Maybe Blue 第一部 海の鼓動
空風5
凪浜のベンチは呆然としていた。
グランドでは、扶洋の選手が駆け回って喜び、競技場では薄紫色の旗が揺れている。その中で、青い軍団はいっそう沈んで見えた。
あっという間の逆転だった。
流れは確実に凪浜だったのに、一瞬の隙をつかれ、そのチャンスを確実に決められる。
だが、それは、石橋が最も恐れている形だった。
腕を抱え込み、ベンチに座り込んだ石橋に、コーチの佐藤が駆け寄ってきて言う。
「監督。福山、前に出しましょう」
「…」
だが石橋は答えなかった。
一点取られてしまったのだから、勝つためには二点取らなければならない。
残り時間３０分。
今までも、点が必要な時は、そうやって朔哉をトップに上げていた。
だが、石橋は躊躇っていた。
今日の朔哉の調子は、決してよくはない。
一見すれば、気迫溢れるプレーに、むしろ調子がいいとも思ってしまいそうだが、二年間朔哉を見てきた石橋からすれば、逆だった。
そして石橋には、それが、体の不調ではなく、精神的なものであることにも、気づいていた。
確かに、朔哉を上げれば、それなりの成果は出る。それは、自分の責任を朔哉自身が理解をし、全うしようとするからだ。
だが今日のあいつには、余裕がない。
その状態の朔哉に、点を取らせる責務を負わせても？
石橋には、その答えが出せなかった。
だが、佐藤は黙り込む石橋に、更に激しく言った。
「石橋監督っ。
選手権の初戦ですよ。相手が、古豪とはいえっ、ここで負けたら…。
負けたら、なんて言えばいいんですかっ」
選手権に勝つために、どれだけ学校に協力してもらっているのか。
応援してくれた町内会に、
こうして競技場にかけつけた生徒に。
この大会のもつ意味は、佐藤以上に石橋もわかっていた。
「細谷」
ふいに石橋が俊平の名前を呼んだ。ベンチで試合を睨むように見ていた俊平が返事をして立ち上がると、石橋は、
「アップ始めておけ。すぐに品田と交代だ」
と、指示をして、すくっと立ち上がり、佐藤に向って言う。
「残り１０分になっても、試合がこのままなら。その時は、朔哉を上げる」
落ち込む観客席で、理香は篤志の腕を掴みながら言った。
「どう…しよう。どうしよう、アッチ。
取られちゃったよ。一点！どうしよ−」
激しく篤志の腕を揺らす理香に、冷静な声が響く。
「落ち着け、理香」
「由太チャン…」
いつもと変わらぬ表情の由太は、淡々と答える。
「たかが一点だ。それにまだ試合は３０分ある」
「でも…。さっき由太チャンだって、言ったじゃん。
前半一点取れないと、ヤバイって。
なのに前半、点取れなくて、しかも逆に、一点取られちゃったんだよ」
矛先を由太に変えて理香がそういったが、それでも由太の口調は変わらなかった。
「まだ負けが決まったわけじゃない」
由太はそう言って、凪浜のベンチを見つめる。
「細谷さんがアップを始めた。おそらく品田さんと交代で、福山さんをトップに上げるつもりだ」
「あ、そっか！朔哉さんがいるもんね」
品田はどちらかといえば、守備的なミッドフィルダーであり、一方で俊平はゲームメイクもできる攻撃的なミッドフィルダーだ。
ゲームメイクは俊平に任せ、朔哉に点を取らせる、いつもの作戦だ。
理香は手にしていたメガホンをポンと叩いて言った。
「凪高の、ナンパ三羽烏の集結ね！」
ケンが呆れたように言う。
「なんだそりゃ。しかもナンパはいらねぇだろ、別に」
「だって、よくつかっちゃんと細谷さんは、朔哉さんをダシに女の子に声かけてるでしょ？」
由太は当然として、思わずケンも黙り込んだが、理香は気にせず声をあげる。
