Maybe Blue 第一部 海の鼓動
空風2
ハーフタイムの競技場裏は、人でごった返していた。
試合中はグランドを離れられなかった観客が、一斉に飲み物や食べ物を買いに出たり、トイレに向ったりするからだ。
大混雑の中で、萌子は柳田に頼まれた飲み物を買うと、こぼさぬようにと俯きがちに歩いていた。頼んだのは柳田だが、一人が口にすると、それに便乗する部員もいて、萌子は一人で四人分の飲み物を持つ羽目になった。
いつもなら、柳田に一言何か言ってしまう萌子かもしれないが、柳田の険しい表情を見ては、何も言えなくなっていた。
だがその表情も、萌子には理解できるものであった。
とにかく強いのだ、邦南高校が。
その完璧なボール運びには、一寸の隙もないように見えし、個々のレベルも明らかに夏よりも上がっている。
だが、凪浜がこの選手権で優勝するには、この邦南に勝たなければならないのだ。
簡単だとは思っていなかったが、その壁の高さをまざまざと見せ付けられた、そんな前半戦だった。
そんな柳田たちの動揺は、初めて選手権を経験する萌子にも伝わってきて、四つのカップを抱えながらも、萌子の頭の中は、ついさっきまで見ていた邦南の試合でいっぱいだった。
だから、突然目の前を小さな子供が過ぎったことに、気づけなかった。
危ないっ。
そう思った瞬間に、萌子は強く後ろに引き寄せられ、子供は何事もなかったかのように萌子の前を通り過ぎて行った。
「大丈夫？」
振り返ると、すぐ側に成の顔があったが、萌子はそのことに少しばかり違和感を覚えた。
「成…」
幸いにもジュースをこぼすこともなく、萌子がほっと安心したところで、横からすっと成の手が伸びる。
「もつよ」
そうしてカップを二つ手にすると、成はスタスタと歩き始めようとしていた。
「ありがとう」
萌子はそう答えて、成の背中を追いかけた。
そして、その違和感のわけに気づく。
背が伸びたんだ、成。
毎日顔を突き合わせているからか、今まで感じたことがなかったものの、萌子の視線の高さにあったはずの成の肩の位置は、萌子の身長と同じくらいの高さになっていた。
少し緊張して、柱の影に隠れるようにしながらも、ケンはきょろきょろと辺りを見回していた。
こんなところ、誰かに見られたらたまったもんじゃない。
篤志たちならまだしも、ヤナギさんだったりしたら…。
そう思ったところで、ケンは、あっと小さく声をあげた。
ちょうど自分の真向かいに、朔哉が一人立っていたのだ。しかも朔哉の方も、ケンに気づいて、軽く手を上げている。
またこんなときに、
あんな目立つ人がっ。
思わず朔哉に言い訳しようと一歩踏み出したケンの耳に、
「ケンちゃん！」
という声が聞こえ、右を向くと、約束していた亮子が、息を切らせて立っている。
「亮子…」
ケンの恋人・亮子は目を潤ませたかと思うと、その手をケンへと伸ばしていた。
「会いたかった。ケンちゃん」
「あ、まて亮子…」
抱きつかれたのを見て、朔哉がひっそりとその手を下ろしたことに、ケンも気づいていた。そうして、すべてを理解して、そのまま人ごみに消えていこうとしていている朔哉に、ケンは慌てて亮子を体から放すと声をかけた。
「あのっ、福山さんっ」
呼び止められた朔哉は、ポケットに手を入れると、何かを取り出してケンに差し出した。
「帰りにコーラ、買ってきてくれ」
「へ？」
それは百円玉だった。
ケンは、あっと気づいて頭を下げた。
「すっ、すみませんっっ」
朔哉の使いで、ジュースを買いに行って、そこにたまたま彼女が通りかかっただけ。
朔哉の百円玉は、この口実をケンに与えていた。
「大事にしろよ、彼女」
微笑みながら、朔哉が踵を返そうとしたところで、その反対側から、朔哉には聞き覚えのない声が響いた。
「競技場で逢引なんて、相変わらず甘いな、凪浜も」
振り返ると、そこには薄紫色のジャージを来た男が立っていた。
「江口さん…」
ケンがそう呟いたところで、朔哉はようやくそれが扶洋高校２年の江口だということに気づいた。
「おまけに準々決勝でないと当たらない邦南の試合を見てるだなんて、ちゃんちゃらおかしい」
「何だとっ」
「ケンちゃん」
「何がおかしい」
食って掛かろうとするケンを、亮子が止める。その様子を見て、江口は更ににやりと笑う。
「凪浜対邦南の試合なんか、有り得ないからだ」
どういう意味だ、というケンの追求の視線に、江口は表情を引き締めて答えた。
