Maybe Blue 第一部 海の鼓動
春興8
「ねえ、どこ行くの？」
着いて来るように言われた萌子は、篤志の後を追いかけて街に出た。毛先がばらばらになった髪を一つに束ねたものの、萌子は人に見られるのが恥ずかしかった。
突然篤志はクローズとなっている店のドアを開けた。そこはフラウという美容院だった。中に入ると篤志を見つけた店員がやってきた。
「篤志君、どうしたの？」
「姉貴いる？」
言われた店員が店の奥に入っていくと、入れ替わるように長い髪をルーズに束ねた長身で凛々しい顔立ちの女性がやってきた。
「何、篤志。また晩御飯おごれとかいうんじゃないでしょうね」
「違うよ。彼女の髪を切って欲しいんだ」
そう言って篤志はその女性の前に萌子を差し出した。その人は萌子の顔をまじまじと見つめた。
「あらかわいい子ね。ねえ、カットモデルやらない？」
「姉ちゃんっ」
そして萌子の髪を長い指で触った。
「ずいぶんとそろってないようだけど、自分でやったの？」
萌子が遠慮がちに頷くと、その人は篤志に向かって言った。
「わかったわ。あなたこっちにいらっしゃい」
萌子が振り向くと、篤志が笑っていった。
「安心して。性格は悪くても、腕は確かだからさ」
その人は篤志を一発殴ると、さっさと萌子を中の椅子に座らせた。
「日比野環。篤志の姉よ。あなたは？」
萌子が自分の名前を言うと、環は萌子の髪に触れながら話を進めた。
「それで、どんな髪型がいい？」
環は雑誌をいくつか持ってきてくれた。そして髪型が決まると、さっそく切り始めた。
篤志との関係から話し始めて、萌子は自然と髪を切ることになった話をすると、環が言った。
「全くしょうがないわね、京ちゃんも」
「京ちゃん？」
「監督よ。石橋京一。高校の時から知ってるからね。結構長い付き合いになるのか」
萌子は鏡に映っている真剣な環の表情を見た。
「凪高を卒業して、大学に進んで、プロとして三年やって、引退して、凪に戻ってきて、少年サッカーの監督から、凪高の監督になるまでね」
「監督、凪高の出身だったんですか？」
「そうよ。高校時代の話は私も小さくてよく覚えてないけどね。凪高もよくて県のベストエイトくらいだったそうよ。でも京ちゃんはサッカーを続けて、大学に入って、そこで実力を発揮してプロになったんだけど、故障が多かったのと、プロとしてやっていくには実力が足りなかったのと、選手には向いてないっていう ので、引退を決めたの。まだ二十六って時に。外にもいろいろあったみたいだしね」
「いろいろ？」
「お金の問題とか、監督との確執とか。結構真面目過ぎるところがあるからね。京ちゃん。自分は純粋にサッカーが好きで、だからやりたいのに、プロだとそれ だけではやっていけなかったのよ。だから、ここの少年サッカーのコーチにはどうかって話が出たときに、すぐに戻ってきたわ。その頃結婚して。篤志や高岡 は、その時に教わったの。結構いけたのよ、少年サッカー。全国にも出て。それで監督としての実績を買われて、五年前に凪高の監督になったって訳。でもまだ 三十の若造で、結構苦労したのよ。あれでも。それも今年の選手権ですべて報われたわけだけどね。ついでに前髪も切るから目をつぶってくれる？」
言われた通りにすると、シャッという音が聞こえた。その音と混ざって環の声が聞こえてきた。
「笠間君のことも、初めての選手権だったからね。いろいろ大変だったんでしょうけど。これで吹っ切れると思うと良かったわ。はい、完了」
萌子が目を開けると、髪は綺麗に肩の長さでまとめられていた。
「どう？こんな感じでいい？」
「はい、ありがとうございました」
環は鏡越しに笑顔で言った。
「髪を切ってよくなったわよ。すっきりした」
そんな環に萌子も微笑み返した。
「あの、カット代」
「いいわよ、今日はサービスしてあげる。そうそう篤志、私今日はノブチャンたちと飲んでカラオケいってオールするから、朔哉にカットは明日にしろって言っておいて」
「またかよ、ねーちゃん」
「朔哉って、福山さん？」
