Maybe Blue 第一部 海の鼓動
空風4
再び、グランドに突き刺すようにホイッスルが響く。
その中で、グランドに横たわり足を押さえる右京を見て、萌子はもちろん、凪浜のベンチに座っていた全員が立ち上がった。
「なんだよ、あれっ。ファールだろっ、ふぁ−」
大声を上げる知朗の口を、萌子が慌てて押さえつける。
知朗の声が審判に聞こえれば、こちら側が何らかの処分を受けることにもなりかねない。
だが、主審は今のラフプレーに注意を与えることなく、ゴールラインを越えたボールが扶洋のキーパーに渡るのを見つめている。
「ったくなんだよっ、あの審判っ。
おいっ、どこみてん―」
「友近」
笠間が厳しい口調で知朗の名前を呼んだ。
「主審の判断には従うこと。絶対的に。わかったな」
珍しく笠間が怒ったことで、驚いたのか知朗もしゅんとした。
「…はい」
だが、萌子にも主審の判断が、凪浜に不利に思えて仕方なかった。
特に右京に対するマークは厳しく、右京がボールを追うたびに、扶洋の選手は二人つき、そして反則ぎりぎりのプレーを行い、度々試合を中断させる。
トップの選手が削られるということは、サッカーにおいては当然のことではあるが、右京の身体は、その技術に比べると、まだまだ劣っていた。
だからこそ、萌子は右京がグランドに転がるたびに、怪我をしたのではないかとハラハラさせられていたのだ。
だが、右京はその場にうずくまることなく、その度に立ち上がる。
しかも、駆け寄ってきたチームメートの誰の手も借りずに、一人で。
『約束、したんです。
いつか高校生になったら、絶対に選手権に出て優勝するって』
右京が、別れた母と交わした約束を果たそうとしていることに、萌子も気づいていた。
だからこそ、倒されても、倒されても、立ち上がって、再び走り出す。
頑張って。
萌子は、胸の前で両手を握りしめて、グランドを見つめた。
前半も、残り５分となっていた。
電光掲示板には、０対０の文字が掲げられている。
どちらかといえば、凪浜優勢の中、扶洋のプレーの荒さに、グランドには何度もホイッスルが鳴り響いていた。
ラフプレーの狙いが、右京であるのは明らかだった。
だが、それに対して、朔哉も何も出来ずにいた。というのも、朔哉自身、マークを二人つけられて、思うように動けなかったのだ。右京や太田にも、同じようにぴったりとマークがつけられ、かつゴール前にはディフェンターがどっしりと並んでいる。
右京や朔哉など、どちらかといえば得点能力の高い凪浜に対して、扶洋は、フォワードの赤坂を凪浜の陣営にひとり置くと、後は全員守備とも取れるような作戦を取っていた。
凪浜優勢とはいえ、そういった中で、朔哉も、誰もが攻めあぐねていた。
「流れがよくないな」
ふいに隣で由太がそう呟いたのを聞いた篤志は、思わずメガホンを持ち大きく振っていた手を止めた。
「何言ってんだよ、由太」
僅かに睨む篤志を無視して、由太は淡々と答える。
「攻めてるのに、あと一歩進められない。最後のシュートにまで持っていけない。いい流れじゃないだろう、どう考えても」
「けど、それ言ったら扶洋だって、あいつら全然攻めてきてないぜ」
確かに篤志が言っている通りで、扶洋は今までの間に、赤坂のボテボテのシュートが一本あったくらいで、あとはほとんど扶洋陣営での試合展開になっていた。
由太は腕組みをすると、篤志の言葉などなかったかのように答える。
「おそらく、前半は体力を温存して、後半攻めてくる気だ」
「それならうちだって−」
「その前に、藤原の体力がもたない。あれだけ削られたら、なおのこと、そうだろう」
そういわれてグランドに視線を馳せると、確かに右京は厳しいマークを振り切れず、僅かだが疲れが見え始めていた。
「前半で、一点。取れないと、厳しいな」
他人事のようにそう呟いた由太の肩を、理香はメガホンでポンと叩くと、そのメガホンを由太の耳に向けて大声で叫んだ。
「ちょっと由太ちゃんっっ。冷静に分析してる場合じゃないでしょぉ！
戦ってるのは、凪高なんだよっ。自分のチーム！！応援してよ、応援！」
「あっっ」
