「できる限り、手は尽くしました。後は本人の気力次第です」
医者は手術後にそう俺と未来に告げると、病院の廊下を歩いていった。
　英次の両親には電話を入れたが、どんなに急いでも着くのは明日の早朝になる。俺が廊下の椅子に座ると、隣で未来がしずかに泣いていた。
「わたしの…せいよ。わたしが、道路に飛び出したりなんかしたから。英次、助けようとしてわたしのこと庇って、それで…」
俺は自然と未来の肩に手を回して、元気付けるように言った。
「英次は大丈夫だよ。だから、未来は自分のこと責めるなよ、なっ」
だけど、俺自身でも、英次の容体がこの先どうなるのか、全くわからなかった。でも震えている未来を見ていると、せめて俺だけでもしっかりしてないといけないと感じた。そうは言っても、俺もショックが大きく、未来を守っているようでいて、守られているような気もしていた。
　何かの気配を感じて顔を上げると、廊下の隅に花音が立っていた。花音は俺と未来がドライブに行ってから、ずっと姿を消していた。
　俺はおぼつかない足取りで立ちあがると、ちょっと電話をかけつと未来に告げて、花音のいる方へと歩いていった。
「どこ…行ってたんだよ」
花音は俯いたままで、俺を見ようとしなかった。
「英次が、やばいんだよ」
俺は花音にすがろうとしていた。誰かに言って欲しかったんだ、英次は大丈夫だって。
　だけど、花音は俯いたままに答えた。
「知ってる、見てた…」
それだけ言って、花音はまた黙り込んだ。
　言ってくれよ、せめてお前が言ってくれよっ。
大きな不安と、その中で知りたくなかった小さな小さな期待と、英次との友情と、想い出と、自分に対する腹立たしさで、俺は気がつけば花音へと手を伸ばしていた。
「見てたってなぁ！…」
でも、その手は虚しく空を切り、俺は改めて花音が人間で無いことを理解すると、その拳を握り締めて、花音に怒りをぶつけていた。
「お前、天使なんだろ？天使なら、英次が車にぶつかるのを見てたら、どうして何もしなかったんだよっ。どうして、あいつを助けようとしなかったんだよっ。あいつ、死ぬかもしれないんだぞっ、まだ２０歳にもなってないのに、死ぬかもしれないんだぞっ」
花音は黙って俺の話を聞いていた。そして、ぽつりと言った。
「言ったでしょ？人は神様の決めた人生を生きてるんだって。それを帰られるのは、誰でもない自分だけなの。英次の人生は、英次のがんばりにかかってるの。他の人は何もできないの…」
「でもお前は違う。人間じゃない。天使なんだろ？助けてくれよ、あいつのこと。天使なら、助けてくれよ。できるんだろ？それくらい、なあ、頼むっ。あいつのこと…。英次を助けてくれよ…」
自然と溢れてきた涙を隠すため、俺は片手で顔を覆い、もう片方の手を壁につきながら床に崩れていった。
「頼む、助けてくれ…」
掠れた俺の声が病院に響く。
　英次を。未来を。そして、俺を。
俺はいつしかそう考えていた。だけど、それまで黙っていた花音は、俺に向かって、急に怒鳴り出していた。
「何度も言わせないでよっ。天使は…、天使は魔法使いでも、神様でもないのっ。ただ、人間の魂を、天国に導くだけなのよっ。それしかできないのに、どうしてそれ以上のことを求めるの？どうして天使なんだからっていうのよ、何にもできやしないわよっ。
　ただ、頭にリングがあって、空が飛べて。…それだけなのに、ただ、それだけなのに。
　知ってる？天使って涙も出ないのよ。どんなに悲しくったって、どんなに辛くったって、どんなに嬉しくったって、涙なんかでないの。そのつらさ、あんたなんかにわからないでしょっ！天使のつらさなんて、あんたなんかにわかんないわよっ」
顔を覆っていた手をはずし、見上げるとそこには花音の姿はすでになかった。
　遠くで、俺を呼ぶ未来の声がして、俺は英次の病室に戻っていった。



　言いすぎたのかもしれない。
　もうすぐ朝を迎えようとしても、花音は俺の前に現われることはなかった。泣きつかれた未来は、俺の横のベンチに眠っていた。
　さっきの、いつもと違う花音が気になって仕方なかった。何度も、気配を感じてその方向を見たけど、ただの風が吹いていたり、あるいは看護婦が通りすぎたりしてるだけだった。
　まさか、帰った…なんてこと、ないよな。
　俺が幸せになるまで、あいつは俺の側にいるって言ってたもんな。そうしないと天界に戻れないって。
　英次の容体は、病院側の対応で、悪い方向には進んでいないのが感じられた。でも、頭を打っているようだから、油断はできない。それが医者の判断だった。
　窓からは、いつのまにか朝日が微かに見えていた。
　その時、病室のドアが開いて、中から医者が息をつきながら出てきた。そして俺に気付くと、笑顔を向けた。
「奇跡ですよ。もう大丈夫です、峠は越えました」
安堵感で、俺は大きく息を吐いた。
「中に入ってもいいですよ、まだ目は覚めないと思いますが」
未来にも声をかけようかと思ったが、昨日の疲れでぐっすり眠り込んでいたので、俺はそのまま一人、病室に入っていった。カーテンの中にいた看護婦が出てきて、病室は俺と英次だけになる。もっと近くで見ようと、カーテンを大きく開ける。そこには、英次に向かって掌をあて、不思議な光の中に花音が立っていた。俺に気付いて、掌を背中に隠すと、光もだんだんと消えていき、病室には朝焼けが差し込んできた。
「花音…、お前」
花音は俺にぎこちなく笑いかける。でも、その笑顔はとてもすがすがしかった。
　俺が近づこうとすると、花音はその場に急に倒れた。俺は必死で手を伸ばしたけど、もちろん花音を支えることはできずに、花音はその手をすり抜けて、床に座りこむかたちとなった。
「大丈夫か？」
その息は、重症のはずの英次よりも荒かった。
「大丈夫。ちょっと…はじめてやってみたから…」
そういうと、花音は何とか立ちあがり、優しく英次をのぞき込んだ。
「もう平気。英次、元気になるよ」
「何してたんだよ。俺、てっきり帰ったのかと思って…」
「あたしの力を…そうだな、気、みたいなもの…それを、英次にあげてみたの。どのくらいあげればいいかわからなくて、ちょっとやりすぎたかもしれない…」
そういうと、花音は俺に笑いかけてきた。その笑顔は、今にも涙が溢れそうなくらいに、切ない笑顔だった。
　俺は自然と、花音の頬に手を伸ばしていた。そして、そっと触れた。もちろん、触れるはずはないのだから、ともすれば俺の手は花音を通りぬけてしまいそうで、だから俺の手は震えていた。そして、そっとなでるように、涙を拭うように、俺は手を動かした。花音はそんな俺に驚いているようだった。
「さっき、ごめんな。言いすぎた」
自然に出たその言葉に、花音は首を振った。
「いいの。わたしも…感情的になってた」
その時、ドアの開く音がして、未来が病室に入ってきた。
「穂高？ねえ、英次どうなったの？大丈夫なの？」
俺はそっと未来から隠すように、花音に触れていた手を自分の背中に回す。
「奇跡が、起きたんだ」