「準々決勝で邦南と戦うのは、扶洋だ。
凪浜は、俺たち扶洋が倒す」
挑発的な態度に、朔哉も無視することはできずに、真っ向から江口の顔を見つめた。すると江口は、それを待っていたかのように、更に続ける。
「たかが一回全国優勝しただけの高校だ。去年の優勝は、ただの運。所詮、新勢力のひとつでしかない。来年は選手権に出場できてるか、どうだか。
今更後悔しても、無駄だぞ。名取」
「ふざ−」
亮子を振りきって江口に掴みかかろうとしたケンの手を、朔哉が止めた。
「福山さん…」
朔哉は微かに笑みを浮かべると、江口に向って言葉を返した。
「明日の試合、楽しみにしてる」
萌子の先を歩く成は、今日はついてると思った。
慌てて試合が終わった途端に駆け込んだトイレは空いてたし、
おかげで誰かのパシリになることもなかったし、
何より萌子とこうやって話せた。
本当のことを言えば、ジュースを買っている萌子を見かけたものの、表情が強張っていて、どう声をかけようかと思って後ろを歩いていたら、ちょうどいい感じに子供が通ったのだ。
これで明日の試合に出れたらなぁ、とは思うものの、成の名前はレギュラーはおろか、登録されていなかった。
来年こそは、絶対に。
すると、前方から大きく自分の名前が呼ばれ、成が顔を上げると、満面の笑みで佐藤平太が走ってきていた。
「成っ」
「平太っ」
「久しぶりっ。元気だったか？」
佐藤平太は、成や右京と同じくユース代表候補の一人だ。
「おうっ、平太も相変わらず元気そうだな」
そして、平太のいる北海道の大沢高校は、邦南と同じブロックにいて、順調に明日の試合に勝てば、おそらく３回戦目には邦南とあたることになっていた。
「藤原は？」
「変わりないって感じかな」
「あいつすげーよな、一年なのにレギュラーだろ？楢崎高校の五十嵐も出場するらしいけど。あ、お前試合出るのか？」
五十嵐というのも、ユース代表候補の一人で、楢崎高校の五十嵐、というよりは五十嵐のいる楢崎高校、というように呼ばれ始めるほどに、将来を有望視されていた。
「あー、いや。まだ、無理」
「そっか。まあオレもサブだけどさ。焦らず行こうぜ。親友」
平太が明るくそう言って、成の肩に手を回したところで、隣で同じく立ち止まっている萌子を見つけて、こういった。
「で、彼女？」
二人の話を微笑ましく見ていた萌子の表情が固まった気がして、成は慌てて言う。
「違うよ、マネージャーの沢木」
「あ、はい。凪高サッカー部マネージャーの沢木萌子です」
つられるように萌子も慌てて言うと、平太は自己紹介する前に、あっと大声を上げて言った。
「萌子チャンってお前が話してた―」
成は思わず肘で平太の腹を突いた。平太がうっ、と言葉を詰まらせている間に、成は萌子に向かって説明をする。
「ごめん、萌子。ええっと、こいつは−」
「大沢高校の佐藤くんでしょ」
あっさりと言われ、唖然としている成に、萌子は左胸を指す。
「さっすが萌子ちゃん。できるマネージャーは違うっ」
確かにそういっている平太の左胸には、しっかりと『大沢高校サッカー部 佐藤』の文字があった。
なるほど。
納得している成に向って、萌子はこっそりと笑いかけた時、試合開始を告げるホイッスルが響いた。
「あ、やべ。戻らないと。それじゃな、成、萌子ちゃん」
そうして平太は駆け足で競技場へと消えて行った。
「楽しい人ね」
「うん。すっげーいいやつ」
成はそういいながらも、仮に大沢が邦南に勝った場合、凪高と対戦する可能性があることを意識していた。
いつまでも平太の消えた方向を見ている成に、
「ホラ、成。私たちも、早く席に戻らないと」
と萌子は言った。
ケンが競技場に戻ったときには、すでに邦南の後半戦が始まっていた。
「あ、ケン−」
どこ行ってたんだ？という篤志を無視して、ケンはそのまま前列で観戦している朔哉のところに一目散に向った。
「福山さんっ」
声をかけると、朔哉はケンに気づき、穏やかな表情で答える。
「おう、サンキュ」
「いえ、そんなことより、あのっ」
朔哉はケンが握りしめているジュースを受け取ると、サンキュともう一度答えた。
ケンは戸惑っていた。
先ほどの江口は、明らかに自分に対する嫌がらせだ。
江口たちを裏切り、凪浜にやってきたケンに対しての、挑戦状だった。
だがそれを、どう説明してよいのかわからないケンの前で、朔哉はジュースを一口飲むと、再び口を開いた。
「名取」
「はいっ」
