Maybe Blue 第一部 海の鼓動
春興10
三十分ほど走った成は、部室に戻ってきた。そこにはもう一年生の姿はなく、部室はガランとしていたが、隣のミーティングルームの明かりはついていた。
成はもう一度ロッカーを開ける。しかし期待も虚しく、そこにはさっきと同じ光景があった。
土塗れの制服。空気を抜かれたボール。汚れたタオルに、切り裂かれたジーコのポスター。中にはバケツ一杯分はあろうかという砂も入っていた。溜息を一つつき、とりあえず成は制服を取り出してベンチに投げると、箒と塵取りを持ってきた。
「お疲れ」
ドアが急に開いて朔哉が現れた。まだウェア姿だ。成は、練習後に女の子達に囲まれていた朔哉を思い出した。しかし、額には、もう引いたはずの汗が流れている。成は持っていた箒を朔哉にばれないように隠そうとした。その時朔哉が言った。
「ロッカーには大事なものは置くな。言い忘れてたな」
成は朔哉が自分の投げた制服を持っていることに気付いた。
「違います。俺、自分の制服踏んじゃって…」
慌ててそう言った成に、朔哉は制服を投げた。
「スパイク履いてるお前が、どうしてこんな足跡つける？」
制服には、スニーカーの跡がくっきりついていた。黙り込んだ成に、朔哉はロッカーからＴシャツを投げた。
「洗って返せよ」
そのシャツの白さに、成が戸惑っていると、朔哉が着替えながら言ってくれた。
「先輩の不祥事を隠そうとするのはいい心がけだが、向こうもそれを狙ってるんだぞ」
成は何も言えずにいた。
「それから、腕の打ち身。湿布でも貼っておけよ。あそこの壁は結構ごつごつしてるからな」
驚いて成が顔を上げる。朔哉が成に笑いかけた時に、ドアがノックされた。聞こえてくるのは甘い声だ。
「朔哉？いるんでしょ？早くしてよ。待ってるんだから」
成が朔哉の顔を見ると、朔哉は少し困ったかおをして答えた。
「悪いけど、今日は無しだ。メシは明日にしよう」
ドアの向こうは何やら言いたそうな雰囲気だったが、すぐに去っていく足音がして、朔哉も着替え始めた。
一馬は、走って六畳一間の家に帰ってきた。時間が深夜になるバイトの時間が迫っていた。高校は中退したと言っている手前、制服のままでは行かれない。鍵 を差し込んだところで、郵便受けに手紙が入っていることに気付く。手にとって裏を見ると、母親の名前が書かれてあった。一馬は躊躇ってから、中を開けた所 で息を呑んだ。そしてその封筒を握り締めると、そのまま床に放り投げた。封筒からは、一万円札が何枚か飛び出したが、一馬はそのままに着替えを済ませる と、部屋を出ていった。
「光が出きれば当然影もできる。そして、その影は濃ければ濃いほど光は強く輝くことができている。去年のキャプテンが言っていた言葉だ」
成はロッカーの掃除をしていた。朔哉は制服に付いた土を払ってくれていた。
「お前がＡに来たことで、当然Ａから落ちた人間もいる。悔しい気持ちは恨みに変わってしまいがちだ。もしこのまま、お前が黙っていれば、こういったことは続くだけだ」
成はしばらく俯いていたが、顔を朔哉に向けた。
「先輩も、受けたんですか？こういうこと」
「一週間くらい続いたかな。ちょうどその時司が逆上して、つっかかって行ってね、あいつは危うく退部になりかけたけど、おかげでこっちの被害もなくなった」
大槻司はニ年のレギュラーだ。何かと問題を起こしては、すれすれのところで助かっているタイプである。
「どうすればいいのかは、自分自身で考えろ。冷たく言ってるんじゃないぞ。俺が下手に関わると、また面倒になる」
成は黙って箒を動かした。
「それから部室の戸締りだけどな。マネージャーの仕事になってるんだ」
その時、成は練習終了からすでにニ時間が経過していることに気付いた。
もしかして、俺たちに気付かないで部室のこと忘れて帰ったとか？
「まだいるよ。隣のミーティングルームにね。笠間さんからマネージャーの指導を受けてる」
成は安心した。
「ただし、女の子だから、あまり遅くまでつき合わせるな。こういう時は彼女達を先に帰すこと」
成は黙って頷いた。それがいつまで続くかわからないけれども。
その時、ミーティングルームとを行き来できるドアがノックされた。
「朔哉、ちょっといいか？」
笠間が顔をのぞかせた。奥からは萌子達の声が聞こえてきて、成は急いで箒をしまう。笠間は自分のロッカーからノートを何冊か取り出すと、戻っていこうとした。
「どうです？彼女たちは？」
「やる気充分。俺よりも優秀だね。課外授業はしばらく続きそうだよ」
その会話を聞いていた成が、ふと口を挟んだ。
「福山先輩。明日から俺の相手してくれませんか？」
成は顔を上げていた。
「練習が終わった後に。もちろんグランド整備も俺が一人でやります。戸締りも俺が責任持って、マネージャーには帰ってもらってから」
朔哉は立ち止まっている笠間の顔を見た。
「今年の一年は、ちょっと遅れてるな」
それだけ言って笠間は戻っていく。えっ、と成が朔哉を見ると、
「わかった。ただし他の一年もいるぞ」
と答えが返ってきた。
練習後の特別練習は、翌日から始められた。参加したのは寮のメンバーを中心とした一年生たちだ。初日は小山と柳田も参加してくれた。ナイター設備のある 凪浜高校であったが、石橋の練習は短時間に集中することを目的としていたために、特別練習をしても夜遅くまでということにはならなかった。