にらみ合う由太と理香の前で、篤志が大きな声をあげた。
続いて歓声がわっと沸きあがる。
篤志はもう一度大きく声を張り上げる。
「朔哉さんっっ」
グランドでは、ボールを持ちながら、マークを二人振り切った朔哉が、縦横無尽にグランドを走っていた。
流れがよくないことは、無論朔哉も感じていたことだった。
二人からの厳しいマーク。
厚いディフェンス。
初戦で体が重いせいなのか、チームメイトたちの動きも、朔哉には鈍いように思える。
そのせいか、ゲームメイクする朔哉のところには、思ったようなパスはやってくることもなく、甘いパスはインターセプトされることもままある。
「司っ、パスッ」
朔哉がそう叫ぶと、ボールを持っていた司が、なんとかマークの選手を交わしてパスする。だがそのボールも、途中で扶洋の選手の足をかすめ、方向が変わる。
畜生。
司の顔が歪んだ。
だがその瞬間、朔哉は必死でそのボールを追いかけた。
慌てたのは、朔哉のマークについていた扶洋の選手と、そのこぼれたボールを同じように追いかけていた小山だった。
「朔哉…」
朔哉はまるで小山から奪うように、そのボールを捕らえると、そのまま扶洋ゴールに向って、ドリブルで突き進んだ。
歓声がそんな朔哉を後押しするようにどんどん沸きあがる。
その中で、朔哉はついていたマークを一人かわし、二人交わすと、目の前には江口が現れた。
朔哉はそこでようやく足を止めた。
周囲を見回すが、右サイドにいる右京には、マークがついていた。
左サイドの太田も同じだ。
「朔哉っっ、パァースッ」
後ろから司が上がってきていたが、そこにもマークはついている。
どうする？
「朔哉、こっち」
後ろからは、追いかけてきた小山の声も聞こえた。
すんなりパスが通るのは、小山だ。
だが、その後の展開は、おそらく今までと何も変わらない。
ボールをとられないように回しているだけで、結局何もできず、前半は終わるだろう。
だったら？
朔哉はグランドに馳せていた視線を、ゆっくりとその一点に向ける。
目の前のゴールまで、少し距離があるが、だからといって、シュートできない距離でもない。
「朔哉っ」
一瞬、小山の声が聞こえたが、朔哉はそれを無視して、再びボールを蹴りだした。
もちろん、江口もついてくるものの、朔哉はそこでフェイントをかけ、重心を右から左へと移す。あわせて江口の体も右から左へと動いた。
そのわずかな隙に、朔哉は右から高いボールを蹴り上げた。
慌てた江口の足が、朔哉の足元を狙ってきたものの、ボールはすでに蹴りだされており、二人はそのままグランドに倒れこんだ。
センタリングなのか、シュートなのかわからないそのボールは、前に出てこようとしていたキーパーの頭上を掠める。
決まってくれ。
痛みとあいまって、朔哉は目を瞑る。
わっと歓声があがったが、それも一瞬のことで、ボールはそのままふんわりとゴールポストにはじかれて、エンドラインを割っていた。
結局、前半は、そのまま０対０で終わった。
ハーフタイムに入り、萌子は控え室で朔哉の足の治療をしていた。
治療とは言っても、コールドスプレーを当てて、テーピングを巻いているだけの応急処置でしかないが、目の前の朔哉は痛がる様子もなく、じっとしている。
前半の最後の江口のプレーで、結局朔哉も負傷を負った。試合に出れないわけではないが、腫れはどんどん増していたのだ。
スプレーが軽くなってきた、と思ったら、押しても何も出てこなくなり、萌子は諦めて、ビニール袋に氷と水をつめたものを、怪我した左足に当てようとすると、朔哉自身がその袋を萌子から取り上げた。
「モエチャン。俺は、もう大丈夫だから、藤原の方頼むよ」
「でも」
「大丈夫。慣れてるからさ。このくらい」
そうにっこりと笑われると、萌子も何も言えなくなり、わかりました、と返事をして素直に右京を探すことにした。
控え室にいるはずの右京だが、姿が見当たらない。
怪我してるのに、無理して歩くなんて。
長い廊下を、萌子が歩いていると、ふいに誰かの話し声が聞こえてきた。
「…いいのかよ、小山」