「あの男うるさいのよ。一週間に一度はやってきて、ミリ単位で切れとかいうのよ。しかもただで。時々失敗したって嘘ついて何センチか切ってやるんだけどね」
ねーちゃんと篤志がにらみつけた。篤志はさっさと店のドアを開けて、萌子を促す。
「萌子ちゃん」
出ていこうとした時、環が声を掛けた。
「京ちゃんのこと、許してやって」
萌子は黙って頷いた。それで環も笑顔になった。
「また髪を切りたくなったらおいで。指名料取らないで切ってあげるから」
萌子はお礼をいうと、環と別れた。
その頃、篤志の家では新入生歓迎会の準備が行われていた。リビングと庭を開放して、溢れそうなくらいの部員達がそこで騒いでいた。篤志の家は寮に隣接されていた。もともと篤志の家と寮は一緒の建物だったのを、篤志の両親が改築して分けたのだった。
萌子がやってきて、ついに歓迎会が始まった。
「それじゃ、一年から自己紹介でもしてもらおうか」
進行役の小山が言って、まず知朗が立ちあがった。
「友近知朗、西山中出身。ポジションはフォワード」
そこで柳田からのチャチャがはいる。
「他になんかないのか？信念とか、好きな言葉でもいいぞ」
思わず吹き出した篤志を柳田が殴った。
「座右の銘は、明日は俺の風が吹く」
柳田が首をかしげた。
「なんだ、ザユウノメイって？」
「信念としての言葉です」
厳己がそう答える。小山が知朗に尋ねた。
「それって、明日は明日の風が吹く、じゃないのか？友近」
知朗は自信満万に答える。
「いいえ。父ちゃんが俺の名前のために作った言葉です」
そこで朔哉が言う。
「知朗…。なるほど、トゥモローなわけか。明日はお前の時代が来るってわけだな」
そうして次々と自己紹介が始まっていった。名前にポジション、趣味、特技、好きな食べ物、好きなサッカー選手…。
「北内和美、山之内中出身、ポジションフォワード」
美都は和美がそういうのを、ただじっと見ていた。それだけで幸せだった。座ろうとした和美に、朔哉が聞いた。
「北内、好きな女のタイプは？」
誰かがヒューッと口笛を吹いた。美都は思わず真剣に耳を傾ける。和美はちょっと考え込んで答えた。
「滑舌のいい女」
「カツゼツ？」
聞き返した柳田に、厳己が答える。
「しゃべりの上手な人ってことです」
「そ、そうだよなー。小池みたいな奴が好みなんだな。小池はうるさいくらいにおしゃべりだからなあ、ははは」
「そういうのは、饒舌ってゆんです」
得意気に言った柳田だったが、厳己に教えられておとなしく口を閉ざした。美都は心の中で滑舌と繰り返した。
もっとはっきり言うようにしよう。
萌子はふと右京がいないことに気付いた。後ろにいたケンに聞く。
「ねえ、藤原君は？」
ケンは興味がないというように、答える。
「知らねえよ、部屋で寝てんじゃねえの？」
「藤原君？」
ノックを三回して、萌子は中からの反応を待った。それでも何もなかったので、仕方なく開けてみた。
ケンに教わった部屋には、両サイドにニ段ベッドがあり、右の下に右京は寝ていた。萌子は電気をつけて、右京の側に行ってみると、右京はヘッドホンをしながら、壁を見つめていた。音楽がヘッドホンから流れ出ている。
「藤原くんっ」
それでも右京は反応しない。萌子は怒ってヘッドホンを外してその耳元に叫んだ。
「藤原右京っ」
ついに右京は萌子の方に向き直った。その瞳はベッドの暗がりの中で、美しくもにらみつけていた。
「みんな、篤志の家にいるから降りておいでよ。結構盛り上がってるよ」
右京は小声で言った。その声は少し掠れていた。
「興味がない」
萌子は溜息をついて続ける。
「ごはんも食べてないんでしょ？おばさんが心配してたよ。おなかだってすいたでしょ？」
「すいてない」
そういうと、右京は萌子からヘッドホンを取り返して、また聞き始めた。萌子はそんな右京を見ていたが、立ちあがり、部屋を出ていった。
リビングでは理香の自己紹介が始まっていた。
「小池理香、凪浜中出身。趣味、特技、好きなこと、全部おしゃべりです。いい情報があったらよろしくね」
