Maybe Blue 第一部 海の鼓動
春興6
翌朝、萌子は昨日よりも三十分早く学校に行った。グランドを見てみたが、誰もいない。諦めて更衣室に戻ろうとした時に、物音がして物陰に隠れると、笠間がボールを持って現れた。
やっぱり…。
笠間は萌子に気付くことなく、軽くストレッチをしてからボールを蹴り出した。スピードはそんなになくとも、リフティングなどの技術の高さは萌子にもわかった。
でも何で？誰にも内緒で？
笠間は楽しそうにボールを追いかけている。サッカーがとても好きなのがわかる。
あんなに好きなら、絶対に見てるんじゃなくて、やりたいはずなのに。
気付けば時計が6時になっていた。笠間も蹴っていたボールを手に持ち替える。選手から、マネージャーへと戻っていく時間だ。
他人にやさしく、自分に厳しい笠間さん。
萌子はひとつ決心をした。
「笠間さん、私にリフティング教えてください」
午後の練習中、突然萌子がそう言って、笠間は驚いた。
「…そんなこと、必要じゃないだろ」
「でも、やりたいんです」
笠間は少し躊躇ってから、体の向きを変えて背中越しに萌子に言う。
「…だったら別の人間に頼めばいい」
「でも、笠間さん。上手だった。今朝も、リフティング」
笠間の背中がぴくりと反応する。萌子はその瞬間を逃すまいと思った。
「だから―」
「マネージャーにそんなこと必要ないっ」
突然笠間に怒鳴られて、萌子は驚いた。近くにいた選手も何事かと二人を見ている。笠間は明らかに動揺していた。それが萌子にもわかった。だから、萌子は続けた。
「…だったら。だったら笠間さんはどうしてリフティングしてるんですか？自分が、マネージャーで満足だっていうなら。どうしてやるんですか？満足してないんでしょ？本当は選手に戻りたいんでしょ？」
「違う」
「嘘、つかないでください。見てたんです、わたし。笠間さんの楽しそうな表情。あの時の笠間さんは、嘘ついてなかった」
息を呑んだ笠間の後ろから、石橋の声が響いた。
「どうかしたのか？笠間」
振りかえった笠間を押しのけて、萌子は石橋の前に立った。
「監督、お願いがあります」
「何だ」
少しむっとした表情で石橋は言った。萌子は深く頭を下げる。
「笠間さんを、選手に戻してください」
「やめろ、沢木。なんでもないです、監督」
萌子の腕を取り、笠間は顔を上げるようにさせると、石橋にそう言った。石橋は、初めひどく驚いた顔をして笠間を見つめた。笠間の表情は固い。笠間は慌てて、萌子を石橋から引き離そうとしたが、萌子はそれを拒否して笠間に言った。
「どうして嘘つくんですか？部のお荷物になりたくないからですか？」
「沢木っ」
近くで様子をじっとみていた柳田が叫び、やってくる。、笠間はじっと萌子を見た。
「そう勝手に思いこんでるのは、笠間さんでしょ？本当は皆、そんなこと思わないのに、サッカーが好きなら、好きな同志で楽しく一緒にプレーできるはずで しょ？仮にそれが、９０分走れなくても、試合に出れなくても、充分でしょ？笠間さんは、マネージャーなのに選手のこと信用してないんですか？笠間さんは、 他人にやさしいんじゃない。ただ、自分が怖いだけよ」
笠間は無言で萌子を掴んでいた手を離す。柳田も珍しく無言で萌子をにらんでいた。
「好きなだけじゃできないって、そうかもしれないけど、そういう時もあるかもしれないけど、でも辛くても、苦しくても頑張れるのは、好きだからこそでしょ？」
萌子はそう笠間にも。そして柳田にも向かって言った。二人が胸を突かれている間に、萌子は石橋の前に立っていた。
「わたしが、甘いこと言っているのは自分でもわかってます、でも、教えてください。監督にとって、凪浜にとって必要なのは、サッカーの巧い選手なんですか？それとも、サッカーが好きな選手なんですか？」
石橋は、萌子の視線から逃れられずにいた。しかし、萌子の後ろで俯いている笠間に気付いて言った。
「沢木。お前は九十分走りつづけたことはあるか？」
「いえ」
笠間と柳田の視線が石橋に注がれる。
「笠間の本当の気持ちが分かりたければ、走ってみてから考えろ。ただし、完走できればの話だがな」
「完走できれば、笠間さんを選手に戻してくれるんですか？」
石橋は深く考えずに言った。
「考えよう」
「ねえ、萌子。やめときなよ、無理だよ」
