その夜、花音がこんな話を俺にした。
「天使って、夢の世界に生きてるって思うでしょ？でもね、実際は結構現実的なの。仕事も地味だし。でも、あたしはそんな現実的な天使は嫌だって、みんなから反発してた。天使は人に夢を与えて、幸せにしてあげるものなんたって、思ってたから。
　でもね、はじめての仕事で、あたしつまづいたの。まだ５歳の男の子のお母さんが事故で亡くなって、その人の魂を運ぶ仕事だった。
　男の子は、あたしに気付くとこう言ったわ。ままを助けてほしいって。何も言えなかった。だって、あたしは魂を取りに来たようなもんで、決して助けに来たわけじゃなかったから。その時、はじめて現実を見たの。
　時間が来て、お母さんの魂を天国に連れていこうとしたら、その子が言ったの。ママを返してくれって。だから、あたし、ママは空のお星様になるんだって言おうとした。
　でも、言えなかった。だって、その子はお母さんの死っていう現実を、小さくても受け止めていた。そういう目をしてたの。だから、こんな夢物語言えないってわかった。ごめんね、って言って逃げるように去ろうと思ったの。
　その時、その子はいったわ。お前なんか天使じゃない。僕が悲しいのに、パパもおばあちゃんも悲しいのに、お前はなんで笑ってるんだって。もちろん、あたしは笑ってなんかなかったわ。でも、涙一つ流さないわたしが、笑っているようにその子には見えたの。そのとき、あたしの誇りだった天使は、何の力もないものだって気付いたの。天使っていう名前の死神じゃないかとも思ったわ。
　穂高はあたしに言ったよね。何ですぐに消えるんだって。おばあさん助けたときも、英次が事故に遭った時も。助けたいのよ、でも何もできないの。声をかけてあげることすら。だから、その場にいれば自分が辛いだけだった。
　結局天使ができることっていえば、人の魂を天国に運ぶだけなんだって気付いたとき、どうして他の天使が仕事をただこなしていくだけなのかも、自然にわかったわ。助けることもできなければ、泣く事もできない。ただ、笑うしか。
　それで涙って何のためにあるんだろうって考えたの。きっと自分の気持ちを素直に言えない人の為に涙はあるのよ。うれしいとか、悲しいとか、そういう気持ちを他の人にも分かってほしいから、涙は流れていく。人はそうやってＳＯＳを出してる。天使に涙がないのは、そんなＳＯＳは必要ないって神様が考えてかもしれない。不公平だと思ってた。
　でもね。気付いたの。笑顔ってどんなときでも人を励まして、元気にしてあげられるんだって。天使はそのためにいる。そう思ったら、天使ってやっぱり素敵だなって思った。天使でよかったって思ったの」
花音はそういうと、はっきりと顔を上げて、俺に言った。
「ありがとう、穂高」
その笑顔は、何故か悲しそうに見えた。
「そうだ、明日おばあちゃんのところに行こうね」
花音はそう言って、今度は確かににっこりと笑った。




　実際、車を借りっぱなしになっていたから、俺は花音と連れ立って、おばあさん家にお邪魔した。ついでに、お菓子もご馳走になり、いろんな話をした。気がつけば、もう薄暗くなり始めていて、俺は晩御飯のお誘いを断って、自分の家に帰ることにした。
　その帰り道で、花音が呟いた。
「あのおばあちゃんも、もう少しで天国だけど、今日のことはきっと大事な思いでなんだろうね。人生で最後に楽しかった日だって」
　実際におばあさんは、そんなことを言っていた。一応、俺はそんなことないですよ、と返したけど。
　桜の咲く、家の隣の公園にさしかかったとき、暗闇に浮かび上がるようにある桜の樹を見て、俺はふいに英次が俺のことを「夢見る少年」と言っていたことを思い出した。現実味がない、そう英次は言いたかったのかもしれない。ふと、花音が寂しそうな顔で言った。
「ごめんね、穂高」
理由がわからず謝られて、俺は何と言っていいのかわからなかった。
「あたし、穂高の願い事叶えてあげられなかった。穂高のこと、幸せにできなかった」
「いいって、そのことなら。自分の幸せは自分で見つけるから」
花音は顔を上げると、じっと俺を見つめた。
「…そう、だね」
「それに、俺。わかったんだ」
　変わるために、俺は花音に伝えなきゃいけないと思っていた。
　花音。お前が好きだって。
「俺、お前が…」
そのとき、パッと周りが明るくなって、俺は電灯がつけられたのかと見上げたが、光は空から俺たちを囲むように照らされていた。
「なんっ…なんだぁ？」
すると、どこからか声が聞こえてきた。
「花音。もう終わりよ。あなたは帰らなくてはいけないわ」
声が消えたと思った瞬間に、俺たちの前に花音と同じような恰好の女の人が立っていた。
「花南姉さん…」
花音がそう呟く。
　花南…、そうか、花音の先輩の天使。
「でも、あたし。まだ穂高の願いを叶えてないの、だから…」
「杏樹の話はね、神様がご自分でつくられた嘘なのよ」
「う…そ？」
花音は驚く。
「神様はね、花音が落ち込んで自信をなくしてることを知っていて、それでこの嘘をついたの。花藍（ｶﾗﾝ）のようにならないよう。でも、もうあなたは天使として充分やっていけるわ。だから、この下界にいる必要もなくなったのよ」
