Maybe Blue 第一部 海の鼓動
春興13
「右京、待ってよ」
萌子はすでに正門を出ようとしている右京を追いかけた。
さっきから何度も呼びかけても、右京は振り返ったり、立ち止まったりするどころか、何の反応もなく、さっさと歩いていく。正門を出たところで赤信号で立ち止まった右京に、ようやく追いついた萌子は、息を整えながら話した。
「ケンが悪いと思うよ。本人のいないところで陰口叩いて。でもね、ケンが言ってることも一理あると思うの。お疲れ様の一言じゃなくて、右京の心の言葉。本心。何も言わなきゃ誤解されたままでしょ？」
「別にいい」
信号は青に変わり、右京は歩き始める。その方向は駅でもなく、寮でもなかった。海沿いの道を右京は歩いていた。
「よくないでしょ？仲間なんだから」
海から吹いてくる強い風に、右京は流されるままの髪の奥から、時折のぞく瞳を海に向け、無表情に答えるだけだった。
「お前には関係ない」
知朗と似た一言に萌子もムッとする。それで思わず言ってしまっていた。
「それってどういうこと？わたしがマネージャーだからってことなの？マネージャーは仲間じゃないってこと？」
そのとき、ちょうど反対側の道路から声がした。
「よぉ。藤原じゃねぇか」
そこには萌子の知らない制服を着た高校生が立っていた。萌子は全く見覚えがなく、足を止めた右京に聞いていた。
「誰？」
それでも右京は答えずに、向けていた顔を背けた。男はゆっくりと道路を渡ってきて、右京に強い態度で言った。
「昔のチームメイトの顔、忘れたわけじゃないだろ？驚いたぜ。お前が突然クラブを辞めるって言い出した時。まあ、俺にはその方がレギュラーになれて好都合だったけどよ。
お前も変わったな。それともクラブ時代は隠してたってわけか？目立つことや、女に興味がなかったのに、高校の部活で選手権に出て注目されたいとはね、しかもちゃっかり女も作って」
右京は無表情のままだった。萌子はその誤解を解こうと何かを言いかけたが、その前に男が言った。
「まあそうやって、うつつを抜かしてるんだな。俺は高校なんかにこだわらない。目指してるのは、プロだ」
右京は腕組をしている男を無視して、そのまますたすたと歩き出した。男は唖然としていた。 萌子はそんな右京に慌てて付いていく。
「ねえ、う…」
萌子がまたも言いかけたとき、後ろから男の声がした。振りかえったのは萌子だけだった。
「夏に全日本ユースがある。そこで俺はお前に勝って、ユースメンバーに入ってやる。覚悟してろよな」
萌子は練習を見ながら溜息をついていた。
「どうした？さっきから溜息ばかりだぞ」
振りかえると、そこには笠間が立っていた。練習の途中に抜け出してきたせいで、息が弾んでいる。それでも笠間は楽しそうな顔をしていた。
「何かあったのか？」
萌子は一呼吸置いてから、グランドにいる右京を見て答えた。
「右京のことなんです」
萌子につられて、笠間も右京を見つめる。右京はただ無表情のままにボールを蹴っていた。そんな表情にも、萌子は溜息をつきたくなった。
「どうして孤立したがるんだろうかなって」
昨日も、途中でついてくるなといわれ、萌子は右京がどこに行ったのかわからないままだった。
「皆に馴染もうとしてなくて。それに、入ってたクラブチームじゃレギュラーだったのに、それを辞めて凪に来たのはどうしてかなって。選手権に出たいからだとしても、そこまで右京が選手権に懸けてるようにも思えないし」
萌子は右京の欲というものを感じたことがなかった。そして、激しい感情も。ただ、サッカーが好きなことだけが唯一わかっていることだった。
口を尖らせて見ている萌子から、右京に視線を戻し、笠間は言った。
「多分、藤原は仲間を探してるんじゃないか」
仲間？と萌子は笠間を見た。
「藤原のプレーを見てて思うんだ。あいつのテクニックはずば抜けていい。チーム一と言ってもいいかもしれない。だけど、それだけで試合には勝てない。それ に、藤原一人でものすごいテクニックを持っていても、点にはならない。チームワークが必要だ。仲間だよ。それがあってこそ、藤原のテクニックが光る。
あいつのスルーパスは絶妙のところを通す。だけど、それにチームメートが答えられない。それは、お互いの考えがわかってないからだ。相手がどんなスピードで走ってくるのか、どういう形でのシュートが得意か、わからないからパスの加減ができない」
「だって右京は、誰とも仲良くしようとしてないんだもの、だったらそんなアイコンタクトなんて無理じゃないですか」
反論した萌子を笠間は眺めて、そして呟くように言った。
「本当にそう思うのか？沢木は、藤原がどうして一人でいるのかわかってるんじゃないのか？俺は、お前はそういう人間だと思ってたけどな。柳田もそう思ってたはずだよ。だからお前の入部に反対したんだ。わかってるお前が、次にどんなことをするのか分かるから」
萌子は思わず黙り込み、そして笠間は続けた。
「クラブチームも高校の部活も、基本的には変わらないと思うよ。だけど、クラブチームは将来のことを考えて練習をするけど、高校は試合に勝つことを考える。インターハイ、選手権、新人戦。その分チーム内の団結力も高まるんだ。仲間意識も強くなる。