聞こえてきたのは、三年の副キャプテン溝口の声で、どうやらその相手は小山のようだった。二人は、廊下の突き当たりで話をしていて、溝口の問い詰めるような口調に、萌子は思わずドアの影に隠れた。
「いいのかって？」
のんびりとした口調に、溝口が珍しく苛立って答える。
「朔哉のことだよ」
「朔哉？どうして」
「キャプテンはお前だろう？」
わずかな沈黙の後に、小山が平然と答える。
「ああ、そうだけど。どうした？溝口」
「だって、さっきのプレー。まるっきり、お前無視したプレーだったし」
「まあ、それでやろうとあいつが判断したわけだから」
「そうやって、お前が優しすぎるからさ、朔哉も天狗になるんだよ」
溝口の抑え気味だが、明らかに苛立った声が廊下に響いた。
確かに、前半最後のプレーは珍しく朔哉の一人試合になっていた。パスを出すように言った小山の指示を無視したのも、確かだ。
小山が何も答えないことに、溝口は、いくらか口調を穏やかにした。
「確かに菊地先輩の背番号を引き継いだのは、朔哉だし、実力も一番かもしれない。
けど、お前はキャプテンで、今回の選手権は、俺たち三年にとっては最後の選手権なんだぜ。朔哉だって、ちょっと言えばわかるさ。キャプテンであるお前が指示を出すって言えばさ」
廊下には、二人の長い影が映っている。溝口が、励ますように小山の肩を叩いていた。
「ありがとう、溝口。でも、俺は今のあいつのままでいいと思う」
「小山」
「だって、皆をひっぱるのがキャプテンってわけじゃないだろう。
俺はね、キャプテンってさ、皆をまとめるのが役目だと思う。
チームに１１人、いろんなタイプがいて、いろんなことをする。
それぞれ向いている方向が違うこともあるかもしれない。それをまとめるのが、キャプテンだって信じて、この一年間やってきたんだ」
もともと、笠間という優秀な選手が同学年にいた。
プレーにおいても、性格にしても、小山は勝てない相手だとずっと思っていた。ずっと、自分の目の前を歩いていく相手だと思っていた。
その笠間が、怪我をして、選手ではなくなった。
目の前には誰もいなくなり、気づいたら自分がキャプテンになっていた。
なにせ、前代があの菊地だ。しかも同学年には、自他共に厳しい柳田がいた。
小山だって、何も考えずに、今までずっとやってきたわけじゃない。
「理想とは違ったけど、でも。俺なりに満足できるキャプテンだと思ってるよ」
「小山」
「皆はそう思ってくれてないのかもしれないけど、朔哉の方がキャプテンに相応しいって思ってるのかもしれないけど、それは朔哉のせいじゃない」
それは、自分のせいだ。
朔哉を、ああいう難しいポジションにしてしまったのも、
その上で、自由にしているのも。
廊下に映る小山の影が、今度は溝口の肩を叩いた。
「後半、点とるから。
絶対、国立、行こうな。溝口」
後半が始まった。
相変わらず、扶洋のプレーは変わらない。
赤坂一人をトップに残し、あとは守備に入る体制だ。
ただ、朔哉のマークが更に厳しくなった。３人ついたのだ。
一人抜いても、二人抜いても、その先にもう一人いるのは、さすがに身動きができず、朔哉は苛立っていた。
そんな後半立ち上がりの５分。
凪浜は今までで一番のチャンスを迎えた。
朔哉のセンタリングを、太田が頭で合わせた。タイミングも合っていたのだが、残念ながら、相手のゴールキーパーの手を掠めて、ゴールにはならず萌子たちの溜息を誘った。
だが、その隙に、扶洋の選手が大きくボールを蹴りだしたのだ。
センターライン付近にいた柳田たちが、まずいと思った瞬間、ただ一人扶洋の選手で凪浜陣営にいた赤坂がゴールに向って走り出した。
「戻れっ」
柳田が何とか赤坂に追いついたものの、小柄でスピードもある赤坂は、そんな柳田をするりと交わして、大きく蹴りだされていたボールに追いついた。
「横田っ山本っ、止めろっ」
石橋が立ち上がって叫んだ。
横田が赤坂に追いつく前に、赤坂はボールを強く蹴りだす。
そしてそのボールは、キーパーである山本の手を掠めると、コロコロとゴールの中に吸い込まれていく。
ホイッスルが鳴り、萌子は呆然としてグランドを見つめる。
０対１。
扶洋が先制点を入れた瞬間だった。