ストップウォッチを持った理香が、耳元でそう言ったが、萌子は靴紐をぎゅっと締めて言った。
「時間測っててね」
理香は説得を続けようとしたが、すでに萌子は走り出していたので、慌ててボタンを押した。練習しているサッカーグランドを囲むように線を引かれたトラックを、萌子は走っている。ただひたすら、前だけを見つめて。そんな萌子を笠間は遠くから見ていた。
無理に違いない。四十五分ハーフで、間に十分休憩を入れても、絶対に無理だ。
笠間は萌子が中学校のとき運動部でなかったこと、今まで特別な運動経験もないことを知っていた。
そんな人間に、無理だ。だいたい俺のためなんて、無理に決まってる。
「笠間」
突然石橋に呼ばれ、笠間は戸惑った。自分が萌子を見ていたことを隠すようにスコアブックに目を向ける。石橋は隣にやってきて、真剣な顔で言った。
「お前、もう一度走りたいのか？」
その顔は苦悩に満ちていた。そんなことはないだろう、そうは言ってくれるなと言っているのが笠間にはわかった。
「どうなんだ？」
再びスコアブックに視線を落として、笠間は答える。
「無理です」
石橋に、自分の顔色がわかるのが怖くて、笠間はスコアブックに顔をうずめた。そうか、と言って、石橋はグランドの中に戻っていく。笠間はそんな後姿を見ていた。それから、笠間はまたスコアブックをつけ始めた。
二十五分も過ぎると、何週したのか萌子にはもうわからなくなっていた。時計は三十分を越している。
あと十分走れば、休憩が入る。なんとしても頑張らないと。
ただ、萌子には不安があった。先ほどから時々走る、右足アキレス腱の痛み。古傷が、もう五年も前の昔の傷が、痛み始めていた。それをかばうようにして、萌子は走りつづける。
あと十分。それから休憩。
「前半終了」
理香を前に、五メートルほど通りすぎたとき、笛の音と共に理香がそう言った。萌子は足を緩めて、立ち止まったり、ゆっくりと歩いたりを繰り返していた。理香が急いで駆け寄ってきた。
「萌子、やめなよ。前半だけでも充分やったんだから」
萌子は黙って首を振る。滴り落ちる汗が、地面を水玉模様に変えていく。美都も心配してやってきた。
「お願いだから、萌子―」
「ごめん。美都、理香。しずかにしてて」
萌子は戦っていた。足の痛みと共に思い出す過去の古傷と。そして浮かび上がる自分自身と。
負けちゃいけない。やっとみつけたものなのに、過去に負けちゃこれから進んでいけない。それは笠間さんだって一緒なんだ。
萌子の呼吸が落ち着いた頃に、理香が再び笛を吹いた。萌子は立ちあがって、スタートラインに立った。
「まだ走る気か、沢木」
先輩がそう言うのを聞いて、成も不安になった。前半が終わる頃、足の引きずりが気になっていたからだ。しかし、萌子は再び後半を走り始めていた。
九十分走れなくなった笠間さんの気持ち。わたしには、わかる。
好きなのに、体が付いて行けなくなっていて、いらだった。でもどうしようもなかった。
あのとき以来、諦めることを何でも覚えてしまったけど、それは間違っていた。結局後悔する事しか、他人のせいにすることしかできなかったらから。
あの時以来、やっとみつけた自分が懸けられるもの。今、諦めたらまた後悔する。
明らかにおかしいと思ったのは、後半二十分過ぎ。萌子は右足をひきずるようにして、走るというよりも歩いているといったほうがよかった。それまではチ ラッというようにして萌子を垣間見ていた笠間だったが、その頃には何度名前を呼ばれても気付かないほど、真剣に萌子を見ていた。萌子の顔も、痛みから時々 目を瞑ったりと辛そうだった。それでも、萌子はやめようとしなかった。何度も転びそうになりながら、残り時間は過ぎていった。
「終了」
理香の声と共に笛が鳴り、ようやく萌子は九十分の走りを終えて、その場に座り込んだ。右足にほとんど感覚は無かった。
「萌子っ」
急いで理香と美都がやってくる。
「大丈夫？平気？」
笠間はうずくまった萌子を見て、思わず立ちあがった。
大丈夫だったのだろうか…。
「笠間」
急に石橋に呼ばれ、笠間は何も見ていなかったように再び座った。練習の時間はもう終わろうとしていた。
「足の手当てをしてやれ。練習はもう終わりにしていい」
それだけいうと、石橋はグランドを出ていった。
「どうして足のこと言わなかった」
