Maybe Blue 第一部 海の鼓動
冬芽4
寮について、荷物を全部下ろすと、待ち構えていたように理香が中のものをてきぱきと取り出しながら、由太に言った。
「ありがとね、由太チャン。
それから明日は、練習が終わって、５時半には寮だから。亜紀ちゃんにもそう伝えておいて」
「理香」
由太はそう話しかけたが、理香は荷物の整理に夢中なのか、顔も上げずに続ける。
「プレゼントも必須だからね。忘れないように」
「悪いが、明日のパーティー欠席する」
ぶつぶつとメモと荷物を見比べていた理香が、慌てたように顔をあげた。
「え？欠席？それ、どういう―」
だが由太はそれを無視して、すばやく寮を出て行く。
「由太チャンっ」
理香の声が聞こえたが、由太はそれでも振り返らなかった。
代わって由太の頭に響いてきたのは、昨日の母の話である。
「あの人が、毎晩遅いのは、仕事なんかじゃないんだから」
母親はそういった後、妙に黙り込んだ。
長い沈黙の後で、由太はようやく、
「じゃあ何を？」
とだけ答えた。だがそれにも、母親は知らないとしか答えなかった。
もとは、父親と同じ会社の人の奥さんから聞いた話だそうだ。
先月あった人事異動で、父は花形の部署から、一転して管理系の部署に異動を命ぜられたのだという。そこは、休日出勤はおろか、勤務時間も定時の５時には終わっている部署なのだという。周りに居るのは、何とかリストラを免れたような、中高年だけらしい。
「つまり…左遷？」
母親は黙々とご飯を食べ続けており、幸運にも妹の好実はまだ部屋から出てきていなかった。
「一体何が？」
何があったんだ？
由太がそう尋ねても、母はご飯をほお張りながら、
「知らないわよ」
と冷たく答えるだけだった。
「あの人、一切話さないから。会社のこと」
仕事じゃないから、あの時間にあんな場所にいられた。
ひとつの疑問が解けた由太だが、戸惑いは増すばかりだった。
だったら何故？
何故、スーツを着て、あんな店にいた？
あんな店で、何故指輪を買って？
そのことを知らない母は、沢庵を忌々しそうに噛み締めながら、呟いている。
「恥かしいったらありゃしないわ。ほんと。どうして左遷なんかに…」
その様子を見て、由太はやはりあのお店のことは、誰にも言わないほうがいいと固く誓った。
由太の知っている父は、いつも仕事に全てをささげていた。
たまの日曜日にそれこそキャッチボールをしたり、
由太のサッカーの試合を見に来ることもあったが、それよりも由太はスーツを着て、よく磨かれた革靴を履き、重い鞄を颯爽と持ち、家を出て行く父の方が好きだった。
大きな背中は、頼もしく見えたし、実際にそうだと由太は思っていた。
そういう父を、尊敬もしていた。
時に厳格すぎて、怖いときもあったが、それでも父は正しく、自分が悪いのだと思っていたし、父のようになりたいとずっと思っていた。
いやむしろ、父とはこうあるべきだと思っていた。
その父が。
一体、何があったんだ。
仕事で何かミスをしたというのだろうか？
あの父が？
由太はその苛立ちを抱えきれなくなって、唐突に走り出した。
クリスマス当日の朝、紅白戦を見ていたところで、篤志が言った。
「えー。由太、来ないの？パーティ」
「なんだって。昨日急にそう言ってた」
不機嫌そうに理香はそう言って、ほんの数メートル先で、じっとグランドを見つめている由太を睨む。
「亜紀ちゃんと予定が入ったとか？」
萌子が尋ねると、理香は大きく首を振る。
「亜紀ちゃんは参加してくれるって。パーティー行かないってのも聞いてないみたいでびっくりしてたし。由太チャンは理由聞いても、いつもみたいに何も言ってくれないし」
三人がそう言って、由太の背中を見つめたが、当然由太が振り返るわけもなく、大きな溜息がもれた。
「でも昨日、おかしかったんだよね。心ここにあらず、って感じで」
何かあったのかなぁと呟く理香に、賛同するように篤志も答える。
「そういや、今日も全然口きいてくれない。由太のやつ。
