志がため息をついて答えた。
「なんだかなー。もう」
次の日も、練習後ハイブリで空腹を満たして帰ろうと部室の脇を通りかかると、電気がついていた。
「萌子？どうしたの？」
他の部員と一緒に歩いていた理香が、そうやって萌子を呼び止める。
今度は、萌子は迷うことなく答えた。
「ごめん、先帰っててくれる？忘れ物、しちゃった」
今日は選手権の決勝戦の鑑賞会を、寮で行う予定だったのだ。えー、という理香からの非難の声を浴びながら、萌子はもう一度、ごめんねと言うと、再び部室へと向かった。
「ただいまー」
「腹へったぁ」
「風呂入りてぇー」
成たちが寮に戻り、いつものように思い思いの気持ちを叫ぶと、一階のリビングから見慣れぬ顔が現れた。
「お、お帰り」
「たっ環さん…」
篤志の姉・環は、寮母である篤志と環の母・昌江が忙しいときのピンチヒッターで、こうしてたまに寮に来ては料理をする。
だが、そういう日にかぎって、寮のご飯は沢山残る。母娘とはいえ、味覚は別物らしい。
誰もが今日の夕食を諦めたところで、環は項垂れる部員たちの中から厳巳を見つけると、真剣な表情で声をかけた。
「厳巳君。お父さんがいらしてるから、ちょっと来てくれる？」