「ナンパ烏っ、頑張れっっ」
「ナンバガラス？何それ？」
女性の声がして、理香が振り返ると、そこには篤志の姉の環が立っていた。
「環さん」
「ねぇちゃん」
環はよっと、軽く手を上げて篤志たちにも挨拶をすると、スコアボードを見て、
「うわー、一点取られたか」
と言った。篤志が思わず不機嫌そうに答える。
「うるせーよ」
だが環は、そんな篤志の頭を叩いて怒鳴りつけた。
「何がうるさいのよ。本当のことでしょうがっ。
あのね、メインスタンドで聞いてたけど、あんたたちの応援、全然聞こえてないっ。こんなんじゃ、グランドの選手にも聞こえないよ。
もっと声出しなっ。
凪高！ガンバレ！凪高！ガンバレ！！」
大声を張り上げた環に、ケンも負けじと声を張り上げる。
「凪高！ガンバレ！！」
「お、名取。いい声でるじゃん。その調子っ」
ケンの声に続けとばかり、篤志が、理香が声を出し始め、一瞬沈みかけた凪浜の応援席は、再び活気を取り戻した。
時間は、確実に過ぎていった。
だが、試合は変わらず、凪浜は１点リードされたままだった。
PK戦にもつれ込む気など、毛頭ない。勝つためには、守りに徹し始めた扶洋を相手に、２点を取らなければならない。
朔哉に上がるよう監督が出すと思われた指示は、結局出されることなく、そのせいか、選手の士気は僅かながら沈んでいた。俊平が入ってきたとはいえ、今ま での攻めるのに、いい形で終わらず、点も入らないという展開は変わらなかった。ただ、俊平は品田と同じポジションでいたことから、これから朔哉をあげる作 戦が取られることは目に見えていて、皆がその時を待っているような節さえあった。
その中でただ一人、朔哉だけがひたすらゴールを見つめていた。
だが左のフォワードである太田は、そんな風にどこか朔哉の動きを待っている状態で、
また右の右京は、スタミナが切れてはじめている。
ただでさえ、あたりがきつく、けずられている藤原に無理はさせられない。
そんな気遣いから、朔哉は指示がなくとも、ひとりで上がり、何とかゴールを決めようと躍起になり、ゴールと、ボール以外は何も見えず、何も聞こえなくなっていた。
だが、執拗なディフェンスは変わらず、故意ではないにしろ、その腕が朔哉のユニホームを掴んだとき、思わず朔哉はその腕を振り払っていた。
ピピーッ、と主審がホイッスルを鳴らす。
その音にようやく気づいた朔哉が足を止めると、主審は朔哉のファールとして、ボールを扶洋に渡すよう指示していた。
今までの扶洋のラフプレーを棚に上げて、このくらいで笛を鳴らされるのか？
思わず朔哉が主審に抗議しようとしたところで、朔哉はふいに肩を叩かれた。振り返ると、小山が立っていた。
「朔哉」
「…はい」
「後ろ振り返ってみろ」
朔哉は言われるままに、小山の後ろに構えるチームメイトたちを見つめた。皆一様に朔哉と小山を見つめている。
「皆、いるわけだから。そんなに気負わなくていい」
小山はそう言って、ぽんと軽く朔哉の背中を叩いた。
「お前が決められなくても、誰もお前を責めない。
お前が決められなかったら、他の誰かが決めてくれるさ」
「小山さん…」
途端に朔哉の耳には、歓声が聞こえてきた。
凪高、ガンバレ。
凪高、ガンバレ。
人数では負けているかもしれない応援団が、声では負けていなかった。
凪高、ガンバレ。
同じ声は、ベンチからも聞こえてくる。
モエチャン。
朔哉はそう心の中で呟く。
萌子は、ベンチから立ち上がって応援をしていた。萌子だけではない、他の選手もだ。
小山がその声に負けじと声を張り上げる。
