Maybe Blue 第一部 海の鼓動
春興11
「辞めるってどういうことだよ。俺たち、一緒に国立に行こうって約束したじゃんか」
昼休み、廊下の一角で高津興仁（こうじん）は中学からのチームメートに向かって、なかばつっかかるように言った。昔の約束をつきつけらてて、彼は言葉を詰まらせながら答える。
「…練習がきつすぎる。レベルだって違うし、レギュラーになるなんて無理だ」
「きつい練習に耐えれば、上達するって。それにお前には才能あるんだし」
興仁の声は虚しく廊下に響く。教室からは、明るい笑い声が廊下にこぼれていた。
「才能がある人間なんてやまほどいるんだよ。俺程度のレベルの人間なんか、うざったいほど。…それに、美和子との時間もなくなるし」
話が恋人の話になって、興仁は口調を落ち着かせた。
「高校、違うもんな。でも、中野だって、きっとお前にサッカー続けてほしいって思ってるはずだよ」
「美和子が言ったんだよ。俺に辞めてほしいって。もちろん、はっきりとじゃないけどな。それに俺も同じ気持ちだし。
悪いとは思ってる。でも、俺はお前と違って凡人の才能なんだよ。だから。ごめん」
去っていく友人に、興仁は何も言えなかった。
サッカー部の新入生の数は、仮入部時に比べると、四月の終わりには三分の一ほど減っていた。ほとんどが、その練習のきつさに根を上げてしまっていたのだ。去るもの拒まず、の体制は、監督の石橋に限らず、ニ・三年にも同じことが言えた。
だが、一年の興仁には、それがまだ理解できなかった。
「…一緒に国立行こうって言ったじゃんかよ」
「よっ」
余韻のある声と同時に、萌子は自分のお尻に触れた手に気がついて、ぱっと振りかえった。
「ちょっと、大槻先輩っ」
怒った顔の萌子に向かって司は、
「お前、結構いいケツしてんな」
と言って笑った。萌子は更に司を睨んだ。
「何するんですかっ」
「だってよ、ちょうど目の前にあったもんだから」
萌子は廊下の蛍光灯が二つも切れたとかで取りかえるため、机の上に椅子を乗せ、その上に立っていたのだ。とりあえず古い蛍光灯を外そうとしていたところだったのだ。
「あったから触っていいわけないでしょっ。あ、そうだ。これ付け替えてください」
司は長身で、百八十三あった。しかし、司は差し出された新しい蛍光灯を萌子につき返した。
「断る。俺がやってやる理由はない」
「親切心でやってくれてもいいでしょ？」
「俺の人生はギブアンドテイクだ。やってやってもいいけど、条件がある」
萌子は溜息をついて、一応聞いてみることにした。
「何ですか？」
「俺と一晩」
萌子は無言で司の頭を蛍光灯で殴る。
「いってぇな。お前。先輩に何すんだ」
「先輩だったらもっとらしいことしてください.。全く、環さんの言ってた通り。野獣そのものなんだから」
「環のババアの言うことなんか、全部オーバーなんだよ。それにしてもお前ってつくづくかわいくない女だな」
「別に先輩にかわいく思われようとなかろうと、関係ありませんから」
「へえへえ、わかりましたよ」
そう言って、司は歩き出そうとし、萌子も椅子に登りかけたが、突然くるっと振りかえった。歩く振りをして萌子のすぐ後ろにいた司は、一瞬びくっとして、伸ばしかけていた手を引っ込めた。
「二度やったら、承知しませんからねっ」
「へえへえ」
ようやく司が廊下に消えていくのを見て、萌子は大きくため息をついた。
「あ、ちょっとっ。興仁っ」
興仁がふらふらと廊下を歩いていると、どこからか声が聞こえた。ふと横を見ると、机の上に椅子を立て、その上に乗った萌子がいた。
「そこの蛍光灯、取ってくれる？」
「何してんだ？」
萌子の指すところにあった蛍光灯を興仁が手渡すと、今度は反対に古い方を渡された。
「見ての通り、蛍光灯の取り替え。日直だから頼まれちゃったのよ。ありがと」
「いや」
興仁はそう答えて、廊下を歩いて行く。けれど、何だか足元がおぼつかない感じだ。
どうしたんだろ？大丈夫かな？
心配そうに萌子が見ていると、案の定、興仁は壁にぶつかった。
「なんだか危なっかしいことしてんなぁ。萌子」
下から声がして、見るとケンが見上げるように立っていた。
「もう終わりよ。ちょっと、ケン。何してるのよっ」
ケンはしゃがんで萌子を見上げている。
「このすけべっ。まったく、ケンの彼女が見ていたいものね」
その言葉を聞いて、ケンは立ちあがった。
「聞いたよ、篤志に。かわいい彼女を地元に残してきたんだって？毎日電話をかけられて寮生は迷惑だって言ってたよ」
「あいつは亮子のかわいさに嫉妬してるだけだよ」
「亮子ちゃんって言うんだ」
萌子はようやく背伸びをして二つの蛍光灯のうち一つを取りつけた。ふうと溜息を付いて、萌子は残りの蛍光灯に取り掛かりながら聞いた。
「ねぇ、寂しくないの？遠距離恋愛」
「仕方ねぇだろ。俺の都合であいつをこっちに連れてくることなんて無理だし」
「でも心配でしょう？彼女、かわいいんなら」
「亮子なら大丈夫。俺のこと愛してるし、俺もあいつのことを愛してるからな」
「強気。でもまあ、彼女は安心か。ケンだったら浮気する心配もないしね」
「どういう意味だよ」
ケンが不機嫌そうに言ったが、萌子はあえて答えなかった。
古い蛍光灯を取って、ケンに渡そうと萌子が振りかえると、何故かケンは窓に手をかけている。
「ちょっとケン？今度は何するつもり？」
「いや、ちょっと。それよりさ、空気悪くないか？窓、開けようぜ」
「風を入れてスカートを舞いあがらせようって魂胆でしょ。駄目よ、そこの窓。固くて開かないもの」
言いたてられたケンだったが、それでも何とか開けようとした。しかし思った以上に窓は固い。
「ムッ…わわっ」
力が入りすぎた反動で、手が滑ったケンは思いきり後ろに倒れてしまった。もちろん、そこには萌子の乗っている椅子と机がある。机と椅子が倒れ、蛍光灯の転がる音がして、萌子は打ちつけた腰をさすった。
「ったぁ…」
「大丈夫？」
ふいに少しハスキーな声がして、顔を上げると、太陽の温かい陽射しをバックに、優しげな笑顔と差し出された大きな手があった。
「あっ。ごめんなさいっ」
萌子が反応する前に、その男の人は手を伸ばし、萌子を捕らえて立ちあがらせる。温かい手に、萌子はどきっとした。
「大丈夫だった？」
「はいっ…。あの、ありがとうございました」
いいえ、と言ってその人は笑うと、ふと床に転がったままの蛍光灯を見つけた。萌子はこの人に何処かで会った気がしていた。
「取り替えてたの？」
「はい」
するとその人は、倒れた椅子を立てて、その上に乗り、手早く蛍光灯を取り替えた。茫然としている萌子に、その人は笑いかける。
「おつかれさま」
ただそれだけ言い残すと、その人はそのまま廊下を歩いて行った。その後姿に、萌子は前に海であった人だと気付く。
赤色の上履きってことは、三年生？
萌子がその後姿をじっと見ていると、下からケンの声がした。
「おい、萌子。俺に大丈夫って言葉は？」