Maybe Blue 第一部 海の鼓動
春興14
久子の留学の話は、萌子にとってはあまりにも突然だった。
四時間目のロングホームルームでその話を初めて聞き、久子が壇上に立って、さよならと言った。気付けば、久子の机に置かれていた教科書たちはいつのまにか姿を消していた。午前中で学校を出ていくという久子を、萌子は校門の前まで追いかけていった。
「ごめん、黙ってて」
久子はそう萌子に言った。
「どうして？だって、まだ入学したばかりじゃない」
軽く頷いて久子は答える。
「本当は日本の高校に入るつもりなかったんだ。五月に行くこと決まってたから。ただ親がちょっとでも日本に留まらせたかったみたいでさ。春の出逢いも、なんとなく浮かれた陽気も好きだし、だからちょっと通ってみただけなんだ。ごめん」
萌子も黙り込んだ。それから口を開いた。
「出発はいつ？見送りに行く」
「今度の日曜。サッカー部は遠征でしょ？見送りは無理だよ。ありがと、気持ちだけ受け取っておく」
久子はそう言って、持っていた荷物を下におろした。
「初めに言ってくれれば良かったのに」
「限られた時間しかなくて、なのに焦って友達作ろうなんて思ってなかったから。萌子に会うまでは。
ね、萌子」
聞かれた萌子は顔を上げた。
「何？」
「萌子は、心に大きな傷を持っている人だね」
久子の言葉は、萌子に大きな衝撃を与えた。萌子は心臓が止まるほどの強い鼓動を感じた。黙っていると、それは答えとなり、久子も話し出した。
「何となく、そうじゃないかって思ってた。教室でわざと隅の方で海を見てた萌子を見てさ。いいんだよ、別に無理して話さなくて。あたしも、傷を持ってる人間だから。まあ、傷って言っても、萌子とは違う傷だと思うけど。
心の傷ってのはさ、一生消えないんだって。だけど、その傷は持ってる人間にとってマイナスなだけじゃないんだって、そう言ってくれた人がいてさ。
誰だって、傷を持っていて、それはよくないものだからって忘れたがってる。でも、それだけじゃないんだ。その傷は、人の痛みもわかる傷だから忘れちゃいけない。その傷は自分のだって、きちんと向かい合って、そのとき初めて傷に打ち勝つことができるんだ。そうしたら、他人の痛みを和らげることができるようになるんだって。
そんな風に言われて、初めはよくわかんなかったけど、萌子に会ってわかった。あたしには萌子の痛みがわかったよ。わかったから、萌子の痛みを和らげてあげたいと思った。
実際、どうだったかわからないけど、限られた時間の中で、一生懸命な萌子に何とかしてあげたくて。マネージャーやりたいんだって目を輝かせてる萌子に、 ちょっと卑怯だったけど、マネージャーできるようになって、ほんとよかったと思ってる。マネージャーをやることで、萌子の傷が癒されていくの、わかったか ら。
だから、萌子。今度は萌子が誰かの傷を癒してあげる番だよ。自分には無理だとか、ありがた迷惑とか、そんなの関係ない。萌子がやろうと思うことは、きっ と本当のところでそんなんじゃないし、萌子だったらできることだと思う。もちろん半端な気持ちじゃ駄目だけど、そんなこと言わなくてもわかるよね。
誰だって、自分のことわかってほしんだから。大丈夫って言ってほしいんだから。口ではなんと言ってもさ。
自分に自信持って。萌子ならできるから。大丈夫、あたしが太鼓判押してあげてるんだ。
遠くから、萌子のこと応援してるよ」
「久子…」
そうして、久子は凪を後にした。
「よかったね、大木さんがいなくなって」
教室に萌子が戻ってきたときに驚いたのは、萌子を囲む何人かの女の子集団と、そのお弁当たちであった。
「え？」
萌子が驚いていると、その中の一人で内部生の女の子が言った。
「そっか、沢木さんは知らないのか。大木さんの事件」
わざとらしいと思いながらも萌子は聞く。
「事件って？」
気がつけば、机もすべて萌子を囲むようにセッティングされていて、その中で萌子は急かされるようにお弁当をあけようとして、次の言葉で手を止めた。
「中ニの時、大木さんのいじめてた子、自殺したのよ」
穴が開くほど、その子を見つめた萌子は、さっきの久子の言葉を思い出した。
あたしも傷を持ってる人間だから。
「今じゃ落ち着いたけど、昔は相当のいじめっ子だったもんね、大木さん」
「ＰＴＡとかいろいろ問題になったんだよね」
他にも内部生だった女の子がそう言って、周りの女の子たちも同意するように何度も頷いた。知らないのは萌子だけだったようだ。
今すぐにでも久子を追いかけたいと思った萌子だが、久子がそれを望んでいないこともわかっていた。
突然、初めに話した女の子が萌子の肩を叩いて言った。
「それより、あたし沢木さんと友達になりたかったんだ、ずっと」
え？と思っていると、周りの女の子がみんな頷いていた。
「あたしも。でもいつも大木さんがいたから話せなくてさ。ね、お友達になろうよ」
萌子は、それが真実だとは思えなかった。
「…渡部っ、渡部っ」