藤原がうちに来たのも、そういうことじゃないのかな。ただ、慣れてないから、うまく行かない。だから沢木だって何とかしてやろうと思ってるんだろ。俺がマネージャーだったら、沢木が思ってるのと同じことをするかはわからないけど、でもそれは、正しいと思う」
そういって笑顔を見せる笠間を見て、萌子は呟くように問い掛けた。
「マネージャーって、何ですか？…わたし。分からなくなって。
選手を影で支える裏方だってことはわかってるんです。でも、ただの雑用係って言われると…違うと思うんです。心は、選手と、部員と同じ所にいるって」
知朗に言われ以来、萌子はその言葉を忘れられなかった。知朗にはあの後何度も話しかけようとしたが、右京のこともあって、言えないままであった。
選手とマネージャー。お互いに支え合っていく関係を、ただの雑用係という安っぽい言葉にしたくなかった。
「確かに、ただの雑用係のようなこともする。だけど、選手の心理状態や、体調を見てるのもマネージャーの仕事じゃないのか？見ての通り、うちは部員数も多 いし、監督も忙しい。コーチは練習中しか見てられない。部員の一人が、今どんな気持ちで、どんな具合で走っているのかもわからない。何かが起きてしまうま では、ね。その何かが起きる前に、止められるのがマネージャーだ。俺はそう思って今までやってきたつもりだよ」
萌子は昨日の右京とケンのことを思い出さずにはいられなかった。
「例え、おせっかいといわれようと、うるさいといわれようと、自分のしてきたことに後悔はなかったよ」
その力強い言葉に、萌子は顔を上げた。笠間はそんな萌子に笑顔を向ける。
「だけど、これから俺は選手だ。自分のことで精一杯で、他の選手のことなんか構ってやれなくなった。
沢木、頼んだぞ」
はい、と答えた萌子だったが、笠間が練習で消えると、一人溜息をついた。
「おい渡部。特別練習、いいのか？」
篤志はミーティングを終えて部室に走り出した一馬にそう言った。一馬が練習熱心なことを篤志は知っていた。けれど特別練習には一度も参加していなかった。
一馬は呼びとめられて振り返ると、時間を惜しむような早口で答えた。
「悪い。これからバイトだから」
バイト？と篤志は驚く。おつかれ、とだけ言い残し、一馬はもうグランドを出ていた。そんな篤志に厳己が話しかける。
「渡部、道路工事のバイトしてるんだってさ」
篤志は眉をひそめた。
「いつ」
「毎日らしいよ、夕方から夜」
半分呆れ顔で篤志は言う。
「きつくないのか？練習の後に、そんな重労働のバイト」
「いいトレーニングになるって言ってたけど、疲れるみたいだね。いつも授業中寝てる」
篤志は厳己と一馬が同じクラスであることを思い出した。
「だけど、何であいつバイトなんかしてんだろ」
サッカー部はバイト禁止ではないが、実際にしている部員はいなかった。そんな時間と余裕と体力がある部員は、今までいなかったのだ。
「さあ、それは聞いたことがないや」
首を傾げて厳己が答えたとき、二人はグランド整備に呼ばれた。
「どうした？椎名。溜息ついて」
美都は突然湊に話しかけられてはっとした。ついさっきも、言われたことをやっていなくて和美に怒鳴られていたので、落ち込んでいるところだったのだ。
「和泉君…。ごめん、何でもないの。どうしたの？どこかすりむいたとか？」
だが、湊にはかすり傷一つないように思える。困っている美都を見て、湊は笑顔で言った。
「北内さ、いい奴だよ。ちょっときつい言い方する時もあるけどね」
「えっ…、どうして…」
声より先に美都の顔が真っ赤になった。そんな美都を見て、湊は更に目じりのしわを濃くする。
「そんなにじっと見てたらわかるよ」
途端に美都は、自分の頬を抑える。
「えっ…、どっどうしよ…」
「大丈夫。本人にはわかってないだろうからさ。頑張って」
美都はじっと湊の顔を見つけた。男の子と話すのが苦手な美都にとって、湊は唯一安心して話のできる相手だった。
「ありがと…」
湊がグランド整備に加わると、隣の成が話しかけてきた。
「お人良しだな。湊は。相変わらず」
二人は小学校からのチームメイトだった。お互いのいろんな過去を知っていた。
「それはお互い様だろ？成」
言われて成も、思わず口を閉ざす。それから徐に言った。
「いいのか？」
湊はいつもと変わらない笑顔で答えるだけだった。
「いいんだよ。北内は、いい奴だ」
「母さん、元気？そう、父さんは？…そっか。大丈夫だよ、心配しないでもいいって。うん、勉強もしてるし、怪我もしてないから。頑張ってるよ、サッカーは。お盆くらいには帰れると思うけど。…そっか。わかったよ、それじゃ」
厳己は重たい気持ちで受話器を置いた。すぐ後ろからケンの明るい声がした。
「よう、厳己。電話終わった？」
厳己はすぐに笑顔になって、電話をケンに明け渡す。
「うん、ごめん。…彼女？」
するとケンは受話器を取りながら、ニヤッと笑った。
「そっ。嫉妬深くてさ。毎日電話しないと怒るんだぜ。ったくしょうがねぇ奴」
「心配してるんだよ。離れ離れになってさ」
そういって、厳己は自分の母親のことを思い出した。