部室で笠間の治療を受けていた萌子は、足を見せたときそう言われた。右足のアキレス腱は、異常なほどに腫れ上がっていた。その時、ノック無しに突然ドアがあいて、柳田が顔を出した。そして、萌子を見つけると、つかつかとやってきた。
「お前はマネージャー辞めろ」
そこまではっきり言われて、萌子は驚いて柳田を見返す。柳田は強い口調で言い続ける。
「こんなことやっても、無意味だ。だいたい足だって、無理なんかするから痛めたんだぞ」
「違う、柳田。彼女の足は…古傷だ」
柳田はそう笠間に言われて見せられた萌子の右足の手術跡に、言葉を無くした。
「…どうして言わなかった」
萌子は穏やかに言った。
「言ったら、こっちが不利になるだけですから」
柳田は舌打ちをして、それから苛立って言った。
「そんなことしたって無駄だ。お前を走らせたのは、監督の意地悪だ。何しても無駄だ。お前はマネージャーになれない」
「わかってます。そんなこと」
「わかってるって、お前―」
それまでの口調とは一変して、萌子は柳田を見据えて言い放つ。
「先輩は、試合で今にもゴールラインを割りそうなボールがあったら、追いかけますか？もちろん敵もいて、全速力で走っても追いつかないかもしれない。多分 無理です。でも間に合えば、そしてそのボールを先輩が蹴ったら、その試合に勝てるかもしれないとすれば、どうしますか？」
わたしは…と、萌子は続ける。
「駄目だとしても、せめて自分のなっとくのいく形で駄目だとわかりたい。何もしないで駄目になってしまいたくないんです。、昔の自分が…そうだったから」
萌子を治療する笠間の手が止まった。ついには勝手にしろという捨て台詞をはいて、柳田は出ていった。萌子は足に丁寧に包帯を巻いている笠間に言った。
「笠間さん、もういいです。大したことないし、もう五年も昔の傷です、随分運動してなかったのに、突然走ったから、きっとびっくりしただけです」
笠間は顔を上げた。萌子は笑っていて、思わず笠間は俯いてしまった。
「ごめんなさい。出すぎた真似をして」
急に声が落ち込んだかと思うと、萌子はそう言って、深深と頭を下げた。
「毎朝、一人でボールを蹴っている笠間さんを見てたら、本当は選手に戻りたいんじゃないかって勝手に思っちゃって。ごめんなさい」
笠間は白く巻かれた萌子の足を見て、自分の責任だと、自分は裏切ったんだと感じた。包帯を巻き終えると、笠間は立ちあがった。
「顔、上げてくれ沢木。悪かったのは俺のほう。監督に…嘘をついていた。朝一人で練習してたのは、お前の言ってる通りだ。もういちど選手としてやり直したかった。いや、出きると思ってた」
そういって、笠間はジャージをめくって、自分の左膝を見せる。傷は生々しく残っている。
「地獄に落とされた。この怪我のとき、俺はそう思ったよ。2度と選手としてやっていけないと教えられた時は。
俺はこの怪我で、初めて挫折感を味わったんだ。それまでは一年で唯一のレギュラーだったし、監督にも気に入られて、期待された。そう思いこみすぎてたのかもしれない。他の選手より、巧くて、強くて、怪我なんか関係ない。それで無理をしすぎたんだろうな。
怪我をして、部活を辞めようかと思って、そんな時に監督からマネージャーの話をされて。初めは受けるつもりはなかった。プライドもそれなりにはあった し、監督も、俺のことに責任を感じていて、その責任のためだけだと思ったから。けど、結局俺にはサッカー以外何もなくて、マネージャーになるしかなくて、 そしたら皮肉にも選手権で優勝して。
あの国立で、空を近くに感じたいって、沢木が言ったとき、気付いたんだ。確かに、選手たちには近い空が、俺には遠かった。もう一度、あの場所に立ちたい と思って練習も始めてた。でも、やっぱり無理だった。技術はできても、体力がついていかない。四十分ハーフだって走りきれない。でも、走れない選手でも、 なりたかった。
でも監督には、走れない選手よりも、有能なマネージャーが必要だった。わかってた、監督が、悪いわけじゃないことも。監督だって、辛かったはずだ。だから言えなかった。監督を否定したくなかった。でも、やっぱり、それは間違ってるんだって、気付いたよ。
沢木。俺はもう一度選手に戻る。レギュラーじゃなくてもいい、Ａなんかじゃなくていい。ただ、ボールを追いかけていたい。そうして、俺の凪高時代を終わりにしたい。だから、お前も、マネージャーをやるんだ。監督が何を言っても。いいか？」