「残り、１５分だぞっ、みんなっ」
「おうっっ」
小山の問いかけにチームメイトたちが答えている。朔哉もはい、と答え、自分のポジションに戻ろうとしたところで、軽く頭をはたかれた。
「おいこら、朔哉」
振り返ると、司が仁王立ちしている。そして、口をとがらせて、
「お前また、お立ち台狙ってるだろ」
と言った。
「へ？」
「でもって、さらにモテようと思ってるだろう」
本気なのか、冗談なのか、朔哉が返事に困っていると、司はニヤリと笑ってこう言った。
「わりーけど、今度あそこに立つのは俺だからな」
ふう、という小さな笠間の溜息が聞こえ、萌子はじっと手を握り締めてグランドを見ている笠間を見つめた。
いつもならば、笠間はここまで食い入るように試合を見ていない。どこか、冷静な第三者として、グランドの隅々まで見渡して、相手の手薄なところなども、的確に把握して、それを選手たちに伝えていた。
それが、今日に限っては、ただ一点を見つめている気がしてならなかった。
そして萌子は、それが朔哉だということに、今更ながら気づいた。
「笠間さん」
声をかけると、笠間は顔を向けずに、ああとだけ答えた。萌子は、他の選手たちには届かぬように、尋ねる。
「昨日、三上良次さんが来ていたのは、本当ですか」
僅かな沈黙が続く。そして、笠間は答えた。
「…ああ」
「何か、あったんですか？」
ぴくり、と笠間の頬に緊張が走るのがわかる。萌子は矢継ぎ早に言葉をつなげた。
「昨日から、おかしいです。笠間さんも、福山さんも。
もしかして、三上さんが、関係してるんですか？」
笠間は黙り込んだ。だがそれが、肯定に繋がっていることは、萌子にもわかることだった。
「今は試合中だ。試合に集中して」
切り捨てるように笠間はそう言って、拳を握りしめる。
「…終わったら、話す」
小さくはいと返事をしたところで、再びグランドにホイッスルが鳴り響いた。
慌てて萌子が振り向くと、またもグランドには右京が倒れこんでいた。
担架でもって、いったんグランドの外に出た右京に、石橋は駆け寄った。
「大丈夫か、藤原」
右京は小さく頷くが、珍しく表情が痛みで歪んでいる。左足も赤く腫れあがっているのがよくわかった。その足を見た笠間が、小さく首を左右に振った。
「無理するな。友近に、ウォーミングアップを−」
「行けます」
そう言って右京は無理やり立ち上がるものの、呼吸も乱れたまま、足も引きずっていた。石橋はベンチを振り返って、大声で叫んだ。
「友近、アップしろっ」
「いけます、俺は。笠間さんじゃない」
小さな声だが、そう言い切った右京に、石橋も笠間も驚いた。
確かに倒れた右京に駆け寄った時に、石橋の脳裏に二年前のことが過ぎったのも事実だった。将来ある身なのだから、無理はさせられない。無理をさせて、輝かしい未来を奪う権利は、自分にないのだと。
一年生にまで、そう思われていたのか、私は。
そう思うと、石橋の顔に笑みが浮かんだ。だが、それも一瞬だけのことで、笠間が気づいたときには、もとの厳しい表情に戻って、石橋は右京に告げていた。
「今のお前は、スタミナ不足で、トップスピードで残り時間を走りきれない。勝つために、そういう選手を、監督としてはいつまでもグランドに出しておくことはできない」
わかったな、という無言の問いかけに、右京は小さく頷いていた。
ふいに佐藤コーチのデジタル時計がアラームを鳴らす。
「監督。残り１０分ですっ」
それはおそらく凪浜中が待ち望んでいた瞬間だった。
石橋は、背筋を伸ばすと、大きな声で叫んだ。
「朔哉っ、上がれっっ」