英次の高級マンションは、去年の夏に一度だけ来たことがあったから、俺は昨日のおばあさんに車を借りると、花音を乗せて記憶をたどって行ってみた。
「あたしの姿は、穂高以外の人には見えないから、安心して」
花音はそう言って、楽しそうに俺の後を着いてきた。
　のんきな奴だ。こっちはかなり緊張してるってのに。
　チャイムを押すと、はい、という英次の声が聞こえて、それからドアが開いた。
「よぉ。久しぶりっ。時間通りだな」
半年ぶりの英次は、相変わらず恰好よく、スーツなんかを着こなしていて、俺はＧパンにトレーナーというラフ過ぎる恰好の自分が恥ずかしくなった。
「まあ、な」
中からは、明るい声が聞こえてきていた。
　実際、すでにできあがってるような雰囲気のあるぼんぼん風の奴とか、スカーフをこれでもかと首に巻いたケバ目の女とかが、リビングには４人いた。
「なんだかお酒と香水で、すっごく臭い」
花音はそう言って、鼻を押さえていた。
　テーブルには、もう何本ものビールが空になっていて、スナック菓子は床にばらまかれている。
「おまけに汚い」
花音はそういうと顔をしかめた。英次が連中に声をかけると、一斉に視線が俺に集まった。
「こいつ、俺の高校の同級生で、北山穂高。春からはなんとＷ大生だぜ」
ヒューッという口笛が響く。俺は、その中に未来がいないことに気付いた。そして、俺の視線に気付いた英次は、肩を叩いて座るように促すと、
「それがさ、未来のやつ、バイトが伸びて、遅刻してくるっていうから、先に始めることになったんだ」
「先にって、あいつのバースディパーティーだろ？」
すると、俺の隣の真っ赤な口紅の女が言った。
「大丈夫、大丈夫。ケーキはちゃんと手付かずにあるから」
　そういう問題じゃねぇよ。
俺はそいつを睨んだ。大きな唇を、真っ赤な唇で塗りたくってる女。
「口裂け女みたい」
花音の呟きに、俺は思わず吹き出してしまった。
　その口裂け女は、急に肩を揺すって笑い出した俺を見て、不思議そうな顔をしていた。それから俺に質問をした。
「ねえ。どうしてうちの大学受けなかったの？」
　鋭い質問に、俺は曖昧にしか答えられなかった。
「いや…。別に。理由はないけど」
「だってさ、うちには英次も未来もいたんだぜ？」
正面に座っている茶髪男は、少し英次の方を見て言った。
「そうだよ。お前、現役の時の第一志望って、うちの大学だったろ？どうして変えたんだよ」
英次までもがそう言って、みんなが俺にその答えを求めた。英次達の大学と、俺がこれから通う大学は、昔ながらのライバル校だった。
「それは…」
　言えなかった。
　英次と未来が、一緒にいるところを見たくなかったからだとは。
　言えるわけがなかった。
　俺は英次の親友で、未来の友達で、二人の恋を心から応援してるはずの立場だったから。
そのとき、口裂け女の小さな悲鳴が上がって、彼女のカクテルがスカートにこぼれた。
「英次、タオル貸して、タオル」
「何やってんだよ」
「わかんないわよ、コップをちゃんと持ってたのに、急にこう押されて…」
「んなことあるわけないだろ？誰がどうやって、そんなことするわけ？」
口裂け女のいっている方向には、誰も見えていなかった。ただ、俺にはちゃんと、花音が口裂け女のグラスをひょいと押す姿が見えていた。
「マユコ、もう酔っ払ってんじゃないの？」
「そういえばこの前のコンパでもさぁ」
話は俺から完全に逸れて、おかげで俺は何故Ｋ大を受けなかったのか答えなくて済んだ。
　サンキュ。花音。
俺が花音を見ると、あいつは偉そうに笑い返した。
　でも、俺に視線が集まったのは、そのときくらいで、それから俺は、とても無駄な時間を過ごしていた。
　やつらの話は、なんせ大学の友達の悪口やら、誰と誰が付きあってるだとか、別れたとか、そんな話ばかりだったから。
　そのうちに、俺は、自分が場違いな所に来てしまってるような気分になった。英次は完全に、東京の人になっていたけど、俺は全然違っていた。まだ微妙に訛ってるし、おしゃれでもないし、人込みだって苦手だ。
