Maybe Blue 第一部 海の鼓動
空風3
観客の声援やブラスバンドの曲が、漣のように聞こえてきていた。
試合前の練習にとグランドに出ると、客席にはほとんど空きがないようにも思える埋まりようだった。
だがその多くは、凪浜を応援する青い旗ではなく、扶洋のユニホームと同じ薄紫色。凪浜の初戦は、幸か不幸か、扶洋の地元にほど近い競技場だった。
アウェー戦だな、まるで。
朔哉はそう心の中で呟きながら、空を見上げる。
空だけが青く、朔哉を見下ろしている。
「朔哉」
ふいに肩を叩かれると、俊平が立っている。
「練習、終わりだから引き上げろってさ」
表情がいくらか強張っているのは、俊平が初めて経験する選手権だからかもしれない。
インターハイとも、他のどの試合とも違った緊張感が、チーム内には漂っている。その原因のひとつが、観客の声援だ。インターハイとは異なり、毎年の選手権ファンの人、それに学校の生徒も多くが応援にかけつけている。
「やっぱちげーな。選手権って」
朔哉のその気持ちに気づいたのか、俊平がそう言う。
ああ、と答えて、控え室に戻ろうとしたところで、上の観客席から、フラッシュと黄色い声援があがった。
俊平が見上げると、女の子たちがカメラを構えて叫んでいる。その先にあるのは、朔哉だ。
俊平は、ちらりとその横顔を見たが、普段ならそれなりに答える朔哉が、この日ばかりは俯いたままで中に入って行く。
朔哉…？
思わず足を止めた俊平に、後ろからどすの利いた柳田の声が聞こえる。
「こらっ大槻っっ。バカやってねぇで、早くはいれっ」
俊平が振り返ると、司が観客に向って、かるくポージングしているのが見えた。
十分後には試合が始まる控え室で、監督である石橋は、静かに、だが熱く語っていた。
「今日は、選手権の初戦だ。
お前たちは、この選手権の為に、今まで厳しい練習にも耐えてきた。頑張ってきた。
すべて、この時の為だ。
だが、今日は始まりであって、終わりではない。
掲げてきた目標は、選手権に出場することじゃない。
選手権で優勝することだ。
県予選と同様、負けたら終わり。
この一週間、お前たちは勝ち続けるしかない。
わかってるな」
「はいっ」
控え室中に、選手の声が響き渡る。
観客と同様に、選手たちの気持ちも、いつも以上に高揚していた。
だがそれは、集中という意味でのいい緊張感をもたらしており、石橋も合わせるかのように声を張り上げる。
「特に、三年。
お前たちにとっては、最後の選手権になる。
小山、柳田、横田、太田、山本、品田、村上、そして笠間」
選手たちとは少し外れたところにいた笠間は、驚いて顔を上げる。
石橋と、そして小山や柳田たちの温かい視線が、自分にも注がれている中で、笠間も遅れて「はい」と返事をした。
その声を聞いた石橋は、小さく頷くと、
「もちろん、一年も二年も、全員。
悔いは、残すな」
といくらか控えめな声で言った。
確かに、この選手権は三年生にとっては、最後の選手権となる。
仮に今日負けることがあれば、明日からの練習に参加することはない。
「はいっ」
渇いた控え室に、熱い選手たちの声が響き、萌子はこみ上げ来た思いを押しとどめるように、思わず手をぐっと握り締めた。
「行くぞっ」
小山の掛け声で、選手たちはグランドに向い始めた。
スパイクの紐を結びなおした朔哉が、一人遅れて後をおいかけようとしたところで、笠間に声をかけられた。
「朔哉」
そして、廊下の隅に朔哉を連れて行くと、笠間は珍しく項垂れて言った。
「…情けない。今の俺は、ただグランドの外でしか、試合を見ることができない。
応援することしかできない」
それが、亜衣のことを言っているのは明らかだった。
数えるくらいしか、顔をあわせたことのない朔哉とは違い、笠間にとって亜衣は友人の一人なのだ。
その友人にとって、最期になるかもしれない望みに、だが笠間は応える事はできない。
朔哉、と笠間は小さく呟くと、その肩に手を置いた。小さく震えているのが、朔哉にも感じ取れる。
「頼む」
凪浜高校を、国立につれていく。
それは、笠間にも、亜衣の恋人の三上にも、叶えられない望みだった。
朔哉は、できるかぎりの笑顔を作り、そんな笠間に答える。
「わかりました」
競技場に姿を現した朔哉を見て、ケンは一際大きな声をあげる。
「朔哉さんっっっ」
隣の理香がびっくりしてケンを見つめた。
「あれ、ケンケン？何で朔哉さんコール？」
その奥から、篤志がニヤニヤした顔つきでからかう。
「お前、ついに亮子ちゃんに振られて男に走ったか？」
すると、後ろの興仁が大きな声で言う。
「何お前振られたの？」
途端に周りの一年生がケンに向って話し始める。
「そういえば、この前まで彼女に会えるとかいってソワソワしてたくせに、昨日からずっと暗かったよな」
「ああ、確かに確かに」
「え？ケンケン？本当なの？」
だがそれらを一喝するようにケンは更に大きな声をあげた。
「てめーらうるっせー！
そんな無駄口叩いてるなら、応援しろっ応援！！」
視線の先には、小さい頃から憧れていた薄紫色の旗が、ジャージがある。
この競技場にも、ケンは何度も訪れたこともある。
いつかはこの競技場で、あの薄紫色のユニホームを着て、グランドで駆け回っていることを夢見ていた。
『今更後悔しても、無駄だぞ。名取』