そういうと、その天使は花音の手を取った。
「行きましょう、花音」
そして大きく翼を広げると、空に飛び立とうとした。
「ちょっちょっと、待てよっ。勝手に行くなよっ」
花音が驚いたように俺のほうを振りかえった。
「約束しただろ？俺を幸せにするって。お前がいなきゃ、俺は幸せじゃないっ。お前が側にいてくれる、それが俺の幸せなんだよっ。
　お前が、好きなんだよ、花音」
花音は大きく目を開くと、花南を見て、
「５分、時間をちょうだい。花南姉さん」
といった。返事はなく、もう一度花音が言った。
「あたしは花藍とは違う」
花南は少し間を置いてから、頷いた。
「きっかり５分よ」
花音は頷いて、俺のところに降りてきた。
「穂高…」
「お前が好きなんだ」
花音は唇をかみしめ、無理やりの笑顔で言った。
「ありがとう。あたしも…。あたしも、穂高のこと好きよ」
俺は弾かれたように花音を見つめなおす。けど、花音の顔はちっとも幸せそうじゃなかった。
　なんで？
「…でもごめんね。あたし、これから天使として生きていきたい。天使として誇りを持って。そう気付かせてくれたの、穂高だったよ。ありがとう」
その顔には、悲しみと一緒に固い決意が現れていた。
　もしかして、昨日あんな話をしたのは、もう別れが近づいていることを知っていたからなのか？
「穂高は、幸せになれるよ。絶対になれる。あたしがいなくても。だから、あたしは遠いところから祈ってることにするわ。幸せになったら、風船に手紙をつけて空に飛ばして。そうすれば、あたしのところに届くから。きっと」
「あと２分よ」
上から花南の声がする。
「それじゃ…」
花音はそう言って、また空に飛ぼうとしたけど、俺はそんな花音を引きとめた。
「最後にっ…。最後に…抱きしめてもいいか？」
花音は驚いて振りかえる。
「できないよ、そんなこと。人間と天使が触れ合うことなんてできないじゃない」
「俺が抱きしめたいのは、お前の心だよ。心だから、できるんだ。…いいだろ？」
花音は躊躇しながら、ゆっくりと俺の前に降りてきた。
「あと１分」
俺はゆっくりと花音の背中に腕を回すと、そっと優しく抱きしめた。体じゃない。心があったかくなってくるのがわかった。
「あと３０秒」
俺は、自然と涙腺が熱くなって、こみ上げてくるモノを感じた。
「ありがとう…花音」
ゆっくりと手を離すと、花音は俺の顔を見て、震える手で俺の頬に流れる涙に触れた。
「ありがとう、穂高。…さよなら」
花音は大きな翼をはためかせると、大空へとゆっくり上がっていった。そして、花南の横につくと、俺に背を向けた。
　花音が、行ってしまう…。
俺は気付けば、必死で叫んでいた。
「俺は、忘れないからっ。お前のこと、一生忘れないからっ。…忘れてなんかやるもんかっ。わすれることなんか、できないんだからなっ」
だけどそんな俺に、花南は言う。
「残念だけど、あなかが一度眠りに入って、目が覚めた時には、もう花音の記憶は残ってないわ。花音のことだけきれいさっぱり」
　そんな…。
「かっ、花音！でも、絶対に忘れないからっ。絶対に！」
光がしぼんでいき、二人の翼が大きく広がった。満開の桜が揺れて、俺は桜吹雪の中に立っていた。
　行ってしまう！
「花音っ！」
だけど、そのとき俺は確かに花音が振りかえり、その目に大粒の、真珠のような涙が流れているのを見た。でも、もう一度花音と叫ぶ前に、二人の姿はすでに消えていた。
「花音…」
強い風もなくなり、周りは桜色の絨毯になっている。でも、俺はその中に一粒の真珠のようなものを見つけた。
　涙だ。花音の。
俺はそれを握り締めると家に戻った。


　家に入った途端、猛烈な眠気が襲ってきた。
　眠るもんか。俺は、忘れない。あいつのこと、あいつと過ごしたこの数日を。
まず、コーヒーをブラックで飲んだ。でも、またすぐに睡魔が襲ってくる。
次にメンソレータムを目の回りに塗った。でも、またすぐに睡魔が襲ってくる。
そして俺は外を走り始めた。もう、朝になっていた。そのうちに体の節々が痛くなった。やはり１年間のブランクはつらい。そこで喫茶店を見つけた。
　そうだ。人がいると眠らないかもしれない。
中に入って、思いっきり濃いブラックコーヒーを頼んだ。少しは目が覚めた気がした。
　でもまたすぐに、うとうとと眠りそうになって、落ちていたあいつの涙の粒が床に転がった。
「落ちましたよ、真珠」
ウェイトレスが拾って俺に差し出した。
「ありがとう…」
俺は大事にそれを受け取ると、また濃いブラックを頼んだ。
　注文したコーヒーを運んできたとき、さっきのウェイトレスが言った。
「あの…、ここで眠っても大丈夫ですよ。あんまりお客さん来ないし…」
「悪かったな、売れない喫茶店でっ」
マスターの声だろうか、聞こえてきたが、その声はいやに遠く感じた。
「…ありがとう…。でも、眠っちゃいけないんだ。眠ったら…俺は…わすれ…て…」
目の前が一気に暗くなって、俺は意識がなくなった。
　だけど、どこからか、優しい手が、俺にそっと優しく、あたたかく触れているような気がした。