　一度そう思うと、どんどん自分が惨めになってきた。
「おい？穂高？」
急に立ちあがった俺に、英次が声をかけた。連中も、しんと静まり返る。
「帰るよ、用事思い出した」
　そんなもの、なかった。
　でも嘘をついてでも、この場から消えたかった。
「未来にもごめんなって言っといてくれよ」
俺はそういうと、誰とも無しに一礼して、英次の家を出ていった。

「うるさいっ！」
英次の家を出てから、俺はずっと耳元でがみがみうるさい花音に向かって怒鳴った。
「黙れって」
道行く人が、不思議そうに俺を見て、はっと気付いた。
　そうだ、こいつは他人には見えないんだった…。
花音は怒鳴られたことに腹を立て、更に怒鳴り返す。
「だって未来さんに会ってないじゃないの！せっかくプレゼントまで用意して、チャンスが台無しっ。何考えてんのよ、バカッ」
「うっせぇっ」
借りてきた車の前に立ち、ズボンのポケットを探ると、あるはずのキーがない。かばんにも、財布にもなかった。
　結局、俺はガミガミうるさい花音と一緒に、もう一度英次の家に戻ることになった。

　インターホンを鳴らしてみたけど、ピンポーンという音もならなきゃ応答もない。
　外れてるのかもしれない。
そう思ってノブを回すと、鍵はかかってなかった。俺はそぉっとドアを開けた。
　中のライトは全部消えていて、奥からバースデーソングが聞こえてきた。そして、揺らめく光が見え隠れもしている。
　未来が帰ってきたんだ。それで、ケーキを出したんだろうな。
そんなタイミングで、鍵を忘れたなんて飛びこんだら、ムードをぶち壊しだ。俺はそっと靴を脱ぐと、とりあえず廊下の辺りを見回した。そこで、光りに反応してきらりと輝く鍵のようなものを発見した。花音といえば、勝手に居間をのぞきこんでいる。
　まったく、あいつは。
俺はそのまま足音を消して、鍵を拾う。確かに借りた車の鍵だった。そのとき、花音が俺に向かって言った。
「綺麗な人ね。未来さんって」
歌が終わって、拍手が起こった。未来、誕生日おめでとうという声が飛び交っている。
　未来…。
淡い想いが、俺の中をかけぬけていき、自然と体が居間に向かっていた。
　そこには、ろうそくの火を今まさに消そうとしている未来がいた。
　揺らめく光の中に、俺は確かに未来を見つけた。
　未来だ。未来がいる。
でも、一瞬にして居間は暗闇に変わり、未来は俺の前から姿を消した。
「スイッチ、スイッチと…これか？」
茶髪の声がして、パチッという音と共に、暗闇はまた一瞬にして明るくなった。その中で、俺はしっかりと見てしまった。
　未来と英次が、キスをしているのを。
「ヒューッ、ヒューッ」
「いーぞぉ！」
冷やかしの声がかかり、二人はゆっくりと唇を離していった。
　俺はすぐに顔をひっこめた。
　そこには、顔を赤らめながらも、しっかりと英次を見つめている未来と、そんな未来に見たことも無い温かく優しく、そして甘い視線を送る英次がいた、
　二人は完璧なカップルだった。
花音がまずいといった顔をして俺を見ていた。
「ねぇ、穂高…」
俺は掠れた声で、花音と俺自身に向かって言った。
「当たり前だろ？未来は、英次の恋人なんだから。キスくらい…」
わかっていたことだけど、俺はわかってなかったんだ。
　そのことに、今気付かされた。
　いくら英次にのろけ話を聞かされたって、俺はどこかで信じていなかったし、こうも思っていたんだ。
　たらしの英次が、一人の女で満足するはずない。
　でも、実際は違っていた。英次は本気で未来を好きだったんだ。そして未来も。
鍵をポケットに入れようとして、俺は始めて未来の誕生日プレゼントをしっかりと持ってきていたことに気付いた。奥からは楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
　俺は玄関に、そっとそのプレゼントを置くと、無言でまたドアを閉めた。