２７の春。俺は満開の桜の下で、足踏みをしながらあいつを待っていた。


今日が俺たちの結婚式だというのに、あいつはまだやってこない。
　いらいらして待っている俺に、後ろから声がかかる。
「兄ちゃん、まだ来ないのかよ、花嫁さん」
弟の裕高が口をとがらせてやってきた。
「早くしないと、困るんだって、神父さんが言ってたぞ。
あっ、もしかしてさ、兄ちゃん逃げられたんじゃ…ってぇ」
「遅刻だ、遅刻。あいつはそういう女なんだよっ。肝心なときにおっちょこちょいで」
「でもそこがかわいいんだろ？全くやってらんねぇよっ…ってぇ」
「いいからお前は戻ってろ」
俺に二回も殴られた裕高は、頭を押さえながら教会に戻っていった。
　俺は溜息を一つ、ついた。
東京に出てきてから、もう８年。あいつとのつきあいも８年になる。確かにプロポーズしたのは俺だけど、大好きな桜の咲く春に教会で式を挙げたいと言ったのは、あいつだ。
　なのに、なんで遅刻すんだよっ。
道路に出てみたけど、あいつがやってくる気配は全然ない。
　仕方ない、神父さんにもう少し待ってもらうよう頼むか。
　一歩、教会に向かって歩き出したとき、なんだか桜の樹がざわめくのを感じた。見上げると、風もないのに、桜の花びらがたくさん舞い降りてきて、まるで桜吹雪の中に立っているみたいだった。
　桜色の絨毯…。
　そういえば、前にもこんなことがあった気がする。
　デジャヴ？それとも…？
俺は真っ白いタキシードについた桜の花びらを払っていると、だんだんとそのデジャヴが強まっていくのを感じた。
　白い服に、桜の花…。
そのとき、俺の前を通った男の子が、突然転んで泣き出した。途端に、手に持っていた風船が空に放たれて、桜の枝にひっかかる。
　俺はその子に駆け寄り、立たせた。
「泣くんじゃないぞ」
その子は頷いて、涙を拭った。そこに、母親が駆けつけてきた。
「すみません。ほら、とし君。ありがとうは？」
「ありがと…」
無邪気な笑顔に、俺のつられて微笑む。
「ママァ、風船…」
その子は高いところに止まった風船を指した。
「また別の買ってあげるから、我慢しなさい」
子供はほほをふくらませた。
「あの、取ってきましょうか？」
俺の申し出に、母親は驚きながらも断った。
「いいえ、いいんですよ。ね、とし君。我慢できるわよね」
子供の方はいやいやながらに頷いた。
「でも…」
「だって、服が汚れますよ。せっかくのタキシード」
　そうだった…。
母親はにっこり笑うと言った。
「ご結婚ですか？」
「ええ」
そのとき、教会の隣の幼稚園から、綺麗なメロディーが流れた。
「あら、別れのカノンだわ」
　カノン？
「ええ。卒園式に流れた曲なんですけど。練習してるのかしらね」
その親子は、俺にお幸せにと言って、立ち去っていった。
　カノン…。
「か…の、ん？」
忘れてしまった記憶が鮮やかに蘇る。
　これは、いつかあいつの言っていた、神様の起こした奇跡なんだろうか。


「兄ちゃん！どこいくんだよっ、やっと花嫁さんが来たってのに」
「ちょっと外に出てるだけだって。だいたい、あいつの準備で式はまだまだ始まらないだろ？」
俺は裕高をふりきると、桜の樹に登り始めた。そして、さっきの子供の置いていった風船を捕まえる。その先に、俺は１通の手紙をくくりつけた。
「よし」
そして幹に腰掛けたまま、そっとその風船を空に放した。風船は、ゆっくりと、確実に空を上って行く。
「にいちゃん…。何してんだよっ、服が汚れてるぞっ。かあちゃん、兄ちゃんがっ…」
俺を見つけた裕高が、真っ白なタキシードに汚れを作った俺を見て、大声をあげて教会に入っていった。
　俺は風船が見えなくなると、悠々と教会に戻っていった。教会の前では、婚約者を連れている英次と、すでに結婚して子供のいる未来がこっちにむかって手を振っている。
「何してたの？」
「うん。ちょっと手紙を出してたんだ」
「どこに？」
「天国」
俺はもう一度、振りかえると、空を仰いだ。



『花音、今、幸せですか？天使、頑張ってますか？
俺は、今日幸せになります。
　結婚するんだ。相手はお前も知らない近くの喫茶店のウェイトレスをしてたやつ。出会いはお前と別れた次の日だった。
　いろいろあったけど、こいつとなら、幸せになれると思うから。
　そんな俺から、お前に一言。それは、俺にはお前の涙が見えていたということ。目に見えなくても、心では確かに感じてた。天使はいつでも笑顔じゃなきゃいけないから、涙がいらなかったんじゃない。涙がなくても、お前の気持ちはちゃんと分かった。だから、涙なんていらなかったんだよ、その分、俺たちは目に見えないものの大切さを知ることができた。そうは思わないか？
　おそらく、これが最初で最後のお前宛の手紙になると思います。今度会うときは俺が死んだときか。できるなら、あと５０年は迎えにくるなよ。
　幸せに、な』