どこからか自分の名前を呼んでいると思いながらも、一馬は夢の中にいた。それが唯一の安らぎの場所だった。
「起きろっ、渡部っ」
その声にはっとして顔を上げた時はもう遅かった。目の前には怒りを露にした保健体育教師の有田がいた。
「随分と熟睡してたな」
「…すんません」
中途半端に起きたためか、体がだるい。そんな一馬の態度が、有田には怠慢に思えた。
「そこに立ってろ」
一馬は仕方なく立ってはみるものの、動きの鈍さがどうも有田に対する不満に思われてしまったようだった。
「まったくっ、サッカー部の教育はどうなってるんだ」
その小さく呟いた一言に、一馬は反抗した。
「部活は関係ないです」
有田はくるっと振りかえると、一馬に言った。
「お前、今なんつった？俺に口答えしたのか？」
今にもつかみかかってきそうな有田だが、一馬の無言の迫力には勝てなかった。
「…さ。授業を続ける」
窓の外に見える海を見ながら、一馬は思った。
時間。それと金もほしい。
いや、それより何より、腹へった…。
もう六時間目の授業が終わろうとしていたが、すでに一馬の胃は空っぽだった。
「渡部っ」
部活に向かう途中、厳己に声をかけられ、一馬は足を止めた。厳己とはそんなに仲良くしているつもりはないのだが、結構世話になっている。
「さっきの有田、気にすることないよ。サッカー部を何故か目の敵にしてるみたいでさ。僕も時々言われるよ」
事実有田はサッカー部を嫌っていた。選手権で優勝したために、人気も部費も、すべてサッカー部に取られ、有田が顧問を勤める柔道部には新入生も、補助金も、大して回ってこなかったのだ。一馬は一応笑った。一応というのは、本人は微笑んでいるつもりなのに、他人から見ると時に睨んでいると思われがちなため だ。
「気にしてない」
「まだ調子悪そうだけど、大丈夫？」
厳己は心配そうに一馬を見た。たしかに、入学当時からすると、体重は減ったのにどこか体の重さを感じるようになっていた。
「ああ。ちょっと寝不足なだけだ」
そう言えば、昨日は何時間寝たんだろうと考えて、寝たのが今朝になるのだと気付いた一馬は、心の中で自嘲した。厳己はそう、と答えてから決心したように聞いた。
「聞いてもいいかな。どうして渡部はバイトしてるの？部活もあってきついだろ？」
一馬は一瞬悩んで、でも答えた。
「実は親が反対してて、部費や遠征費なんかは全部自分で出さなきゃならないんだ」
厳己は驚いた顔をしたが、すぐに引き締まった顔に戻って言った。
端折っているが、嘘はついてなかった。
「偉いんだな。渡部は」
「んなことねぇよ」
平然としている一馬を見て、厳己は自分の甘さを実感した。
「ひーちゃん、ついに行ったか」
部活時間に、理香に久子の留学の話をした萌子は軽く頷いた。
「うん」
理香はちょっと間を空けて言った。
「聞いたんでしょ？中ニの時の話」
一瞬萌子は答えに悩んだが、素直に頷いた。
「結構大変だったんだ。新聞には載らずにすんだけど、ＰＴＡとかうるさくて。ひーちゃん退学させられそうにもなったんだよ。あの子をいじめてたのはひー ちゃんだけじゃなかったのに、皆ひーちゃんに押し付けて、ひーちゃんも責任感あるから、自分で全部引き受けちゃってさ。もうニ年も経ったのに、大げさな噂 流して。
その子ね、自殺しちゃった子。将来海外でボランティアしたかったんだって。いつかは留学して、英語話せるようになろうって。ひーちゃんはその子の夢を引き継ぐんだって、言ってた」
でもさ、と理香は続ける。
「あたしはね、ひーちゃんがそこまですることないと思ったよ。だって、ひーちゃんはひーちゃんだもの。
それにその子も悪いと思うんだ。亡くなった人のこと悪くいいたくないけどさ、確かにいじめてたみんな、ひーちゃんも悪いよ。でも、その子もさ、もっとこ う言い返せなかったのかなって思う。そしたら、いじめだって終わったかもしれないし、その子だって、元気に暮らしてたかもしれないじゃない」
萌子はそんな理香に、何も言えずにいた。
練習後、例の三年に呼び出された成は、一人体育倉庫の裏にいた。そこは暗くて、周りからは全く見えない死角でもあった。
やってきた途端、成は壁に突き飛ばされた。
「おせぇんだよっ、すぐ来いって言っただろっ」
「すみません、グランド整備があったんで…」
蹴られたサッカーボールが成のお腹に刺さる。成はウッとお腹を抑えた。
「口答えるんじゃねぇよっ」
壁に寄りかかっている、別の人間が言った。
「お前、監督にチクッたろ？」
え？と成は顔を上げる。身に覚えのないことだ。しかし、一部の一年は知っていることから、そのうちの誰かが話したのかもしれないと思った。
でも誰が？
そう思っている成のお腹に、ボールがもう一発飛んでくる。
「いいか？今度チクッたら、こんなもんじゃすまねぇぞ」
成はゲボッと唾を吐いた。三年はそう言って倉庫裏を出ていった。畜生を小さく呟いて、成はそのまま腰を下ろし、微かに見える空を見上げた。