最後には、強く諭されるように言われ、萌子は答えた。
「…はい」
物を置きに部室にやってきた美都は、恐る恐るノックをして返事を待った。中ではまだ一年生が着替えているかもしれなかった。
「何？」
その声に美都は反応する。和美君だ。
「あっあの…入っても、いいですか？」
しばらくして和美の返事があった。
「ああ」
中に入ってみると、着替え終わった和美が一人だけいた。部室に二人きりで、美都の心臓は跳ね上がった。お礼をいうチャンスだ。
中に入って、一歩したところで、美都は声を掛けた。
「あの…」
学ランのボタンを留めていた和美は、何？とばかりに美都を見つめた。美都は顔が真っ赤になるのがわかった。口をつぐんでしまった美都に、和美は脅すように聞く。
「俺になんか用？」
美都はなんとか頷いた。それから十秒近くかかって、やっと言いたかった言葉が出てきた。
「あの…、ありがとう」
突然のお礼に和美はわからないといった様子だった。
「入学式の次の日。電車で痴漢のこと…」
「ああ」
和美は思い出して言った。
「あの時の弱虫か」
美都は落ち込んだ。しかし、和美は更に追い討ちをかける。
「別にお前のこと助けようと思って言ったんじゃねえよ。目の前でニタつくオヤジの顔を見るのが嫌だっただけ。お前も嫌ならはっきり言えよ」
美都は何も言えなくなった。自分の白馬の王子様がこんなに冷たいことをいうとは思っていなかった。
「でも…あの…」
和美は乱暴に鞄を掴むと、美都に言った。
「言いたいことはハッキリ言えよ。イライラすんだよ」
美都はその一言に深く傷ついた。しかし、和美は美都を無視するようにして部室を出ていった。残された美都は、あふれ出てきそうな涙をこらえた。
「あれ？萌子は？」
掃除当番の篤志は部室隣のミーティングルームに萌子の姿がないことに気づいて、そこにいた理香に聞いた。
「一応病院に行った方がいいからって、小山キャプテンが連れていった」
二人の間にはしばし沈黙が続いて、理香が先に口を開いた。
「萌子の足、古傷なんだって。昔アキレス腱切ったことがあったらしいんだ」
ミーティングルームにいたメンバーの中には、そんな理香の話に耳を傾けている人間もいた。成がそうだった。
「…あたし、萌子に信頼されてないのかな」
暗い理香に、篤志が励ますように声を大きくした。
「何言ってるんだよ。信頼してるに決まってるだろっ。友達なんだから」
「でも、足の話してくれたことなかったし、詳しいことも教えてくれなかった。ただ、五年前に切ったことがあるってだけ。考えてみたらそうなんだ。萌子って自分のこと全然話してくれないの。中学校の友達の話も、聞いたこと無いし」
何故だか静まり返ってしまったミーティングルームに、低い声が響いた。
「何でもかんでも話すことだけが、友情の証じゃないだろう。人には触れられたくないことだってある」
「由太チャン…」
理香が声をあげた由太を見た。しかし、由太は続けて冷たく言ったのだ。
「お前は人にかかわりすぎてるんだ」
「…ひどい…。今、あたし、由太チャンって実はいい奴じゃんって思ったのにっ。前言撤回」
由太は怒る理香を無視して掃除を続ける。篤志が、雰囲気をよくしようと理香に言った。
「まあ、由太の言い方はちょっときついけどさ、何でもかんでもさらけ出すことが友情の証じゃないってことだよな」
慌ててついつい隣にいた人間の肩を篤志は叩く。同意してほしかったからだ。しかし、運悪く、それは右京だった。
あっと思っても遅かった。返事は返ってくることもなく、雰囲気はむしろ悪くなってしまう。静まり返ったところで厳己が言った。
「でも、萌子大丈夫かな。足じゃなくてさ…」
その先、何を言おうとしているのか、皆にはわかった。
萌子は、無事マネージャーを続けていけるのだろうか。
掃除が終わって、帰るところで、例のごとく一人で先に消えていきそうな右京に、篤志は声をかけた。
「さっき、何か悪かったな。ごめん」
おつかれといった篤志に、右京が重い口を開いた。
「いや。そう、思う」
一瞬意味のわからない篤志だったが、すぐにさっきの篤志にたいする同意なのだと気付く。
「そうだろ？そうだよなあ」
ほんの少し、右京と分かり合えた気がして、篤志は嬉しくなった。