成は実力を認めてもらうことが、先輩たちへの説得になると考えていた。練習の途中からは笠間と萌子達マネージャーも参加して、グランドは一際賑やかになった。美都はそこに和美の姿を見つけて喜んだ。そんな美都を見ていて、理香はあることを思いつき、篤志に協力を頼んだ。
「終わったぜ」
ミーティングルームに顔を出した和美は、そこに萌子達マネージャー三人と篤志を見つけて部室の鍵を投げた。篤志がうまくキャッチする。和美はその日の戸締りをする当番だった。
「んじゃ、帰りますか」
部室にはもちろん誰も居ない。理香が篤志にサインを送る。和美も篤志に促されて皆と一緒に部室を出た。
美都は珍しく和美の近くにいれることに心地よい緊張を覚えていた。
和美はよく笑い、よく怒った。毎日の練習で新しい和美を覚えていくのが、美都にはとても幸せに思えた。一人で話しかけることはできなかったが、萌子や理香がいれば、美都は何でもできそうな気がしていた。
「それじゃな」
ちょうど校門を出た所で篤志がそう言った。和美はきょとんとした顔をしている。
「俺たち、こっちから帰るんだよ」
俺たちとは、篤志と理香、そして萌子だった。和美と美都だけが電車通学をしていた。
え？と思っている美都に、理香がウインクする。
がんばれ。
そう言っているのがわかった。
「ちゃんと送ってあげてよね。和美君」
理香はそういうと、美都にも手を振る。和美は帰っていく三人を見ながら、無言で駅に向かって歩き始めた。急いで美都も付いていく。
「あのっ…」
たまらず美都がそう言ったとき、和美は立ち止まり振りかえって言った。
「駅まですぐだろ。ガキじゃねぇんだから、行けるだろ」
そしてスタスタと先を行く。美都はそんな和美の後姿をただ見つめていた。
「なるほど。そういうことだったのか」
篤志がそう言って、理香はばれた？という顔をした。
「おかしいと思ったんだ。突然今日の当番やれって言い出すし、しかも皆を先に帰らせろだなんてさ」
特別練習後の戸締りは、参加する一年生が二人一組になっての当番制だった。
「いいじゃないの、ね。萌子」
萌子は半分呆れたように言う。
「理香の将来ってお見合いの紹介人だろうね」
本当だと篤志も頷く。理香はふくれた。
「だってそうでもしないと、美都ってば自分から何もしないんだもん」
確かにそうだと萌子は思った。でも…と萌子は言う。
「それだけじゃないんじゃない？理香」
意味ありげな言い方に、理香はえへへと笑う。
「いいわよ。わたしはお邪魔だものね。一人で帰りますっ」
「それは駄目だよ。俺が送るって。女の子一人で夜道は危ないから」
微笑んだ理香は、また頬を膨らませ、そして篤志に言った。
「ラーメンは？食べないの？」
あ、と声を出して篤志は言う。理香の家は小池軒というラーメン屋であった。今日のお礼に篤志は理香の家でラーメンを食べることになっていたのだ。
「萌子を送ってから、理香の家に行くよ」
すぐに理香は笑顔になる。げんきんなものだと萌子は思う。そしてそれが理香のいいところなのだ。
三人は仲良く夜道を歩いていたが、理香は時々篤志の横顔を盗み見していた。真正面から、まじまじと篤志の顔を見るのは、今更という感じがして、理香にはできなかった。
理香と篤志は、腐れ縁とでもいうように、幼稚園の頃からのつきあいである。お互いの家族のことも知っているし、一緒にいることがごく自然で、男と女というよりは、家族のような感覚だった。それでも、最近の篤志に、理香はどうしても男ということを感じずにはいられなくなっていた。口許にうっすらと生えた髭 や、突き出た喉仏。篤志がどう感じているのかは、はっきりと聞いたことは無い。あまりに一緒に居すぎて、それがそのうち付き合っていると言う噂になり、そ れをお互いが否定しなかったことから、それが事実のようになってはいた。
けれど、実際にお互い好きだとか、つきあってとか言ったことはない。理香は、篤志のことが男として好きだった。でもそれを言葉にするには今更のような気 もしたし、篤志も同じ気持ちだから一緒にいるんだろうと考え、今に至っている。でも、その関係が、時々理香を不安にさせていた。
萌子を送ってから、理香は篤志に腕を絡ませた。そんなことも、ごくごく普通のことで、篤志もそんな理香を嫌がる風も無く、かといって体を寄せる風も無く、二人は歩いていた。ご機嫌な篤志に、理香はなるだけさりげなく言った。
「ねぇ萌子ってさ。かわいいよね、ほんと」
「ああ。今年の一番だな」
即答した篤志に、理香の声は少しずつ小さくなる。
「…性格もいいし」
篤志は何度も頷くと、はっきりとした口調で言った。
「誰でも一度は惹かれるよ。萌子には。狙ってる奴も多いし。田島先輩とか、山田とか」
思わず理香は篤志の腕を離して立ち止まった。それでも、篤志は先を歩いていく。電灯に照らされて笑顔の篤志に、理香は一番聞きたかったことを聞いた。
「篤志は？」
しばらく間があってから、篤志は足を止めていった。
「…俺には、関係無いだろ」
「うん…」
理香は篤志に駆けよって、またその腕を取った。