話しかけようとすると、すっと逃げるんだ」
「そう」
萌子が答えたところで、練習試合の前半が終わった。
ハーフタイムになり、俊平と司がつるんで今日のコンパ話をしている。
「そういや、今日の相手はどこの女？」
「飯倉女学院の一年生」
「おっ、飯倉といえば、お嬢様じゃねーかよ」
司に背中を叩かれた俊平が、その背中をさするようにして、ちょっと外れたところで汗を拭う朔哉に声をかけた。
「朔哉、いいのか？」
だが司が、そんな俊平の肩をぐいっと掴む。
「いーのいーの。来ないってってんだからさ」
「とかいって司、朔哉が来ると全部おいしいとこもってくからやなんだろう」
「俺は朔哉と違って、趣味がイイからかぶんねぇよ」
「お前の趣味ってわかりやすいからなあ」
俊平の視界の先で、ふわりとタオルがグランドに落ちたかと思うと、朔哉はすでに立ち上がり、グランドに向い始めた。
「朔哉？」
俊平がそう呼び止めたが、朔哉は振り返ることなく独り言のように言った。
「後半が始まる」
たかが練習試合だというのに、
しかも校内の紅白試合だというのに、今日の朔哉は妙にピンと空気が張り詰めている。
「何かさ、あいつってばすっげー気合入ってるよな、最近。去年もああだっけ？」
司がそう呟いた。
今年の二年生の中で、選手権経験者は、朔哉唯一人だけだ。
それからすれば、今年は緊張などすることもないと思う司の隣で、俊平はその背中を追いながら答る。
「いや、去年は違った」
「あ、おい、俊平―」
俊平も、自分の肩に回されていた司の腕を払うと、立ち上がって、グランドに向っていく。その背中には、朔哉と同じ意志を感じる。
司は小さく溜息をつくと、同じように立ち上がる。
「しゃーねぇなぁ」
紅白戦は、レギュラーチームの圧勝で終わった。
四対０。
うち二得点は、朔哉のゴールだ。
レギュラーの強さを感じつつも、同時にサブメンバーとの実力の差が出た試合となったことを、石橋は気持ちの強さの違いだと言った。
そして、サブのメンバーにも罵声を浴びせた。
「サブだからと言って、甘えるな。どんな時でも、常に試合に出ることを考えていろ」
実際、短期間で行われる選手権において、途中故障者がでることは必須といってもおかしくない。その中で勝ち進むには、レギュラーである１１人だけの力では到底無理なのだ。
そうして、今日は特別練習もなく、終わることになった。
予定がある部員や、パーティーに出ることになっている部員は、慌てたように部室に駆け込み始める。
理香にせかされて、早く部室に戻ろうと、萌子がグランドを出て行こうとすると、水を飲みにいっていた朔哉が向かい側からやってきた。
「モエちゃんも、パーティー参加組？」
おつかれさま、の挨拶の後に、話しかけられて、萌子は頷く。
「はい。あ、福山さんまで寂しい奴だって思ってますか？」
ちょうど練習中、萌子は司に今日の予定を聞かれ、正直に答えたところ、
『寂しいヤツだな、お前ってつくづく』
と言われたのだった。そうとは知らない朔哉は、小さく首をふる。
「いや。そんなことないよ。仲間で過ごすクリスマスも、恋人と過ごすクリスマスもどちらも楽しいことに代わりはないからね」
足元に転がるボールを見て、萌子はふいに尋ねた。
「福山さんは、練習ですか？」
「もう少しだけな」
仲間でもなく、恋人でもない、サッカーボールと過ごすクリスマスというのが、いかにも朔哉らしいと萌子は思う。
びゅっと冷たい風がグランドを駆け抜け、萌子は思わず両手をすり合わせる。
「それじゃ」
お互いにお互いの方向へ歩き始めたとき、不意に朔哉が振り返って言う。
「モエチャン」
「はい？」
振り返ると、朔哉が何かを投げてきた。
温かいそれは朔哉の使っていたカイロだ。
そういえば、福山さんは、いつも寒いと思うとカイロをくれる。
萌子がそう思いながらもらったカイロを握りしめていると、朔哉が白い息を吐きながら言った。
「メリークリスマス。また明日」
萌子は、はい、とだけ答えた。