あっという間に理香は終わり、次は美都だったが、美都の心の中では、まだ和美の言葉が回っていた。
「美都の番だよ」
理香につつかれて、美都は初めて気づいた。
「あっ。はいっ」
と急に立ちあがるまではよかったのだが、立ちあがった途端に手が側にあったグラスにあたり、あっと思った時には、オレンジジュースがテーブルにこぼれてし まっていた。急いで理香がタオルでテーブルを拭く。オレンジジュースは、前にあった唐揚げにもかかっていた。それを一つ食べたケンが言った。
「こりゃ食えないな」
その場が白けてしまって、美都は本当に泣きたい気持ちになった。
「藤原君、入るよ」
萌子はノックだけして中の反応を待たずにドアを開けた。電気はまたも消えていて、右京は先ほどと同じようにベッドでヘッドホンをしたまま横になっていた。萌子は電気をつけて、右京のベッドに行った。そしてまたヘッドホンを取り上げた。
「ほんといいの？行かなくて」
反応のない右京を見て、萌子は一応溜息をついた。
「わかった。でもごはんは食べないと体に良くないよ。育ち盛りの選手なんだから」
もう一度右京の反応を見たが、萌子のほうは見向きもしなかった。萌子は本当の溜息をついた。
「好き嫌いがわからないから、適当だけど持ってきたから、ここに置いとく。食べてね」
床に持ってきた食べ物を置くと、萌子は立ちあがった。ヘッドホンはベッドサイドに置いておいた。
萌子が出ていき、ドアが閉まるのを確認して、右京はすぐにご馳走に手を伸ばしたとき、急にドアが開いて萌子が顔を出した。
「ねえ、右京っていい名前ね。誰が付けたの？」
右京はすばやく手を引っ込めた。そしてまた壁のほうを向く。
「…関係ない」
萌子はそうと答えて、ドアから顔を消して閉めようとした。パタンと音がしたのを確認して、右京はご馳走の中から唐揚げをつかんだ時、またもドアが開く。右京は急いで唐揚げを手の中に隠した。
「ねえ。ディープパープルもいいけど、レッドツェッペリンもよくない？」
「うるさい」
右京はそう答えると、今度聞いてみてと萌子が言って、またドアが閉まった。音を確認して、更に右京はベッドから乗り出して萌子がドアを開けていないのを 確認すると、手にしていた唐揚げを口に入れた、その時。またもドアが開いて、萌子が顔を出した。右京は焦ってから揚げを飲み込んでしまった。
「おかわり欲しかったら、言ってね。右京」
萌子がリビングに姿を現すと、理香がちょっとふくれていった。
「もうどこ行ってたの？萌子で最後だよ」
皆の視線が萌子に集まり、ごめんなさいと言って、萌子は自己紹介を始めた。
「沢木萌子、清心女子中出身です」
「清心女子？」
柳田が疑わしそうな目つきで言った。
「長野県の私立です。萌子は凪浜に引っ越してきたばかりなんです」
またも厳己に説明され、柳田はそうかと頷いた。朔哉が代わって質問を続ける。
「それで終わりじゃつまらない。なあ、モエちゃん。好きな選手とかいない？」
「います、一人」
萌子が即答したのを見て、柳田が言う。
「お前、それうちの選手じゃないのか？」
そうだと言ったら、それをネタに萌子をいびろうと考えていたのだ。萌子はそれには答えなかったが、目を泳がせた。それでもう充分だった。
「誰だ？言ってみろ、沢木」
柳田にそう言われ、萌子は恥ずかしそうに俯いた。レギュラー選手は身を乗り出して、萌子が誰の名前を言うのが構えていた。
「…菊地光一さんです」
途端にその妙に張り詰めた空気が破られた。
「なんだよ、また菊地さんかよ」
「あーあ、つまんねえの」
昨年のキャプテンである菊地光一は、卒業した今でも、凪高のスターである。
萌子は立ちあがって、部員皆に言った。
「そろそろお開きにしないと、明日も朝練あるんですよ。片付け始めましょう」
それぞれが自分の食器を台所へと持っていく。理香は萌子に聞いてみた。
「ねえ、さっき。どこ行ってたの？」
萌子は笑顔で答える。
「うん、ちょっと。ね」
片付けも大体終わり、部員の何人かは帰り始めていた。
「あ、わたし手伝います」