冗談じゃない。
後悔なんか、するもんか。
亮子と会わなかったのは、別れたわけでも、喧嘩したわけでもない。
悔しいかな、江口のいうことは正しい。
ケンがそう判断しただけだ。
亮子はすんなりと頷こうとはしなかったが、それでもケンが押し切った。
確かに扶洋は、県下では向うところ敵なしに思える伝統校だ。
だが、ここ何年も、全国大会では優勝をしていないのも事実だ。
昨日の江口を見て、ケンは自分がどうして凪浜に惹かれたのか、初めて気づかされたのだ。
それは、ただ勝ちたいという気持ちだった。
勝って、選手権で優勝したい。
新興勢力の凪浜には、それしかなかった。
だが、伝統校である扶洋には、伝統校であるという驕りがどこかにあったのだ。
勝ちたい、のではない。
負けたら扶洋の名を汚す。
今までの名誉ある名前を汚すこと。それだけは、避けなければならない。
かつては輝かしかった薄紫色のユニホームも、気づけば泥に塗れることなく、色あせてしまっていたのだ。
見てろよ、江口さん。
「頑張れっ、凪高っっ」
ケンは力の限り、そう叫んだ。
ブレーカーを脱いで、ベンチに置こうとすると、萌子がそれを手に取った。
ありがとう、と朔哉が言う前に、萌子が口を開く。
「怪我、したんですか？」
「え？」
萌子の顔は、いたって真剣だ。
朔哉が返す言葉に詰まっていると、萌子は、
「それじゃ、何か変なもの食べたとか…」
とさらに心配そうな顔をしている。
「どうした？モエチャン」
萌子は僅かに俯きながら、小声で言う。
「だって。今にも泣き出しそうな顔…」
萌子はそう答えた後で、やっぱり言わないほうがよかったと後悔した。
無理やりに作っていた朔哉の笑顔が、本当に崩れてしまいそうだったから。
年が明けてから、朔哉の様子が変わったことに、萌子は気づいていた。
よく言えば、気迫に溢れる風貌。
だが、それは、一歩間違えば、どこか切迫感を感じさせるもので、実際、昨日からの朔哉の様子は、どこか必死だった。
これが、選手権なのだろうか。
自分が経験したことのない選手権。
かつて、笠間がその重圧からか燃え尽き症候群になってしまった選手権。
今も観客席からはたくさんの応援が、嵐のように、選手を取り巻いている。
それは心強くもあり、また重圧でもあった。
その前に、萌子は何もできずに、ただ俯いていた。
ふっと朔哉が息を吐く音が聞こえ、空気が和らぐ。
萌子が顔をあげると、朔哉は先ほどまでとは違って、僅かだったが、本当に微笑んでいた。
「怪我はしてないよ。
おなかも壊してない。
大丈夫。俺はいつもと同じだから」
ついた嘘が、朔哉の心を締め付けた。
だが、本心を言うわけにはいかなかった。
本当は、すべてを投げ、逃げ出してしまいたくなったのだと、一瞬だけ思ったなどと、萌子には、言えなかった。
グランドに向おうとした朔哉に、萌子はそれでも話しかける。
「あのっ、なにか、私にできること、ありませんか？」
小さなことでもあるのならば。
朔哉は振り返らずに答える。
「それじゃ、いつもの通り、ベンチで応援して」
振り返ったら、その優しさに寄りかかってしまいそうだった。
「声張り上げて、罵声飛ばして、活、入れて」
それだけでいいから。
君の存在が、こうやって俺を後押しするのだから。
朔哉は、強く息を吐き出すと、そのままグランドに入って行った。
切り裂くようなホイッスルが鳴り響き、凪浜がボールを蹴りだす。
太田からボールを受けた右京は、軽く後ろの朔哉にパスをし、前方に走り出そうとして、一瞬足を止めた。
目の前には、扶洋の選手が二人、立ち並んでいる。
マークは二人か。
右京は自分を睨むように見据える視線をさらりと交わすと、そのまま前に向って走り出す。
その後ろでボールを受けた朔哉は、走り出したフォワードの右京と太田を見て、ドリブルを始めようとしたところで、目の前をすっと薄紫のユニホームが走り抜けていったことに気づく。
赤坂か。
一年の赤坂は、そのスピードがウリと笠間から聞いている。
そのまま朔哉のボールを狙いに来たのかと思った赤坂だが、何もなかったかのように、ひとり朔哉と逆方向に走っていく。
「朔哉っ」
左サイドから駆け上がった司が、朔哉の名前を呼び、朔哉はボールを蹴る。その瞬間、司の周りに二人の扶洋の選手が動く。
ボールを受け取った司だったが、二人の敵を目の前にして、中央に走りこんできた小山に渡す。そして小山は、ボールを受け取ると、
「朔哉っ、前行け、前っ」
と叫び、すでにゴールに向って右サイドに走りこんでいる右京に向ってボールを蹴り上げた。ボールは綺麗な弧を描き、右京の前方に転がり落ちる。
歓声が一際大きくなる。
右京が走りこんで、ボールに足を伸ばしたところで、だがその歓声は、悲鳴に変わる。
右京の左足が、ボールに触れた瞬間、後ろから扶洋の選手がタックルしてきたのだ。右京はそのままグランドに転がる。
試合開始早々、ホイッスルが鳴り響き、倒れる右京に、凪高の選手が駆け寄った。
「大丈夫か？藤原」
朔哉がそう言って引き上げると、右京は小さく頷いた。
「結構無茶すんなぁ、扶洋も」
そういう司の視線の先には、江口がいた。江口は朔哉に向ってにやりと笑った。
わざと、か。
すんなり勝てるとは思っていなかったが。
朔哉は心の中で、そう呟いた。
この試合。荒れる、な。