「お前、埼玉の金森中出身だったよな」
ケンは小さく頷いた。
「扶洋の江口もそうか」
見透かされたように言われ、ケンは言葉を無くす。
俯いたケンに、朔哉ははっきりと答えた。
「心配しなくても、いい。
俺達が目指しているのは、あくまでも全国制覇だ。
扶洋に負けてなんか、いられない」
結局、邦南は、６対０という圧勝で、二回戦に駒を進めた。
その強さは、本物だった。
明日に初戦を控えて、緊張感ただよう凪浜の宿舎に、一人の珍客が訪れていた。
「わりーけど、笠間喬、呼んできてくんねぇ？」
凄むような鋭い瞳に、金色の短髪の男は、玄関口で偶然通りかかった美都にそういった。
突然話しかけられた美都は、思わず悲鳴をあげそうになってしまい、そしてそのまま一歩も動けなくなってしまっていた。そのくらい、男に威圧感があったのだ。
こんな大切なときに、こんなヤバい男が？
周囲がざわめき始めた中で、騒ぎを聞きつけた司は顔を出して、
「あれ？良次」
とあっさりと拍子抜けした声を出した。
言われた三上良次も、
「よ、司。相変わらず、緊張感ねぇ感じだな」
と答える。司も負けじと、
「お前も相変わらず、余計にガン飛ばしてんなぁ」
と答えた。
謎の男の正体がわかったところで、ようやく笠間が顔を出し、二人は宿舎を出て行った。
「どうしたんだろうな、良次のヤツ」
その後姿を見て、俊平がそう答えたが、言われた朔哉にも、司にも、その真相はわからなかった。
それからほどなくして、部屋にいた朔哉のところに、笠間が姿を現した。
「朔哉」
集中力を高めようと音楽を聴いていた朔哉は、呼ばれてヘッドフォンを外した。だが、笠間は入り口に立っているだけで、入ってこようとはしなかった。
どうしたんですか、と朔哉が尋ねる前に、笠間がようやく口を開いた。
「良次が、お前のこと呼んでる。悪いけど、表に行ってくれないか？」
冬の寒い時期である。
朔哉は、良次の為にもと、宿舎に入ってもらったほうがいいのではないかと思った。
「話あるなら、こっちに呼んでも−」
だがその声を遮って、笠間が言い返す。
「いいから。行ってきてくれ」
その声は、重たく、暗く、いつもの笠間らしからぬ声であった。
軽くブレーカーを羽織り、朔哉が宿舎を出たところで、暗闇の中から
「福山？」
という声がした。
「ああ」
すると、街灯の影から、良次が顔を出した。
「呼び出して悪かった」
良次はそういうと、その後しばらく口を噤んでしまった。
朔哉の記憶の中では、三上良次は、口数が多い印象はないものの、無口だという印象もない。必要なことを、必要なときに話す。だから、呼び出されたもののだんまり状態の良次に、朔哉は戸惑っていた。
「ちゃんと話すのは初めてかもな」
「そう、だな」
司という共通点を通して、お互いの存在を知ってはいたものの、確かにこうやって顔を付き合わせたことはあまりなかった。
そういえば、夏ぶりだろうか。
去年の夏、朔哉はふとしたことから足に怪我をして入院したのだ。
同じ病院に、三上の兄である泰年の恋人・亜衣も入院していたことから、偶然顔を付き合わせたことがあった。
そういえば、元気かな。亜衣さん。
朔哉のその気持ちが良次に伝わったかのように、良次はようやくその重い口を開いた。
「亜衣からの伝言だ。
試合、頑張ってね、だとよ」
「わかった。
どうしてる？彼女。もし外出できそうだったら−」
試合に見に来てほしい。
そういいかけた朔哉の声を、良次は押し殺した声で遮る。
「亜衣は、もうここ一ヶ月、病室から一歩も出てねぇ」
「それ…」
どういう意味だと尋ねる必要もなかった。
亜衣の体は、病に蝕まれており、余命宣告もすでに受けているのだ。
練習を理由に、見舞いに行けなかったことを朔哉が後悔している中で、良次は白い息を吐きながら答えた。
「もともと覚悟はしてたけどな。思ったよりも、順調みたいだったから、医者の診断なんて嘘だと思ってたけど」
そして小さく首を左右に振る。
それが答えだった。
「お前たちの試合を見たいと思ってたらしいけど、当然、競技場にもいけねぇし、せめてテレビでと思ったらしいけど、どうやら準決勝にならないと、亜衣の病院のテレビには映らない。亜衣は、お前が試合してる姿を見たいんだと。
…頼むから、勝ってくれ。今年じゃなきゃ、亜衣は見ることができない」
彼女の来年はないのだから。
押し殺した良次の声に、朔哉はわかった、と答えるしかなかった。