皿を洗う篤志の母親に萌子は言った。
「あらそう？ありがとう」
篤志の母親・昌江は感じのいい人だった。専業主婦をしながら、寮生の面倒を見ていたのだが、趣味が昂じて、去年から花屋もやっている。
「皆には迷惑かけちゃってるんだけどね」
そこに篤志が顔を出した。
「母ちゃん。姉ちゃん今日も飲むから遅くなるって」
「またなの、環は。仕方ないわねえ」
「萌子もういいよ。家まで送ってく」
「でも」
「あら、篤志。理香ちゃんはどうするの？」
「理香は俺が戻ってきてから送るから。後は、母ちゃんと理香がやるから、萌子はもういいよ」
でも、と萌子がもう一度言うと、奥から理香があたしやるからいいよ、と返事をした。
家が遠いという理由で、美都は片付けをしないで帰らされた。一応駅までは他の部員達と一緒なのだが、萌子も理香も、湊もいない状態で、人見知りしやすい美都は緊張していた。
「椎名って家どこなの？」
と先輩に聞かれても、
「あのっ。えっと、上沼の駅、の方です」
とどもって答えてしまって、笑われた。
恥ずかしい…。
そう思って、ずっと黙り込んで駅についた。そういえば、いたはずの和美がいなくなっていることに気付いたのもこのときだった。
美都が周りをぐるぐると見ていると、俊平が話しかけてきた。
「どうかした？椎名」
「あの…。北内君いないみたいだから」
首をかしげた俊平に代わって、それを聞いていた別の先輩が答える。
「そういや、あいつ途中で電話かけてたぜ。あの後から見てない気がするけど」
はぐれてしまったんだろうかと、美都が心配している中で誰かが言った。
「女と待ち合わせでもしたんじゃねえの？」
「あいつに女？まじかよ」
皆にとってそれは冗談であったが、美都には違っていた。
そういえば、あたし何も知らない。北内君に好きな人がいるとか、付き合っている人がいるとか。
冷たい風が、一気に美都の中に吹き込んできた。
「ここから十五分くらいだからいいのに」
帰りながら萌子は篤志にそう言った。実際走れば５分ほどで家についてしまうくらい、萌子の家と寮とは近かった。
「いーや。女の子を暗い夜道に一人は危ないから、送っていくようにって言われてるんだ。朔哉さんに」
「篤志と福山さんって仲がいいね」
篤志の顔が緩んで、萌子の言った言葉がどれだけ嬉しいのかがわかる。
「つーか俺、あの人にめちゃめちゃ憧れてるからさ」
知り合ってまだ一年ほどだったが、篤志は心の師匠と慕って止まなかった。篤志は思い出したふりをして、聞いてみた。
「ところでさ、萌子。清心女子ってどんなとこ？」
「え？」
突然で驚く萌子に、篤志も思わず焦る。
「あ…いや、その…。女子校ってどんな感じなのかなと思ってさ」
沈黙がしばらく続いてから、萌子がぼそっと答えた。
「別に…。ただ、男の子がいないってだけかな」
「そ…」
またもしばしの沈黙が続き、篤志が口を開いた。
「あのさ、萌子。理香のことなんだけどさ」
「かわいいね。理香。まったく。篤志もいい人見つけたんだから」
「そういうことじゃなくて…」
篤志は唾を飲み込んでから。おなかに力を入れていった。
「友達、だよな。萌子の」
「え？うん」
躊躇いの無かったことに篤志は安心した。
「だったらさ、いやだったらってのも変な話なのかもしれないけど、もっと理香にいろんなこと話してやってくれないかな。萌子のこと」
篤志は慎重に言葉を選びながら話した。
「あいつ、正直だから、聞いてないのに自分から勝手に自分の話してりよくしてさ。だから相手もそうであって欲しいって思ってるとこがあって。もちろん、無理に話したくないことは話さなくていいんだ。けど、何でもいいからさ、話してやってほしいんだ」
それだけでもないんだ、と思いながら篤志は話した、実際は篤志の興味もあった。萌子は少ししてからはっきりと答えた。
「わかった」
よかったと篤志の顔も綻んだ。そんな篤志を見て、萌子は言う。
「理香もいい人見つけたね」
「何言ってんだよ、萌子は」
ふふっと微笑む萌子を見て、篤志もつられて笑顔になった。